日々雑記


ラベル

2012-6-1

好天。気温も上がり、午後の教室では冷房も入る。春学期折り返し。

コーディネーターを務める授業。「最後の〆」に余談。
「(高名な作家で低い評価の)『売り絵』のスライドがありました。あれは、図録からスキャンしている。つまり展覧会に出た作品です。多くの人は作品のキャプションだけを見て、あるいは博物館・美術館に並ぶだけで「良い絵」と評価しますが、我々はラベルではなく作品それ自体を見ているのです」と。
講師の先生も
「私やハセセンセは展覧会に行って、真贋ギリギリの作品を見ながら、やっぱりダメか、とかいける(真作)じゃないの、と思いながら展覧会を楽しんでいるのです」。

確かにそれは言えるかもしれない。公立・私立を問わず、疑問符のつく作品が半分以上並んでいる展覧会すら存在する。「それはバツ(贋作)」と思う作品を食い入るように眺めている人がいる一方で、「はきだめに鶴」とは申し訳ないが、真作と思える作品には誰もいない・・・。
最初にキャプションを見ない、そういう見方が出来る若者がひとりでも多く増えるとよいのだが。

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蟻の熊野詣

2012-6-2

泉佐野市佐野公民館で講座。テーマは「近畿の神・仏」。1回目は熊野三山。

さすがに“近所”であるため現地に行かれた方も多く、講座修了後質問も多し。
「京都から熊野まで何日ぐらい(徒歩で)かかったのでしょうか?」とか「(あの細い)熊野古道を天皇もやはり徒歩で行かれたのでしょうか?」等々。
「2週間、いや10日ぐらい・・・」「輿でしょう、歩くということはとてもとても・・・」と。

『中右記』には藤原宗忠の熊野詣が記されているが、天仁2年(1109)10月17日に紀伊・宮原着が最初の記事。10月11日頃に京都を出発と推測され、本宮・(熊野川)・新宮・那智を一往復して京都に戻ったのが11月10日。往路15日(推測)、復路(9日)。
藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』では、建仁元年(1201)10月5日明け方に京都を出発し、16日には本宮に到着。19日に那智に着き、翌日には本宮へ戻り、26日には京都へ帰っている。
都合21日間。

「天皇も徒歩なのか」という質問の背後には、後白河院(熊野詣で34回の記録保持者)『梁塵秘抄』に馬じゃダメなんだ、歩かなきゃというような歌があり、貴賎を問わず徒歩が原則だが・・・と。

しかし宗忠も定家も京都から大阪までは船だし、定家も笠をかぶり蓑を着て輿に乗っていたけれど輿の中でずぶ濡れになったという記事もある。随行の定家が輿で、後鳥羽院が徒歩ではおかしい。

むしろ、驚くべきは出発時間の早いこと。『中右記』には「残月之前漸行路」「鶏鳴之後出宿」などが頻出。「夜半出宿所」「寅刻(A.M3:00~5:00)」も。朝早くから日没後もひたすら歩いている。
「蟻の熊野詣」とは、ひたすら歩いて(たとえ輿に乗っても)熊野を目指す様ではなかったのかとも。

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もうひとつの展示

2012-6-3

尼崎市総合文化センター美術ホール「建築家 村野藤吾と尼崎展」へ。

大庄村役場竣工75周年、尼崎市庁舎竣工50周年を記念しての展示。図面類多数。もちろん京都工芸繊維大学美術工芸資料館からの借用。そのほか模型や市長室の脇机や肘掛け椅子、飾り棚なども展示。什器もなかなかよいデザインと思っていると、会場の一角に、「近創」で村野藤吾デザインの椅子をお頒けいたしますとも。

階下では寄贈品展。見るからに「売り絵」ばかりで、寄贈者のセンスが露呈。「こんなん、いりまへん」と言えないところが辛いところ。「後味悪ぅ~」と思いつつエレベーターを待つ(村野展は5F、寄贈展は4F)も来ないので、階段を降りると壁面には白髪一雄の水彩画。
良いものと悪いものの区別がつかない・・・のではなく、そうせざるを得ないのか。
階段を上がったり、降りたりで白髪の水彩画(尼崎・大阪)を堪能した後、大庄村役場へ。
(写真は白髪一雄「天神橋」)

