日々雑記


その後は・・・

2010-9-1

国立博物館は元気というか、大胆というか・・・。
東博で今秋開催される特別展「東大寺大仏-天平の至宝-」。出品作品に法華堂不空羂索観音像の光背(光背高 4.88m)。

諸書でも知られるように、光背は本来の位置から頭ひとつ分下がっている。光背を支える八角支柱が切り縮められているためである。
展示(法華堂の修理)が終われば、光背はどの位置に戻されるのだろうか。
幸いにも天井まではまだ余裕があるのでひょっとして「本来の姿(位置)」に戻されるのかもしれない。

最近は、唐招提寺金堂盧遮那仏像といい阿修羅像といい修理や展示が終われば、見慣れた姿や光景も変貌するようなこともしばしばで、ひょっとするとひょっとである。

涼しくなれば、「奈良博」とも思うのだが、まだまだ・・・。

top

間取り

2010-9-2

とある方に頂いた『名作マンガの間取り』。
薄い本ながら家族で回し読みされて、ようやく手元に。

様々な条件もあるが、「巨人の星」や「ドカベン」は必ず居間を通り抜けないといけない間取りになっている。
地方にある築百年強の古民家に行くと、必ず生活臭が漂う誰かの部屋を横切らないといけない間取り。たぶん「個人のプライバシー」なるものは存在しない。
ところが「天才バカボン」や「ドラえもん」は廊下を通じて玄関から誰にも会わずに自分の部屋に行くことが可能。この違いは大きい。前者では間違っても「タンスの奥から父親が出てきました・・・」とはなりえない。

「書院造」は日本(和風)住宅の源流と言っているが、今の若い人たちには納得できていないだろうと思ったり。そのほかにも色々と気づくことあり。

top

冊子小包

2010-9-3

コピー束など資料を送るため郵便局へ。
「速達!」と告げると、局員氏は重さを計り、「760円が500円になりますので、ここに入れてください」とレターパック500を差し出す。
これで2度目。「速達ですが・・・」と問うと、「これも速達ですから。」
今や「親書」以外の郵便方法も多種多様。
“急ぎ”でない場合は「メール便」。定型外でも少々重くとも80円。

仕事がら、あちこちから展覧会図録を購入する。
多くの公立博物館・美術館は価格+「冊子小包(現ゆうメール)代」(中には封筒代を請求する所も)を現金書留。何も考えずに郵便局へ足を運ぶが、考えてみれば、メール便で送ってもらえれば大半は80円で済む。さすがに冊子小包代を払ってメール便で送ってくる所はないが、冊子小包ゆえ封筒端の裁断部(内容物確認のため)から封筒が破けて送られることもある。郵政が民営化したにも関わらず、公立は相変わらず・・・。

もっとも過激?な所も。
年報や紀要を合同研究室に寄贈いただくのは有難いが、メール便。ところがこちらから購入する時は「冊子小包」。なんや、わかってるんやんかと思う。

top

魚住泊

2010-9-5

お仕事?の帰途、姫路へ立ち寄る。
姫路城も覆屋建設まじか。かなり久しぶりに兵庫県立歴史博物館へ。

常設展示の半分を占める1階は無料ゾーン。その一角に小野・浄土寺浄土堂の肘木と大斗が展示されている。
「年輪年代測定」によれば、肘木は建久6年(1195)に、大斗は建久6、7年に伐採されたものとされる。伐採地は周防国(たぶん徳地と思う)。
ちなみに東大寺南大門金剛力士像の用材伐採年は建久5年、建久8年、建仁2年(1201)、康治2年(1143)で、伐採地は徳地。
東大寺金剛力士像の印象が強いので、用材は佐波川、周防灘から瀬戸内海を通り、淀川、泉木津で奈良坂を越えて東大寺という経路を考えてしまうが、これでは用材は東大寺から再び西へバックすることになる。なんか非合理的・・・。

