日々雑記


岡山美術館

2011-2-2

1984年、大学の博物館実習(岡山)は、岡山美術館、岡山県立博物館、岡山市立オリエント美術館と大原美術館。

岡山美術館では、展示された備前刀や能装束などを見学。そう、我らの世代以上で「岡山美術館」といえば、武家屋敷の長屋門をくぐり石段をのぼった「林原美術館」を示す。外観だけでなく岡山藩主池田公の伝来品も所蔵。公立美術館ではなく私立美術館なのか・・・と学生ながら驚いたことも。
しばらくすると「県立岡山美術館」ができて、「林原美術館」と名称変更。
所蔵作品は上質で、殊に「洛中洛外図屏風」は、こまごまとびっしり描かれており(人物だけで3千人以上)、実に“没我”する屏風。

本日、(株)林原が私的整理を断念し、会社更生法を申請。トレハ星人ともども「岡山美術館」はどうなるのだろうかと不安。

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美術の作法①-印象派-

2011-02-03

西武・渋谷店美術画廊での「shibu Culture~デパート de サブカル」展が、「来場者から『百貨店にふさわしくない作品がある。不快だ』などの苦情が寄せられたため、2日に突如中止との記事。

N大学のN先生は
今やサブではなくメインの領域に入っていて、芸術性の高いものも多い。だからこそ百貨店でも展示会が行われるわけだが、サブカルチャーと聞くと、60年代に騒ぎになった反社会的なものだと勘違いする人もいて、そうした人達からのクレームもある。百貨店は貸しホールを使った展示場とは異なる「公的な」場所のため、少しでもクレームが入るとあっさりと中止してしまう。「クレームに抵抗すればネット等で騒ぎが大きくなると恐れ、リスクを最大限回避しようと展示会を中止してしまうというのが今の流れだ。特に百貨店のような公的な場所で、店の売上げにも関わるとなれば、中止に動くでしょうね」
と、トンチンカンなこと、言ってますが・・・。

最初、記事を読んだ時、「おぉ、印象派!」と思ったほど。
美術アカデミー(サロン)から「こんなん、絵とはいえまへんな。」と認められず、業を煮やして?1874年4月にパリ・キャプシーヌ大通りのナダールの写真スタジオを借りて、『画家、彫刻家、版画家等の芸術家による共同出資会社 第一回展』が開かれる。これが後世、『第1回印象派展』とか呼ばれる展覧会・・・。

サブ・カルなんだから、「私は、動揺し、悲しくなり、怒りを覚え、パニックに陥り、涙を少し流しました」(出品作家)などとつぶやかずに、「さいだっか。ほな、さいなら」と、近くのギャラリーでも借りて展示を再開すればよいのに、と思う。百貨店の美術画廊を尊しと思い、なぜ私の作品が・・・との嘆き節、恨み節が、逆に自らの中途半端なスタンスを露呈させてしまう。

でもなぜ西武渋谷だったのだろうか。すぐ近くの「Bunkamura」(東急)への対抗策?・・・。

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美術の作法②-美術画廊-

2011-02-03

この企画の決定的な間違いはデパートの「美術画廊」にサブ・カルを持ち込んだことにある。

「美術史」の授業でも習ったように(「百貨店の『美術画廊』は近代日本美術を支える基盤であり・・・」って習っていないか)、百貨店の「美術画廊」は日本の画壇、美術界を担うべき注目作家や若手精鋭作家の作品発表の場であり、展示販売するところである。また時には、西洋アンティークなども扱う。

では、これらの作品は誰を相手に売るのだろうか。
もちろん気に入る作品と懐具合が合えば「これ、ください。」と、“いちげんさん”でも売ってくれるが、彼ら(百貨店)が主たる購買層としているのは、外商顧客(法人・富裕層)である。子供服を買って、ついでに「絵」も買って・・・というのはあり得ない。「外商お得意様サロン」から外商社員に案内されて「美術画廊」へ行き美術部員の説明を受け、良い絵なので買うわ というのが一般的である。

そこで販売される作品は、応接間を飾る絵や工芸品であったり、国内・外との関係のために贈られる贈答品でもある。関西では、梅田の「阪急百貨店」6階に「古美術街」があって書画・茶道具など斯界の大店が軒を並べていた(現在は11Fに縮小移転)が、これも同じ理屈である。
日本の近・現代美術はそうして大きくなったのである。

こうした事情を踏まえずとも、豪邸の応接間や役員室の壁にサブ・カル作品がふさわしいかどうか、茶室の床の間にフィギュアが合うのかどうかは、容易に理解できるはずである。(もし文学部長室に「ねんどろいど・ぷち」が置かれていたなら、ちょっとばかり、先行きを憂うかも)。

辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)で、上野がピエール・ブルデュー の言を引いて「前衛芸術は評価の定まらないものです。・・・定まらないものに対して価値を見出すのは成り上がりの新興ブルジョワジーである」と述べている。辻井喬(堤清二)との共著ながら、西武の顧客は成りあがりなのか、きっとそうではあるまい。だから苦情が来たのである。企画した美術部員も自らの関心のみが先行して、自分の立ち位置(職場)がまるでわかっていない。

制作にいそしむばかりでなく、たまには村上隆『芸術闘争論』でも読んで、サブ・カルなりの戦略を身につけないと、いつまでも「私小説的な作品」からは脱し得ない。
サブ・カルもアートの王道であると素直に思う。ただ、同じ土俵に上がれなかったことを悔やんでいる限りは、それはアートでもなんでもない。

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人を語れ

2011-02-06

新暦(グレゴリオ暦)と旧暦のいたずらで、今年は法然上人800年忌と親鸞聖人750回忌。春には、京都国立博物館で「法然」展、京都市美術館で「親鸞」展が開催。

法然展では、昨年、信楽・玉桂寺から譲渡された行快作とされる阿弥陀如来立像(建暦2年・1212)が展示される。(1億8千万円・・・すみません下種な話で。最近、気になるもので)
阿弥陀如来立像の胎内には、法然の弟子である源智が法然の一周忌に際して造立した旨の願文と過去者(亡者)も含んだ数万人の結縁交名が納められていた。台座修理銘からは宝暦3年(1753)には「堺稲荷宝生院」に安置されていた由。

閑話休題。奈良市・十輪院の隣に浄土宗「興善寺」がある。
ここの本尊である阿弥陀如来立像も胎内に多数の書状・結縁交名が納入され、正行房が造立発願したことがわかる。制作時期も正治2年(1200)頃。結縁交名は書状の裏面に記され、書状はいずれも自筆。書状の差出人は証空、親蓮、欣西ら法然の門弟と源空(法然)その人。

名称が「源空・証空等自筆消息」(「興善寺文書」とも。現状は2巻仕立て)とあり見落としがちだが、法然唯一の自筆文書である。〔このほか、京都・廬山寺蔵『選択本願念仏集』もあるが、法然自筆は「選擇本願念佛集/南無阿彌陀佛 徃生之業」念佛爲先」の2行のみ。〕
「小袖を確かに賜りました。かえすがえす喜んでおります」「熊谷入道のこと詳しくお教え下さり、誠にありがたく」と法然の人がらがしのばれる内容。

「法を語るより人を語れ」とは同級生の弁(僧侶:真宗だが)。思わず納得。

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いきものがかり

2011-02-07

某市にて。

相談事も済み雑談めいた話のなかで「“樹木”の指定もしないと」と。
「悪いこと言わへんから、“樹木”だけは止めとき。たいへんやでぇ」と私。「(他の)『文化財パンフレット』見たら、最後に載っていますよ。」と、指定する気満々のご様子。確かに掲載されてはいるが・・・。

樹木は生き物である。杉などは春になると花粉を飛ばすけれど夏には青葉をみせ、秋には色づき、そのうち落葉の季節を迎える。見るだけなら美しいが、ペットと同様「生き物」は大変である。

たいていの大樹は社寺などの境内でも隅っこにある。大樹からの落葉や落枝は気付かない間に所有者のかたが掃除されているが、これを指定すると管理の一端は指定した側にも発生する。道路側溝の「落葉拾い」ぐらいは、覚悟しないといけないかも。最近は境内そばまで住宅が近接しているので、落葉で民家の軒先の樋が詰まったとなれば、“出動要請”もかかる。ひょっとして「日当り」が悪いことへの善処を求められるかもしれない(「樹木のほうが先」といっても通じない)。プレートを掲げた以上、ほぼ恒久的にあれこれと気をもむ存在。もちろん、枯死させてもいけない。
「そんな、脅かさないで下さいよ。」と言うので事例紹介。指定樹木所有者から市へ剪定費用負担や固定資産税減税(?)の要求。さすがに表情も曇る・・・。

日頃、人もカネも時間もないと愚痴っているのに、“ペット”飼うつもりか?と思いつつ「『公園緑地課』あたりとよく相談してみてください」。

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色褪せず

2011-02-09

もうその風景は今は失われ、住宅地に変貌しているとある所の写真。なんとかしてパワーポイントに使いたいと、古いアルバムを取り出す。

高校生の頃に撮影したがもう既に色褪せ、マゼンダ(赤紫)の印画紙と化している。スキャナーで取り込みつつ、どうしようかと思案するなかで、補正をかけてみるとその再現の高さに目を見張る。
調子に乗ってあれこれと古い気になる写真をデジタル化。

