日々雑記


謹賀新年

2015-01-01

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

朝、年頭のあいさつを済ませ、雑煮をいただき、さて。
「バイト!」、「初詣(デート)!」と子供達が次々と出宅。「じゃ、私も『ららぽ』(←最近、近郊にできた大型モール)のバーゲンへ」と、気がつけば、ひとり炬燵にて。

えっ~。
仕方なく、山盛りのミカンを前に、学生の卒論草稿に赤ペンを走らせたり、1月出張のホテルに予約を入れたり・・・。
「(人生)一回くらい、正月がなくてもいいんじゃない」と年末にゼミ生に言ったのだが、よもや自分であったとは。
夕刻、ゼミ生よりLINE。「4日、大学に行っていいですか?」と学生。
「は~い」。普段の休日と変らぬ元旦。

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お年玉

2015-01-04

学生対応を済ませて、ひと息つくと、某氏よりメールで阿弥陀如来像の調査報告を拝受。
「鎌倉(時代)後期の阿弥陀如来像と思ったのですが、江戸時代初期でした・・・」と。

正面や斜め正面の写真からはまぎれもなく鎌倉後期の作風。正面の写真だけをみれば、こちらも「鎌倉後期!」と言ってしまうほど。
後頭部を見ると同心円状に螺髪が刻まれている。江戸時代・・・。

仏像の背面は礼拝者から見えないので、思わず作者(仏師)の個性が表れる。後頭部の下から奇麗に螺髪を刻んでも、中段や上では“辻褄合わせ”があったり、最初から辻褄をあわせるため、後頭部中央から横方向に同心円状に刻んだ後、縦の刻み目を入れたり・・・。
そのほか、報告は諸々の指摘から江戸時代初期にしているが、きわめて妥当な判断。

「(背面が見えないように)光背を付けちゃって、『鎌倉時代後期(13世紀後半)』ってしちゃったら、いかがですか?」と余計なことまでコメント。
実際、江戸時代の作品を鎌倉時代の作品として展覧会に出品したり、指定品などにしている事例もある。

ともかく有難い“お年玉”。
感謝しつつ御礼のメールを返信。あつく御礼。

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羽根根

2015-01-06

卒論ゼミ最終日。

図版や註記など、あれこれと指示しているなか、「センセ、(鳥の)ハネ(の表記)は『羽』でしょうか、『羽根』でしょうか?」 と。
「『羽根』でしょう。」「わかりました。」

授業終了後、控えにもらったデータ(以前、土壇場になってPCがクラッシュした学生もいたので)をプリントアウトすると、「雌雄2羽根が並んで・・・」とか「羽根根を閉じて休む鳥の姿」とか散見。時には「羽根毛」の柔らかな描写・・・」とも。
どうも「羽」を「羽根」に一括変換した模様。

ここで、「まちがっているやん」と指摘すれば、なおのことパニックに陥る。せっかく完成まじかの論文も誤字脱字のオンパレードに。
そこで「羽根根」を「羽根」に、「羽根毛」を「羽毛」に、そして「2羽根」を「2羽」と順を追って説明と修正指示。

しばらく資料室に“お籠り”する学生も現れるなど、例年のごとく最後までドタバタ。

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へうげもの より 祈りの道へ

2015-01-08

授業も始まり会議も再開。あいかわらず昼の弁当どころではない有様。

来週末には東京出張(道頓堀フォーラム in 東京 パネル展「芝居町道頓堀の景観復元をめざして」)。
当日夕刻には撤去もあるので、昼間は待機。さてと思っていたところ、『古田織部展』(銀座・松屋)の招待券が手に入った。図録をみると優品揃い。「へうげもの」の世界。

ちょっとワクワクしながら帰宅すると、「INVITATION」の封筒。お近くにお立ち寄りの節にはぜひ、とも。多摩美術大学美術館「祈りの道へ-四国遍路と土佐のほとけ-」。

むぅ、行かないわけにはいかない。
「へうげもの」の世界は佐川美術館でもするし・・・、と自分を納得させながら来週の東京予定は決定。 最近、自分が何屋さんか、つい忘れがちに。

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明治28年

2015-01-09

早稲田演劇博物館より問い合わせ。
資料には「明治29年(別筆)/未六月狂言」とあり、資料名には「當ル未(明治28年)六月狂言」とあるが、「當ル未(明治 29年)六月狂言」の間違いではないかと。

全スタッフ、騒然。もし間違いならキャプション修正どころではなく、エンパクに山積みされているパンフレット(8頁立てカラー版・無料配布)も訂正しない といけない・・・。むぅ・・・。

