日々雑記


パラレル・ワールド

2012-5-1

NHK米子支局からニュースのDVDを送付して頂いた。深夜になってこっそりと見る。見るとずいぶん違和感。勿論、神像ではなく、小生の姿。

お会いした人には分かってもらえないかもしれないが、小生の頭髪はアバウトな左から右への七三分け。一応、ほぼ毎日人前に姿をさらすので、醜悪な姿ながらも鏡を見るが、鏡面に写った姿も左から右への七三分け、ヒゲも剃った、よしオーケーとなって授業へ出陣?

ところが、対面する人にとっては左右反対に写っている。つまり右から左への七三分けである。このことは別段、“中年おぢさん”だから左・右が反対になっても(天地が逆でも)なんら構わないのだが、昼間に会う“女子大生”にとっては、かなり問題だと思う。つまりお出かけ前に鏡の前でOKと思えても、他人からみれば、それが左右反対に見えているはず。では、鏡の前の長時間は何のために?
当たり前のことながら、実像と虚像の違いを大きく認識。

夜中にTVを付けるものだから、家人が起き出して画面を眺めながらひと言。
「相変わらず、(TVの前では、表情が)ひきつっとる」。
ほっとけ。

top

方広寺の仁王像

2012-5-2

午後、北千里にて市民歴史サークルの講座(リレー講義)。大学の社会連携とY先生からの依頼。
前回は「豊臣期大坂図屏風」だったので、「京都大仏」について。秀吉つながり。

以前、方広寺の「仁王像の首」に驚いたことがあったので、これを機会に色々調べてみた。
『都名所図会』(安永9年・1780)には、楼門に1丈4尺(約4.2m)の金剛力士像が安置されていたとの記事。これが造られたのは、おそらく寛文4年再興時。ひとつ前の慶長15年秀頼第2次再興時とも考えられなくはないが、寛文2年の地震で大破したはず。
この像は寛政10年(1798)7月朔日の落雷火災で焼失。これは『花洛名勝図会』(元治元年・1864)にも記載。長澤蘆雪《方広寺大仏殿炎上図》でも激しく燃える大仏殿の前で楼門も炎上。
となると、製作時期は享和元年から天保10年(1801~45)の頃か。頭部のみ残っているのは製作途中であったのだろう。
・・・と行き詰った頃に、ブログでの古写真などをみると、仁王像は“連眉”で、肉付けも大まかであり、享保2年(1717)以降に製作された興福寺南大門の仁王像頭部や寛政11年(1799)製作の東大寺大仏殿増長天・持国天像頭部よりも時代が下り、方広寺仁王像頭部は19世紀前半と推測。
とはいえ、尾張の有志によって造られた大仏半身像に比べると、専門仏師が携わった頭部であるとみられ、そうすると、当時、方広寺を管轄していた妙法院の関与も考えられる・・・などと。

でも、やっぱりメインは「大仏」。

top

職人

2012-5-3

終日不安定な日。出勤前に十三・ナナゲイへ寄り、大学で諸々を済まして夕刻再び。
集まってみれば10数人。年配の方やそれっぽい業界(建築)関係者多し。

鵤寺宮大工 西岡常一。戦前・戦中・戦後の間、法隆寺各堂の修復に携わる。修復に鉄骨を入れるという斯界の学者に抗して、法隆寺宮大工を辞し(映画ではあいまいに表現されていたが)、その学者に推挙されて薬師寺白鳳伽藍の復興へ。

「法隆寺には鬼がいる」とまで言われた西岡だが、好々爺のようにみえた。もっとも晩年の姿ながら、指導を受けている若い世代はずいぶん緊張していることがありあり。
「見て盗む」とか「(上を)畏れる」といったことが現代(いま)ではほとんど通じない。

