日々雑記


里ごころ

2013-5-1

水曜日(会議ディ)なので普段の授業はないものの、リレー講義(院/EU・日本学)の担当、しかも6時限(18:00~)。
海外を夢見る大学院生へ相変わらずの内容。

「欧米の美術館へ行って『JAPAN』というコーナーを見ても無視するように。変な『里ごころ』を起こして、入っていかないように」。
下手に生半可な思いつきで説明されても、自らの無知をさらすだけである。蒔絵、仏像など様々な事例をあげて、警告?を促す。
「これ(←)は『僧』ではありません。上半身裸ですから。また(狭義の)仏像でもありません。さて何でしょう?」と問うても、時、空しく過ぎるばかり・・・。

《豊臣期大坂図屏風》の写真を持ってこられた時も、神輿にぶら下がっている白い円盤を示して、「『鏡餅』です!オーストリアの日本人研究者がそう言っていました」。いくら彼の地に日本文化の研究者が少ないとはいえ、思いつきで喋られても困るばかり・・・。

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蔵経洞

2013-5-2

今日も授業。教養共通科目(一般教養)「敦煌莫高窟」。
20世紀初頭西アジアでの欧米勢力図やベゼクリクを示した後、スタイン(英)とぺリオ(仏)の話題。

1900年に、道士王円■(おうえんろく)が第16窟の甬道に未知の窟(蔵経洞)を発見、中には山積みとなった経典や絵画。発見の噂は西アジアにいた各国の探検隊にも広まり、噂はいち早くル・コック(独)に伝わるも、事の真偽を疑い躊躇する。
1907年にはスタインが初めて王のもとを訪ね、数千点の古写本や仏画を入手。翌年にはぺリオも。

フランス極東学院(ハノイ)の中国語教授であったぺリオは、中国語を流暢に操り漢籍を自由に読みこなせたため(13ヶ国語を操ったともされる)、3週間にわたって蔵経洞に籠もり、自ら約1万5千点に及ぶ文書に目を通し、文書をセレクト。年号のある史料や各種古代文字による写本など、重要文献のみ約5千点を選りすぐって購入する。

「“第2語学”はたいへんだが、ちゃっとやっておかないと、スタインのようなことに・・・」と。
その後、文書が11世紀以前のものであること、蔵経洞壁画などから莫高窟全体の話に。

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多田神社

2012-5-3

写真が急きょ必要になったので川西・多田神社界隈に。

源満仲・頼光の廟所があるため「多田院神廟」とされた。清和源氏発祥の地。
拝殿・本社のほかに本地堂、釈迦堂など同一境内地に神・仏が混在。「政所跡」はもと「別当所」、本社・拝殿を取り囲むように僧坊は立ち並ぶ・・・。
多田院別当は長年、大和西大寺の読師から選出。

廃仏毀釈の折には、南大門の仁王像が近傍の満願寺へ、釈迦堂跡には社務所がたち、本地堂は遥拝所に変貌。

行ってみないと判らないこともいっぱい。百聞は一見にしかずである。

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鍾馗

2013-5-5

子供の日。

過日の東博でも、浮世絵室には「鯉の滝登り」や「金太郎」の作品が展示。その中に「鍾馗像」も。

鍾馗は道教系の中国神。近世になりなぜか端午の節句での厄除け、魔除けとして扱われる。
それが日本に入り浮世絵に描かれたり、人形になったり。
ところが関西では、「瓦鍾馗」といって屋根の上に鎮座常駐。
我が家周辺の古い家にもいくつか乗っている。

今や、鯉のぼりと柏餅しか目につかないが、昔はもっとバラエティに富んでいた「端午の節句」。

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ボストン美術館展

2012-5-6

仕事がなかなか進まないことを理由に大阪市立美術館「ボストン美術館展」へ。日本最後の巡回地。

休日とあって混雑。入ってすぐに仏画。この手の常として入口近くは大混雑ながら、皆、仏画を見ずにキャプションや解説パネルを眺めている。おかげで、《法華堂根本曼荼羅図》も至近距離。
廃仏毀釈で海外流出とは定番の説だが、なぜか《春日宮曼荼羅図》も展示されている。
仏像は快慶《弥勒菩薩像》。納入経も展示され「過去双親先師権僧正離苦」と。
円慶《地蔵菩薩像》、康俊《僧形八幡神像》もさることながら、唐招提寺木彫群や香川・正花寺菩薩像を想起させる《菩薩立像》には驚き。じっくりと拝見。