重源の『南無阿弥陀仏作善集』には「魚住泊」(港)の改修記事がみえ、関連史料によれば、改修は建久7年のこととされる。「魚住泊」から加古川を遡上すると浄土寺のある大部庄近くまで行くことができ、播磨別所設置の布石として「魚住泊」を改修したとみれば、徳地から直接、大部庄へ材木を運搬することができる・・・。なるほど。

お仕事以上に学習。

top

ルビ

2010-9-6

難読地名は各地に数多くあるが、難読人名も多く存在。
ネットもあるので、「犬童」は「いんどう」さんとすぐわかるものの、「百楽」がどうにも読めない。ググっても近鉄系の中華料理店しか出てこず、今は存在しない人名なのかもしれない。よもや「ひゃくらく」さんではないだろう。豊前・宇佐宮祠官のひとりである。その業界では当たり前なのだろうか。

「あ、もぅ~!」と思いながら図書館へ行ってあれこれと調べるものの、地元でも周知の人名なのか、殆どの書籍には肝心のルビが振られていない・・・。
普段ならそのまま「百楽」と漢字表記にしておくのだが、このたびばかりはルビがないと困る・・・。
あきらめかけた頃に大分県の古書籍にようやくルビを見つけるができた。「百楽(くだらぎ」との由。

ルビ捜索に2時間半。なにやってんだか・・・。

top

比較と効果

2010-9-7

某所にて涅槃図など絵画のお仕事。

見ての通り、折れが厳しく修復者も同席。
今日は打合せと聞いていたのだが、画面をみながら所有者との交渉も即決となり、すぐさま修復に着手、お持ち帰りとなる。
手慣れた手つきながら、なんとなくゆるゆるに巻いて、巻緒(紐)もくるっくるっと「以下省略」で、うん?と思ったのだが、そういうことだったのかと。

仄聞するいくつかでは、「文化財保護」と「博物館・美術館」は仲がよろしくない。縦割り行政というかセクト主義というか・・・。 時には同じ市町村の文化財調査に参加するのにも「休暇届」が求められる。上司がアホである限り、改められることもない。かくして所蔵者からは同じ事が二度三度と行われ、「今度はまたなんの用や!」と言いたくなるのも無理はない・・・。「課が違いますから・・・」といっても対応する側からすれば「知るか、ボケ!」である。行政の弊害が資料を確実に痛めている・・・。

話題が反れた・・・。
貴重な資料なので修復後はお披露目したいとも思うのだが、そこで必要なのは修復前の細部写真。美顔・美容のチラシじゃないけれど、この亀裂部分がこんなに目立たなくなりましたという「修復前」「修復後」の比較があって初めてその「効果」は理解できる。ブロニー版での細部は絶望的・・・。
でも誰も撮らないので、 その「効果」もよくわからないままになるのだろう。事情を知らない市民からは「前とあんまり変わらん」という感想も危惧されるところ。そうみえるのが実は良い修理なのだが。

top

奇瑞仏

2010-9-9

些細な雑談から「(仏像を運んだ)船が難破したら、仏像がぷかぷか浮いて、その後どうなるの?」という話題に。はて?

段木氏が明らかにされているように、(新島村博物館:デジタル博物館:平成18年研究紀要:42頁)
江戸時代、漂流物が岸に流れ着いたら、拾った人は代官所へその旨を届出て、代官所は最寄りの浜辺に立札を6ヶ月間立てさせた後、持ち主(落とし主)が現れない場合は、拾得者の所有になるという。現在の遺失物法と同じような手順。

では、拾得者がその後の所有を望まない漂流物はどう処理されるのだろうか。(昔、生きたウサギが落し物として勤め先に持ち込まれたことがある。届出ではもちろん「権利放棄」に丸印。)
現在なら「落し物センター」か「警察署」を経て、デパートの「忘れ物大処分市」で処分されるのだが、江戸時代にそんなものはない。

漂着した箱を開けると、なかにはお地蔵様。代官所へ届出はしたものの、檀那寺は浄土真宗なのでお地蔵様を引き取るわけにはいかない。むぅ・・・。そこで近くの関係ありそうな寺へ寄進することに。
和尚曰く 「この仏像はどうした?」
「海から揚がってきたんです。」
「なにぃ、海から上がってきたと。海中出現の奇瑞仏か、これは。」
「いやいや・・・。」