色々思いながらも退館すると、入口横に「槍鉋の削り節(屑)」。これが出来るまでは・・・。

top

はい、まだ嫌いです。

2012-5-4

休日ながら大学。合研(哲学合同研究室)に立ち寄ると書架に芸術新潮5月号。「大特集 まだ村上隆が、お嫌いですか?」と。

おやおや、現代作家の衰退期「定番」になってしまいましたね。
見ての通り、表紙は西住寺・宝誌和尚像のパロディ。見るともなしにめくるとドーハで回顧展、なかには「五百羅漢図」も。これも最近話題になった狩野一信「五百羅漢図」からインスピレーションかも。

世界に飛び出して世界で認められ、それを錦の御旗にしての日本凱旋。これは村上が意図したところ。ところが、それが息詰まると、今度は「日本回帰」。現代作家が衰退に向かう時に幾度も歩む道である(で、またコケる)。
衰退期であることは痛いほどよくわかるのだが、水墨で作品を描くとか、「根付」を作るとか、もう少し“踏み外した”ことは出来ないのかと思ってしまう。
宝誌和尚像にしても「森村泰昌」ならもっとうまくやるだろうに。

top

彦根

2012-5-5

寄り道をした後、彦根へ向かう。GW期間中に彦根城博物館で「彦根屏風」(国宝) の一般公開。

博物館の前まで来ると人だかり。ふと覗くと“生ひこにゃん”登場。いっそ博物館の能舞台で披露すれば、集客も増えるだろうと思うのだが。(博物館に)付いてこなかった母子へのお土産にパチリ。

さて、「彦根屏風」。
大昔に拝見した時には1扇づつが箱に納められ額装であったが、修復されて6曲1隻の屏風装に復元。フラッシュ・三脚以外の撮影はOKとのこと。ちょっと驚き。

何度見ても不思議感たっぷりである。肝心の「琴棋書画」は左4扇に集中しており、右2扇にはおなじみの「傾く(かぶく)」若衆と「芭蕉の精」。室外から、遊里、室内へ、3場面を連続した画面構成。それでいて自然な連続性を感じるのは金地から来る印象だけではないだろう。中世を思わせる画中画の水墨山水もまたいい。

4扇目の脇息にもたれる中年女性を「維摩」に見立てるのが定番だが、はたしてどうかなとも思う。藤井永観文庫《遊楽人物図屏風》にみる「洲浜台」を前に脇息にもたれる女性のほうがもっと「維摩」ぽい。

寛永期ながら「松浦屏風」はまだ華やいだ雰囲気があるが、彦根屏風はなんとなく退廃的享楽を感じさせる。初期風俗画の面白さを存分に堪能。もちろん他の展示も。
当たり前のことかもしれないが、城主のいる(いた)博物館はやっぱり別格。小商いせずに済む羨ましさもちらり。

top

深夜族

2012-5-8

授業再開。(昨日は会議のみ)
春学期は週の前半がゼミ中心。後半が講義中心。したがって比較的余裕のある前半に講義の準備。
毎度のことながら内容を少しずつ “さわる”ので、常に四苦八苦。傍目からみると「夜遅くまで・・・」といわれるが、実のところ、ドンくさいのである。

いつぞや、他の先生と話をする機会があって、「封筒に2週間先の用意をして・・・」とか「もう、(授業)直前ダッシュです」などと聞いて、不安になったり、安堵したり。
でも、準備をしながら気づくこともしばしば。「そうするとこれ(資料)を挟むとよく理解できる」などと手を加える・・・。
かくして再び“深夜族”。

top

かで

2012-5-9

朝、起きると悪寒がして、嘔吐、下痢、発熱・・・。しばらくしても一向に収まらず、悪夢再来の予感。
やむなく種々の会議を休む由(今日は会議ディ)の電話をし、その後近所の病院へ。

ひと通りの診察が済むなり、「“かで”引きやね。」と医師。
自宅あたりから南は「ザ行」が「ダ行」になる方言。アホでも引く夏風邪。終日安静にせいと。
「いつからや?長引いているようやけど・・・」。なんで分かる?と思いつつ「先月末から・・・」。
「はよ、こなあかんやないか。」といつものように怒られつつ、帰宅。