《吉備大臣入唐絵巻》は4巻ほぼ全画面が開披。これもじっくり。絵巻ケースの上にある「あらすじ」はちょっと、省略気味。「あらすじ」を読みながら絵巻を見ても、一般の人には大意をつかみづらいかも知れない。《京名所扇面》(狩野松栄)には住吉社も描かれるが、太鼓橋の右(南側)には木橋も。
《邸内遊楽図》はサックラー美術館と対になることのみ指摘されているが、桧皮葺の屋根に宝珠を載せ、邸宅前には現代彫刻と見まがうばかりの石彫刻が描かれる。柄杓が置かれているので水盤だと思うが、場所(邸宅)が特定できる要素が多数。最後に蘇我蕭白を楽しんで帰宅。

図録コラム「大阪で買いまくったアメリカ人、世界に売りまくった日本人」は秀逸。山中(吉郎兵衛)のことである。

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耳ぐらいでは

2013-5-7

過日の東博で久住守景《許由巣父図屏風》をみた。

中国古代の伝説。
人格の廉潔さで世に名高い許由(きょゆう)は、堯帝から帝位を譲ろうと言われるが箕山(きざん)に隠れてしまう。さらに堯帝が高位をもって許由に報いようとすると、許由は潁水(えいすい)に赴いて「汚らわしいことを聞いてしまった」と自分の耳を洗った。

それを見ていた同じ高士の巣父(そうほ)は、牛に川の水を飲ませようとしていたが、(「川が汚れたやんけ、ボケ!」とはいわないが)汚れた川の水を牛に飲ませることはできないと、牛をひいて引き返したという話。

現実を顧みると、どっぶりと湯船に入って全身洗浄でもしたいぐらい。

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7260件

2013-5-8

講義で使った「平成22年度行政事業レビュー」(文化庁)内の数字。

事業概要に
「文化財保護法において、規定されている事務等や文化財に関する条約の締結による施策を実施する。古美術品の所有者からの輸出申請に対し、国宝、重要文化財、重要美術品等認定物件に該当しない旨の証明書を発行する。」
とあって、
古美術品を海外に輸出する場合は「輸出鑑査証明」を受けないといけない。
実施状況には、「輸出鑑査証明交付件数(2,396件)、証明文化財数(7,260件)」とある。

2396件が輸出許可された件数なのか、差し引いた数字が輸出許可を受けたのかは不分明だが、いずれにしても膨大な古美術品が水際で食い止められている。

しかし、都道府県・市町村指定物件を管理する「文化財保護条例」では、所蔵者の移動報告を義務づけるにせよ、おそらくどことも海外輸出を禁止、想定した条文はない。そうした物件は、上にみる「重要美術品等認定物件」の「等」に含まれるのだろうか。たぶん、これら指定物件の輸出を禁ずる法的な拘束力は存在しないように思う。
なんなれば、県外に売却(移動)し、県指定を外すことも可能であり、そうした事例(国内だが、大阪府指定物件が府外に出て移動先の県では未指定品)も実際にあった。

「クールジャパン」とか「里帰り展」などと浮かれている場合ではないのだ。

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山楽・山雪

2013-5-9

午前中、京都国立博物館「狩野山楽・山雪」展へ。

「狩野派の生き残り策」、「H.パッカードの“タダ”同然の山雪屏風」、 「多田鉱山の群青」は既にネタにした。
山楽はともかく、山雪は大和文華館「狩野山雪-仙境の誘い-」展(1986年)以来四半世紀ぶりの大規模展。新出作品や初めてみる作品も多い。
図録には図版こそないが、土居次義氏の調査ノートがあちこちに展示。大和文華館では記念講演されたのを記憶しているだけに、歳月を感じる。

