日々雑記


内国勧業博覧会とアジア

2012-7-1

朝から東京へ。
宮内庁三の丸尚蔵館「内国勧業博覧会-明治美術の幕開け」を見る。既に3期展示で、彫刻は後藤貞行の馬のみ。それでも印藤真楯《古代応募兵図》など興味深い作品も展示。

乱暴な話ながら、明治になり、それまで陶磁器や織物など伝統的手工業生産しかなかった日本が、どうして急速に製鉄所や鉄道等の社会インフラを整備した(外貨を獲得した)のかは、この内国勧業博覧会と万国博覧会を通さずには語れない。
様々な美術作品が内国勧業博覧会と万国博覧会というフィルターを通して海外に輸出され(折しも欧州ではジャポニスム)、そこで得た外貨で近代技術を買ったのである。もちろん大砲も。
明治のごてごてとした美術工芸品も彼ら(欧米人)向けだと考えると納得がいく。

午後、東京国立近代美術館工芸館「越境する日本人-工芸家が夢みたアジア 1910s-1945」へ。
先ほどみた後藤の馬も新海竹太郎に引き継がれ、こうした騎馬像(北白川宮能久親王像)も誕生する。

美術を輸出し大砲を買った結果、日本はアジアの“第一等国”となる。そうして「外地」が出来た工芸家がどのような活動を行ったのかが今回の展示。いわば、以前開催された豊田市美術館での「近代の東アジアイメージ」展 の「工芸版」である。

外地の風景、日常生活はもちろん、朝鮮半島の陶磁器に触れ、また卞洛鉄道による唐三彩や楽浪古墳など、工芸家の創造性は大いにかきたてられた。モチーフばかりではなく、川喜田半泥子は朝鮮の土を持って帰り、富田儀作や小森忍は朝鮮、満州へと渡る。

最後は「王道楽土」の満州。
満州国宮殿を飾ったカーテンなどの草稿もさることながら、伊藤順三の南満州鉄道ポスター。どれも満州女性のモチーフを斬新なデザインで表している。「SOUTH MANCHURIA RAILWAY CO」と併記するように、明らかに欧米向けのポスターで外地から欧米への視線が感じられる。
意味不明な章(Ⅱ 1910-20年代の「新古典派」)もあったが、よく出来た企画であった。
工芸館の半券で本館常設展示が無料ということで、本館へ。ただ今日は無料観覧日との由。
(特別展は吉川霊華:有料)

萬鉄五郎《裸体美人》や中村彝《エロシェンコ氏の像》よりも原田直次郎《騎龍観音》(護国寺)に魅かれる。版画室の「差異と反復」ではなるほどと納得。

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文献調査

2012-7-2

宿泊がお茶の水だったので、まず、久々に湯島聖堂とニコライ堂をみる。正面玄関のキリストがよい雰囲気。 聖書を広げて「太初に言有り 言は神と共に有り」と。横にも「生神女 庇護」とマリア像も。
楽しんでばかりでなく“お仕事”。「都立中央図書館」へ向かう。

あらかじめ調べておいたリストをもとに東京コーナーやレファレンスで閉架資料を出してもらいながらコピー。閉架資料はモノクロ25円、開架資料はセルフで10円。

コピーを待っている間、休館日をみると2週間に1度。
大阪はなべて毎月曜日が休館。博物館でもそうだが、近頃休館日を2週間に1度、1ヶ月に1度というところも増えてきた。職員のローテションも難しかろうが、休館日でも職員は出て来ているので、休館日を減らしてもよさそうなものだが、これがなかなか・・・。

コピーの束を持ち(収穫)、帰途へと。
東京駅は大改造中。八重洲側はビル工事、丸の内側は東京ステーションホテルの建設。ホテルは今秋オープンとの由で、ほぼ外形が現れる。以前とは、かなり違った趣きで驚く。

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関係ありません!