薬の効果もあって夕刻には症状も落ち着くが、体はまだだるい。
一日、病人の態。

top

学生生活をふつうに楽しめばいい

2012-5-10

だるさが残りつつも授業復帰。
授業終了後、教室向かいにある卒論ラボ改め「ライティングラボ」前で置かれた関大タイムスを取る。3月21日発行とやや古いが、最終面に石渡嶺司氏とのインタビュー記事。『最高学府はバカだらけ』とか『アホ大学のバカ学生』など、結構厳しい本を書く大学ジャーナリスト。インタビューは「就活」。

「企業から見れば関大生はおそらく、すごく頭がいいわけじゃないけど元気があるというイメージがあります」と。いきなり直球ですか。しかしその目は確かなようで「関大のキャリアセンターは全国でも10本の指に入ると思う。これを使わない手はない」。

1、2回生のうちにしておくべきことは?との問いかけにも「大学の勉強」「大学生活」という普通の学生生活をに楽しめばよいと。ただ、ちょっと揺らぎも見え隠れ。
面接で「大学で何の勉強をしましたか」という企業が増えたとし、その理由として自己PRや志望動機で同じことを言う大量の学生に企業もうんざりとしているとする。しかし「大学生活」ではサークル、アルバイト、旅行をあげているが、これこそ企業がうんざりする理由ではなかったのか。

あと企業研究や情報収集はネットやSNSではなく活字に頼れとも。
そうそう、最近まで様々な紙媒体の校正に追われていたところ・・・。

ともかく、奇をてらわずにフツーの学生生活を送れということである。

top

薄葉紙

2012-5-11

大学博物館で立ち話。
「最近、“綿枕”がすぐに破けてしまう、扱いが荒いんかな」と私。
「今、いい(上質な)薄葉紙が高騰で品薄なんです。」とのこと。
「過日も梱包に使ったけどプチプチ切れて“紐”が出来なかった」。

文学部で博物館資料を借りたのだが、返却する際に綿枕と薄葉紙があった。そこで薄葉紙をびぃーと裂いて紐を作ろうとしたのだが、出来なかったのである。
周りは「あっ!(借物の「薄葉紙」を)破った」と、目を見開いたが、薄葉紙とは包み紙だけでなく、紐や緩衝材にもなるものである。

本来の「薄葉紙」は和紙である。繊維の筋に沿って裂いてクルクル丸めると紐になる。ところが安物は化学的に作られた洋紙で、洋服やハンドバックなど包装用にしか出来ていない。繊維の筋もないのでプチプチ切れる。

「薄手の和紙、使ったらどうやろ」と。
全国のすべての博物館が和紙を使用すれば単価も安くなるし、伝統工芸の維持にも繋がると思うのだが。

top

あいたた観音

2012-5-12

兵庫県立歴史博物館「鶴林寺太子堂」展へ。
まずは久々に銅造聖観音像。独立ケースに展示。正面からは微妙に腰をくゆらせながら優しい笑みを浮かべる姿だが、左・右側からみるとわずかに背筋がいびつ。背骨があるとすれば整体に通ったほうが・・・などと。
解説板を見ると、「昔、盗賊がこの観音像を盗み、壊して金だけを溶かし取ろうとした時、観音が「あいたた、あいたた」と声をあげ、驚いた盗賊が改心して像を返したという」伝説が残る。実際に何度か盗難にあったらしいが、その時のダメージだろうか。
浅はかながら、木造漆箔の仏像を焼いて金箔だけを取ろうとした泥棒もいる(実話)。

太子堂の壁画赤外線写真。仏後壁画は、九品来迎図と仏涅槃図。周囲には様々な仏像や飛天。今年は太子堂900年(建立:天永3年(1112))。その他内外の宝物。

なお10月6日から11月25日まで鶴林寺新宝物館開館記念、太子堂特別参観も行われる。かつて作品借用のために訪れたが、久々に訪れてみようと。

top

地域史

2012-5-13

当たり前のことながら、どんな地域にあっても当該仏像の話ならなんとか出来るが、地域の歴史事情については事前に調べておかないと素人同然。もちろん両者は関係するが、地方有力者の行く末など、造像銘記に登場でもしない限り、その場では分からない。