写真も記憶も歳月を経て色褪せるものの、再現することでよみがえることもある。色褪せた写真の頃に読んだ本などを引っ張り出して、目を通すと違う思惑で読んでいる自身に、はたと気がつく。
明治や戦前の研究論文を読むと、まぁ仕方ないか・・・と思ったりもするが、時にはびっくりするほどの見解がいとも平然と述べられていることがある。何等かの根拠があるのだろうが、既に尋ねる人もいない。
地道に調べながらも、なかなか先人に到達しないジレンマに悩まされながら、先人たる由縁であると納得。

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保留

2011-02-10

御用の後、寄り道をして興福寺東金堂へ。

もちろん四天王像や文殊菩薩・維摩居士像、十二神将像を拝見するものの、ある意味、魅力的な薬師三尊像をじっくり。

昭和12年(1937)に東金堂を解体修理した折、台座内から木箱発見。箱の中には、鎌倉時代、東金堂の再建が思うように進まず苛立った興福寺僧が、文治3年(1187)に山田寺講堂から奪取してきた薬師如来坐像の頭部。現在の国宝 仏頭である。(←学生向け)

せっかく奪取して東金堂の本尊として据えたものの、応永18年(1411)閏10月15日、五重塔に落雷、塔は炎上し、その焔は東金堂も巻きこんで、脇侍の日光・月光菩薩像は辛うじて救出されたが、薬師如来像は頭部を残して灰燼に帰す。
日光菩薩・月光菩薩像は、仏頭とともにもと山田寺の脇侍像。仏頭とは表情が異なり、工人の手が違うのか(天武14年・685)、あるいは山田寺が元気であった頃の、もう少し下がった時期(奈良時代初頭)の制作と考えられるが、あまり注目されずに今日に至る。

少し残念だが、現状では保留物件。

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下田鋳物師

2011-02-10

焼失した東金堂の再建は4年後の応永22年正月16日。

ここに至るまで、本尊の再建をどうするかで3案が提出。
1.木造でつくる
2.新たに鋳直す〔銅造〕
3.他所の仏を請け移す(ヲイヲイ!またその作戦か?)

室町時代でこういう場合は「籤引き」が相場である。
籤引の結果、「鋳直す」ことになり、「下田鋳師」(現香芝市の鋳物師)が3月5日から「東御門南辺」で作業開始ということで決定。ところが決定したものの、興福寺僧に不安がよぎる。
「ところで、『下田鋳師』って、鍋とか釜しか鋳造してへんけど、仏像、大丈夫か?」
「それもそうやな。『河内丹南鋳師』を参加させたら、どやろか。なんせ東大寺の大仏さんも修理したそうやし・・・」と、河内丹南鋳物師・八郎兵衛が参加することに。
収まらないのは下田鋳物師。「なんやとぉぉお!バカにしやがって」と怒りあまって狼藉。施主である興福寺も「なんやとぉぉお!!」と応酬、3月24日には下田鋳師が仕事から下ろされて、改めて河内丹南鋳物師が指名され、奈良、古市(奈良市)の鋳物師も合わせ9名でようやく制作。
4月13日に御頭、同25日に御身が完成、5月13日には合体し、翌月26日に東金堂に安置した由。
『寺門事条々聞書』より

そんなことを想像しないわけでもなかったが、じっくりと観察。堂から出ると、再建中の「中金堂」。
ここには仮金堂の赤尾右京作 釈迦如来坐像(文化8年・1811)が安置されるはずだが、興福寺ゆえになにかありそうな予感もチラリ。

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レインブーツ

2011-02-11

昨夜より降雪。目覚めれば3年ぶりの積雪、6cm。

にも関わらず、阪神高速道路は全線通行止め、阪和道も当地周辺では通行止めになり、豪雪地方からみれば「お笑い」ながら、“孤立”状態。外出予定もキャンセル。

家を出ると、小さな雪だるまがふたつ。雪だるまの大きさで積雪量が知れるもの。子供は正直である・・・。
まだ外で遊んでいる子供たちの足元を見ると、色とりどりのレインブーツ(雨靴)。

我が家の下駄箱に「ロングブーツ」はあれど、赤や黄色の小さなレインブーツはとうの昔に消え失せている。白い地面に小さな足跡を残すカラフルなレインブーツをみながら、懐かしいような、さびしいような思いも。ちょっと憂鬱。