新出資料のうち、アイルランド・チェスター・ビーティー・ライブラリィ蔵《長恨歌画巻》(山雪)には長蛇の列。1尺幅ほどの画面にみる細密描写に驚くばかり。
1926年にルイ・ゴンスから購入したもので、日本から流出した時期はそこからは遡るが、『吉備大臣入唐絵巻』と似た境遇を思う。
大正頃の日本美術(古美術)の主流は茶道具中心で、一個人でみる絵巻物は茶道具(掛幅)としては不向き。そこで、佐竹本三十六歌仙絵巻は切断されて掛幅となり(1919年)、内容が中国モチーフ(切断して「茶掛け」にしても売れない)の『吉備大臣入唐絵巻』はボストンへ(1932年)。
細密描写を極めた《長恨歌画巻》も山雪筆といえども、ルイ・ゴンスのもとに・・・と。

圧巻はやはり《雪汀水禽図屏風》。胡粉盛り上げに銀泥を塗った波は装飾的だが、今にも寄せてきそうな不思議な現実感をみせる。髑髏にもみえる奇石にとまるカモメの姿も。まさにイリュージョンの世界。
少し期待した「(熨斗家本)当麻寺縁起絵巻」(上巻第5段)は出品されず。奈良国立博物館「当麻寺展」とバッテイングしたのかと思っていると、どうやら山雪作とは断定しがたいとの由。奈良博では「中・下巻」が展示。

午後、講義を終えて大和文華館の図録をみると、鉛筆で印象や観察などをしたためた小さな文字がびっしり。しかし今回の印象とあまり変わり映えしない内容に愕然とする。

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拙速

2013-5-10

大阪都市遺産研究センター 高橋隆博先生のコラムを読む。

そこには、鎌倉芳太郎氏撮影の大正11年の首里城正殿の写真が掲載されており、よく見ると、正面の大龍柱は、現状よりも寸法も短く、また龍頭が左右とも正面を向いている。

大龍柱の寸法が短いのは、「明治12年より駐屯していた熊本鎮台分遣隊の憲兵隊長が彼の郷里に龍柱の移送を命じ、一個の龍の胴体が切断されたが、この憲兵隊長の急死のため、移送は行われず残り、その後両方の長さの均等を得るため完全な龍も切断した」(首里城復元期成会報7号)ためである。

ご存じの通り、首里城正殿の大龍柱は今は向かい合っている。
研究者の研究成果がありながらも、かつての姿とは違う方向へ復元したのは拙速以外の何物でもない。
「『キッ』と正面をにらんでいる。その顔こそ」が琉球の支えでもあると思うのだが。

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美術史学会@関西大学

2013-5-12

一昨日より関西大学で美術史学会全国大会が関西大学で開催中。
現在、訳あって非会員だが、参加費を払えば参加できるので朝から聞きに行く。

仏教美術関係の発表は以下の4つ。
金戒光明寺蔵地獄極楽図屏風 -その基礎的問題について-
南市町自治会蔵春日宮曼荼羅再考 -制作年代と制作背景-
東寺八幡三神像に関する彫刻史的考察
法輪寺の薬師如来像と伝虚空蔵菩薩像について
色々と思うこと、多し。

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仏教を歩く。

2013-5-13

朝日新聞出版から分冊百科『仏教を歩く』が2月より再刊行。

10年前に出たものだが、「仏教に関心を持つ層が近年若返る傾向にあること、東日本大震災の影響でわかりやすい仏教の入門書を求める要望がますます強まっている」ことから今回の再刊行の運びに。
昔つきあった彼女が突然現れたようでちょっと複雑・・・。(そういう譬えを言うから、またややこしくなる・・・)

すでに「選書」のほうは絶版。錚々たる方が執筆されており気後れは否めないが、添えられた手紙には「再執筆」とある。

一般の方むけなので、我が家の副総理兼財務、厚生、文部大臣(文科の「科」は苦手)に一度、ゲラを見てもらおうかとも。

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仏像出現

2013-5-14

3回生の演習(発表)。各自、関心あるテーマに基づくので、普段はおおむねこういったラインナップ。前回は寺山修司『身毒丸』。

「(留学経験もあるので)今日は西洋美術だろうか?」と思って教室に入りレジュメを見ると、吃驚、驚愕・・・・。「聖徳太子彫像」。
居ずまいを正して(をい!)、発表を聞く。

冒頭に正安4年(1302)の南無仏太子像。所蔵者名がなく、橿原市大久保(大窪寺)像か米国・セドウイックコレクション像かと考えたり(前者)。最後は「曲尺太子像」まで。
ごく真面目で真っ当な発表ながら、脳内にはしきりに「意外」の文字が反芻点灯。

