日々雑記


闇市

2011-3-1

橋寺先生「モダン都市大阪の変貌」。

梅田の阪神百貨店裏(南側)の一角は、上空から見るとダイヤモンドの形をした区画であるために、ダイヤモンド街(ダイヤモンド地区)と呼ばれる。現在は大阪駅前第1~4ビルが完成し、高層ビル街となっているが、子供の頃はまだ駅前ビルすべてが完成しておらず、闇市っぽいあやしげな雰囲気が残っていた記憶がある。

この一角の区画整理は昭和7年の図面にも登場。本来は東京「丸の内」を意識し、大阪の玄関口にふさわしい駅前広場とビル街を目指したが、戦争を挟んであえなく「闇市」となり、区画整理の竣工はごく最近のこと。

駅前の高層ビル群が立ち並んだが、駅前広場(バス停)はなくなり、またも非常にせま苦しい駅前と化す。再び「闇市」時代にもどったかのような駅前風景を思い出しながら拝聴。
大阪駅前は、今も昔も、よくも悪しくも大阪の玄関口であると実感。

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なまり

2011-3-2

家人が中国土産のジャスミン茶をもらってきた。
茉莉龍珠(モーリーロンジュ)とは、粒状の茉莉(ジャスミン)茶。
奈良出身のこちらとしては「鹿のフン」と呼んで怒られている。
おいしく頂きながら、なにげなく包み箱横の文字を眺めていると、思わず噴き出しそうに。
箱の上に中国語、下に日本語が記されている。ここで問題。
左は箱上の中国語の文章です。これを和訳しなさい。
  (←ここをクリック)
韓国でもこの類はかなりある。でも馬鹿にしてはいけない。
地方のビジネスホテルで、 「飛び込み」で来た欧米系ネイティブにフロントの真面目そうなおねぃさんが、「おーる るーむ いず セミダブル おんりー。ぶれっくふぁーすと いず バイキング  すたいる。」と説明しているのを目撃したことがある。もちろん、ネイティブさんは眉をひそめながらもうなづいていたが・・・。

「シングリッシュ」「コングリッシュ」「フレングリッシュ」などもあるので、さほど気にすることでもないが、なんか、中国語のほうがよくわかる気がするのは錯覚だろうか。

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節穴

2011-3-4

某日、業界の人(彫刻史研究者)と個人所蔵の仏像を拝見。

一見して平安初期から中期頃の作品とみえ、他の方は「ほぅ~」などと言いながら像底なんかを確認している。ところが、ひとりだけ(私)しっくりこない。
表面は黒くなっているのものの無傷。虫食いも欠損部も殆どない。骨董市で購入したものらしいが、千年も経た仏像とは思えない状態のよさ。
恐る恐る他の人に尋ねてみると、「こんな(状態のよい)作品、某所で見たことあります」ときっぱり。近世仏像ばかり見ているので、そうかなとも思うが、なんとなく出来すぎた感がある。

絵画と違って仏像の贋作(新作)は見分けやすい。なにより部分部分で各時代のいいとこ(特徴)をごっちゃに採用するのですぐさま「贋作」(新作)とわかる。この仏像も後頭部の螺髪の刻み目までをそれっぽく彫刻しているが、腕の立つ彫刻家と悪質な研究者が組んで、その時代の「お約束事」通りに仏像を製作されると、わたしには真贋の判別がつかない。

他の研究者が太鼓判を押すので、こちらの目が「節穴」と思うが、今でもなんとなくしっくりこない。

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瀬戸物

2011-3-4

男子、厨房に入るべからず。よせばよいものを、ふとしたはずみで皿を割ってしまった。

見込みに「VOC」マークのある中皿である。もちろん骨董趣味はないので、スーパーの「せともの市」で300円で買ったプリント皿。
お気に入りだったので、ため息つきながら破片を拾っていると、横で「ヴァニタス、ヴァニタス。」との声。(vanitas=虚栄のはかなさ)

ベルギー・オランダの静物画には中国製染付陶磁器(青花)が多く描かれている。オリエンタルな好奇な焼物としての希少性もあるが、現実問題としてその頃、ヨーロッパでは、磁石(磁器生産用の石・カオリナイト)をすり潰して磁器を作る技術はなく、純白の素地に青い花柄の硬質磁器はなかった。ミントンが陶土に牛骨の灰を混ぜた「ボーンチャイナ」を発明するのは18世紀である。
以前、「陶磁器の東西交流」を講義したら、聴講生(おばさま)から「スペイン・マジョリカで同じものを見ました。(交流は)東から西ではなくて、西から東ではないですか。」とトンデモ抗議が寄せられた。聴講生なんだから、たまには人の話(講義)も聞けよ。