とある地方貴族の名前が書かれた中世資料。資料を前にして話(説明)されるが、まったく理解できない。聞きながら頭のなかで、石棚のある横穴式石室とか緑泥片岩とか、当該資料とはまったく別の事例を想起する。だめじゃん、真剣にメモらないと。

若い頃、「国史(日本史)のヒトに馬鹿にされるような(美術史の)論文を書いていてはダメなんだ」と叱咤激励されたが、こうした状況ではみごとに露呈、痛感する次第。

top

ゲンゲ

2012-5-14

午前中、某所で小さな説明会。
事前に4、5名と聞いていたので、資料(パワーポイントの印刷版)を10部ほど作って持参したが、集まられたのは20名強。あわててコピーを取ってもらう。パソコンやプロジェクター、小さなスクリーンをもって会場に入ると、すべてスタンバイ。
なんか最初の話と違うが、ダブる分にはぜんぜん問題ない・・・。(いつぞや、ばっちりOKですと言われて直前に「パソコン、ウイルス感染しているような・・・」と言われたこともある。予備用に持参するのがなにより)
無事に終わって郊外に出るとピンクのジュータン(レンゲ畑)。

授業で「『レンゲの蕾』の形をした・・・」と、うかつに喋ろうものなら、半分ほどが眉を寄せる。「レンゲのつぼみ??」「いやいやレンゲ畑のレンゲではなく、蓮の花の・・・」と補足することにも。

周囲の田畑が耕作状態なのをみると休耕田なのだろうか。こうした風景もすっかり見なくなった。
説明をしている途中、暑くなって上着を脱ぐ。季節は変動ながらも着実に夏へと向かっている。

top

鉢が飛ぶ

2012-5-15

授業は『信貴山縁起』。
ご存じ、鉢が山崎の長者から蔵ごと信貴山へ持ってくるお話。後半は米俵が雁行のように長者邸に戻る。そのほか、剣の護法童子登場の「加持祈祷」、「あっ、姉さん!」と感動の再会でフィナーレを迎える「尼公」。いつ見ても楽しむこと、驚くこと限りなし。

法道仙人も鉢を飛ばして供物を受けていたので「空鉢上人」と呼ばれていた。法道の鉢は、官租を積んだ船にも要求。ここでは米俵だけを“ゲット”する。船師が法道に交渉し返却。米俵は再び雁行のように飛んで船に戻る。帰ってきた米俵を数えると1俵だけ足りなかったと。
鉢を飛ばして供物を受ける(要求する)者としては、越知山泰澄に影のように付いた小沙弥(臥行者)(『元亨釈書』)や比良山の僧(『本朝神仙伝』)、寂然(『続本朝往生伝』)などかなりいる。

法道仙人像や臥行者像など仏像も紹介したいのだが、話が「飛ぶ」のを恐れ、おとなしく絵巻の錯簡などを講義。

top

「おいしい話」

2012-5-17

午前中、雑誌社のライターから取材。
「るるぶ」やグルメ雑誌、歴史本など様々な雑誌の編集を手掛けているとの由。

逆に話を聞きながら、旅行に出かけては昼間は名所旧蹟を巡り、地元の「通人」にインタビュー、夜は“うまいもん”めぐりで、帰ってから執筆。取材費と収入のバランスが気になるものの、聞く限りではなんとなく「おいしそうな話」。

しかし、好天ばかりとも限らず写真素材もうまく集まらない、原稿の締切は厳守なのに取材元はゲラに容赦なくダメ出しをしてくる・・・、「胃が痛い話ばかりです」。
わかるわかる、その気持ち。
原稿がうまく書けたと思っても、ゲラチェックをする上司などが木っ端みじんに赤を入れ、結局、残ったのは自分の名前だけ・・・という話もよく聞く。うまい文章だと思っても、他人には全く通じない。
聞くとやるとは大違い。「なにとぞ、お体、大切に」といいつつ、取材終了。