冗談のようにも思えるが、各地でこれほど「海中出現の仏像」の言い伝えが付随すると、意外と真実に近いのかも知れない・・・。

top

色と墨のいざない

2010-9-10

滋賀県立近代美術館「色と墨のいざない-出光美術館コレクション展-」内見会へ。

主催者挨拶、テープカットがあり、いよいよ展示場へ。
冒頭は仙厓《近江八景画讃》。出光コレクションの劈頭である仙厓の近江八景図とはうまく考えたものだと、感心しながらみると、「冨士山の置き土産なり比良の雪」との句が添えられている。
「琵琶湖をくり抜いて出来たのが富士山」というスケールの大きい俗説があり、それを踏まえたものだという。
「元信印」《花鳥図屏風》や岩佐又兵衛《四季耕作図屏風》、池大雅《秋社之図屏風》など、中・近世の「やまと絵」と「水墨画」がメインだが、《橘直幹申文絵巻》や奈良絵風《長谷寺縁起絵巻》も出品。

普段は授業等と重なりあまり出席できない内見会だが、おおかたの招待者が一巡すると会場内は静かになり、ゆっくりと堪能するまでお気に入りの作品を見ることができて、ちょっとクセになりそう。ご招待頂いた主催者に深謝。会期は明日から10月11日まで。

top

日本初の女性絵師

2010-9-11

滋賀近美の「色と墨のいざない」図録を見ながら「日本最初の女性画家は誰?」と家人。源氏物語図などは女性が描いたように思うらしい。
これはすでに学習済。「清原雪信、雪っていうねん」。
傍で聞いていた娘たちが声を揃えて「ペーター~!、雪ちゃんよ」。いらんこといわんでよろし。

清原雪信(1643~82)。
久隅守景と探幽の姪である「国」との娘。「国」の母は探幽の妹「鍋」である。優れた環境ながら、父守景が狩野家から破門された“狩野派アウトロー”(息子の彦十郎も狩野家から破門され、佐渡へ流罪)ながらも、探幽の門人である清原氏平野伊兵衛守清に嫁し、京都に住んだとされる(「駆け落ち」という説も)。享年39歳。

池大雅の妻 池玉蘭や谷文晁の妻 谷幹々、葛飾北斎の三女 葛飾応為など、しばらくは男性絵師の周辺で女性絵師が活躍し、嘉永6年(1853)『古今南画要覧』には、31名の女性絵師たちが登場。しかしながら「結縁関係」なしに画家として自立する女性が登場するのは明治になってから・・・。

言われてみれば、源氏物語図など繊細な感覚は女性のほうが向いているようにも思うだが。

top

現場も知らんと

2010-9-15

美学会全国大会(於 関西学院大学)を見ていると、「関西学院大学博物館開設準備室」のリンク。
2014年の開館との由。過日も龍谷大学 龍谷ミュージアムが竣工したばかり。

学生の頃に比べると大学博物館も大幅に増加。
もちろんこうした博物館は展示だけではなく学芸員養成も兼ねるのだが、そこに携わる教員の多くは現・元・旧の学芸員が多い。また公立博物館・美術館は「博物館運営委員会」などの委員会があり、教員の幾人かはそこに出席する可能性も高い。

かつては純粋有識者(未経験者ばかり)で委員会が行われ、「現場も知らんと、何言ってるんや!」と貴重な?意見に反発したこともあったが、これからは有経験者が多くなり、呆れるような机上の空論ではなく、なかなかシビアな意見も出ることだろう。

振り返れば、大学一筋の純粋教員(未経験)が博物館学とか学芸員養成を担当するのも難しい時代になったともいえる。今議論されている「上級学芸員制度」が展開されれば尚更。
制度が導入されれば、「学芸員」の多くは「学芸員補」に格下げ。そこから「博物館に関する専門的な科目の取得」で「学芸員」に復帰するのだが、科目の取得は大学等が行うようにもみえる。講師陣が「学芸員補」のままなら、「現場も知らんと、何言ってるんや!」と私なら思うだろう。