帰宅後、さっそく 「近創」を検索。色々とあるが、いずれもリユースながらも価格がない・・・。むぅ。

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村野のタイル

2012-6-3

大庄村役場(現大庄公民館)は「街角点描」で紹介する予定だが、壁面に吃驚。


宇部市渡辺翁記念会館(1937年)


大庄村役場(1938年)


関西大学 第一学舎 研究棟(1955年)


米子市公会堂(1958年)

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ラーメン博物館

2012-6-4

かつて話題にしたこともあったように思うが、学生街の飲食店経営は厳しい。主たる客は学生なので1年間の半分くらいは開店休業。しかも単価はほどほど。1200円のランチでは、教職員でも見向きはしない。

ところが、何をどう考えているのか、ここ数年の間に関大前通りや周辺にラーメン屋が次々と出店。普通の飲食店は数年で閉店になる(例えば、駅前の「スタ丼」)が、ラーメン専門店だけが増殖中。

関大前の老舗と化した「餃子の王将」の後「天下一品」、「来来亭」 が出来、「拉麺ノスゝメ 諭吉」「らーめん亀王」「らーめん武双家」「らあめん花月嵐」「つけ麺 今を粋ろ」「鶏組 きりん寺」「ラーメン東大」と今では10店舗がひしめく。
さしずめ「関大前ラーメン博物館」の態。
しかも「諭吉」の隣に「きりん寺」が開店、「武双家」の前に「らあめん花月嵐」があるなど、切磋琢磨といえば聞こえはよいが、一触即発の状況も。

ラーメン好きにはたまらない通りだが、今日も蒸し暑く、こちらとしては「ざるそば・・・」などと。

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「学校の仕事」

2012-6-5

本日、昇格記念日にて(最後の?)お休みながら、朝より学校インターンシップ面接。
12ブースに分かれ総勢250名ほどの学生を面接。
初めてのことで緊張していたが、ペアになったベテランのK先生がてきぱきと面接を進められる。

「子供と触れ合うことで・・・と思っているかも知らへんけど、運動会の大玉ころがしの玉や玉入れの籠を修理して子供の顔 見んと、終わってもかめへんな?」「先生の補助やゆうても、年配の先生の代わりにずっとパソコンで書類作って輪転機まわして終了・・・ということもあるけど。」などと。
若干ショックを受ける学生もいるが、まぁ、現実としてはこれらもまた「学校の仕事」である。
目の前で面接している教員も休日ながら、授業に支障が出ないようにこうして「学校の仕事」をしているのだが・・・。

小学校・中学校・高校はともかく幼稚園まで。もとより教員志望者が多いが、そうでない学生もかなりいる。動機としては、(自分が接した)小学校や中学校の先生に惹かれて・・・というのが多かったようだが、K先生ともども「そうやったかな?」と半ば疑問。

15時過ぎに終了。用務を済ませ帰宅はいつもの時間。

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極楽橋

2012-6-6

ノー会議ディ。
朝より思い切って書架等の整理。もうどこに何があるのやら、ないのやらわからない。半年放置すると、さすがにとんでもないことに。

書架を前後に分け、よくみる本は手前に。一応確認はするが、これが元凶。ついつい手にとって読んでしまう。
『義演准后日記』慶長5年(1600)5月12日条。大坂城極楽橋が京・豊国神社へ移築・・・。そうそう、某氏の論考にあるとおり。

いかんいかん整理しないとと思いつつ『舜旧記』に手が伸びる・・・。豊国神社神宮寺別当の神竜院梵舜の日記。慶長7年(1602)6月11日条で手が止まった。「今日ヨリ豊國極楽門、内府(家康)ヨリ竹生嶋へ依寄進、壊始、新神門、 大坂(秀頼)ヨリ被仰了」。
極楽橋は竹生島の唐門として残っているではないか。

部屋中大混乱するなか、あわてて調べるも、既に建築史のほうから発表済。周知のことなんだ・・・。
でも、なんで「竹生島ツアー」がなかったんやろか。不思議。(あったのかも知れないが。)