2012-7-3

昼休み、4回生女子が突然来室して
「センセ、先週の授業(全学共通科目)、早く終わったでしょう!」とクレーム。
そうそう、あまり関心の少ないテーマで淡々と授業を終えたので、たまにはよいかと15分ほど残して切り上げたのである。「それで何か・・・」。

「これまで“就活”で全く出席することができなかったので、出てみたら(終了近くで入室したら)授業が終わっていたんです」。
はぁ、それで。
「『試験100%』とありますが、(筆記)問題は難しいですか?」
バカか、こいつ。

「きっちり出席している人とあなたのような人が同じ点数がとれること自体おかしい。問題はそうしたことも配慮しています。“就活”“就活”というが、みんな頑張って出席しています。毎週毎週あの時間に必ず“就活”が入っていたか!」と一喝。
「3回ほどはなかったですが・・・」

もう大人なんだから、すぐばれる嘘はつくな。それと何しに来たのか自分自身で理解しろ。
「就職も決まって、これだけを残しているのですが・・・」と小声で。
「関係ありません!」

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選挙

2012-7-4

ひと仕事を終えて、夕刻から学長選挙。
普段は目にしない「学長選挙規程」(配布資料)に目を通す。任期は4年で、最大8年。候補者のうち有効投票の過半数を得た者が当選、そうでない場合は上位数名で再び選挙を繰り返し、過半数を得るまで・・・。
気になるのは「同得票数」の場合。
関大では、「年長者」優先である。東大は「くじ引き」。1989年の東大総長選挙で実際に行われた。
世の中、雌雄を決しがたい時はたいてい「くじ引き」が多い。

2回の投開票があって次期学長が決定。ここをUPする頃には新聞記事になっているが、再任。
2回目の投票用紙には既に(絞られた)候補者氏名が印刷されており、吃驚したが、よく見るとA4用紙の3分の1の大きさ。初回候補者3名だから、全ての組み合わせが印刷されていたのであろう。

こういう時期に海外出張という先生もおり、馬耳東風の態。

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地獄の沙汰も金次第

2012-8-5

ライバル?の関西学院大学文学部案内。
日本史の西山先生が「熊野観心十界曼荼羅」を掲げての講義。この写真の下には「両婦地獄」と「血の池地獄」の解説も。
「地獄の沙汰も金次第」という諺があるが、地獄はそんな賄賂が通じる場であろうはずもなく・・・。

艸田齋『籠耳』(貞享4年・1687)に次の一文。
「くまのの比丘尼、地獄の躰相をゑにうつし、かけ物にしてゑときし女わらへをたらす(誘惑する)、かのうまず(不産)の地獄、両婦(ふため)ぐるひの地獄は、たやすくゑときせぬを、女子どもなお聞きたがりて所望すれば、百廿文の灯明銭をあげられよと、ゑときせんと言えば、われもわれもと数珠袋の底をたたき、銭を出しあわせてきけば、また血の池地獄、針の地獄などと云う事を言い聞かせ、女の気にかかるやうにゑときして、ひたと銭をとる、これより地獄の沙汰も銭とはいふ也」

決してネガティブキャンペーンではなく、詳しい講義を知りたければ袋の底を叩いてでも銭(学費)を払って関学へ来なさいとの意図も毛頭ないはずだが、掲げられた「熊野観心十界曼荼羅」からつい深読み。

どこの大学案内でも“ビジュアル”講義に苦労するものと共感。
ちなみに、うちは閻魔像の首を“抜く”。

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近代の都市遺産

2012-7-7

午前中、大阪駅前第2ビル「コンソーシアム大阪」で講義。

前回、「大阪は文化不毛の地」とやって授業が荒れた?ので、今回は主に近代絵画に焦点をあててソフトな講義内容。
「矢野橋村は大正13年(1924)に天王寺区悲田院町に大阪美術学校を開きました。東京に遅れること四半世紀。橋村は『大阪と言ふ処は美術家を殺しこそすれ育てる処ではない』(「大阪美術学校校友会月報」(昭和2年)と言いましたが、それでもこの大阪が美術不毛の地になることだけは何とか避けたいという思いで、美術学校を建てたのです。この愛憎混じった大阪への思いは、「大阪嫌い」の鍋井克之と同じものです。」