質疑応答の後、つい「資料全部やるから、卒論で(聖徳太子彫像を)やりますか」などと。

久しぶりの“仏像出現”に動揺すること、おびただしい。

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平野湯

2013-5-15

能勢電鉄本社にてセミナー「摂津名所図会に見るいにしえの川西」。
こちらからこちらへ、そして能勢電に。「摂津名所図会」数珠繋ぎ。

本社のある平野駅前には市が建てたと思しき案内看板がある。そこには「摂津名所会図」とある。また『川西市史』には『多田温泉記』の図などをもとに「(平野湯が)このような図にえがく田舎の温泉湯の風景が実際に近いものであったろう。(『摂津名所図会』の図は間違い)」とも記している。
他にもあれこれ引用しながら、なんと「郷土愛」のないものかと。

終了後、あれこれ質問があり、その後に関係者らが演壇に。
色々と言われるが、その矛先はこちらではない。誤った様々な情報を発信したまま、放置・混乱させているほうが悪いのである。

あれこれおっしゃる前にできること(案内看板や『川西市史』の訂正)からやらないと、都合悪いことは無視すると思われても仕方ないのだが。

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呪われた家

2013-5-17

朝から暑くなる。彫刻史の授業。

涼しくするためではないが、冒頭に「厭魅呪詛」「蠱毒」の説明。
その後、パワーポイントで作成した孝謙天皇から桓武天皇までの系図を示しながら
「恵美押勝の乱後の天平神護元年(765)に淳仁天皇没、宝亀3年(772)には光仁天皇を呪詛した罪により井上内親王の廃后と他戸親王の廃太子、 同年、道鏡没。同6年、井上内親王・他戸親王没、天応元年(781)光仁天皇没・・・。」と次々と消していく。
長岡京遷都後も「藤原種継暗殺、早良親王が幽閉死亡、延暦7年(788)には藤原旅子、翌年には高野新笠、その翌年にも乙牟漏、坂上又子が病死、延暦11年には安殿親王(平城天皇)が発病」と。
スクリーンに写し出した系図には病身の安殿親王と桓武天皇のみ残る。「平安京に遷都する頃には、桓武天皇ひとりぼっち」と。

いよいよ本題へ。今日のテーマは神護寺薬師如来立像。スライドもかなり少ないながらも熱く語る。
「今なら、完全に“お祓い”やな。」とは、授業後の学生の雑談。

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懸仏と薔薇

2013-5-18

好天のもと霊山寺へ。

本尊薬師三尊像は秘仏ながら、内陣と外陣を仕切る長押上には大きな懸仏。貞冶五年(1366)の作で、三尊とも立像。「お前立て」として造られたが、肝心の本尊薬師如来は「坐像」。ドンマイ。

脇壇には康元元年(1256)の地蔵菩薩立像や「葺き寄せ式」の薄い蓮弁を伴う阿弥陀如来坐像などを拝見。十二神将像も遠目から。
東大寺大仏の開眼供養導師をつとめたインド・バラモン僧菩提僊那の墓所もある。菩提僊那は大安寺にて五十七歳の生涯を閉じ、登美山右僕射林に葬られた。
とはいえ、この時期の霊山寺は仏像や三重塔、鎮守十六所社よりもバラ園。
霊山寺というのは多角経営に長けており、古くからタクシー、打ち放しのゴルフ場、バラ園、温泉などを経営。がらにもなくバラを鑑賞。


上段左から「金閣」「花嫁」、下段左から「プレイガール」「大文字」。総て薔薇の名前。

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PTA

2013-5-19

恒例のPTA。雨模様ながら保護者の参加が増加との由。

このようなこと はなく専修別のみ参加。示されたゼミ生の成績。卒論演習と卒論を残すのみ。全然心配なし。淡々と終了。

仄聞すれば、どこから手を付けてよいのかわからないような「成績表」を見ながら、あれこれと説明することもあるやに聞く。こうなると「本人(学生)」を呼び出しの上、三者面談でもしたほうが早いのではと思うこともあるそうな。