部屋に戻って名刺に刷られた会社を検索。 求人情報には、「現在、正社員の募集はしておりません 」と。やっぱり「おいしい話」なのかもしれない。

top

山崎長者の倉

2012-5-18

続・『信貴山縁起』。
命蓮のもとに来た米倉は倉(の建物)だけを残し米俵は長者邸へ。

信貴山のすぐそばに高安山という山がある。その山麓(朝護孫子寺から北西1km)に古代礎石建物(倉庫)跡。

白村江の戦い(663年)で敗北した天智天皇が西日本各地に築いた防衛拠点としての古代山城(高安城)の遺構とみられたが、発掘調査によって礎石建物は奈良時代初期(730年頃)に建立したと判明。高安城は701年8月に廃城となるが、712年8月には元明天皇が高安城に行幸。(『続日本紀』)。また朝護孫子寺奥の院からは「焼米」も出土する。「焼米」をC14年代測定法にかけると、「今(2011年)から860±30年前のもの」との由。12世紀である。

「朝護孫子寺の米蔵は焼けたが、山中に別の朽ち果てた米倉があり、中には米がなかった。なぜかというと・・・」と口上が述べられ、広げられるのが『信貴山縁起』。
地元では有名な話ながら、歴史サークルでは『信貴山縁起』はこのように活用される。

top

PTA

2012-5-19

午後より大学院進学説明会が開催。就職率も上がっている折、盛り上がったこともなく・・・。待機時間にも事務職員氏が書類を持ってこられて打ち合わせ。

訳あって、学内各所、隅々まできれい。右手の植え込みも丁寧に刈られている。普段は、松ぼっくりもころがっている“野趣”あふれた学内だが、今日・明日は別格。
なにしろ明日は、株主総会 PTA総会。「御子息御令嬢」の下宿拝見かたがた、学内散策されるご父母(らしき)姿も。
遠隔地ゆえ来学できないご父母についても、来週や7~8月にかけて全国各地で地方教育懇談会が開催され、我々教員が出向いてご相談等を承る。ちなみに小生は「岐阜」「松江」に出席。

ともかく新緑に包まれ、ゴミひとつ落ちていない学内に妙な緊張感が漂う・・・。

top

留学

2012-5-20

午後より文学部懇談会。全体のあいさつがあり、担当教員による就職状況について。
「関大キャリアセンターは全国でも十指に入る」(石渡嶺司のコメント)を説明するため千里ホールに『夕刊フジ』1面が大写し。まぁ。保護者にとっては直截的だとは思うが、『夕刊フジ』ですか・・・。
その後、専修ごとに分かれて個別面談。こちらは未分属である1年生保護者との面談。まだ成績も出ていないので履修状況を見ながらあれこれ。

留学に関する質問がかなり多い。
某所では留学が義務付けられており、面談会場横に「オリックスローン」のブースも設けられていると聞く。例えばロンドン留学半年300万。安く上げようと思えばあげられるが治安などを考えると・・・。
他人事ではないが、子供の留学に家計費の大半を費やすには勇気(蓄え)が要る。
「(留学して)よかった!楽しかった!」で月額50万というのは、親としては対費用効果的にかなりの躊躇と決断が必要。「50万渡すからイギリス旅行に行っておいで。」とも言いたくなる。

そんなことはおくびにも出さずに「2年生でこれらの科目を習得しておけば留学可能」と公式説明。
終了後、芸美の面談会場に急いで向かうも既に消灯。

top

漫才

2012-5-21

文化果つる 大阪にふさわしい漫才。ネタは「警察署飾る名画9億円? 大阪府警東署」。
大阪府警東署に岡鹿之助「出船」(40号)、青木大乗「山野」(20号)らの作品が飾られており、総額は9億円になるというニュース。

ツッコミ(大阪府監査委員):「芸術性の高いものは、多くの府民に鑑賞機会を提供するなど有効活用を図るべきだ」
ボケ(大阪府警):「治安と関係のない予算はなく、以後の対応も含めて府にお任せするしかない」