滞りなく終了し大阪くらしの今昔館「東洋+西洋=伊東忠太―よみがえった西本願寺「伝道院」―」展へ。フィールドノートに感激。それにしても建築スケッチはもとより絵が巧い。妖怪も多数収録。

阪和線、昨夜の大雨で“線路陥没”、全線不通。振替輸送で大迂回し、久しぶりに“田舎”のバスに乗って帰宅。

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吹田の湯

2012-7-8

9:30~15:30まで大学院入試。
試問も担当するが基本的には本部待機。待機中、西園寺公衡(1264~1315)『公衡公記』を読む。

正応2年(1289)4月5日、公衡は吹田へ「湯治」に向かう。5日は鳥羽(鳥羽伏見)宿泊し、翌日船で吹田入り。9日より16日まで上洛せよと言われても「於吹田浴温泉湯」。
吹田には西園寺家領吹田西荘があり、別荘「吹田殿」(内本町3丁目)があった。もちろん温泉が湧くわけはないので、有馬湯の湯水を吹田に運ばせて楽しんだ由。公経も楽しんだと『明月記』寛喜3年(1230)8月30日条にも。

午後から晴れ渡り、ひと風呂浴びたい気分。入試のほうも滞りなく終了。

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facebook

2012-7-9

梅雨のなかやすみ、朝からピーカン。終日会議。

数週間前に植えられた稲もすっかりこの通り成長。風がそよぐといっせいに靡き、風の通り道がわかる・・・。

最近は、学内を徘徊する時間もすっかり減って、“坂の上”(法・文学部周辺)で「紫陽花」を見かけないと思っていたが、大学のfacebookでエスカレーター横に咲いていることを発見。今日でも見に行こうと思ったが、会議が終わるとぐったりし、早々に断念。

例の計画停電が実施されると、ITセンターは早々に止まり、大学HPやインフォメーションシステムによる情報発信ができないため、関大facebookで休講等の告知をするようである。
今のところ、計画停電はなさそうな雰囲気だが、それにしても「期間限定」とか色々と身勝手な発言が多い。関大も福井県と連携しているのだが、そのあたりは鈍感。相変わらず「お笑い」である。

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前科者

2012-7-10

「また、干されましたね(笑)。(製作時期が明らかでないと)最近は、(シンポジウムも)なかなか 苦しそうですなぁ・・・。」と悪友2号から。
こちらは “被選挙権者”なので、ノーコメント。

「製作時期は寛文年間」と言い放ち会場を凍てつかせた前科があるのだが、「寛文」とすることで見えることも浮かび上がる・・・。

寛文5年(1665)に大坂城天守閣北の鯱に落雷し、天守閣は焼失。以後昭和まで復興はなく、屏風が描かれた時期には天守なし。
また寛文4年には秀吉・秀頼再建の方広寺大仏が再建。寛文8年には町人の帯刀が禁止、寛文9年には御土居に代わって「寛文新堤」が構築・・・。正保3年(1646)には『甫庵太閤記』が京都・林甚右衛門によって刊行。

学問的ではないが、「謎はいつまでも謎であるほうがロマンがあっていいじゃないですか。」と強がりの返信。

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もうちょっと

2012-7-11

会議ディ。
本日、新執行部の発表があり、事務職員氏には申し訳ないが、あと少しで御役御免。
安堵のためか、体調不良者も出る有様。

1年間のピンチヒッターながら、授業を行いつつ、毎週毎週会議や行事が入るタイトなスケジュール(10月以降、なかったのは2週間だけ)も、もうすぐ終わり。4000人の学生(大学生・院生)と110名の専任教員とその数倍はいるであろう非常勤講師を擁する文学部。最近は何が起こっても不思議とも思わなくなりつつある・・・。
とある事務職員氏曰く「執行部に入ると、学内や学部内がよく見えてくる・・・」と言われたが、けだし名言。