淡々と終わったことに安堵。

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大原問答

2013-5-20

調べごとにて。
京都大原・勝林院は天台宗寺院ながら聯には「大原問答」と。

文治2年(1188)秋、叡山僧の顕真の要請に応じて法然が明遍・智海・貞慶らと浄土念仏の教理を問答した場所。鎌倉版「朝まで生テレビ!」である。
テーマは「念仏を唱えるだけで、果たして極楽往生できるのか」。
問答の結果、法然の勝利となり以後、法然の名は京洛へ広まる。

さて、江戸時代。
“大原問答祝550年”も近い元文元年(1736)に勝林院本堂が焼失。
きっとその再建には天台宗側ではなくて浄土宗側の援助があったものと想像。 宝暦11年(1761年)には桃園天皇から「慧成大師」の謚号が追加され、翌年には「法然上人二十五霊場」も出来上がる。もちろん「二十五霊場」に勝林院も含まれている。

宗旨は違うが、なんとなく浄土宗の影響もありかと。

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動物園

2013-5-21

西宮大谷記念美術館「とら・虎・トラ 」展を基にした発表。ちょっと“丸写し”の感あり。
だって、「矢野三郎兵衛吉重」(肥後藩お抱え絵師)や「大橋翠石」「西村五雲」が登場するんだもの。学部生なら誰ひとり取り上げても難しい。

出品作をもとにしているので残念なことも多い。岸竹堂はチャリネ曲馬団(1886年来日)で登場した虎を実際に見て、《虎図》(出品作:1891年・滋賀県立近代美術館)を完成させるのだが、それと全く同じ構図がシカゴコロンブス博覧会(1893年)に出品されている。こっちのほうが有名なんだが。

ちなみにチャリネ曲馬団の虎は翌年、三頭の子供を産む。雌雄2匹の子虎は、ヒグマと交換されて上野動物園へ。このうちオスメス2頭をヒグマと交換して入手展示。一方第5回内国勧業博覧会(1903)には成獣の虎が展示され、同年には京都市動物園が開園。

近代京都画壇に禽獣画が多いのは、画学校が動物園近傍にあって「今日の写生の授業は動物園」などと思っているので、「動物園は?動物園は?」と尋ねるも反応なし。図録に書いていないものね。
面白い展示(切り口は多数)なのに、ちょっと残念。

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どこの世界にもいる

2013-5-22
小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。
“この麦、誰が蒔きますか”
豚は「いやだ。」と言いました。
猫も「いやだ。」と言いました。
犬も「いやだ。」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりで麦を蒔きました。

小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。 “この麦、誰が刈りますか”
豚は「いやだ。」と言いました。
猫も「いやだ。」と言いました。
犬も「いやだ。」と言いました。
小さい白いにわとりは、ひとりで麦を刈りました。
・・・・・
小さい白いにわとりが、みんなに向かって言いました。
“このパン、誰が食べますか”
豚は「あらっ、バターが見当たらないんだけど。」と言いました。
猫も「白パンより黒パンのほうがよかったのに。」と言いました。
犬も「飲み物はミルク、それともカフェオレ?」と言いました。
人間の世界ではこんなん、しょっちゅうんなんですが・・・。

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指南役

2013-5-23

ようやく授業も中盤に入る。

よく知られた話だが、フェノロサは来日当初、よく贋作を収集していた(掴まされていた)。そこで、金子堅太郎や岡倉天心によって日本古美術の名品に触れ、審美眼を養ったとされる。

現在、在外日本美術の個人コレクションが多数あるが、彼らコレクターはすべて独自の鑑識眼や審美眼を持っていたのだろうか。誰か日本人の指南役がいたのでないかとふと疑問に思う。
(しかもまずいことに講義中)。

東京の私立大学で「日本美術史」を学んだような強者は別にして、皆がパーフェクトなまでの鑑識眼を持っていたとは信じがたく、避暑も兼ねて図書館書庫へ(24時間空調)。

あっさりとわかったのはフリーア美術館のチャールズ・ラング・フリーア。
彼の指南役は浅草駒形の蓬枢閣の主人、小林文七と日蓮宗僧侶出身の松本文恭、山中定次郎(山中商会)。特に琳派作品の収集は小林文七の手によるところが大きい。

予想された展開どおりでなんとなく、ホッとする。

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銅像

2013-5-24

春休み、岩崎記念館前の「岩崎卯一」銅像が通学路側へ移動し、教室へ向かう学生を見下ろすように建っている。(写真は旧位置)
目前に4階建の以文館が建ち、岩崎先生は文字通り“面壁九年”となっていたのである。