「今度は『芙蓉手』の皿だな」と思いつつ、分厚い日曜日の折込広告から「せともの市」を探している。

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非売品

2011-3-7

北海道・帯広市の古書店より注文していた本が届いた。ネットのお蔭である。
早速、本を開き頁をめくると、かすかに匂いがする。「この匂い、どこかで嗅いだような・・・」と感じて、すぐさま本棚を探し、既に物故された、とある先生から頂いた本を開くと、確かに同じ匂いがする。

「君の研究に役立ちそうだから、差し上げます。」と、30歳代の初め頃にたまたま頂いた蔵書の1冊。新刊書ではなく、こちらが幼い頃に刊行された「古書」である。箱は既に日焼けしており、先生ご自身もあまり読まれていないらしく、本の中ほどには、定価を記した「スリップ」や愛読者葉書、付録がそのままの状態で挟まれている。郵便葉書7円の頃である。

頂いてから数年後に先生は逝去され、計らずも「形見分け」の品となり、ことあるごとに本を開いてはその匂いと共に先生の人がらや数少ない邂逅を思い出していた。亡くなられて蔵書は売却されて、巡り巡って、こちらの手元へ来たのである。偶然のことながら不思議な縁を感じざるをえない。

頁をめくりながら、「先生はここを読みながらどのようなことを考えておられたのだろうか」とぼんやりと思う。

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破提宇子

2011-3-8

某所にて調査。

幾つかの掛幅も登場。「松翁」と読める。むぅ、「菘翁」なら貫名海屋だが、草かんむりがない・・・。落款印章を撮影するためファインダーをのぞくと、印章は「徹定之印」と読めた。ここは浄土宗のお寺。おっ、そうかそうかと納得。

養■徹定(鵜飼徹定・うがいてつじょう)。浄土宗初代管長にも就任した幕末・明治の浄土宗の学僧。
芥川龍之介『るしへる』に記されるように、明治初年頃、キリスト教解禁に先立って知恩院の華頂山文庫にあった『破提宇子』の写本を出版しキリスト教排斥運動をおこした仏教僧。
『破提宇子』(はでうす)とは「破・ぜうす」である。

原本は、慶長から元和にかけて戦国時代の不干斎ハビアンが執筆したもの。
ハビアンは加賀出身の臨済僧として修行後、天正11年(1583)頃にキリシタンに改宗、仏教・儒教・道教・神道に精通したイルマン(修道士)となり、『妙貞問答』を著してキリスト教の唯一絶対の神の存在への理論武装家となる。日本の宗教にとって「手の内を知り尽くされた」手ごわい相手。
慶長11年(1606)に林羅山(儒教)との論争を行うが、2年後に突如イエズス会を脱会、棄教する。
批判の刃は一転してキリスト教へと向けられ、『破提宇子』が著される。

「天地万物、秩序だって動くのはたまたまの偶然ではなく、神の意思の存在なくしては理解できない」(『妙貞問答』)と論破していたのが、「全知全能の神と言いながら、アダムとイブが禁断の実を食べて天界を追放され末代まで生老病死の負い目を受けるのをみすみす見逃していたのは無慈悲じゃないのか」(『破提宇子』)と豹変。

慶長のキリスト批判書が明治初年にリバイバルするとは、ハビアンも予想外・・・などと薫香漂う堂内で、掛軸ひとつ取り上げてキリスト教についてあれこれ思う。

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絵図

2011-3-9

昨日に引き続き調査。

半畳ほどの絵図面。門がここで、昔はあそこにも堂があった・・・と、「いくさ評定」よろしく関係者が絵図を囲みながらあれこれ。

幸い、作成時期が記してあったが、一見するだけでは作成時期が分からない作品もある。ただ、京都や奈良の古刹や高野山などの絵図は作成時期をある程度絞り込むことが出来る。建物Aは無く、B・Cは再建済・・・と各堂舎ごとにその消長を並べていくと、時期が限定できる。
ただし例外も。昔、奈良の絵図で製作時期を絞り込むことが出来たが、既に焼け落ちたはずの元興寺五重塔が描かれていた。依頼者たっての希望か、完成予想図かとも思ったが、その理由は未だに分からない。
「いくさ評定」の結果、かつては壮大な?伽藍があったようで、皆、満足していたが、当地“お初”で、どこを示しているのかすらわからない門外漢にとっては一抹の疑問もないわけではない。
静かに拝聴。

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VOC

2011-3-10

本日にてひとまず調査終了。

大阪への帰途、某窯の産地を通ったので、立ち寄る。
本来の窯では自然釉で、「産地直売」ながらも織部風や染付、鉄絵、色絵など多種多様な器。店頭の焼物だけをみると、もうどこの窯なのか想像もできない。

店頭ワゴンの中からホコリを被りながら重ねられた雷文繋ぎの赤いラーメン鉢と並んで染付の「VOC」マークの皿を見つける。おぅ、これこれ。
底の値札は500円。1枚しか見当たらないので店員に聞いたが、現品限りという。ゲット、ゲット。