終盤も近いのだから、ゆめゆめ問題が起こらぬようにと願うばかり。

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格差

2012-7-12

お昼休みに1年生分属説明会と履修変更等のガイダンス。
かなりざわつく。よほど怒鳴ろうと思ったが、皆、ソフトだから・・・。

毎年10数人は、専修分属できずに、2回生で全学共通科目や一般科目の授業のみ勤しむ・・・。専修に所属していないので専門科目も履修出来ない。
第1希望A専修、第2希望B専修と決めても、A、B専修とも定員オーバーになり、A専修のセレクションで落ちてしまえば、B専修以外を選ばざるを得ない ということをガイダンスしたのだが、後ろの方はあまり聞いていない様子。

我々の目には、既に格差が見えている。定員が少なくてもフツーの学生だけが集まればよいと思っている専修もある。もちろんその方が教育的効果は高い。

いやぁ、簡単な話、2年修了時まで、毎年下位1~2割の学生を退学させて、定員を合わせさえすれば、自ずと大学はよくなるのだが。

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上品八丈絹肆(四)拾三疋

2012-7-13

午後、共同通信社のH氏、来学。

造像銘記・修復銘記について話をしていると、「将来、誰かにみてもらおうと思って台座裏や胎内に書いたのですね」と。むぅ、タイムカプセルだったのかと妙に納得。
「いやいや、そうではなくて、よもや後世、人目に触れることはないだろうと思って書き込んでいるのではないでしょうか。むしろホンネが聞こえるようです。」と。

つい、「運慶もそうです。円成寺大日如来像の台座裏には“初サラリー”も書いてある。お互い経験がありますが、初給料の明細は嬉しくって大事に保管してあるでしょう。あれと同じです」と言いながら、H氏の取材ノートに「運慶」「初サラリー」と。
横目でみながら、そういう考えで確かよかったよな、とやや不安にも。これまでそのように講義をし、敢えて改めて確認してこなかったが・・・。

取材が終わって後、改めて確認。
運慶承 安元元年十一月廿四日始之/給料物上品八丈絹肆拾三疋也/巳上御身料也/奉渡安元弐季丙申十月十九日/大仏師康慶/実弟子運慶(花押)

2、3ヶ月で出来る仏像を11ヶ月もかけて(納期は未定だったのでしょう)渾身の作品を完成させて、いただいた「料物」が嬉しくって嬉しくって仕方なかったので、つい2行ほど文章を挿入したか。
像内銘記が後世の人にみられると思っていては、うかうか「落書」もできないはず・・・。

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見学会

2012-7-15

猛暑。午後より1年生向けの奈良国立博物館の見学会。集合時間が近づいても誰も来ず、「久々に“自然休講”」と思ったが、大和郡山からの学生1名が参集。
こういう点でも「格差」が生じる・・・。
「お母さんも参加したいと言っていましたが、これなら、連れてくればよかった」とも。

博物館関係のレポートがあるらしく、仏像館ではケースの上を見上げては、「無紫外線の蛍光灯がひとつ、それで外側からピン・スポットを当てて・・・」とか「この壁面は可動式になっている」などなど。新館の絵画展示は仏像館より明るかったのだが、なぜなんだろう?
あれこれ設備面を説明しながら、大徳寺五百羅漢像や薬仙寺甘露図など大陸画を鑑賞。
列品解説中の横を通って展示場に入ったのだが、学生曰く「(列品解説)完全スルーでしたね」と。
退館後、お茶をして休憩後、東大寺ミュージアムへ。
不空羂索観音像や日光・月光菩薩像はもとより、最近話題の宝冠や法華堂天蓋もじっくり。蓮弁・蓮葉のやわらかな表現に驚く。「今しか、じっくりと見ることができないねん、これは」などと。