どちらも厳しい時代を迎えた・・・。

top

ぬるい

2010-9-15

やや疲れて帰宅するなり、子供たちが「はい、両手の親指と人差し指で三角形を作って!」。
はぁ?と思いながら指で三角を作る。おもむろに冷蔵庫から缶ビールが登場し、やや離れた位置に置かれる。こらこら・・・大事なビールを。「三角の中にビールが収まっていますか?」「う、うん。」
「右目をつむって。はい、ビールは三角から外れましたよねぇ。」「いいや、別に。」
「じゃ、今度は左目をつむって。」「左だけをつむることはできん。」「え゛っ~!しゃーない親父だね」と左目に手があてられる。なんでもええから早よ飲ませろと思いつつ、今度は三角の外側にビール。

なんだかよくわからないままビールを取り戻すと、なんでも右脳・左脳のテストらしい。「(右脳の)直感で生きているの?」と実に不思議そう・・・。

そりゃ、直感だわ。
焼物でも絵画でも目の前に現れた時に、「これはパリッとした絵」とか「なんかぬるぬるした焼物」と、ほぼ瞬時に思う。こればっかりは理屈ではない。同業者なら「パリッ」とか「ぬるぬる」で真贋や時代の意見もうかがえようもの。
作品の前で「ちょっとぬるいなぁ~」と呟かれると、グレーゾーン。冷やしてもどうにもならない・・・。

top

富田熊作

2010-9-16

1988年1月にロンドン旅行をした折、真っ先に訪ねたのはロンドン大学の一角にある「パーシバル・ディビット美術館」(The Percival David Foundation of Chinese Art)。当時は陶磁器メイン。
西洋絵画で有名なコートールド美術館(The Courtauld Institute of Art)やヴァールブルク研究所(The Warburg Institute)からすぐそばにあった。(2007年に閉鎖)

ヨーロッパの2大中国陶磁器コレクションはこことスイス・バウアーコレクション。
バウアーの収集を一手に任され、またパーシバル卿とも取引があったのは山中商会ロンドン支店長の 富田熊作(1872~1953)。
富田は大正11年(1922)に退職後、京都で古美術商として独立し、昭和7年(1932)に郷里である猪名川町に江戸時代の豪農屋敷を模した家屋を建てている。現在は「静思館」として公開。

豪農屋敷を模したとはいえ、全国から良材を集めたとあって茅葺きの外観とは裏腹に内部の造りは驚くほど近代的で、古美術商の矜持もちらほら。
四畳半の茶室もあり、仏間横の小さい床の床框は「鎌倉彫」。建物よりも“豪農風屋敷”で古美術商の軌跡を探す有様。

top

植中直斎

2010-9-17

とあることから、1984年春に奈良県立美術館での「近代日本画の師弟展-山元春挙と庄田鶴友・植中直斎-」図録を見る。

当時まだ学生で、何処かは忘れたが京都での見学会で山本春挙の襖絵を見ながら「これはなぁ、ロッキー山脈を描いたものだ。」と先生が説明されたのが気になって、見た展覧会だと記憶する。

庄田鶴友、植中直斎はともに奈良県出身。
植中直斎(1885~1977)は山辺郡福住村山田(現天理市山田町)に生まれ、大阪の深田直城に師事した後、橋本雅邦に学ぶ。雅邦が死去した1908年に肺を病み田中智学との知遇を得て、快復後の1912年に山本春挙の門に入る。その後、戦前は文展(帝展)を中心に出品し、戦後は無所属で活躍。

会場には、三者三様の山水図や歴史画などが展示されるなか、最後あたりに《田中智学先生御正葬儀図絵巻》や《日蓮聖人絵伝》《立正安国論上書之図》が展示されていた。《然燈供養》など宗教画もならび、後二者は歴史画の延長とみていたので、前者だけが異彩を放っていた。
学部生なので「田中智学」が誰なのか知る由もなく、その人と業績を知るのは後年になってから。「直斎の画業を顧みれば、すべてが『日蓮聖人絵伝』制作への下準備であったといっても過言ではない」(平岡照啓氏)が、実は重要なポイント。なるほど理解の軸が違っていたのかと悔やむ。