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朱と丹

2012-6-7

平等院鳳凰堂の修理が始まり、9月3日から当分の間、鳳凰堂は見学不可との由。

周知のことながら、中堂の四面扉や柱には朱、翼廊・尾廊には丹が使われている。残念ながらパソコン画面などでは「朱」と「丹」の色の違いは出てこない。
そのためか修復後の完成イメージ図も曖昧である。
鳳凰堂がクローズしても鳳翔館はオープン。

ふと、過日の講義で使った当麻曼荼羅(画像)を見る。柱は「丹色」だが一部の欄干などは「朱」を使っている作品もある。
朱と丹。素材の違いもさることながら、使われ方に意味の違いがあったようにも。

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失踪騒ぎ

2012-6-9

午前中、猪名川木喰会の方が大学訪問。豊臣期大阪図屏風・高松塚古墳壁画室・博物館を案内。
個別のパンフレットや小冊子もあって、あれこれと説明。豊臣期大阪図屏風の前は、ほぼ毎日を通るものの、じっくりと眺めるのは久しぶり・・・。

ちょうどその頃、階下でちょっとした騒ぎに。
「大学に着いたら携帯に電話して下さい」と木喰会へ事前連絡したのだが、携帯を自宅に置き忘れ。家人が携帯に出て、こちらに連絡を取ろうと、研究室や博物館、事務室へ電話。そんなことはつゆにも思わないこちらは解説が終わって個研に戻ると、メール、扉の付箋で「自宅に連絡せよ」。
まずは、事務室各位に「思い当たることがありますので・・・」とお詫び。事務の方からこちらの携帯にも電話があった(当たり前ながら家人が出た)。ちょっとした失踪状態。

午後からは佐野公民館で講座。午前中は曇天ながら午後からは晴れて蒸し暑い。

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平成の悪修理

2012-6-10

午前中、大学。午後から某所へ。

南北朝時代の年号が入った弘法大師像を拝見。しかしどうみても江戸時代か近代の作にしか見えない。角ばった御顔、もこもことした衣文・・・。
ところが、最近修理した状態がこれであるとの由。修理前の写真を見ると、痛んではいるが、顎は尖り、きれいな衣文やブロック状の体躯など、南北朝から室町時代の特徴がよく出ている。
修理者があまり勉強していないのだろう。「江戸の悪質な後補」を除去して、「平成の悪質な後補」に置き換えた、いやさらに悪化させたのである。残念至極。

再修理の必要性を感じるが、“まっさら”な像を見ては、誰もが言い出しにくい。「江戸の悪質な後補」と決めつけるより(実際、多いのだが、それは施主側の問題に多くは起因する)、まずは、よく勉強している よい修理者を選ぶのがなにより。

この御大師さん、夢に出てきそう・・・。

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ICタグ

2012-6-11

終日会議。
休憩中に「また、仏像が盗まれましたね」と話題。世の中病んでいるのはわかるのだが、なにも仏像を盗まなくても・・・。
防犯・自衛といっても現状では限度がある。とある人が「仏像に『ICタグ』でも埋め込んだら・・・」と。

紛失したスマートフォンが、行ったことのない場所で高速移動しているという話を聞いたことがある。(盗難された)仏像の現在位置だけがわかればよいわけで、小さなICタグを手の届かない頭部内や内刳り面にくっつけるとかできないだろうか。
全国にどれほどの仏像があるのかわからないが、原理としてはそう難しくないはずである。極端だが、書店やDVDショップのシステムを改良、小型化すればよいのである。どこかのシステム会社が開発してくれないだろうか。全国4、50万以上の仏像がある(と勝手に予測)。十分商売になるのではないかと、文系人間は思うのだが。

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スタート

2012-6-12

仏像(坐像)を仰向けにひっくり返したら像内から、あるいは台座の裏を覗くと、製作当時や修復時の銘記が出てくる・・・、というのは、ままある話。
平安時代から鎌倉時代、室町時代あたりまではある程度、どんな仏師が仏像を製作・修復したのかが分かる。たとえ分からなくとも、作品自体が重要なのである程度までは推測(憶測)も可能。
ところが、近世になるといささか問題。「年号・住所・肩書・名前まで(銘記に)あるのに、分からない、人物不詳とはなにごとか?」と調査の第一線(現場)では所有者(住職など)から叱責されることも。