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分かっているようで分かってない・・・

2011-02-12

夕刻、関大での特別公開講座「関西中小企業の活性化と経営革新セミナー」(大同生命寄附講座)の受講を終えた高校の同窓生(経営者)が初来室。1月からの流れで・・・。
開口一番、「なんか、大学の先生といっても現状が分かっているようで分かっていないというか・・・」と先制パンチ? わたし、「文学部」ですから・・・。

勿論のこと、こちらの専門分野が「仏像」「日本美術史」であることを彼はあまり知らない。
本棚をぐるりと見ながら「専門は『仏像』か。最近、オレも仏像に興味もってあっちこっち見てまわってるんやで。」 「最近はどこへ行ったん?」と私。
「『室生寺』や。あそこのお薬師さんはきれいで、古いから“壺”もってないねん。古いお薬師さんは、薬壺を持ってないんで、お釈迦さんと間違われるけど、周りに十二神将が・・・」
ひょっとして、私に対して仏教彫刻のミニ講義?
そうそうと相槌をうちながら、ありがたく講義?を拝聴ししつつも「分かっているようで分かっていないというか・・・」と思ったり。

雑談の後、ミナミに出て一献。

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救世主 or 悪魔

2011-02-13

巷で話題になっている「Google アートプロジェクト」。
ストリートビューの美術館版ながら、かなり面白い。現在のところ“バーチャル見学”出来る美術館は次の17館。
・ ニューヨーク近代美術館  (ニューヨーク・アメリカ)
・ フリック・コレクション  (ニューヨーク・アメリカ)
・ メトロポリタン美術館  (ニューヨーク・アメリカ)
・ フリア美術館  (ワシントン・アメリカ)
・ ロンドン ナショナル・ギャラリー  (ロンドン・イギリス)
・ テート・ブリテン(テートギャラリー)  (ロンドン・イギリス)
・ アムステルダム国立美術館  (アムステルダム・オランダ)
・ ゴッホ美術館  (アムステルダム・オランダ)
・ ティッセン=ボルネミッサ美術館  (マドリッド・スペイン)
・ ソフィア王妃芸術センター  (マドリッド・スペイン)
・ ベルリン絵画館[Gemaldegalerie]  (ベルリン・ドイツ)
・ ベルリン旧国立美術館[Alte Nationalgalerie]  (ベルリン・ドイツ)
・ ヴェルサイユ宮殿  (パリ・フランス)
・ ウフィツィ美術館  (フィレンツェ・イタリア)
・ カンパ美術館  (プラハ・チェコ)
・ トレチャコフ美術館  (モスクワ・ロシア)
・ エルミタージュ美術館  (モスクワ・ロシア)
たまに + がついており、クリックすると正面からの拡大画面(「View Artwork」でも一覧)が出現する。フリアの宗達筆「松島図屏風」やKaikeiの菩薩像も高精細で可能。ゴッホの筆致も確認できる・・・。

こうなってくると、「美術全集(画集)の時代」は過去のものとなり、西洋美術史の人が全集の解説や概説に携わる機会も減ってくるのだろうか。

とある所で、「(ごくごく一部の)西洋美術史の人はずるい。自身の研究が本場(欧米)で通用しないと気付くと、欧米では「東洋・日本美術」の“伝道者”、日本ではそのまま「西洋美術」と、いつの間にか“all over the world”な研究者に変身する態度が理解できん。」と憤慨する“重鎮”研究者の姿を寓目したが、授業を邪魔くさがって、
「はい。今日は“ウフィツィ美術館”を(バーチャル)見学しましょう。」とネットでただ流すだけの担当者が現われないとも限らない。

こうした時代ゆえに「(直接)見ること」こそ、大切なのだが・・・。

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お水取り

2011-02-14

再び降雪。

関西の春を告げるのは東大寺「お水取り」(修二会)。
現在は3月1日からの本行だが、旧暦では2月1日から。奈良国立博物館で現在、「特別陳列 お水取り」が開催(~3月14日)。

二月堂の本尊は、大・小ふたつの十一面観音立像(共に秘仏)。
寛文7年(1667)2月14日(旧暦)未明、勤行を終えた練行衆が参籠宿所で粥食をとった。ほどなくして二月堂の上に煙が立ち昇っているとの知らせを受け、堂司実賢が急いで二月堂に入った時にはすでに内陣は火の海。厨子(東の戸)を破って小観音像を取り出し袈裟に包んで堂外に走り出る・・・。夜が明けると、堂宇は全焼、焼け跡に大観音像(銅造等身像・8世紀後半)は痛々しい姿で立ち、「衆人ともに拝し、さらに恐れる」と。
(西山厚氏の「二月堂修中練行衆日記」解説による)

原因は不明だが、あの「大松明」であることは十分に想像。大観音像の光背や天衣の一部は断片となり、紺紙銀泥経(二月堂焼経)なども大きく焼損。大光背裏面には日本最古の「地獄図」も。

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就活①-就活塾-

2011-02-15

就活に家庭教師…学生は大学の就職課より信頼?