府民や知事・市長にとっては名画であっても「売ればゼニになる」としか思っていない。たとえ名画を目の前に鑑賞してもきっと額縁に1万円札が貼り付けられているとしか見えていないはず。売れば、赤字財政の軽減に貢献すると思って直ちに売るべきだと思う議員もが多くいるはず。芸術よりゼニのほうが大切という「民意」。

しかし漫才なので、必ずオチがある。
岡鹿之助「出船」が7億2000万円、青木大乗「山野」は1億4000万円とするが、共に真作であっても実勢価格は共に2桁落ちぐらい。マスコミも話題になれば、確認も取らずに即配信。

「イトマン事件」を生み出した風土ならではのニュースに思える。

top

妄想 極めり

2012-5-22

岡鹿之助「出船」7億2000万円、青木大乗「山野」1億4000万円と“評価”したのは、20年前に署員とみられる人物が作成したワープロ書きの書類。
以下、完全な架空の妄想物語

地元でも名の知れた うるさ型の「プチ金持ち」。「ゼニこそ命!」と考えてやまない。もちろん寄付とか社会奉仕・社会貢献などは大嫌い。
ところが、資産ができると不思議なもので、この御仁、「名誉」が欲しくなった。そこで一計を案じる。

手元にある絵画を市役所に寄贈。この場合、美術館などはすぐに真贋の鑑定が行われるので敬遠され、美術にあまり親しくない部局や施設に寄贈の申し出。寄贈作品も横山大観や梅原龍三郎といった“大物”は避け、そこそこに名は知られているが寡作な画家の作品をチョイス。

そこで市役所は“評価額”を算定。とはいえ鑑定料など予算計上していないので、ほとんどは寄贈者の「言い値」(この時、市販の『美術家名鑑』が役に立つとも)。もちろん真贋についても。こうした判断評価であっても、寄贈を受けた市や施設にとっては特段、問題は起こらない。施設の長にしてみれば、応接室を飾る“りっぱ”な絵を寄贈していただいたと。

しばらくした後、「プチ金持ち」はおもむろに市役所に来て、「『紺綬褒章』をいただきたいのだが・・・」と。紺綬褒章とは、「公益のため私財を寄付し功績顕著なる者」に対して国から与えられる栄典。

はぁ~?と驚きつつ調べると、確かに市に対して“評価額”ン千万円(言い値)相当の絵画を寄贈している。当該課としては、特段拒否する事由も見当たらないので、(やむなく)申請書を作成。
その後「プチ金持ち」は、晴れて天皇(内閣総理大臣)から「紺綬褒章」という名誉をゲット・・・。

なんとなくそんな匂いも漂うのだが。

top

インデイーズ

2012-5-23

会議ディ。

ふとした雑談のなかで「美術検定」(旧アートナビゲーター検定)。
1級~4級まであり、1級 30/201(14.9%)、2級 1178/408(34.6%)、3級 1368/910(66.5%)、4級746/712(95.4%) (合格者/受験者 合格率)[2010年度](2011年度総受験者は3650人)

「英検」「漢検」など足元にも及ばないインディーズながら、1級合格者には特典。
美術館・アートイベントのギャラリーガイド等の募集情報と美術出版社発行の書籍が10%オフ。主催が美術出版社と読売新聞社配下の美連協(美術館連絡協議会 加盟館132館)なので。
もっとも、「美術検定」公式テキストや受験問題集は同社から販売されているので、受験料を合わせて考えると・・・。

そんなことを話しながらも、こちらがモノを見ている時には、解説ボランティアは「絶対、声、かけんなよ!」と思ったり。

top

配布プリント

2012-5-24

中教室(定員153名)での授業。受講生は80名。全体に後ろ側に偏って座る。出入口は後方1ヶ所。配布プリントを出入口に近い座席に置く。授業中、遅れてきた者が前でちょろちょろすると目ざわり。

ところがそこに座る学生もいる。プリントを置いた座席に座ると、遅れてきた者は内職する学生の影に隠れてプリントがあることに気づかない。(遅刻した)他の学生への配慮もなく、プリントがない!と遅れた学生は騒ぐ。後ろにある!と一喝することにも。座席最後尾には座るなよ、まったく。