これまで、そうした折には、とある書籍の「仏師解説」が用いられているが、採録数は少なく、石工、鋳物師も含まれている。なにより個々の典拠が示されていないため、銘記を確認しようとすると砂丘でイヤリングを探すような思いも。(実は、この「仏師解説」は某紀要に掲載された他者のそれをそのまま引用掲載(もちろんその旨は記されていない))。既に刊行から20年弱。予想以上に資料は増加の一途。

そこで、全国の調査報告書や古記録などを用いて近世仏師をデータベース化すれば、如上の問題も解消するだろうし、近世彫刻史の研究も進むものかとも思い、科研費申請へ。昨年は「対費用効果」で落ちたが、今年はめでたく採択。予定では今年度末頃には試行版が出来るはず・・・。
出来た暁には、調査の折に「ちょっと待って下さい、この仏師は・・・」と現場でI-Pad持って、(事績を)説明することも可能に。頑張らないと・・・。

そうした話(報告)を学内の、とある先生にすると、某先生曰く「辞書は売れる(儲かる)んですが・・・」と。いやいや、全ての仏像をこちらで調査したわけではなく、掲載文献を集めただけなので・・・。
「学恩」とは何ぞや。
「大学のサーバに置きますので、退職すれば(個人用サーバは喪失)そうなるかも知れません」と。

諸々の用務に取り紛れていたが、いよいよ発進。

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エスコート

2012-6-13

午前中、某所にて修復が終わった仏涅槃図を点検。

画面右上方から阿那律に先導されて「とうり天」から摩耶夫人が急遽、駆けつける。眼下には涅槃に入った釈迦。阿那律は釈迦の従兄弟で、説法中に居眠りをし釈迦に怒られた過去あり。そこで阿那律は不眠の誓いをたて、それがもとで失明する。しかし一切を見通す天眼を得、「天眼第一」と称された。

ところが、寝台の前で卒倒する阿難を介抱?する者も「阿泥樓駄(あぬるだ=阿那律)」である。ひとつの画面に同一人物が複数描かれている・・・。

世間では「異時同図法」とも称しているが、「涅槃」という緊迫した場面に悠長な時間の経緯が必要だろうかとも。応徳涅槃図や達磨寺涅槃図には阿那律のエスコートはなく、石山寺涅槃図には摩耶夫人すらいない・・・。

問題ないことを確認して急ぎ吹田へ向う。午後の会議に辛うじて滑り込みセーフ。その後はひたすら会議。そう、今日は“会議ディ”。

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紳士協定

2012-6-15

「脱法」と「違法」。確かに言葉は違うが、やっていることは同じ。悪びれて声高に叫ぶ分だけ余計に性質(たち)が悪い・・・。

どの口をもて「紳士協定」というのだろうか。ザルの目を塞ぐように抜け道なくガチガチに縛ってしまえば、諦めるのだろうか。いや、そうではない。きっと「もっと弾力的な運用を」と叫ぶことだろう。

教壇ではそうした抜け道を学生に教えているのだろうか。正直者がバカをみるような大学であってはならないと思うのだが。

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強訴

2012-6-16

佐野公民館講座最終回。室生・長谷あたり。

奈良・多武峰は今は紅葉の「談山神社」として有名だが、明治初年の「神仏分離」までは「妙楽寺」。廃仏毀釈の折、仏像などは放棄され、一部は麓などに散在するが、建物(堂舎)は取り潰して新たに建立するわけにもいかず・・・。
そこで建物は名称だけを替えてそのまま再利用。木造十三重塔は「神廟」、講堂は「神廟拝所」、常行三昧堂は「権殿」などと。堂内に描かれた羅漢像や天女の壁画に前に鎌足公神像が鎮座することに。しかも神像は廃仏毀釈で廃寺になった藤原寺から調達。
かくして神社の体裁だけは整えた・・・。
(写真はO氏撮影。深謝。)