今春卒業予定の大学生の就職内定率(昨年12月1日現在)が68・8%と過去最悪となる中、就職活動支援ビジネスが活況で、お金を払って面接指導や履歴書の添削などを受ける学生が増えている。
10万円を超えるような高額コースでも人気は高く、自らの力や大学の支援に限界を感じる学生、親が増えていることが背景にあるようだ。
「自分の就活力を把握することが重要。2月までに自己PRを固めていないと手遅れになりますよ」
就職情報会社「ジョブウェブ」が先月、都内で開いた就職セミナーの無料体験会には、就活中の大学生約30人が集まり、真剣な様子で講義を聴いた。
その名も「究極の内定力養成講座」。職業の適性診断や面接の訓練など、就活に必要な知識や技能を全12回の講義で伝授する。受講料は12万6000円で、無料体験会を受講すれば割引される。
卒業までに内定できなかった場合、受講料を全額返金する「内定保証」があるといい、無料体験会に参加した法政大大学院1年の女子学生(23)は、「内定を獲得できるなら、決して高いとは思えない」。
同社では、この有料講座を2009年から始めた。20人限定にもかかわらず約300人が応募することもある人気ぶりで、同社キャリア支援事業部の上田卓部長は「就職難が続けば、有料講座を受けることが当たり前の世の中になる」と話す。(読売新聞 2011.2.15 ネット版)


新聞紙上ではこの後、広島の就職情報会社が1泊2日「就活合宿」(近畿のお寺で自己紹介の仕方・座禅・滝に打たれる・マラソン)などが紹介。
12万6000円で「内定保証」なら、中高年失業者がどっと押し寄せるはずなのだが、学生限定としているところがいかにも胡散臭い。「内定保証」といっても、どこにも「受講生が納得できる内定先」とは書いていないはず。

しかも新聞記事での以下のコメントが、ネットではすっぽりと抜けているのは、致命的なミス。

ただ、活況の波に乗って脆弱な体制で開講している塾も多いといい、「講師を集めるのも難しいし、企業の採用情報を把握するのもそう簡単なことではない」とくぎを刺す関係者も。
関西大学キャリアセンターの丸山勝茂事務長は「塾の存在は知っているが、大学にある情報や相談窓口を十分活用していない実態がある。塾で面接やエントリーシートの書き方の“テクニック”を覚えても、企業は底の浅さをすぐに見抜く。学生の本分である『学び』に力を入れるほうが先決ではないか」と話している。

丸山事務長は“やさしい”お方だから、はっきり言わないけれど、授業はまったくの埒外で、サークルやバイトしか頭にない どうしようもない学生が、この時期になって他の学生並みに繕おうとするから塾へ行くのであると(推測)。ま、座禅や滝に打たれるぐらいで、この就活を乗り越えられるなら誰も苦労はしないけれど。
だから、ネット版のタイトルも「不真面目な学生は大学の就職課より信頼?」としないといけない。
アホ記事満載。

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就活②-旅行・バイト・サークル-

2011-02-15

娘たちご愛用の「ニコニコ動画」。 ニコニコニュースでも以下の記事、発見。

旅行・バイト・サークルの話しかしない就活生に、面接官は飽きている

面接官から聞いた話として、「学生が面接で話すことは3つしかない。海外旅行の話、バイトの話、サークルでリーダーシップをとった話。面接官は飽きている」というエピソードを披露した。それを聞いた飯田氏は、「学生のエントリーシートを添削することがあるが、まさにそれ」と頭を抱える。
…中略…面接でバイトやサークルの話をするくらいなら、「『4年間ずっと勉強だけをしていました』とアピールするほうがいいのでは」という。

な~んだ、分かってんじゃないの、若い人たちも。(じゃ、読売の記事は煽るだけ?)