帰ってから何を盛ろうかと思案しながら、大阪へと再び。

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大地震

2011-3-11

東北地方太平洋沖地震に際して、被災に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
時間の経過とともにM8.4からM8.8に訂正され、ラジオでは「宝永の大地震 以来」が「国内観測史上最大」となってしまい、予想をはるかに超えた甚大な被害にただただ驚くばかり。

宝永の大地震は宝永4年(1707)10月4日に東海地震と南海地震が同時発生した地震で、49日後には富士山も噴火。
岡山・井原市高山寺には、もと河内国交野郡星田村愛染律院の地蔵菩薩像があり、体内の修理銘札に以下の墨書銘。
当年十月四日大地震大坂にて家国中九分くづれ一部のこる大地震昼の四つ時つなみ晩の八つ時也津波に流れたる橋三十五くづれ市々の入船出船百そうくづれ船山に上る大坂にて人六万人死する其外は知れず
奈良・広陵町百済寺馬頭観音像(盗難中)にも「宝永四年十月四日大地震時」「本堂破滅」と記載。

被害がすくなからんことを切に祈るばかり。

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リスト

2011-3-12

ニュース等で未曾有ともいうべき被害が続々判明。枝野さんも会見で、遠回しながら「ボランティア・デマ・マスゴミは救援の邪魔」と。「SOS・HELP」と書かれた孤立建物の屋上で手を振る人を撮影してそのまま帰ったんだろうな、あのヘリは。ハイエナ以下だよ。

全国美術館会議『阪神大震災美術館・博物館総合調査 報告Ⅱ』(1996年)を引き出してくる。p145~147に田中善明・田中千秋両氏による「緊急調査・応急処置用資材リスト」が掲載。タイトルこそ「緊急調査」とあるが、いわゆる文化財レスキューに必要な資材の一覧。
額装品等の緊急修復資材も混じるが、「今回は使用しなかった」などの注記もある。35mmカメラは既にデジカメに変わり、トランシーバーも携帯へ。薄葉紙、エアキャップ、「板段」、ジッパー付きポリパック、段ボール箱、晒、綿枕は大量に必要。但しかさばるので近隣館での分散備蓄が課題となっている。ブルーシートも仮置き場として必要、封筒や洗濯挟み、三脚は「使用しなかった」。ヘルメットと防塵マスク、乾電池は必携の由。

当たり前ながらまずは人命、次に様々な残骸とごみの処理、そして文化財という順序。

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山本ラク

2011-3-13

北海道美唄町・弘法寺(北海道三十三観音霊場第28番札所)は、明治39年徳島・板野町地蔵寺の服部智信氏による創建。

寛文6年(1666)仏師藤原源右衛門による弘法大師像(本尊)、文化2年(1805)京都仏師塩釜浄而による千手観音立像、山本ラク奉納の観音菩薩像が安置される。
藤原(伊与)源右衛門は淡路の仏師、塩釜浄而も19世紀に徳島で活躍していたので、仏像は地蔵寺にあったものを移したもの。

山本ラクは弘化2年(1845)板野・松島村で生まれる。若い頃家族と死別し、結婚後は徳島市で旅館業を営むも、一人娘を亡くしさらに養子も亡くなり天涯孤独の身となる。
「人の世のはかなさ、むなしさを知った」ラクは、北海道へ移住した「大師信仰」篤い徳島の人びとのため、霊場を作ろうと決意し、旅館をたたんで大正元年(1912)に北海道に霊場を創設。「大師信仰」ゆえにもとは「四国八十八ヶ所霊場」ながら、北海道は広く、また受入れ寺院の数も少ないため、やむを得ず「三十三観音霊場」に変更。
山本ラクはその後、大正7年(1918)に旭川市・大師教会支部を設立し信仰生活を送るが、大正12年に故郷の徳島・円行寺に帰り、大正15年1月17日、82歳の生涯を閉じる。

板野・地蔵寺にあった仏像を前にして、同じ板野出身の服部智信と山本ラクはどんな会話がなされたのだろうかと想像。
因みに「北海道八十八ヶ所霊場」は2006年に開創。もちろん弘法寺も18番札所に。八十八ヶ所霊場本尊は松本明慶の作品。

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温度差

2011-3-15

再び調査。
大阪を発つ時、家人から「関大堺キャンパス 完成祝い式典」の新聞記事を見せられ、イヤミを承る。
まぁ、まぁ、関西ですから・・・と。

大衆食堂(お昼)でも、みんなテレビに釘付け。携帯メールには、東京にいる義弟の嫁が乳飲み子を抱えて明日、大阪へ「疎開」するとの連絡。仙台の旧友が無事である旨のメールが転送されている。