「多武峯妙楽寺」は、藤原氏の祖鎌足公を祀り、平安時代に天台僧 増賀を迎えたことで、南都には珍しく天台宗の寺院。それを快く思わないのは、同じ藤原氏の氏寺である興福寺。
従って多武峯は頻繁に興福寺衆徒からの襲撃を受ける。「うちの末寺に何をするんじゃ!」と比叡山延暦寺僧も神輿を担いで都に強訴。そこで興福寺も神木を担いで強訴。多武峰も「御破裂」した鎌足像を担いで「藤氏長者」に強訴したとも。

まさに「仁義なき戦い」。

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フィールドワーク

2012-6-16

朝からEU日本学(大学院)フィールドワーク。もちろん各人の専攻はバラバラ。奈良博へ行って一日、どっぷり仏像三昧でもいいが、フィールドワークと各自の専門を組み合わせてレポートを出さないといけないので、フィールドワーク先も多彩な視点が必要。

で、四天王寺界隈。昨日の雨もあがって蒸し暑い一日。
まずは愛染院多宝塔、清水寺や音羽の滝ならぬ「玉手の滝」を見て四天王寺境内へ。なぜか宝物館は休館。調べたはずだが・・・。寺町という性格、上町台地、西方浄土などがキーワード。

昼食後、天王寺公園、慶沢園、茶臼山、一心寺へ。
ここでは内国勧業博覧会、近代の美術館、住友や三井財閥、現代の無縁社会などを解説。
気温も急上昇、通天閣、新世界へと向かう。もたもたして貧血でも起こされてはたいへん。通天閣に向いつつ、都市の「聖」と「俗」について解説。
「ほら、アムステルダムの旧教会のそばには「飾り窓」もあるでしょ」などと。

涼めるはずの通天閣も登閣「80分待ち」。をいをい。あっさりと諦めて恵美須町前で解散。
3コマ分の授業ながら、これ(拙い解説)でレポートが書けるのだろうか、と一抹の不安も。

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不可抗力

2012-6-19

お昼に学内放送を聞きながら仕事をしていると、突然、「12時6分に大阪府に暴風警報が発令されました。すみやかに帰宅してください」とのアナウンスがあり、放送は中断。その後大学側からも同様の放送があり、「今から休業」との旨。(左は12時25分の警報・注意報エリア by 気象庁)台風襲来。

今は半期15週(の授業)完全履行だから、こういう事態ではたちまち「補講」という事態に陥る。しかも補講処置は教員各自で調整しないといけない。
過日も非常勤の先生と雑談していて、学会のため休講しますと告げたら「なぜっ、休講するんですか!」と学生から叱られて?びっくりしたという。

幸か不幸か、物分かりのよい学生たちに囲まれてはいるが、今どきの学生気質を理解しかねる場面も最近は多い。
午後からの授業。ふと教室を覗いてみるかと思ったが学生が着席していそうな気もして、額面通りに休業。図書館も休業なので、早々に帰宅。

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受験生

2012-6-20

あまり目立たないけれど、日曜日、大学では「グリーンキャンパス」が開催された。

末娘を通じて、有り難く?「関大グッズ」が下賜される。
このほか、様々な学部案内等も配布されたが、志望分野が文学部でないため、苦心?の文学部案内も下賜品のなかに。(後に「暗記ペン」だけは返還)

このあと控えるのは、8月5・6日のオープンキャンパス。ミニ講義を担当するのだが、まだテーマも決まっていない。対象は何といっても高校生。
文学部案内や「何が学べるか(ナニマナ)」の冊子をみながら、何か受験生にうけるよいテーマはないものかと思案中。
いっそ、聞いてみるか・・・。

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夢日記

2012-6-21

授業準備で「明恵」が登場。
『夢記』は、19歳(建久2年・1191)の頃より入寂前年の59歳(寛喜3年・1231))に至るまでの明恵の「夢日記」。そういえば、多聞院英俊『多聞院日記』にも「夢」が多く登場、『春日験記絵』にも夢の場面があった、と思い浮かぶことあれこれ。