「他人との協調性を考えた事例は?」「一番感動したことは?」「これまで一番頑張ったことは?」
旅行・バイト・サークルですべて通る・・・と思うのが浅はか。バイト気分で仕事をしてもらっては困るし、上司や社内の上下関係もサークルの「ノリ」にはあらず。出張はもちろん「旅行」ではない・・・。
これが事務長いうところの「底の浅さ」。

「4年間ずっと勉強だけをしていました」学生と就活塾にすがる学生。就活生も二極化の方向・・・。

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あい剥ぎ

2011-02-16

そういうことだったのかと、改めて発見の大きさを知る「鳥獣戯画 丙巻」の記事。

富岡鉄齋「あい剥ぎ」は知られるものの、なんと鳥獣戯画も!である。料紙の幅が57cm前後なので、もとは料紙のままであった可能性が高い。ということは、丙巻は何らかの「下絵」ということなのだろうか。

丙巻の現状(巻物)は、すでに「住吉模本」(1巻に慶長3年〔1598〕2月中旬の奥書)にみえるので、「あい剥ぎ」の時期はそれ以前となる。また前半(人物)10紙、後半(動物)10枚(但し、後半の長さは前半に比べて34cmほど短い)からなるものの、巻末には「秘蔵々々絵本也/拾四枚/建長五年五月 日竹丸(花押)」の墨書(但し「住吉模本」では5巻末に別記)。ということは、当初は更に4枚8面が備わっていたのかもしれない。
一方で、少し気になることも。料紙のままだったとすると、個々の描写は1枚の料紙の中で完結するはずだが、2枚の料紙にわたる描写(途中に紙継ぎ)は、どう考えたらよいのだろうかとも。

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分身

2011-02-17

『蔗軒日録』(堺・海会寺住持 季弘大叔の日記) 文明18年(1485)3月10日
「是日新彫刻長谷大士小像至、其長一半(寸)余、長谷懸西、大福(寺)仏工、京師人、備前造長谷大士之余材造之」
『大乗院社寺雑事記』 明応3年(1494)6月晦日
「禅定院十一面観音像〈高金尺三尺三寸二分半也、自地至御(光)悉皆五尺九寸〉、皆金色、定阿弥作〈長谷寺御衣木也〉」
『大乗院社寺雑事記』 明応6年(1497)4月23日
「自禁裏御衣木御念殊御用云々。」
『お湯殿上日記』明応6年(1497)9月3日
「はつせのみそきのきにてつくらせるるくわんおんのくやう三五し(参鈷寺)のくやうあり」
林宗甫『和州旧跡幽考』(延宝9年・1681)「元興寺・十一面観音像」
「此の観音の像は長谷の観音をつくりし霊木の第二のきれにてきざみぬれば長谷にもうでぬる人はまづ此の観音にもうでぬれば事の叶う事必ずにはべる」

大和・長谷寺十一面観音像は、これまで7度の焼失、再建を繰り返している。
  ① 天慶7年(944)焼失   ② 永承7年(1052)焼失  ③ 嘉保元年(1094)焼失
  ④ 建保7年(1219)焼失  快慶・行快らが再建
  ⑤ 弘安3年(1280)焼失  運実・湛康らが再建
  ⑥ 明応4年(1495)焼失  椿井春慶らが再建
  ⑦ 天文5年(1536)焼失  再建(現存)。頭部内に運宗・運海などの墨書

季弘大叔「長谷大士小像」は弘安再建時の余材、禅定院十一面観音像は建保再建時の余材、禁裏(後土御門帝)の数珠と観音像は明応再建時の余材、元興寺十一面観音像は?
とりあえず、そういうことにしておこう・・・。

再建のたびに畿内に分身がいっぱい。信仰も高まるいっぽう。

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白い巨塔

2011-02-18

とある空想。もちろん患者は私ではないが。

疲れが残るとやって来た患者。診断するとごく小さな腫瘍。良性か悪性かを判断することに。
診断の結果、悪性ながら初期なので手術すれば大丈夫だろうと告げる。ところが、以前から馴染みの民間療法や掛り付けの病院へ日参。共に悪性腫瘍とはわからず、当人も栄養剤や点滴でひと時は楽になるので、たちまち通院してこなくなった。
数年後、痛みに耐えかねてやって来たが、既に腫瘍はステージ3まで進行、手術のために開腹するもなすすべなく、縫合。現実的にはここで余命との関係をしっかりと考えさせた方がよいのだろうが、またもや掛り付けの病院へと向かう・・・。

空想事ながら、医師は、このような患者に対してどう向かい合うのだろうか。

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無題

2011-02-19

朝、「芦屋市立美術博物館学芸員、3月末に一斉退職」の報あり。

仄聞してはいたものの・・・。大いに憂う。
AMM等、色々と言いたいことも山ほどあるが、ここはぐっと堪えて「無題」。
なにしろ縁浅からぬ人が複数含まれていますので。

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手羽先

2011-02-20

奈良に師走を告げる行事として「春日若宮おん祭り」。12月15日には大宿所詣。
大宿所には、奉納された雉や鮭、鯛がずらりとぶら下がる(「懸鳥」という)。もとは「大和士」(やまとざむらい)の奉納品。寛保2年(1742)には、雉子1268羽、兎136耳、狸143疋、塩鯛100枚が奉納された由。江戸時代なので大和の各村が調達負担。もちろんその後は「お下がり」(喰った)・・・。