ひと口に「奈良の文化」といっても仏教美術や年中行事ばかりではないのだが・・・。

top

神々のすがた

2010-9-19

島根県立古代出雲歴史博物館より「神々のすがた」展ポスターを拝受。さっそく扉に掲出。

2007年秋より調査・準備が始まった“島根・三部作”(「秘仏への旅-出雲・石見の観音巡礼-」(古代出雲歴博)・「千年の祈り 石見の仏像」(石見美術館))の掉尾を飾る「神々のすがた」展。
来夏も「観音巡礼-中国路の古寺と仏像」と続くが、こちらは重要文化財など既指定品中心と仄聞。

「調査であちこち出向いていたあの頃は楽しかった」と担当者のみならず色々と思い出も多く、感慨深い。
山々をぬう悪路のS字路が続いてゲロったり(私ではない)、秘仏を収めている厨子の鍵が見当たらなかったことや住職を含めて皆、ストーブから離れず、ひとり悶々としながら仏像と格闘したことも。初めて調査する作品も多く、移動した後に仏像が台座に立たないことや撮影中にヒューズが飛んだこともしばしばあった。
振り返れば、お見立て違いもあるだろうが、それは後考に俟つとして豊かな神仏の国と実感。

アカデミックな内容は専門家によるシンポジウム(10・31)や「出雲の摩多羅神」講演会(10・30)に委ね、「また、アンタか~!」と危惧しつつも最後の四方山話。
「今だから告白できる、あの真実は・・・」というものあるが、影響大なので、ゲゲゲの墓場まで。

top

兵糧攻め

2010-9-21

今日から秋学期開始。大学も活気が戻る。

図書館で「センセ、いつも大学にいてますやん。」と同僚の先生。
「暑いですからね・・・」と訳分からないことを言いながら、実は軍資金の枯渇。
清算書類をミスったのが、先々月末。清算書類の提出と同時に次の請求を添える・・・。清算書類が滞った時点で次回の請求も保留の憂き目。請求分(旅費)は既に使ってしまった・・・。
ミスったこちらが悪いのだが。

今後の予定も迫っているのだが、むぅ・・・。

top

菊池民部

2010-9-22

江戸の仏師 菊池民部。本石町四丁目に居住。茂右衛門(仏師)に師事したとされる。
多賀朝湖(英一蝶)、村田半兵衛とともに遊興三昧。若い時分には人を殺めたり、幕政批判で嫌疑をかけられたり(共に真偽不詳)と、ちょっとワル。危ない橋を渡りつつも遊び癖は直らず、徳川家光の側室である桂昌院の甥までも巻き込んでの悪所通い。
とうとう幕府の知るところとなり、元禄11年(1698)12月2日、多賀朝湖(英一蝶)は三宅島、民部と半兵衛は八丈島へ流罪。
宝永6年(1709)に徳川綱吉死去に伴う大赦で江戸に戻り、再び仏師として日光山などで活躍するのだが、八丈島でのエピソード。

それまで仏像らしい仏像がなかった八丈島で、民部は八面六臂の大活躍ながら、宗福寺第10世の応譽霊感の次男(浅沼貞右エ門)の娘と結婚、男子3人女子1人を授かり、島で所帯を構えていたという(『八丈実記』)。赦免の時は、家族と義弟を引き連れて江戸にもどっている。
民部の菊池姓は八丈島でよくみる姓である。なるほど・・・。

top

予感的中

2010-9-23

夜明け前と朝に激しい雷雨。

夜明け前の時には起きていた。何を思ったのか、激しい雷雨の最中にTVを付ける。地震などの時もそうだが、何かの折にはまずはTV。

関西のTV各局は、未明の放送終了後はカラーチャートみたいなものが写っていたが、阪神大震災以降は、放送開始まで中之島や法円坂、梅田あたりの映像を流している。各画面ともピカピカと光り、大阪各所で落雷しているのがよく分かる。そのうち、住之江ボートのCMや天気予報となって“大阪市内の夜景”(近頃は日の出も遅くなった)が画面から消える。
空も明けてくるが、ますます雷雨は激しくなるばかり。この世とは思えぬ雲も空を覆う・・・。なんとなく嫌な予感を抱きながら就寝。