平瀬礼太『銅像受難の近代』を引くまでもなく、銅像は人々から仰ぎ見てもらわなければならない存在である。そのためには最低限、視線を上げるために高い台座が必要となる(江戸の仏像と同じ)。
従って学生が通る通学路側に顔を向けての移動である。胸像だけ仰々しく地面に置かれていても、人は何も思わない。

銅像の成立、あり方を説明するにはぴったりの教材事例なのだが、残念ながら今年は銅像の話はしない。
そのうち、学生が入学するたびに「岩崎卯一」銅像は、もとからこの場所に建てられたと勘違いする者が増え、いつしか旧位置も忘れられるだろう。
陰では、大先輩として以文館(法科大学院が入っている)が恥ずかしくて直視できないとの声も・・・。

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沖縄1

2013-5-25

「ハセさんね、旨いクース(泡盛古酒)があるんだけど、飲みに来んかね」と某氏のお誘いを受け、JTA271便にて沖縄へ。
10:50、那覇空港到着。

もちろんクースは方便で、もとより沖縄の彫刻をみてほしいとの由。待合わせは県博ロビー。県博3Fでは「大嶺薫コレクション展」。
大嶺氏は元東恩納博物館の初代館長。 一緒に展示を見ながら、「ひどくない?」と某氏。言われてみれば確かに「製作時期不詳」の資料が多数。
「呂紀」「毛益」の作品は「時期不詳」で大人の対応だが・・・。

「明王形神像」は矜羯羅と制多迦の二童子像(18世紀末・日本)、「天部形神像」は台座下に玄武がいるので真武大帝(鎮宅霊符神)像、鎖甲をつけ台座も含めて一木彫なので明末清初などと。あと「天尊子像」は像名が判らないが、真武大帝像とほぼ同じ頃。あと柄鏡類も全て江戸時代(17~18世紀)。
「“内地”の資料は難しいので・・・」と。いやいや、沖縄の彫刻こそ難しい。道教神や仏像が混在し、年号が書かれてあっても、中国元号なのでなかなか・・・。

その後、久米孔子廟(至聖廟)に案内される。
もとは中心部(那覇商工会議所隣)にあったが、戦後は天尊廟敷地(現在地)に移転、このたび久米(福州園裏)に復帰する。既に新孔子廟は竣工。

天尊廟には「天尊」「関帝」「龍王」、天妃宮には「媽祖」と千里眼と順風耳の二神。那覇にはもともと上・下2つの天妃宮があり、下天妃宮は永楽22年(1424)の創建とされ、また上天妃宮は久米の天妃小学校脇に門が残る。とりあえず見てくださいと。

夜、再び会い、国際通りをはずれた処で一献。茶封筒から出された写真は鎌倉芳太郎による天妃宮や孔子像、発掘調査で出た銅製歓喜天像など。戦前の孔子像は冕冠で倚像、天妃宮にも多くの像があったことがわかる。どうも現在と戦前との像の落差が大きくて・・・。「ま、現在も信仰の対象ですから、急に戦前の姿に変えても・・・」と。
沖縄で夜遅くまで琉球美術と彫刻談義。

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沖縄2

2013-5-26

曇天、時折雨ながら(今は梅雨)いくつかの寺院に案内される。

終戦後、再建できた寺院(されなかった寺院も多数)は仏像が必要。そこで内地の寺院や篤志の人から仏像が送られる。ありがたい話だが、もとより製作時期は曖昧。内地の仏像であることは明らかだが、いくつかの小像は江戸時代(18世紀頃)とみられるが、少し大きな像では、金ピカに修復されている。
送った寺院や篤志の人に罪はないが、鎌倉時代の作や著名寺院から賜ったなどと霊験あらたかな像であるとのレッテル。そこで傷むと修理しようとするのも無理はない。で、こうした修理に。「いつ頃ですか」と問われてもなかなか難しい。「新しくされた部分もありますが・・・」などと我ながら歯切れが悪いコメント。
像底をみればわかることもあろうが、あまり“手荒なこと”をすると、住職もビビる、某氏もビビる・・・。

王府時代の官寺は、臨済宗と真言宗。
真言宗は補陀落渡海僧日秀による活動が大きい。波上宮権現本地仏(今亡)の像底には、嘉靖23年(1544)に「補陀落渡海行者上人曰秀」が本地阿弥陀・薬師・観音を嘉靖21年から「一身一刀作之奉成就」した旨の銘記があった。
伊東忠太や鎌倉芳太郎も実見しているのだが、残された写真を見る限り、かなり本格的な作行きである。
16世紀、僧侶(日本)が彫刻を手掛けてもおかしくないのだが・・・。
お寺のあとは、浦添ようどれや知念グスクへ。
明日は久高島だが、急用が出来たので1便遅れて行くとのこと。えっ?