5時前に解散。まだまだ日差しは厳しい。

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亀の瀬

2012-7-16

午後、国交省の「亀の瀬地すべり見学会」に参加。

大阪府と奈良県の県境、大和川の川幅が一番狭くなっているところ。日本有数の地すべり地帯である。地すべりは大和川の河床も含んでおり、地すべりが起こると土砂ダムが形成され、奈良は大浸水、決壊すれば大阪が被害に。もちろんJR関西線や25号線も無事ではない。山を削り、排水施設を造り、コンクリート杭を打ち込み・・・と。

写真は昭和7年1月の地すべりによって崩壊した旧国鉄(関西鉄道)「亀の瀬トンネル」(明治25年・1892年完成)。そのため、対岸にトンネルを掘り、何度か大和川をまたぐ形で復旧する。
ところが、完全に崩壊したと思われた「亀の瀬トンネル」の一部が、残っていることが国交省の地すべり工事で確認され、60mほどは当時の完全な姿をとどめる。天井には汽車の煤痕も。目線の高さまで赤レンガをイギリス式に積み上げ、その後はアーチ状に積み上げていく手法。その後は、工事の排水トンネル内も見学。

別に「鉄ちゃん」でもなく、ましてや「廃墟部」でもないのに、どうして参加したのかといえば、この残りのよい60m部分を「文化財指定」にしようとする動きがあるため。会議でも他の委員の方は既に見学済みながら、私だけが未見。文化財担当者にもあれこれと質問。
明治の文化遺産も残さないといけないと思うものの、よもや自らが関係するとは思いも寄らなかった・・・。

排水トンネルの中は地下水も流れ気温15℃。表は猛暑。見学後、意を決して旧線路沿いに駅まで歩く。

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終盤

2012-7-18

午前中、打ち合わせ、午後からは併設校(一高・北陽・高等部)向け文学部説明会。ミニ講義も。

挨拶、学部紹介、ミニ講義の後、質疑応答。かなり質問が出る。もちろん講義の内容ではなく「社の心理学と文の心理学はどう違うのか。」「留学は?」などのQ&Aでのお馴染みの類。話をしながら何年生だろうかと思う。
以前は各校別々に行っていたような記憶もあるのだが、3校に増えたので一括して実施。この説明会が来ると、夏だなぁと思う。

梅雨も明け、今日から授業も最終回。「到達度の確認」もあって、その後は定期試験。こちらも明日から本部詰め等々の用務。
猛暑のなか、大学もいよいよ終盤に入る。

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美醜の一日

2012-7-19

午前中、修学支援スタッフルームで試験監督。点字タイプライターで答案を仕上げる学生。
試験前にスタッフとの雑談。「関大って、トイレ分かりにくいんですよね。(男・女の配置が)前後なら前、左右なら右って決めてもらえば分かるんですが、学舎によってまちまち。時には間違えそうになることも・・・」と。
熟考しながら黙々とタイプを打つ学生。傍の机には、点字にしないといけない大学配布物が幾つも。

午後、全学共通科目の最終授業。
普段見慣れぬ男子学生が、座席を求めて前3列目(後方は常に準指定席)に座るが、それでも講義中、堂々と隣の女子学生と私語を始める。当然「話するんやったら、帰れや。」と叱るし、こちらも気分が悪い。
不機嫌に講義をしつつ、あぁ、こやつらは、30年も経てば、ソロバン勘定しか頭になく教養のかけらもない大阪のオッサンと豹柄を身に纏った恥知らずの大阪のオバハンに成り下がるのだろうと憐憫。

修学支援学生スタッフが他大学に比べてヒト桁以上違うのもむべなるかな。
「そんなん、ウチらには関係ないし・・・」。
ボランティアとか復興支援とかが大学の話題になるが、足元はお寒い限り・・・。

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展示小技

2012-7-20

授業、会議、授業の後、住吉大社へ向かう。到着したのは日没近く。吉祥殿で展示のお手伝い。

既に屏風は展示され、後は菅楯彦《住吉踊》や額装の《住吉大社鳥瞰図》など。
パーテーションパネルに掛軸を吊るすと、軸端が床に届きそうな按配。「近くの100円ショップで「サランラップ」、買ってきてくれる?」と。軸の上部をラップの芯に巻きつけて、画面を中央に調整・・・。幸い、吉祥殿から測ったような長軸のラップがあり、お借りする。