授業が始まってしばらく後、突然、男子学生が立ち上がり教壇の前まで進んでくる・・・。「ゴルゴ13」なら腰に手を当てんとするシーン。もちろん講義も中断。
「小さい(文字)プリント、ないんですが。」普段は教壇まで聞こえるほど私語するのに、こういう時は、教壇前までやって来るのか。不意に授業を中断されたこともあって「後ろにある!」とやや激昂。

授業終了後、女子学生が「プリントが足らないようですが・・・」と。
80名分、コピーして持ってきているのに足らないとはどういうことか。不思議。来週に増刷して持ってくると返答。
いったいどういうことかは分からないが、退室前に確認すると、別の場所に残部5枚あり。
最後尾の学生が(座るために)プリントを移動させた・・・?

top

ジョサイア・コンドル

2012-5-25

授業やら会議やら。

合間に、飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』(ぺりかん社)を読む。
なかに、明治のお雇い建築家ジョサイア・コンドルが入門するくだりがある。コンドルは河鍋暁斎に師事し「暁英」という画号も。

「此の年(明治16年)、英国の人昆徳爾(コンデール)氏、翁の門に入りて画法を学ぶ。同氏は、もと画学専門をもて我国に聘せられ、工部省の雇となれるものなる」「按に、昆徳爾氏は英国の画工なり。故をもて我国に聘せらる。其の画道における、固より研究熟達して」とある。
飯島虚心(1841~1901)は同時代の人ながらコンドルを建築家とみていなかったのだろうか。
確かに、コンドルはサウスケンジントン美術学校で学んだが、そこでは建築図面法(The principles of architectural drawing)を学んでいる。ひょっとして暁斎に入門したい一心でコンドル自身が「われは英国の画工なり」と詐称したのかも知れないと思ったり。

『河鍋暁斎翁伝』では、暁斎がコンドルに狩野派の画法を教授したとするが、コンドルの絵画作品をみても、そうとは思えない節も。
嘘も方便。

top

鉄の暴風

2012-5-26

10:45 ANA1735便にて那覇へ。

沖縄では、沖縄戦のことをこう呼ぶ。戦禍でダメージを受けた文化財がいまなお数多く存在する。「鉄の暴風」さえなければ、どれほど多くの文化財が残っていたのかは、鎌倉芳太郎氏の古写真を見れば、一目瞭然。

戦後67年を経て、こうした“戦災文化財”はほとんどが当時のまま。下手すればただの古材にしかみえないが、加工痕をたどると、何かの神像・仏像の断片である。何とかならないのだろうかという相談を受けて、那覇市某所に。

鎌倉氏の古写真が残る文化財はなんとなく往時の姿を復元できそうだが、写真が無い資料はどうすべや?。断片を見ながら、形姿や製作時期について、あれこれと脳内フル回転。もちろん想定される製作地も日本をはじめ、中国・琉球と幅がある。

夕刻、知人と久闊を叙す。午後のフル回転も祟ったのか、良いクース(古酒)だったかのか、那覇でも酩酊。

top

修復

2012-5-27

那覇から車で1時間ほど走ったところの某寺。仏像修復についての調査と相談。作品は戦前に製作。戦前から伝わる仏像がほとんど皆無な土地がら、戦前といえども貴重な作品。

京都・某「仏壇屋」(聞いたことない)に見積ったところ、はぁ?と思う金額が提示され、実際のところどうなん?というもの。
見積書を見るまでもなく、なんとなく、金泥(液)の入った桶に仏像をちゃぽんと浸けて「綺麗になりました!」で終わりそうな気配。ただ現状は古色仕上げの像。住職もこれでは・・・と困惑顔。不必要な作業が多いことが高額の一因。
戦前の作品といえども、修復ではあまり付け加えない、現状維持に近いことが基本。作品を前にしながら、ここは現状でも当分大丈夫とか、このまま(金泥で)覆っちゃうと、後で大変なことに・・・などと。