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久高島

2013-5-27

梅雨の中休み、朝から快晴、夏モード。

久高島へわたる。話では彫刻とのことだが、「イザイホー」(島の女性たちがノロになるための通過儀礼)で、有名な島、そんなところに彫刻があるわけないと思うのだが。

フェリー乗り場で渡された地図には、神事のため通行禁止の道路に赤線がひかれる。無事着けるのだろうかとやや不安。20分ほど乗船し、久高島に到着。里道を歩いて御堂(民家)へ向かう。
里道を歩いていると集落がなくなる。目指す御堂(民家)も見当たらない・・・。どうやら道を間違えたようで、あわてて引き返す。不安いっぱい。沖縄で一体何をしているんだと呆れながらも、歩いてきた里道の光景に驚く。
ようやく探し当てて、遅刻を詫び、見せていただいたのは絵画。やっぱり。そう古くはないように思う。
その後、国産みの神アマミキヨ(女性)の神話や王府との関係などの話。基礎知識がない分、一知半解。
そうこうしているうちに某氏登場。

再び話し込み、せっかくだからということで、外間殿などに案内される。海岸も見学。なんか別世界のよう。
午後の船で本島に戻り、那覇へ。3日間の案内を謝して終了。

JAL2088にて大阪・伊丹へ。

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妖魚

2013-5-28

授業では、鏑木清方《妖魚》(福富太郎コレクション)。

「人魚」という点で考えるなら、確かに製作当時、アンデルセン以降の「人魚」などの影響もあろうが、「妖」といった点からは、《黒髪》・《刺青の女》の延長線上にあるのではないだろうかと。
そのほうが泉鏡花との関係ももっと明確になると思ったり。

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ありがたくもらっておく

2013-5-29

震災がれきの処分を検討しただけで復興予算86億円を「ありがたくもらっておく」と言い放ち、非難された某市長。450年程前にも似たようなことがあった。

足利義昭を奉じた織田信長は、本願寺や堺に「将軍家再興」と称して矢銭を要求。堺へは2万貫。
堺はこれを拒否し堀をほり、櫓を構えて徹底抗戦。
そうした中、今井宗久は松島茶壺と紹鴎茄子を信長に献上。信長は「ありがたくもらっておく」。
これは堺 会合衆の総意に基づくものではない。結果的に堺は信長に屈し、中立を誇った自治都市は崩壊する。

松島茶壺と紹鴎茄子で2万貫というのも無理はあるが、結果的に茶壺と茶入が堺を救った・・・。
その後、松島茶壺は本能寺(の変)で、烏有に帰す。

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腹赤き仏像

2013-5-31

平等院阿弥陀如来像の説明をしながら、佐藤昭夫『仏像ここだけの話』の一節を思い出す。
一部の仏像胎内や裏側には朱色が塗られている。また別節では金色に塗られていることも紹介(「裏金の仏像」)されている。

授業終了後、読み返すと、法隆寺献納宝物 金銅仏中にかなりあり、塗り方も丁寧に仏像内を「朱色」を塗ったわけでもないようで、まちまちとのこと。中には型土の上にまで「べったりと」塗られたものもあるとされる。
調べると観音菩薩立像(N175)。報告(「法隆寺献納宝物特別調査概報告Ⅷ 金銅仏4」)によれば、中空部内表面には中型土の付着した個所も含めて「丹を塗る」としている。

報告には他の金銅仏の調査報告もあって、大方の金銅仏は鍍金後に頭髪を群青彩、口唇や装飾の一部には赤色顔料による彩色。ちょっと意外。

せん仏の復元などで金色の壁を作っているところもあるが、もう少しカラフルじゃなかったのかと。

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