次は額装。見た目からすれば、平置きよりも出来れば立てて展示したい。紙製の額立てがあるものの「根性、ないんですよねぇ、これは」と。額のほうが重いので、額を斜めに保持することは出来ない。
様々な展示条件のなか、「じゃ『根性』、入れましょう」と、額立ての下端を折り曲げて、ピン止め。

後はセンターのスタッフに任せる。
なんとなく展示の“小技”に期待しているような雰囲気もあるが、いつもうまくいくとは限らず、近くでに「100円ショップ」がないと四苦八苦することも。
ちょっと余裕のあるスペースを見ながら、掛軸1~2本か『摂津名所図会』でも借りて当該部分を展示すれば、よかったかと少し後悔。

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シンポジウム

2012-7-21

朝から住吉大社。展示の確認をした後、一同、神楽殿で正式参拝。午後からシンポジウム。

こちらは屏風をみながらあれこれ思う。屏風の描写がなかなか“素朴”なので、「絵画資料は建築(学)とは、直接結びつかない」のは確かだが、巷間の話題よりは確かである。

昨夕、慌てて作った反橋(太鼓橋)資料。秀頼や淀殿建造との由だが、絵画では模本ながらすでに狩野元信『酒伝童子絵巻』にみえる。じゃ石製橋脚かといえば、これは江戸時代に入ってから。歴史は時にはシビア。

展示室に立ちながら「あれが四天王寺?」という質問も。むぅ~、私見はあるものの、配布資料には「四天王寺」と明記されている。「愛染さん(勝鬘院)でしょうかね」と公式見解。
ともかく200名余の参加を得て夕刻に終了。撤収後、(引越屋さんが軸箱を段ボール箱に斜めに入れ込んで搬出。ぶちぎれそうになるも取り上げて車まで手持ち。なんでぶちぎれているのかわからないご様子。ど素人衆め。)関係者と直会。

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モノで考える人

2012-7-22

某所で仏像修復者の対談を聞く。
若いころに何度かお会いした方である。後方座席に座って下を向き身元がわからないように・・・。

「美術史の人は文字が好きですからね。美術史が文字で考える人ならこちらはモノで考える人です」と耳の痛いことも。「榑(くれ)」という長さ12尺、幅6寸、厚さ4寸の規格材(『延喜式』)からカンボジアでの修復まで話は及ぶ。
乾漆造の話題でも「阿修羅像は15kg、鑑真和上像でも16~17kgでしょう」と。
奇しくも「現場主義」の言葉も。

猛暑のなか、参加して大満足。

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サーカス

2012-7-24

授業最終日。
「サーカス」と聞けばすぐさま、明治に西洋から曲芸団がやって来て・・・となるが、学生にとっては、「曲芸」「散楽」となるほどに「サーカス」のイメージからは遠ざかるらしい。

ジャグリングや綱渡りは散楽では「弄玉」「蜘蛛舞」となる。四条河原遊楽図屏風にはワンコの輪くぐりも。「綱渡りなんぞは韓国の仏画(甘露幀)にも描かれています」って喋りながら、ふと思いつく。
曲芸の種目が洋の東西でよく似ている。 ひょっとして、「サーカス」は中国あたりで発祥し、その後、東西に分かれて伝播した・・・。ロマ(ジプシー)の人々と言えばサーカスを思うのも無理ない話のようにも。

さすがに「思いつき」で話をするのもなんなので、道化師(クラウン・ピエロ)も魅力的だがと。

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日本美術全集

2012-7-25

夏季休暇前にて午後から寸分の余地もないほど会議や打ち合わせが立てこむ。夕刻、終了すると、生協からのチラシが入っていた。
小学館創業90年記念企画『日本美術全集』全20巻。12月5日刊行開始。