これまで(下手な)修理をした故に“残念”な仏像になった作品を数多く見てきた。説明している間も参拝者が絶えない。「この方たちが目を剥くような修理だけは避けたい」と住職や関係者。
こちらもそのつもりで来たのだと思い、最低限のことを考えながら、あれこれとアドバイス。

top

戦災文化財

2012-5-28

某所にて梵鐘拝見。刻銘には15世紀中ばの中国元号。

形は和鐘ながらやや胴長。撞座の部分はちょうど撞座の大きさに穴があき、貫通している。反対側も然り。それ以外には特に損傷は受けていない。「再び鐘楼に・・・」という所有者の思いとは裏腹に、このままではよい響きも出ない・・・。

想像だが、寺の梵鐘に何の思いも寄せない兵士が梵鐘の撞座を的に見立てて砲撃を加えたのではないかと・・・。損傷の具合から見て、両方の撞座はともに外側から力が加わって貫通している。
兵士の“お遊び”か。絶句。
西原町の内間御殿(神殿・第二尚氏尚円王の旧邸)に掲げられた尚敬王直筆の扁額「致和」(尚敬26年・1738)も米軍に接収され、丸い穴があけられて便座にされている(県博でレプリカが展示)。想像もさもありなん。憤りつつもさすがに妙案はなし。首里城の「万国津梁鐘」のように模鋳するしかないかと。

那覇に戻りつつも空港へ向うにはやや少し時間がある。このまま帰阪すれば、「沖縄まで行って海も見ずに・・・」などと嘲笑されること必至。お仕事なんだが・・・。

少し車を走らせると、いかにもという風景に遭遇。
その後、勝連グスクに立寄る。四の郭では、昨日何かのイベントがあったようで、ステージなどが撤収中。傍らには「エイサーシーサー」の人形。一の郭で中城湾と金武湾を眺めつつ、ひと休み。曇天ながら風がここちよい。

那覇空港近くの食堂で沖縄そばとオリオンビールを食し、ANA1738便にて関空へ。

top

落雷

2012-5-29

終日、不安定な天気。関電の 「雷情報(落雷位置情報)」から。
(赤色は現在~10分前、橙色は10~20分前、黄色は20~30分前 千里山は「豊中」の「中」あたり)


9:20


12:20


14:20


15:40


18:20

4時前に雷雨のなか、やってきたゼミ生。「また、帰りに(雷)くるんかなぁ。」「もう、来ないよ」
「なんで、わかるんですか?」と不思議そうな顔。

top

思いつき

2012-5-31

簡文館への提案書
経済学部の佐藤雅代先生指導のもと「経済学特別演習」を履修する学生3名から、簡文館(博物館)への改善提案がありました。簡文館の魅力を最大限に引き出すことを目的として、「手書きのPOP」を作って来館者に親しみをもってもらってはどうかや、インターネットから情報を簡単に入手するためにQRコードを活用してはどうかなど、5項目の提案でした。
(関大博物館からのお知らせ)
佐藤先生(社会保障論)からの提案があったそうだが、さて?

「手書きのPOP」ですか。書店POPの発想の延長ですし、博物館に取り入れるとすれば「子供向き」でしょうね。また「QRコード」ですが、携帯電話サイトを別途立ちあげないといけないでしょうね。そこには何をアップしますか。詳細な解説?来館者(学生)の利用予測率は?

何ごとに関しても「提案」というものは、現状分析、対費用効果、予想される見通しがないと、単なる「クレマー」に過ぎない。「改善」というぐらいだから、現状で利用者にどのような不都合やよくない点があって、だから「手書きのPOP」や「QRコード」が必要であるというプロセスを明らかにしないといけない。授業中に「お遊び」でやる分にはどういうことはないが、実際押しかけるとなると・・・。

ところで、「学生3名」は他の博物館や類似施設を数多く見て(リサーチ)の提案なんでしょうね。
授業で経済学部に接するところ、鼻から博物館などには関心ないでしょ、正直なところ。
あるいは博物館実習生かも?文句言ってる暇があれば、もっと学ばないといけないことが多々あると思うのだが。
まずは自ら博物館に親しめ。

top

過去ログ