資料に付された「明治29年」は明らかに追筆、別筆。そこで明治29年をググると「丙申年」。前年の明治28年は「乙未年」。
演目冒頭には「未六月狂言」とあり、明治28年上演のものと判明。

とりあえずその旨を伝え安堵。

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土居次義展

2015-01-10

朝から京都工芸繊維大学美術工芸資料館「土居次義 記憶と絵画」展へ。最終日に滑り込みセーフ。

我々の仕事の一環は「目の記憶」を追体験することにある。「目の記憶」を書き留める有効な手段として「スケッチ」がある。

今や35mmフイルムカメラ、それに代わるデジカメがあり、「スケッチ」はほとんど見かけなくなったものの、記憶の追体験に関してはスケッチに勝るものはない。
当時、カメラはまだまだ貴重品であるとはいえ、土居次義氏のスケッチ(しかも見事)からは、氏が何を見ていたのかが如実にわかる。

土居次義氏の調査ノートは2013年の京都国立博物館「狩野山楽・山雪」展以来。わずか一室の展示ながら食い入るように見る。

折しもリサーチセミナーが始まり、会場はほとんど人がおらず再びじっくりと拝見。得ること、ことのほか多し。大下藤次郎の所まで来ると、セミナー参加者が再入場。
余韻に浸りながら退室すると、館長のN先生とばったり。御礼を述べて退館。

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京都国立博物館

2015-01-10

その後、京都国立博物館へ。 「山陰の古刹・島根鰐淵寺の名宝」展。
見たことのある作品が数多く出品。
会場にて。
「(寺やのに)なんでこんなに神像が多いわけ」とご婦人。「さあ、なんでやろ。」と連れの男性。
当たり前だが、「島根・鰐淵寺」と言っても関西人にはピンとこない。古い銅像があるので古刹であることは理解できるが、上の問いかけに対する答え(解説)は見出しがたい。

鰐淵寺は中世、杵築大社(出雲大社)と密接な関係があり、江戸時代初期(寛文5年)には早くも両者の関係が断絶され、神仏分離という形を取る。ここに居並ぶ神々は出雲大社との関係が強い神像である。
また鰐淵寺は、鎌倉時代頃までは北院(本尊千手観音)と南院(同薬師如来)、蔵王堂(蔵王権現=スサノヲ)からなる寺院で、北院・南院は対立化し、一山存続の危機まで及ぶ。しかし比叡山青蓮院門跡末寺として南北和合、一山を再統一を果たした。その際の証となるのが「無動寺検校慈円譲状」や「無動寺検校政所下文」【後期】。

そうした歴史をすっ飛ばして“ええもん”並べたって、「『鰐』はサメのことやろ。『因幡の白兎』と関係あるお寺とちゃうんかいな」(カップル)ぐらいの意識しかない。

平成知新館オープン記念展「京へのいざない」展、修理完成記念「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展と続いたが、ようやく普段の“京博”。
染織の文様-吉祥- や垂迹画‐日本の神々の世界‐、中国の花鳥画などお正月らしいテーマで作品が続くなか、絵巻物だけはやや異質。
是害房絵巻。
是害房という中国の大天狗棟梁が日本へやってきて、日本の天狗である日羅房に先達を頼み、叡山の余慶律師、尋禅僧正、慈恵大師などに験くらべを挑むが、いずれも散々な目に遭わされ、あきれ返る日羅房。担架で是害房が運ばれ、賀茂河原で湯治し、詠み交わして本国へと帰っていく。
なんとなく意味深な内容。原本は磯長寺(叡福寺)にて成立の由。
融通念仏縁起を経て、次は日高川草紙。
ご存じ安珍・清姫の物語。主人公が遠江国橋本の長者の娘である花姫と三井寺僧 賢学の話なので「賢学草紙」とも。 賢学が逃げた鐘に巻きつく大蛇(花姫)と、巻末の生気のない賢学とともに川底へ潜る喜々とした大蛇がなんとも哀れ。
〈室町絵巻〉とするけれど、なぜこれらをお正月にと思わずにはいられない。

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そう焦らなくても

2015-01-11

今年は「琳派400年」。なんでも本阿弥光悦が元和元年(1615)に徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領したことによるらしい。
京都のあちこちでポスターを見かけた。

当然だが、本阿弥光悦が生きた時代に尾形光琳はいまだ存在していない。宗達・光悦…光琳・乾山…抱一・其一という流れ。
でもすべて「琳派」で400年。
なんで鷹ヶ峯の拝領が琳派の誕生につながるのかまったく分からない・・・と思っているところ、身も蓋もない高著が書架に。珍しく帯まで保管。
古田亮『俵屋宗達 琳派の祖の真実』(平凡社新書・2010年4月)。帯には赤字で「宗達は琳派ではない!」と。