そのうち倉本一宏『平安貴族の夢分析』を見つけ、読むと平安貴族の夢がどっさりと登場し分析されている。宗教や吉凶に関わる内容が多く、その後の事情や対処を講じた点が興味深いが、中には「今暁夢想、清涼殿東廂仁関白(頼通)下官と共不烏帽之天懐抱臥間」(『小右記』長元2年9月24日条)なども。これを「出世願望」ととらえており、倉本氏も記されているが、藤原実資この時御歳73歳、治安元年(1021)に右大臣となったにも拘わらず、この出世欲は何だろうと思う。

夢と聞くと、ユングやフロイトがよく登場するが、中世・近世に広げて「夢記史料」が出来上がれば、色々と面白いかもしれない。結局、明恵の小ネタに、定番の「リス」。
終日、大雨なり。

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勾玉文化圏

2012-6-22

遠方より旧友来学。あれこれ日頃の愚痴をぶつけながらお昼を共に。

「ところで、『勾玉文化圏』ってどこまでよ?」と質問。
むぅ、と考え込む。新羅の古墳やアイヌ、琉球など思い出すも、台湾や中国に勾玉はあるのだろうか?確かに言われてみると不思議な(偏った)文化圏である。
石垣島(八重山博物館)でも見たことを思い出すと尚更。

「『(勾玉がもつ)意味』を考えると、東大寺の仏像(法華堂不空羂索観音像)の宝冠も不思議やと思わんか?」となおも。その質問は以前、酒の席で別の人から聞いたことがある・・・。
要件のある旧友と別れてから博物館へ。普通の勾玉と並べて「琉球勾玉」(沖縄市八重島)も展示。
ガラスケースに顔をくっつけながら、勾玉だけに曲がった文化圏というわけではなかろうにと。

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地元

2012-6-23

いずみの国歴史館「ほとけのかたち」展へ。
すでに桃田柳栄筆仏涅槃図は展示終了し、仏像や紺紙金泥経などを拝見。

桃田柳栄は和泉池上村の出身。寛文3年の製作だから柳栄17歳。えっ!と思われるかもしれないが、4、5歳で絵師に入門し、17歳といえば一人前の絵師である。実年齢に10歳ほど足すと現代の感覚に近いだろうか。

施福寺地蔵菩薩像は垂下した右手で衣の端をつかむ形。融念寺や高野山泰雲院を思わせるが、耳朶が外側に反り、不環で、左手も錫杖を持つような手勢であることから、なんとなく“神さん”っぽい。
相変わらず竹生島弁財天像が出ているが、移動の経緯は不詳。

タイトルの「ほとけのかたち」の書体が市役所前にある喫茶店看板の書体とそっくりなのは、さすがに地元ならでは。

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山王日吉

2012-6-24

お疲れ気味ながら某所へ。帰途、寄り道をして日吉大社へ。

上七社の檜皮はどれも傷みが激しい。傍らには修復費用が示され御寄進のお願い。檜皮も少なくなっている折、どこも大変である。

各社を参拝しながら神輿収蔵庫へ。桃山から江戸時代のもので、信長の焼き打ち後に再建されたもの。重量1.5~2トン。ガラス越しに見ながら「よくもこんなん担いで、比叡山を越えて京都まで出向いたなぁ」というのが実感。岸和田(だんじり)の「こなから坂」など、何でもない・・・。
もとより神仏分離で仏像類は雲散霧消したはず。下殿も今や「特別参拝」用ステージに。

大宮橋まで戻り、橋のたもとでひと休み。橋下から心地よい風が吹いてくる。こうみえても大宮橋は重要文化財。木造橋の構造をそのまま石橋に替えたもの。寛文8年(1668)製。しばらく、川の流れをぼんやりとながめる。

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寡黙

2012-6-26

今日から中之島図書館で「大阪の都市遺産と住友-中之島図書館と住友文庫をめぐって-」展が開催。
【詳細】(関大版)  【詳細】(中之島図書館版)

アホな市長が「あんなところに図書館を置く必要はない」と豪語したおかげ?で、評判はまずまずとの由。冗談じゃなく住友家あっての大阪市である。大阪市民一同、住友本邸に足を向けて寝てはいけない・・・。