コピーにあるように『原色日本の美術』(1966~1970年)から46年、学習研究社『日本美術全集』(1977~1980年)からは36年、講談社『日本美術全集』(1990~1994年)からも22年。だいたい10年おきに登場する日本美術全集。このところ少し遠ざかっていたから・・・。
前回は33巻+索引、33巻をぐぐっと圧縮しての18巻立て。テーマ巻として「信仰と美術」「東アジアのなかの日本美術」も。タイトルもよく似たものが多いが、第18巻「戦争と美術」や20巻「日本美術の現在・未来」(1996~現在)など新しい試みも。1996年というのはおそらく講談社本完結後、という意味か。

当面の“ウリ”は来年2月25日刊行の「若冲・応挙、みやこの奇想」。46年前は「南画と写生画」。
でも「全集初の動植綵絵全30幅、完全掲載」って、「若冲本」が色々と出回るなか、ちょっと弱い気もするが。

もちろんD社のように“当たれば幸い”ではないので、配本はバラバラ。完結するのは2015年2月の予定。重くて場所をふさぎ、完結すると、あっという間に値崩れするのが難点中の難点。

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答案用紙のその後

2012-7-27

終日、試験本部待機。
熱くなるのは学生だけでよいのに、毎日朝から猛暑・・・。
9:30よりほぼ90分おきに試験本部に行ったり来たり。特にどういうことはなく、試験開始前、終了後の立会い、補助要員である。昨日、「不正行為」があって試験実施上の注意に一項目が増えた・・・。

試験終了後、試験本部で答案用紙の枚数を事務職員氏が検算。受験者数と一致しないとエライことになる・・・。
昔、伝票のみ捲りながら電卓のキーを見ずに電卓を叩く姿に感動したが、答案用紙の検算もかなりすごい。特定の作法?はないらしく、色々とバリエーション。
でも、答案用紙自体がB4の大きさなので「札勘(お札勘定)」(縦・横)のようにはいかない。

回収した答案用紙を試験場で数えたのも事務職員、本部で検算するのも事務職員。
時に「んっ?」と数が合わないと、「そんな訳はない!もういっぺん(数えろ)!」と事務職員の自負が見え隠れ。再検算すると本部側のカウントミス。やっぱり?

その後、答案用紙は「急ぎ」と「一般」に分けられ、学部、学籍番号順に並び替えられ、表紙をつけて授業担当者の元へ渡される。「急ぎ」とは、非常勤講師などの授業担当者が別室で答案用紙綴りの受け取りを待っている(試験終了後は、大学へは来ないので・・・)。

5時限の試験が終了し、こちらもようやく答案の採点。

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見逃し三振

2012-7-28

岡山県立博物館 仏像展へ。メインは井原市 高山寺の諸像。

不動明王坐像は面部矧ぎ面の墨書銘に「善明、願主是明、千代若丸、金剛仏子心覚、民部卿、法眼定證、嘉吉弐年十月十九日修造之」とあり、(嘉吉弐年=1442)の作とされているが、面部写真から「修造之」が見えないとし、平安時代の作とされる。彫眼ながら両眼の部分がくりぬかれている写真も提示されるが、公式見解ではなく会場の配布資料で「製作は平安時代か」とするが、根拠や理由は示されない。なんか不完全燃焼。
不動明王像は八幡山禅法寺伝来とするが、これは善法律寺のことだろうか。不動明王像の作風(特に膝前)は室町時代だが、これを平安時代とするからにはやっぱり何らかの説明は必要かと。

話題(?)の地蔵菩薩像。
折しも列品解説。聞くともなしに聞くと(以下の銘文を書写するのに手いっぱい)、話題(期待)の部分はほとんどスルー。関西者としてはちょっと戸惑う。
【蓋板(上)墨書】
當年大坂四國中國ニて失たるもの悉皆成佛
十方法界悉皆成佛
地蔵菩薩 天下太平天長地久
聖徳太子時代とり仏師作也
宝永丁四亥十二月 日
當寺安全長久願主安全