「ハクチョウの骨、一緒に埋葬=8世紀後半の骨つぼで発見-千葉・佐倉市」の記事。
骨壷から人骨とともにオオハクチョウの左翼「中手骨」の一部(長さ2cm)1個が出土したとのこと。

「ハクチョウと人骨が古代に一緒に埋葬された」のではなく、ハクチョウの手羽先を喰って2㎝ほどの小骨もそのまま飲み込んだ後、ほどなくして死んで火葬されたからと、なぜ素直に考えないのか。
鵜呑みにするマスコミも乗じてのトンデモ見解。
手羽先の小骨1本で「白い生き物の出現を吉兆とみる特別な思い」が想像できるほど、考古学とは乙女チックなのか。いや、そもそもハクチョウは死んでるやろ。

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あちらを立てればこちらが立たず

2011-02-21

アメリカの大学生は面白いことを考えるものだと感心。

「優秀な成績」「十分な睡眠」「友達づきあい(社交性)」から2つを選べという。残るひとつはオミットということ。さすがに大学に入ってからも厳しいお国がらとみえて「バイト」とかの選択肢はない。

「大学院なら1つを選びなさい」とか、「そこに『研究』が加わると、1つを選べるということすら非常に楽観的にみえる」(Then add research into it and "Choose 1" seems awfully optimistic.)など、アメリカの掲示板ながらほとんど2ch状態。
「仕事」「生活」「睡眠」など大人バージョンにも応用できそうだが、日本のことわざには「二兎を追う者は一兎をも得ず」というのもある。
何を選ぶのか、なかなかの難問である。

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数珠摺り

2011-02-23

秘密兵器その2.押しピン。
日本絵画の多くは軸装である。作品を修復しても、時には“固い表装”で、次第に本紙(画面)も引っ張られて波を打ったような状態になり、再び傷んでくる。
この多くは安価な表具屋さんがよくやる「手抜き」修理。

本紙の裏打紙を替えた後、板に仮張りして乾燥。乾燥後は裏面に「ロウ」を引き、数珠(ガラス製)でこする。
こうすることで紙の繊維が柔らかくなるのだが、その手間を惜しんで、乾燥後すぐさま表装に取り掛かると、ノリの効きすぎたTシャツ状態になる。施されたプリント柄もひび割れ状態。

話がそれた。
波打った掛幅を抑えるために必要な押しピン。押しピンの頭に木綿針が付いている。自家製ながら古美術専門のカメラマンから教わった由。ただし、ピンを刺すコンパネ板などが必要。木の香り漂う新築の仏殿や客間の柱や壁に押しピン穴を開けるわけにはいかない・・・(もちろん畳にも)。

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企業研究

2011-02-24

資生堂(3→16)、JR東日本(6→45)、HIS(9→17)、積水ハウス(18→39)、大日本印刷(80→41)。

これは何かといえば、矢印(→)の左側の数字は、就活でおなじみのマイコミが、この春4回生になる学生からみた「全国大学生企業人気ランキング(文系)」の順位。
それに対して、右側の数字は昨秋に発表の 社員からみた愛されている企業ベスト50とワースト50のランキング順位(赤字はワースト順位)。

ベスト50とワースト50のランキング発表は2010年9月22日で、マイコミのアンケートは同年10月1日から年末まで。ちなみに「愛社」の指標は「年収への満足度」や「仕事のやりがい」「キャリアパスの公平さ」「労働環境」など、7つの指標の満足度を数値化し、会社ごとに集計したとのこと。
それにしても某旅行会社はすさまじい。学生(だけ)がうらやむ企業(9位)に入社したのも束の間、「こんな会社はイヤだ!」「こんなはずではなかった!」(ワースト17位)と嘆くこと必至・・・。

就活でも盛んに「企業研究」が叫ばれるが、いったい、企業の何をみて研究しているのかと疑う。
「愛されている企業」ベスト3は学生人気で39位、43位、ランク外(100位以下)。大穴ばかり?
企業の良しあしが「見かけ」だけではないことが、はからずも証明。

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関西大学所蔵名品展

2011-02-25

柿衞文庫 で3月5日から27日まで「知と美の集大成 関西大学所蔵名品展」が開催。

博物館・図書館の所蔵品40点ほどが展示され、併せて柿衞文庫から松尾芭蕉筆 「ふる池や」句短冊や西鶴自画賛十二カ月(師走)、宗因賛西鶴画花見西行偃息図などの名品も展示。
絵画では定番の大坂画壇が中心だが、菅楯彦《職業婦人繪巻》や北野恒富《花の夜》も。なかでも「職業婦人繪巻」は学外初公開。3月12日(土)には肥田晧三先生による講演会「関西大学の名品を語る」も。(13時30分~・要予約・100名)