大当たりの1日。気分転換に原稿の校正。

top

帝室博物館

2010-9-24

近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)での帝室博物館展示目録。
主として明治末期から大正までの著作権が切れたものだが、これが実に興味深い。

もちろん当時の展示目録の粗探しではない。どのような作品がどういう形で展示されていたのかが関心事。
奈良・京都の「彫刻」では作者別・作者未詳と分かれ、興福寺十大弟子像も「寺伝問答師作」とある。興福寺国宝館も法隆寺大宝蔵殿もない時代だから多くは博物館に寄託出陳され、その展示内容は目を見張るばかり。
東京は献納宝物の金銅仏が一堂に会しているが、木彫は所蔵品、寄託品に混じって竹内久一らの模刻像が並びボストン美術館寄贈のアルテミス像も展示。高村光雲「老猿」ではなくて「老猿置物」。こちらも興味津々の展示内容。

絵画も然り。
巷では、「これまで誰もが知らなかった若冲(蕭白)」と言う向きもあるが、京都帝室博物館では既に西福寺群鶏図や蔬菜涅槃図など若冲や蕭白の作品が常設展示。開館十周年では「動植綵絵」3幅も展示されている。「“業界”が伝えてこなかった」と訂正すべきか。
反対に当時は関心が高かったが、現在あまり研究対象として注目されない作品もある。
秋篠寺「伎芸天立像」は首(頭部)が乾漆で他は木彫としながらも、目録では「伝運慶作」。運慶略伝までが付されている。伎芸天像は当時の文芸界でしばしば取上げられていたように思う(未整理)のだが、それは博物館に出陳されていた奈良時代+「伝運慶作」の力技だったのかもしれない。

top

仏像修理

2010-9-25

学会サボって、奈良国立博物館「仏像修理100年」展へ(ようやく)。

「岡倉天心は、調査・指定(行政)-保存(美術院2部)-制作(東京美術学校・美術院)-公開(博物館)という環状の強力な磁場を作り上げ、その中に運動する分子として仏像や書画骨董を投入したわけです。その結果、今日の「美術」「文化財」が形成されたのです。」とは、講義のひとコマ。

円応寺初江王坐像や薬師寺持国天立像などの実物作品とともに図面や模型、新納忠之介の調査手帳などが展示。『六大寺大観』の構造略図はこれなのかと理解(東大寺法華堂多聞天像)。東寺食堂千手観音像の頭部石膏模型はさすがに迫力。
欲をいえば、国米泰石(元俊)や明珍恒男の資料、東博の模刻像(微妙に意味合いが異なるが)もあれば、「美術院PRブース」の感も和らいだかも。

先ほどの講義はこう続く。
「この磁場によって今日の日本美術史が成り立っている。しかしこの磁場は強力で、今日では評価されるべき作品までもがオミットされ、最近では敢えてここから外れた作品を取り上げる論もみられる。しかし、このふたつの磁場は実はメビウスの輪のように表も裏もない同一のものに過ぎない」と話をしながら、気がつけば黒板には物理学で見るようなラクガキ・・・。
今日、美術院を退職した人やその他の多くの人がこの“磁場・反磁場”双方で仏像修理に携わっていることまで展示するのはちょっと無理な話か。

top

試験曳き

2010-9-26

終日自宅。
秋空のもと市内各町で「だんじり」の試験曳き。各所で終日断続的に交通渋滞発生。

各町内といえども全てではなく、「まなび野」(←私立大学がある)や「なぎさ町」(←埋立地)などの新しい町に「だんじり」はない。だんじり1基を新調すると1~3億円もするので、新しい住民にとってはなかなか受け入れ難い・・・。
まったくの新調は稀で、これまでのだんじりを他所へ売却し、あるいは他所からの購入しただんじりを大改造して“新調(入魂)”となるのだが、数年前には、わが町が旧部材のごく一部(彫刻部分)を残してフル“新調”。一戸あたりの寄付もハンパな額ではなかった・・・。