調査が終り、夕刻、ビジネスホテルのロビーで大学HPからメールチェック。
冒頭には「4月公開 CMの巨匠、黒田秀樹氏が製作!関西大学Web Movie」のバナー。
はぁ・・・と思いつつ、メールを確認すると、新2回生の合同合宿予定の問い合わせ(至急)。地震発生の2時間ほど前に日程の確認や研究会予定があり云々のメールがあり、てっきり(地震により)実施の有無が検討中と思っていたのだが・・・。
普段と変わらない日常をおくりながらも、正直、この温度差に気持ちが追いついていない。

(追記)
3月17日現在、大学HPに「地震に関する関西大学の対応について」の頁が設けられました。

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関西的バカモノ

2011-3-16

地震後、しばらくして友人を通じての「関電関係者からのメール」を家人が見せる。
「あのなぁ、それは完全なデマ。西と東とでは周波数が違うんで・・・」と説明したまではよかったが、苛立ってしまい、「そんなヤツは××ばいいのに」と、ついつぶやく。たちまち家庭内不和、発生。
ようやくほとぼりが醒めたにも関わらず、再び「電気不足で乾電池や米が品切れ。どうする?」と。
はぁ?

どんだけ関西は電力事情が悪いのか。
関東や東北、あるいはそちら方面へ送るなら理解できるものの、パチンコ屋やラブホテル街のネオンが煌々と輝く(コンビニが正面看板のみ消灯)関西で、乾電池買い占めて、いったい何に使うのだ。
もちろん、節電は心掛けないといけないが、無駄な電力を消費するだけのTV局こそ「輪番停電」にすればよいのに。乾電池で温まるストーブや給湯器、室内灯があれば別だが、関西でいまのところ使うのはせいぜい懐中電灯ぐらいだろう(それすら必要なし)。

無意味な買占めは被災者を更に困難へと追い込む。言いかたはまずかったかもしれないが、石原都知事の「我欲」もむべなるかな。
聞こえよがしに、子供たちに言い聞かせる。「自分さえよければ、他人はどうでもよいというアホな親が大阪には多いので、大阪の子供はいつまでもたっても賢くならない」と。
案の定、再び内戦勃発。

夜半、野暮用(明日の牛乳)で近隣のスーパーへ。乾電池はすでに無く、電子レンジや熱湯を使っての「玄関開けたら2分でご飯!」パックもない。ところが、直火さえあれば炊くことが出来る無洗米の米袋(5kg・10kg)はいつも通りに山積みのまま。
デマに流されるアホぶりに、あいた口が塞がらない。

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衣文

2011-3-17

仏像の衣の皺(ひだ)を「衣文」という。
衣文の表現に「取り決め」はないので、時代時代の流行が顕著にあらわれる。薄いゆったりとした衣か、あるいは糊の効いた硬そうな衣かどうかも衣文で分かる。
時折、「木(造)ですか、これ?」と尋ねる人もあるほど、木を刻んで形作られたとは思えないほど薄く緩やかな曲線をえがく。

博物館などで「仏像コスプレ」体験会などもあるが、着衣の仕方は理解できるものの、到底ホンモノの形には覚束ない。以前、永平寺で修行する若い僧侶を見かけたが、たなびく衣がこれに近く、翻りというのは「動き」の表現だと納得した次第。

久しぶりによい仏像を見た。

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極楽も格差

2011-3-18

当麻曼荼羅。蓮池を前に極楽浄土の世界が広がる。
原本(奈良時代)は早くに傷み、鎌倉(建保)、室町(文亀)、江戸(貞享)に転写本。
下段には銘記を挟んで上・中・下×上・中・下の「九品往生」。

僧を殺めたり、仏具を壊したり、親殺しや殺生などの大悪人が臨終時に改心し称名念仏を唱えると「下品下生」。画面は生前の悪行の数々のみが描かれる。後は地獄しかない。
それに対して「上品上生」でのお迎えの数が多いこと。化仏と天女が空を舞い観音・勢至を従えた阿弥陀自らが迎えに来る。阿弥陀の周囲には多数の聖衆もお供に。

「(仏教発祥である)インドではカースト制度がありましたので・・・」と物知り顔で説明する人もいたが、カースト制度はヒンドゥー教。はぁ?と口を挟みながらも、現在の浄土系教団は「悪人正機」「衆生一切皆平等」の思い。
むぅ。「極楽へ行けるんなら、別に「下品下生」でも・・・」と思う者もいるかも知れない。
私が思うことではないが、困った・・・。

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親方のいっぷく仕事

2011-3-19

最初、問われている意味がよく分からなかった。「大仏師が造る大仏はどの位の大きさですか?」
再び聞き直すと「“大仏”を造る技量があるので“大仏師”」と。なるほど・・・。

「親方、棟梁、社長です、大仏師は。」と説明したが、「ここに『小仏師(こぼとけし)』と書いてある!」と相手も引き下がらない。示された本は高村光雲『幕末維新懐古談』(岩波文庫)。
説明するのも邪魔くさくなって「それは間違い。」と一蹴。