なぜ伊丹なのかは、後援(「関西大学校友会」「関西大学校友会伊丹支部」)がその事情を語る。
地域支部 国内外129、職域(職場)支部 70のOB・OG会。
ならばパッケージ企画として全国 行脚 PRも可能と皮算用も。展覧会企画でお困りの地方博物館・美術館はぜひぜひ・・・? いかん、いかん。前職の癖がまだ抜けきっていない・・・。

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道頓堀

2011-02-26

午前中、大阪都市遺産研究センターの研究例会、午後は同フォーラム。

山田伸吉画・長谷川幸延賛「道頓堀今昔」(164×83cm)に係る関係者の鼎談。肥田晧三先生も。
「このあたり 今井楽器店 カフエー・アイオイ 京与のあと すし半松五郎と なりぬ」とあるように「道頓堀今昔」は、もと「すし半松五郎」の衝立。ちなみに「今井楽器店」はうどんの「今井」。
山田伸吉は八尾中学校出身で松竹座宣伝部に入社、舞台美術などを手がけ、のちに上京し文展や二科展に出品。長谷川幸延は曽根崎生まれ、脚本、戯曲を手がけ、のちに上京し小説家となる。
「法善寺横丁」の命名者。大阪では普通「横町」というが、長谷川は大きな決断をして「横丁」とする。

山田伸吉の没後、「しのぶ会」がすし半松五郎で開かれたが、そこに出席された肥田晧三先生曰く「3階広間で開かれたが、これと同じ壁画があった」との由。画面は宗右衛門町側から中座方向を見たもの。左の橋は太右衛門橋。

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帝キネ

2011-02-27

しばらく、フォーラムの話題を続ける。

笹川先生の「大阪映画文化の誕生」。

近代大阪の展開は三重の円。中心には東西南北の区、2重目は東成区と住吉区、淀川北岸。3重目は平野区、東住吉区などの周辺都市。

大阪の映画館誕生は、明治29年の南地演舞場(現難波OIOI)と明治40年の千日前。その後明治45年に1重目と2重目の境である新世界にも。
大正13年(1924)以降は2重目に広がる。ここは労働者層が中心。もとより上映内容も異なる。この時期、3重目の円内で映画撮影所が開設。大正9年には小阪撮影所 (東大阪市小阪)、昭和3年(1928)には長瀬撮影所(同市長瀬)に誕生。長瀬撮影所は「東洋のハリウッド」とも。現在も、長瀬撮影所跡には記念プレートが残り、近くには「帝キネ橋」も残る(現在の架橋は新しい)。

拝聴しながら、3重目に長く居住していたこちらとしては、高校生の頃までは2重目(天王寺)、1重目(難波)に出かけるのは少し勇気が必要だった・・・などと思い出す。

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北原白秋vs菊池寛・芥川龍之介

2011-02-28


増田先生「大阪時事新報 文芸記事からみる文学」。

昭和2年4月28日付に、北原白秋の弟が経営するアルスより「赤い鳥」の実績を踏まえ「日本児童文庫」出版の広告。全70巻、1冊50銭。送料無料。編集顧問は、白秋ほか「赤い鳥」メンバーも混じる。
昭和2年5月14日付けの記事では、菊池寛・芥川龍之介を編集人に据え興文社から「小学生全集」を出版。全80巻、別巻8冊。1冊35銭、全80冊揃いで26円60銭。もちろん内容はかなり重複。

白秋は「東京朝日新聞」に菊池・芥川への糾弾記事。対して菊池は「大阪時事新報」に反論。

全巻揃いのお値段。「日本児童文庫」50銭×70冊=35円、「小学生全集」は全80冊揃いで26円60銭で、後者のほうが一見安くみえるが、「但し外に送料として一冊8銭宛(東京市内は6銭を要します)」とある。従って全巻・別巻揃いの価格は、「日本児童文庫」が50銭×70冊=35円、「小学生全集」は26円60銭+35銭×8冊+8銭×88冊=36円44銭(東京:34円68銭)で都内では安いものの、その他ではやや割高。

菊池寛や芥川龍之介もなかなかの商売人と思っていたら、同年7月26日に「唯ぼんやりとした不安である」という言葉を残して自殺した芥川龍之介の特集記事。(自殺は7月24日)。
すでに病んでたんだ、芥川は。

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