この地方では、多忙極める真っ只中でも「明日、あさって休むわ、祭り。」で、かならず休暇は通る。小・中学校も運動会の振替休日は祭礼当日、法被を着た高校生がコンビニ前の隅っこで酒を飲み、注意する警官に「祭りで酒飲んで何が悪い!」と食って掛かる・・・と、祭礼当日は実にアナキー。
かくして翌日の市民病院整形外科では、早朝から打ち身・捻挫・筋肉痛・骨折で長蛇の列。

当地に来た頃はまさか!と思ったが、この頃は「祭りやし・・・。」と既にどっぷりと地元民。
祭礼(本番)は来月9日・10日。

top

八丈島1

2010-9-27

朝より羽田経由で八丈島へ。
東京は雨。八丈島行は天候調査中やゲート変更があり、飛ぶかどうか微妙。隣の「三宅島」行は「着陸できない時は羽田に戻る条件便」で更に不安をあおる。
50分遅れで強雨のなかをフライト。45分で八丈島空港に着けば、この有様。穏やかそのもの。 さっそく各所へ。

『一蝶流謫(竜渓小説 )』によれば民部は、色黒・あばた顔で、頬骨は高く痩男ながら、咄相手におもしろく愛敬のある人物とある。民部は「八丈島にて仏といふものを見れば でくの坊の如きもの」で、在島20年で「仏五百体刻みて」、仏像というものを知らしめたと記されている。 民部赦免後の島での仏像事情は再び「でくの坊の如きもの」に戻ったのだろうか。

島の文化的移植を島民・漂着・流人に分類すれば、見えてくるものもある。
左の鐘は元治元年(1864)11月24日に中之郷藍ヶ江で座礁した第二長崎丸の鐘。前年に幕府がイギリスから66,000ドルで購入。「前名ヴィクトリア号」って中古船だったのか。1857年豪州で建造。

『八丈実記』では、仏像が傷んだので「江都」へ出して再興したり、江戸表へ差出して売却、新しい仏像を取り寄せたりしている。島で修復するにしても漆や金箔を江戸で購入して持ち込んでいる。
八丈島は絶海の孤島ではなく、江戸の文化圏にあったとみるべきだろう。もちろん天領なので年に1度の年貢船(御用船:年貢は米ではなく黄八丈)に頼らざるを得ないのだが・・・。そうした目で周囲を見ると、島内の車はすべて「品川」ナンバー。仏像も確かに「でくの坊」ばかりではない。
早い目に宿舎へ。過日の台風通過で、宿泊客は私のみ。

top

八丈島2

2010-9-28

朝から強風、曇天の空模様。時折晴れ間も。目まぐるしく変わる天候。飛行機も3便のうち2便まで欠航。波は高くまるで“東山魁夷”の世界。

八丈島歴史民俗資料館にて中国・明代末の作品調査。制作の下限時期が知られる漂流資料である。おそらく、福建から長崎を目指した船舶に積載。
周りをみれば、黒褐釉の壺(16世紀)など中国陶磁器が展示。最近まで民家にあったという。そういえば、前庭に無造作に置かれている「四耳壺」も古いようにも見えるが、よくわからない。あまりに無造作なのでちょっと昔の焼酎用の壺なのかも。そばには仏像類も。多くは一木彫で平べったい造形。そう古くもないのだがさすがによくわからない。「でくの坊の如きもの」と呼んだのはこの類いだったのかと思う。

調査を終え、学芸員氏と某所へ。「これなんです」と見せられた仏像。左右2材矧ぎ、玉眼、像底全面黒漆塗り。膝前材のみ内刳りを行う。玉眼が入っているので「民部」作とはちょっと違うかも・・・と思うのだが、『八丈実記』には元禄年中に民部作と記載。むぅ・・・。よく見ると、丸棒で方座と像底部とが接合。通常ではあり得ない。作風もやや硬く、やっぱり民部作ではないと思うと。