この類の誤解は美術研究者でも時折存在。
川越・喜多院『職人尽絵』には仁王像を製作する「仏師」が描かれている。画面右側には頭巾を被り緋色の衣に袈裟を着けた(剃髪っぽい)人物が製作途上の仁王像を指差している。仁王像のまわりには被り物を違えた「仏師」3名。大方の解説は僧衣の主を施主である僧侶が指示(クレーム?)を付けているとしている。でもこの人が「大仏師」。

親方が担当するのは、「荒彫り」までのレベル。仕上げは若い仏師たち。じゃ、親方はヒマかといえばそうでない。全体構想や材料調達、営業活動など諸々。

昔、土木現場で請負業者(中小)の社長が登場。現場の作業員に「こうするんや!」と、見本よろしくスコップ片手に実践。でも、ものの5分も続かない。 遠くから古参の作業員が「あれを“親方のいっぷく仕事”というんや。ひとりでする分は、ほれぼれするほどいい仕事なんやけど・・・」とつぶやく。

「大仏師」とはそんなものかも知れない。

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石の女帝

2011-3-20

玄関を入ると、石人像がお出迎え。

聖徳太子が大工の神様と崇めるのなら、斉明天皇(皇極帝 女帝)はさしずめ、石工の神様。「石の女帝」である。

狂心渠(たぶれごころのみぞ)。
日本書紀によれば、水工に命じて香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とする。当時の人はこれを非難し、この「狂心の渠」に費やされる人夫は三万余、垣を造る工事に七万余が費やされると。

酒船石やその下の石造物(ここも庭園かも)も斉明天皇ならでは。
石神遺跡には「石人像」「須弥山石」。これは主に斉明天皇の時に盂蘭盆会での饗宴の場に使用。
斉明天皇の御陵は、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた牽牛子塚古墳。
最後の最後まで石にこだわる女帝である。

午後から夕刻まで会議。

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やいま

2011-3-21

東洋史のM先生らと沖縄調査(第2次)。
JTAにて10:20関空から石垣、石垣港から安栄観光の高速船にて波照間へ。波高し。16:10波照間港着。早速フィールドワーク。

サトウキビ畑の中央に「コート盛」(火番盛)。航行船舶の監視台兼烽火台。
江戸幕府の支配下に置かれた琉球はキリスト教禁令もあって沖合の航行船舶の監視を強化、船舶発見の際には烽火リレーで蔵元(石垣島)へ通報する仕組み。17世紀後半に波照間では5か所に築造される。このほかにもホタ盛も見学・観察。気温26℃。

集落は島の中央部やや北寄りに偏在。
八重山(地元では「やいま」)や沖縄本島では、明和8年(1771)の「八重山地震」による大津波(明和の大津波)によって壊滅的被害を受ける。こちらでは今回の大地震と津波とを「明和の大津波」とダブらせて見る論調。島の南側には集落がなく、特に古文書等もないのもそのためである。

もちろん見学に合間に海も見学。穏やかな南の海ながらやや複雑。
夜半、ガラにもなく「南十字星」を見に宿舎屋上へ。大阪とは違う満天の星空を見上げながら、どれが「南十字星」なのか分からない、間抜けぶり。

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権現堂・桃林寺

2011-3-22

一転して強風、荒天。
朝食時に石垣行高速船(1日4便)の運航状況が告げられ、第1便以外は欠航の可能性が大きいとの由。急遽、午前中の調査を断念し、大しけのなか石垣へ戻る。上下左右に大揺れの船内。初めて船で「シートベルト」を着用する。

石垣港到着後、権現堂と桃林寺へ。
権現堂と桃林寺は、薩摩藩検地隊が尚寧王に進言して作らせた八重山初の寺社。横には桃林寺(現 臨済宗妙心寺派)があり、もと真言宗の神仏混淆形式。熊野権現を勧請。切妻造りの楽医門、土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿、棟上に火焔宝珠・龍頭をもつ神殿からなる。棟上の火焔宝珠・龍頭を置く建築は、中国(黄檗建築)の「大雄宝殿」と同一。
明和の大津波により壊滅後、1786年に再建。本殿の「麒麟図」は八重山蔵元画師の画稿にも登場。

桃林寺金剛力士像。
乾隆2年(元文2年・1737年)に文明氏久手堅仁屋昌忠と補佐役に上官氏川平仁屋正肖・松茂氏小濱仁屋當明が担当して製作したもの。像高170.1センチ、167.0センチ。八重山産材ドシヌ(おがたまの木)を使用。明和大津波で流失したが、崎枝海岸に漂着しているのが発見され、修復される。
両像とも裳裾の下部が台座に合わせて切断されており、本来の形ではない。昨年、九博での「妙心寺展」にも出品される。このほか、桃林寺には明治の十王図(画師は那覇の友寄某)も所蔵。