住友家がいかに国の将来を考え、何を大阪で行ったか、今回の展示やシンポジウムから明らかになろう。資料を調査分析された朝治先生のお話をうかがうと、そのことが痛切に理解できるはず。

無茶苦茶にしたい人もおればそれを守ろうとする人もいる。無茶句者にしたい人は声高に叫び、守る人はいつも寡黙である。「大衆」は声高な人に靡き、寡黙な人は以前に増して地道な努力を続ける・・・。
お笑いとコナモンさえあれば、「文化」という言葉はもういらんでしょ、大阪に。

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計画停電

2012-6-27

会議ディ。大きな話題は7月2日からの計画停電。

計画停電実施の2時間前に発表される内容で、大学のエリアが入れば、以後休講との由。ところがややこしいのが、千里山キャンパスは2つのエリアにまたがっており、いずれかのエリアで計画停電が実施されれば、他方が通電していても、千里山キャンパス全体が休講との由。

「電気が来ないと、どうやって授業出来るんですか」と、のたまう先生がいるが、一年中、計画停電のネパールの大学なんぞはどうするんだと思う。フロアからもこちらと同じような意見が別角度から出る有様。

夜学の伝統をもつのだから、どうして6・7時限(18:00~)を活用しないのかが不思議である。

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脱稿

2012-6-28

原稿締切前日。辛うじてセーフ。

執筆に際してはあれこれと制約も付いて、意外と時間がかかった。
執筆要項に「『教養書』としての性格を帯びる刊行物ですので、全体になるべく平易な言葉で叙述し、高校1年生がわかる程度の文章でお願いします。『学術論文』としての形態はとりません」と。
いやいや、本の性格はかなりマニアックだが・・・。

夜、読み直そうとして打ち出した原稿を自宅に置き忘れ、今日、改めて大学に持ってきて眺めると、薄い鉛筆で「わからん」「?」など“朱筆”がびっしり。誰じゃ・・・。
とはいえ、思い当たる指摘もないわけではないので(「鐶」にルビなしでは指摘されても仕方ない)、かなり加筆修正したのち、ようやく提出。あとは編集部のご意向次第。

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大正白磁

2012-6-29

日差しがきつく暑い一日。
芝生で遊ぶ学生もおれば、木陰で涼む学生も。授業が終われば、日傘の華も咲く・・・。初夏の大学風景。

生協からの帰り、その木陰で某氏と会い雑談。焼物の話に及ぶ。
「あのな、『大正白磁』という言葉、知っとるやろ」。「はい・・・」。
「李朝白磁」の贋作を示す言葉。大正期によく出回ったらしい。

「なかなか、うまく出来てはいるが、如何せん“照り”が違う。『李朝』はぼんやりとした白だが、『大正』は純白や。なんでかわかるか」。
「たぶん、窯の温度かなにか・・・。」
「そや。李朝は薪が少ないので青磁から白磁に替えよった。けど、大正はそんなことは気にせんでよかったので、ガンガン温度をあげよる。それであのぐらいの差ができる」と近くにある白いゴミ箱を示しながら、「××××の白磁、知ってるやろ。あれ、『大正』や。」えっ!
「どや、ちょっとは、涼しなったか」。
はい、鳥肌が立つくらい。

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師の探し方

2012-6-30

午後から大学院進学相談会。
雨天のなか老若男女が集い、社会人入試や2年コース、3年コース等の質問。

「こういう質問をするのもどうかと思いますが、『書体』ってどこで学べますか?」と社会人の方。
「書体」? むぅ・・・。国文?、芸美? パソコン文字なら総合情報学部?

「書店に行かれて書体に関する本を見て下さい。それで著者が大学の先生ならば、そこの大学(院)で学ぶことができるでしょう。(おっちゃんらの時代はそうしたものですが・・・)」。

今では“変”なのかも知れないが、大学院を選ぶということは、自らが指導を受ける先生を選ぶのであって、大学を選ぶわけではない・・・。と言っても、自らのしたいことを押し通し、教員が変節せざるを得ない状況では、よい研究もできるわけもなし。ちなみに「書体」は神戸芸術工科大学。

なんか、いつも不思議な感覚に襲われる。

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過去ログ