再び各所。そのなかに「優婆夷宝明神社」。「延喜式神名帳」に記されている式内社。事代主命の妃優婆夷姫と、その子古宝丸を祭神とするのだが、普通に読めば神仏混淆を思わせる名(優婆夷)の神社である。もう少し勉強しておけばよかったと後悔。

夕食は島寿司ほか。美味なり。8時を過ぎると、波の音しか聞こえない静かな夜。今宵もひとり。

top

八丈島3

2010-9-29

初めての好天。八丈富士の頂を見る。これでも活火山。そのため八丈島には温泉も多い。

宗福寺で民部作の作品を拝見。
「仏五百体刻みて」とあるが、島での民部の現存作品はここのみ。三宅島(流人は秋に三宅島に到着し、ひと冬を三宅島で過ごし、翌春凪の時に八丈島へ送られる)にも作品が残るが、それにしても少ない。

頭体根幹部の基本は左右矧ぎとする。仕上げの細かなノミ目が走り、すべて彫眼。釈迦如来像の頭部は襟元に沿って矧ぐ。誕生仏立像や僧俗坐像をみると、やや切れ長の目元が特徴。伝快慶作と伝える肥後別当定慶風の大日如来坐像も。これも民部によって修復済。ただし現状ではやや傷みも目立つ。
民部の作品や民部の陰に隠れて見えにくかった島内の近世彫刻事情もわずかながら理解できたように思う。
大収穫なり。

しかし防犯上、寺社や仏像の写真を1枚も載せないと、「観光」にしか見えないのだが、撮影写真の大半は彫刻で、これらは道すがらのスナップ写真。左は八丈小島。一度も海を見ずに博物館とホテルを往復した沖縄調査の時と同じ。空港でもサーフボードを積み込む若者よりもむしろ出張帰りの会社員に近い風貌である。若干、職業不詳の面もあるが・・・。
観光向けではないが「離島の仏像」は実に魅力的。カメラマンと一緒に全国の離島を回って写真集(近世彫刻が大半だが)でも出そうかしらと、夕暮れの八丈島を見下ろしながら帰途につく。

top

猫に小判

2010-9-30

大学にて諸々。ふと昔の記憶が甦る。

大昔(学生の頃)、突然、指導教授から電話があり「某日、某美術館へ来い!」とのお達し。何事かと思いながら、当日待ち合わせ場所へ行くと、「今から絵巻物(国宝)を見る。そこでは君の研究は鎌倉時代の絵巻物。間違っても「仏像」とは言うな。」と珍しく語気が荒い。「は、はい。」。
傍らには先輩(院生)の姿も。はて?
美術館の一室に通され、紺色の毛氈の上に絵巻物がゆっくりと広げられ、再び巻かれて新しい場面が広がる・・・。珍しく?先生からアカデミックな説明。2時間ばかり過ぎて、ようやく巻末まで「熟覧」。至福の時間ながら頭の中は?だらけ。

丁重に御礼を述べて退館し、駅前の喫茶店で先生が大激昂。出されたコーヒーに手が出ないほどのお怒りぶり。なんでも研究なので見せろと、隣人(院生)は直談判したらしく、すぐさま先生に連絡があり、彼だけでは格好がつかないので、急遽「絵巻物を研究する学生」役に仕立てたということに。
「君ひとりで絵巻が扱えるのかっ!」とごもっともな お怒り。

奇しくも同じ立場となったわが身としては、激昂しながらも国宝を見せる機会を与えたということに「先生、偉いわ~」と今更ながら感心。今(の私)なら、「秋に一般公開するので、見に行ったら・・・」とアドバイスするぐらいが関の山。政治学を学ぶ学生が首相インタビューさせて下さいって頼むか? アンタ、何様のつもり?と思いたくもなる。

勉強しない院生にとっては猫に小判。図版で十分。

top

過去ログ