その後、「唐人墓」へ。
咸豊2年(1852)、中国・厦門で集められた400余名の苦力(クーリー)を乗せてカリフォルニアへ航行中のロバート・バウン号(米国船・苦力貿易船)内で、苦力虐待による暴動が発生、船長ら7人が撲殺される。
2月19日にバウン号は石垣島崎枝村沖合で座礁、380人の苦力が上陸。石垣の人々は崎枝村赤崎に収容所を建て(後に富崎に移設)彼らを保護するが、バウン号の報告を受けて、イギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に収容所を砲撃、武装兵士200人以上が上陸し、逃走した苦力を射殺・捕縛してしまう。4月4日にはアメリカ船1隻も来航、兵士100人以上が上陸・探索を行う。
琉球王朝と八重山蔵元は人道的に対応、島民も密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮、交渉し、1853年9月に琉球王朝が船2隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。この間、死亡、自殺、行方不明になった者は128名に上り、現地周辺で埋葬され、瓦製墓碑が建てられる(墓碑は八重山博物館に収蔵)。
現在の墓は1971年に石垣市、台湾政府、在琉華僑により建立された新しい墓碑で、出身地ごとに犠牲者の氏名も記される。

歴史を学ぶ大切さがここに存在する。

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日本最南端

2011-3-23

日本最南端の公立博物館 八重山博物館にて調査。横の空地はもと蔵元があった場所。

八重山蔵元絵師画稿。
18世紀から19世紀にかけての八重山の蔵元絵師には、大浜善繁、花城善定、伊是名広品、喜友名安信、宮良安宣などが活躍。画稿は喜友名安信とその甥で弟子でもある宮良安宣によるもの。

蔵元画師になるためには首里王府役人の在番奉行と同在番筆者、間切頭(町村担当者)による6名の行政官らが出題する科挙により選抜採用。成績優秀者は首里王府へ研修派遣も。

蔵元には、絵師2名が在勤。在番奉行や間切頭らによる管内巡見(「親廻り」)の際に随行する現在のカメラマン。また琉球王府への報告、特に異国船報告資料作成の際の図や御嶽(拝所)仏閣などにおける壁画も担当。「南海山」(桃林寺・権現堂)の「麒麟図」も。もちろん明和の大津波以後に再建された図を写したもの。
このほか、人頭税として女性に義務付けられた貢布(八重山上布)の図柄(デザイン)も蔵元画師の主要な仕事である。

調査後、竹富島へ渡る。
首里城・園比屋武御嶽の石門を創建した西糖が、その功績により八重山統治の初代頭職となり竹富島に構えた初代蔵元跡へ。
西塘はここで20年間ほど行政を掌ったが、地の利も悪く、1543年、石垣島大川(八重山博物館横)に移転。現在は石垣だけが残る。

その後、伝統的建造物群保存地区に指定された家並みを眺めつつ、日本最南端の寺院・民間博物館である喜宝院蒐集館へ。喜宝院は浄土真宗本願寺派の寺院。
竹富島の生活用具などが展示されているが、民俗資料であるため雑多な感じは否めない。

琉球王朝の島番所跡(竹富町役場跡)に立つ世持御嶽裏手に「小城盛」。離島から石垣へ渡る最後の中継地点でもある。船の方が早いとも思うが、現在も緊急用のヘリポートがあり、今日も波は高い・・・。

小さい島なので、西桟橋や新里村遺跡を見学。新里村遺跡はハナックンガー(花城井戸)を挟んで、東西に集落跡。玉縁の白磁椀片、新里村式土器などが出土。
石垣港に戻り石垣空港へ。夕刻、JTA620便にて那覇へ向う。

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浦添ようどれ

2011-3-24

曇。気温も石垣より10℃下がる。寒い。
M先生の希望で、今帰仁城。
こちらも今帰仁城から出土した貿易陶磁器を観察。高麗白磁八角鉢などもあって交易の広さを思うついでながら名護博物館に立ち寄るも、あいにく休館。沖縄の博物館はどうも本土とは違う感覚。

その後、浦添ようどれへ。「展示館」が設置され、中には西室(英祖王陵)の復元。
浦添ようどれは浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵。咸淳年間(1265~1274)に英祖王が築く。1620年に浦添出身の尚寧王が王陵を改修、尚寧王自身もここに埋葬。
墓室内部には3つの石厨子。ひとつは蓋が開けられ内部には人骨(模型)が多数。洗骨もあれば火葬骨も。家型の石厨子の棟上には宝珠。そこにも合掌する如来坐像が刻まれる。

アーチ状の墓口正面にある1号石厨子(15世紀前半)に刻まれた三尊像(阿弥陀?)と左右の神将像。向かって左側は合掌した手の上に宝棒を横たえる形で、韋駄天像と同一である。他の石厨子は僧形菩薩像が取り囲む。沖縄最古の仏像彫刻。解説によれば、中国泉州の石彫様式との共通性があるとされる。