【蓋板(下)墨書】
當年十月四日大志志ん大坂ニテ家國中九分くづれ一分のこる
大地志ん昼四つ時つなミ晩八つ時也
津なミニになかれたる橋三十五くづれ市々の入船出船百そうくづれ船山ニ上る
大坂ニテ人六万人志する其外は志れず
あはぢ二て船三十そう人壱万人志するきのくに(紀国)ニテ船五十そうつなミ地志ん二て人三万人志する其外中國四國二て三十万程志する
十月ヨリ十二月まで小地志んゆる事百度也
同十一月ふじの山屋くる事よるひる十五日が間江戸するが(駿河)にすなふり小石ふる事二十日が間なり あるいは砂五寸三寸五尺八尺壱丈二丈つもる事所二よりて大小ありこれミなふし山の屋け
石すなふり里家ミなふりうめる所大分大分ニ人志するふし山三里四方やけたるなり
其時二ふし山の下ニ小ふじという山夜の間ニ出来するこれすなふき付てつもりたる山なり
ふし山ニあなあくそれヨリすな石ふき上げて山となる
この銘記だけでも話題にすべきことが山ほどあるというのに、1901年指定の“平安時代”がそれほどまでに大事なのだろうか。地蔵菩薩像は地震で破損したらしくかなりの彫り直し。

ま、学校(大学)で学ぶ以外のことはわからないだろうし、学んだ範囲内に収めようとするのも無理はないと思うのだが、なんとなく見逃し三振ぽい・・・。
ちなみに大阪歴博では特別企画展「大阪を襲った地震と津波」が開催(~8・26)。もちろん、お地蔵さまは来阪されず。

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猛暑

2012-7-29

午後、京都で会議。
出町柳の駅をあがると、賀茂川では水遊びの親子連れの姿。日傘姿のお母さんと水遊びの子供・・・。夏休みが既に始まっているのかと。

会議のあった大学は既に(節電目標の)使用量を超えたらしく、クーラーのスイッチに「使用禁止」の貼紙が覆い被さる。迷わずON。だって、通りのパチンコ屋のドアが開いたら冷気が流れて来るんだもの・・・。
そもそも、節電対策で稼働する切符の券売機が減って行列ができるのに、「パチンコ&スロット全機種大開放 ! 」ではオカシイ。

会議終了後、205系統で京都駅。缶ビール飲みたさに「はるか」に乗車。新大阪あたりの橋脚にトラックが当て逃げしたらしく、かなりの遅れが発生。
ダイヤが乱れても特急は最優先ということが広まっているようで、新大阪ではかなりの乗車率に。

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流出

2012-7-30

先週末から大阪市立美術館で特別陳列「橋本コレクション」展が開催(~9・2)。
明清絵画から来舶画人、近・現代に及ぶ中国書画の一大コレクション。初日早々には、“同窓会”のような座談会も。

作品は高槻の自宅を離れ、渋谷区立松濤美術館に寄託。同館では、すでに1984年・86年・87年・89年~91年・94年・98年に展覧会が開催。約30年かかっての「地元大阪初の大規模公開」・・・。

まぁまぁ落ち着いて、と思っていたが、大阪市立美術館に寄託されていた「芝川照吉コレクション」が京都国立近代美術館に購入&寄贈される由。
芝川は大阪を代表するパトロン(近代建築の「芝川ビル」が有名)で、青木繁や岸田劉生、藤井達吉などの作品が数多く含まれる。こちらは何度か大阪市立美術館の常設展等で展示されていたが、既に松濤美術館(!)が2005年末に「幻想のコレクション 芝川照吉」展を開催。

「タコ焼きとお笑いが文化である」という土壌に、金銭感覚に鋭い市民(タダならええけど・・・)と文化への関心が欠如した市長が乗っかるとこうなる・・・。

銭にならん「文化」を切り捨てる事情は大阪市だけでなく府下の各市町村とて同じ。橋本コレクションもいずれどこかへ売却されるのかとも。

ええんとちゃいますか。どうせ大阪やし。

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