そう焦らなくても、来年(2016年)は尾形光琳没300年にあたるのだが、来年はまた来年で没300年祭でもするのだろう。

大阪といい、京都といい、是が非でも今年という意気込みがまったくわからない。

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戯言

2015-01-13

スポーツにまったく関心のない者の戯言。

道頓堀関係で博物館の建物を行ったり来たりしていると、目につく女性たち。見た目で学生ではない年齢層。お目当ては年史編さん室前の高橋大輔等身大パネル。ここで記念撮影をされて、常設展の一角に設けられたメダルやユニフォーム(コスチューム?)をご覧になられてお帰りになられる。時には「シャッター押してください」とも(一応、押すけどね)。

スケートで話題をよんだ本学もこれにて打ち止め。織田はご承知のようにタレントとなり、高橋は引退、町田は早稲田大・大学院へ進学。

大学的には次の秘策?があるのだろうかと思いつつ、同僚に「(東京センターでの展示で)『撮影禁止』やめてみない?」とうかがってみる。TwitterやFacebookでの広報も勝手にしてくれるし・・・と考えていたところ、「(撮影禁止の札を貼っても)撮りたい人は何としても撮りますので・・・」とつれない返事。

これほどカメラ(付携帯)が普及したいま、広報として活用したいのだが、なかなか・・・。

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タイの千手観音

2015-01-14

いつも新聞紙上で“お笑い美術品(模刻・模造)”を販売する某社。
このたびは泰(タイ)国最高の大仏師による純金製千手観音像(高さ3㎝)の販売。

ご存じの通り、タイは上座部仏教の国。従って仏像といえば、釈迦像のみである。黄金仏はありえると思うのだが、千手観音像を製作した経験はないはず。

その大仏師による千手観音像は、左右の腕を頭上に高く挙げて化仏を戴く「清水寺式千手観音像」。しかも広告には「(左右)四十の御手」が、それぞれ25の世界を救済する働きをもち」とあるが、数えてみると22臂。
千手観音のご利益として「苦難除去」に始まり「現生利益」「病気平癒」「智慧授与」「子授け」「厄よけ」「先祖成仏」「極楽往生」となんでもありである。
さすがに家人も気が付いたらしく、絶対“まがいもの”と。値段は20万強。

笑うばかりではいられない。「タイ王室御用達の大仏師」の名のもと、こうした所に仏像修復を頼むところもあると聞く。もう仏像は信仰の対象ではなくなったのかと勘違い。

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9時は無理

2015-01-16

金曜日最後の授業(5時限)。まとめとレポートの回収。とはいえ、リレー講義なのでまとめることもなく「2回生になってもガンバレ」と。
こういう時に大幅に遅刻する者もおり、回収後もしばし教室で待機。そろそろ“終りかな”と思っていた頃に学生登場。レポートを受領し教室の灯りを消して終了。
その後、新大阪から東京へ。

明日は東京センターで展示作業。午前中までに終了しないといけないので9時集合。
拙宅から東京センター(東京駅隣)へ9時まで着くためには早朝に出ても無理。そこで前泊。

金曜日の夜でもあるが、東京は相変わらず人が多い。

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東京

2015-01-17

朝、東京センター。展示作業に取り掛かる。

普段は会議等に使用している部屋なのであまり無茶は出来ない。既にパネル類も到着済。てきぱきと展示を済ませ、11時半にはほぼ完成。

最初、この部屋を見た時には展示品等で(この部屋を)使い切るのは無理なんじゃないか、半分でいいのかもと不安であったが、展示が完成してみると広すぎず狭すぎずちょうどよいスペース。

その後、新宿から京王線に乗り換え「多摩センター」、サンリオランドの手前に多摩美術大学美術館。「祈りの道へ-四国遍路と土佐のほとけ-」展。

考古遺物や七星刀が並び、《箱車》にちょっと心打たれつつ、竹林寺阿弥陀如来立像に魅入っていると、主催のA先生とばったり。
列品解説との由で別室へ。同業者に解説が聞かれるとやりにくいらしい(わかる わかる)。