英祖王の時代に、「補陀落僧」禅鑑が沖縄に初めて仏教を伝え、浦添グスク北側に極楽寺を建てたとされる。極楽寺は尚巴志の時に近傍へと移転、龍福寺と改め、芥隠承琥を開山として復興。
浦添グスクからは「癸酉年高麗瓦匠造」や「大天」「天」の刻印瓦(高麗系平瓦)も出土。

浦添グスク内に伊波普猷の墓。
傍らには顕彰碑も立ち東恩納寛惇による撰文。「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない」と刻まれ、「彼は識った為に愛し 愛した為に憂えた」「彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と結ばれている。

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那覇

2011-3-25

沖縄県立博物館にて資料調査。学芸室前を通ったが、プレートには見知った人の名前は既になし。

別室にて資料熟覧。既に「参考資料程度で、使用されるのは、やや(躊躇)・・・」と言われながらも拝見。なんでも専門分野の研究者から「贋作」との烙印が押されたらしい。

どんな資料が出てくるのか、却って楽しみにしていたが、ごく普通の作品。はぁ?
画面左隅に著名な絵師の印章・落款。でも作品自体は当該期の作品。どうも後で追銘したようである。印章・落款がなければ、同時代の資料として十分活用できるが、運悪く?絵師の名前を入れたばかりに「贋作」となる。
なんとなく絵師が基準となった前時代的判断の残滓とも思えないこともない。
仏教的主題が描かれており、作品製作時での認識理解という面では、絵師を無視しても資料として扱うことができる。「伝雪舟」作品を雪舟作品とみなすことは難しいが、そこに描かれた図像的特徴は同時代の特徴として捉えることが出来るのではないだろうかとも。

その後、常設展を見学し、M先生は首里城外郭や識名園、こちらは那覇市立壺屋焼物博物館へ。「壺屋やむちん通り」の店先には15~16世紀の中国製青磁碗の破片や高台片が値札を付けられて山積み。どこの遺跡から拾ってきたのだろうかと思う。

博物館では興味深い資料がたくさん。
明治に入り、紙摺りや銅板転写の瀬戸焼が流行すると、それまで手描きの伊万里焼も紙摺りや銅板転写を採用し、各地の焼物も追随。展示では砥部焼の紙摺りが壺屋焼を圧迫したようにあるが、壺屋焼自体が紙摺りや銅板転写しなかったために不振となったのであろう。

展示された八丈島からの「泡盛用壺」に驚く。八丈島歴史民俗資料館前に無造作に置かれていた「四耳壺」。あれは「壺屋焼」だったのかと合点。でもなぜ八丈島に・・・。展示パネルでは「昭和初期の泡盛ブーム」のみがことさら強調。でも昭和の大不況の折、泡盛の全国的な広がりはあまり望めそうもない。
幾つも展示されている現代の壺屋焼作品は平凡でなんとも面白くない。「日展」「人間国宝」に大きく頼り、伝統である骨壷を造らないからだと思うのだが、言いすぎであろうか。

時間もあるので、「八丈島の壺屋焼」を調べに近在の沖縄県立図書館へ。
小田静夫『壺屋焼が語る琉球外史 』(同成社)を見つけ、意外な解答に思わず瞠目。

夕刻、那覇空港。JTA084便にて関空へ。

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じわり

2011-3-27

雑用にて梅田。
帰途、「線路内人立ち入り」で遅延の車内(JR)で、別のアナウンス。
地震で車両保守部品調達が困難なため、4月2日から大阪環状線などで間引き運転との由。

普段から「延着運休事故故障」というフレーズで語られる通勤路線。今回は「間引き運転」路線から外れたが、運転状況が100%というのも怪しい。
ダイヤが乱れて最終特急「はるか」が遅れ、新幹線が待ち合わせをして遅れ、新横浜に遅延到着、接続の横浜線が待ち合わせして遅れ、町田で接続する小田急最終まで遅らせるという伝説の路線。

こういう事情だからやむを得ないが、新年度早々、また はぁ?という事情で遅れるのだろうと諦観。
こちらにも震災の影響がじわり。

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本山彦一

2011-3-28

関西大学博物館の「本山コレクション」(本山彦一蒐集考古資料)が登録有形文化財に指定。博物館建物(簡文館)も登録有形文化財(建造物)に指定済。

本山彦一は大阪毎日新聞社・元社長(左)。
大阪・浜寺の自宅にあった本山コレクションを整理分類し『本山考古室要録』(1935年)を刊行したのが、末永雅雄名誉教授(右)。その縁で本山コレクション一括が1963年に関西大学へ移管。
斯界では既に有名なコレクションであったため、本山氏の没後、海外の大学や天理参考館から購入の打診もあったという。何事も「ご縁」。
石器など一部の資料は、木村蒹葭堂や柏木貨一郎、神田孝平らの旧蔵資料でもある。

指定記念兼博物館学課程創設50周年を記念した展覧会が4月1日より開催。また5月14日(土)14:30から、こうしたコレクションの来歴と人間ドラマを交えて、徳田誠志氏(宮内庁書陵部主席研究官)による講演会も開催。
「プレッシャーかけんなよ!」と愚痴も聞こえそうだが、これも大学PRゆえご容赦のほどを。

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茶髪

2011-3-29

すっかり伸び放題になった髪を切りに行く。
正面はともかく後頭部は気付かないうち、薄いグレー色。いつぞや、フィールドワークでゼミ生(女子)と街を歩いている光景を、別のゼミ生が後から撮った写真を見せられて、「センセの不倫写真!」と、冷やかされたこともある。

一抹の疑惑もあってはならぬ?と、思い切って「白髪染め」。
久しぶりに仰向けになって洗髪してもらった後、いよいよ・・・。店員氏が、細い刷毛先を集めたような「カラーチャート」を見せながらも、「(染めたことが)目立たない“このあたりの色”にしておきましょう」とさりげなくアドバイス。真黒から2番目。別に金髪でもネズミ色でもいいのだが・・・。
染色やら再度の洗髪があって、2時間ほどが過ぎてようやく完成。
「どうですか?」と合わせ鏡で見る後頭部はすっかり限りなく黒に近い茶色。うん、これなら・・・。

ところが、店を出て、陽の光のもとでは本性?が露呈。どことなく茶色が濃いような・・・。
自宅に戻ると、揃って「茶髪!」との弁。やっぱり。

まもなく4月。心機一転、生まれて初めての「茶髪」である。
(その後、合研の職員氏と顔をあわせたが、何も仰らなかった。ホンマに茶色かな・・・)

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粘土職人

2011-3-30

彫刻家 佐藤忠良が老衰のため逝去。自らを「粘土職人」と呼び、「職人に勲章は要りませんから」と、“お上”からの叙勲などは一切謝絶。

軽佻浮薄な彫刻の新しい流れや自意識紛々たる抽象彫刻には、関心も向けず、もっぱら「人間の造形」表現に情熱を傾けた姿勢は、まさしく現代彫刻の「正統」と呼ぶにふさわしい。

近代に至り、日本の彫刻は仏像の儀軌から解放され、目指す方向は、西欧の「人間の造形」。ところが、西欧に追随するあまり、彫刻は受容者の意識を飛び越えて、作り手側の(身勝手な)主義・主張の一手段と堕す。
良し悪しはともかく、「職人」は受け手あっての存在と心得ているので、そんなバカな「作り手の主義・主張」を露骨に表わすことはない。ところが、「職人」による作品は一見、平凡で詰まらぬ作品のように見えながらも、堂々たる「自己主張」を垣間みせる。これこそプロの仕事。

プロが「職人」と言い、アマチュアもどきが「美術家」「アーティスト」と大書する昨今で、老衰とはいえ、ひとりの「職人」が鬼籍に入ったことは、悲痛の限り。

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「泣ける」うちは、まだ大丈夫

2011-3-30

ちょっとした連絡があり、もとゼミ生(既に社会人)へメール。
ところが、「今日、初めて大きな失敗をしてしまい、会社で泣いてしまいました。会社では泣かないと決めていたのですが、(涙を)止めようとしたのに止まりませんでした。 びええぇ~~!!」と連絡。
なんか、まずい時にメールしたみたい・・・。

よい先輩方から「大したことないよ」と励まされたそうだが、経験上、その通りかも知れない。本人はかなりショックのようではあるが。
「泣いて済むんやったら、何でも出来るわな!」と追い打ちをかけられると、かなり落ち込むが、まだなんとか対処可能な領域。泣こうが落ち込もうが、「はぁ~」と生返事されて、ほぼ全員が見て見ぬ振りをしつつ、その事後処理に忙殺されると、かなりヤバい状況。

かくいうこちらも一度ならず辞表を胸に入れたまま仕事をしたことがある。正当なことを述べたつもりだったのだが、あいにく「高度な政治的判断」が出来なかったもので。わが身が起こした問題(今でも「失敗」とは思っていない)とは言え、周囲は事の成り行きを気にしつつも、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに見て見ぬ振りをする。(もう、あの展示パネルは訂正したのでしょうか)

今回は「大したことないよ」と励まされているので、「イエローカード」ぐらいかと。
明日からは後輩も来る。この経験で、後輩に対しても「大したことないよ」と言える人になってほしいと思う。イエローカードにもかかわらず、「もう~っ!泣いたところでどうしようもないじゃないの!」と更なる追い打ちをかけるような人に、こちらは育てた?覚えはないはず。

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