2Fでは、土佐自慢の一木彫像のオンパレード。それぞれ独特の作風を示している。じっくり。
なかでも名留川観音堂 菩薩形立仏像(3号像)は背面材内面に如来形と菩薩形の墨描。そこへ再びA先生が現れ、「見たことないですか」と。御衣木加持にしては背面材内面である、打痕がないなどで不審であると述べると、「やっぱ、落書きかな。師匠が弟子に向かって『ここは腰、ここは胸』と指示したのか知れませんね」。それにしては墨描の頭部が大きくずれている・・・。
不思議。

一木彫像が並ぶなか、ひときわ光彩を放つのが笹野大日堂大日如来像と上郷阿弥陀堂阿弥陀如来像。六地蔵像は年輪年代で1185+αとの解説。もう一世代下れば笹野大日堂大日如来像とあまり変わらない。
作者の違いが大きいのは当たり前だが、豊富な材木がある土佐では、なにも寄木造のために、ちまちまと材木を小分けにしなくて一木で造ることができたのだろうと。おそらくそこが「地方仏」のひとつの魅力でもあろうかと。清水隆慶《不動明王像》もじっくり。
事務室にうかがい、A先生としばし仏像絡みの雑談をし、再び東京センターに戻る。

5時前に展示品を撤収し帰阪の途。

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高村光雲

2015-01-19

講義では中世後期から近世・近代の彫刻を扱ったが、レポートの大半は「高村光雲」。あとは森川杜園、山崎朝雲など。
理由は簡単。参考文献が多いから。もう自分の(狭い)関心以外は「ガン無視」である。

なんか振り返ると(これがよろしくない。世代も時代も全く違う)、室生寺で仏像を見て、バルビゾン派やアンソールの展覧会を見、その後は白鶴美術館へなどと洋の東西を問わず見たのだが、今やまったく・・・。

ま、好きなようにしたらよろし。

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大阪都市遺産

2015-01-20

昨日から授業の合間をぬって「新収蔵品展」撤収。

晩秋から関大博物館・早稲田大学・東京センターと3つの展示会場を設営。ようやくひとつ目が撤収。

あれこれと悩んだ展示も思い出深いものの、撤収はことのほか早い。
珍しい資料や名実ともに初出品も多数展示したが、関心は予想通り低調。
以前の“今昔館”にしろ“新収蔵品展”にしろ、パッケージ化して東京へ持って行けば、関心ある人びとも多いので、これほど人が入らないことはないような気がする。 土佐の仏像がタマビ美術館に、島根・鰐淵寺の神仏像が京都に、県境を越えて京都・東京へ出開帳。
早稲田へ出たコラボ展の反応が気になるが、なんとなく大阪の文化的地盤沈下はもう救いようもないところに来ている実感すらある。
巡回展が大阪を素通りして幾久しい。大阪の企画を他所で展示することが一般的となる日も近いような予感さえしそうな「不調」ぶりである。気が付けば“文化”が大阪から消えていても、何も問題ない。ちょうど、道頓堀から芝居小屋が消えたように。

がらんとした展示ケースを見ると、「大丈夫。グリコのネオンとたこ焼きさえあればひとつの立派な文化なんや」という声も聞こえそう。
まさに“大阪都市遺産”。

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桃色争議

2015-01-21

シラバス作成と並行して、土曜日の発表スライドを作成中。

松竹少女歌劇部 日舞のスターであった「東條薫」は山田伸吉と結婚、そして退団。以前は昭和9年頃としていたが、ようやく判明しつつ。
『映画と演芸 (臨時増刊 レヴュウ号)』(昭和8年5月号)には、新婚の山田夫妻が掲載されている。今ならさしずめ“あのスターはいま”という企画。

この年の6月に、松竹は少女歌劇部・松竹楽劇部に賃金削減を通告し、水の江瀧子(東京)を争議委員長として「絶対反対」。6月15日には神奈川・湯河原温泉に立て籠もる。当時の写真には「□(1字不明)女の血で肥る松竹の演劇映画を見る(な)」「搾取王国松竹」など過激な文字も並ぶ。
「桃色争議」と呼ばれた労使紛争は大阪にも飛び火し、松竹楽劇部の待遇改善要求をめぐって洋舞のスター飛鳥明子を争議団長とし、舞台をサボタージュ。6月28日には楽劇部員が高野山に立て籠もり反対演説。マスコミも少女部員側にたった報道が行われ大阪では7月8日に和解。責任をとって飛鳥明子は退団。
この争議の直前に東條薫は結婚退団。
もちろん『松竹八十年史』には全く触れられていない。

人の生い立ちを確認するのも大変。(写真は飛鳥明子)

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歴史を刻む

2015-01-23

午後、早稲田大学演劇博物館でギャラリー・トーク。
寒さもやや和らぐ平日・午後にも関わらず30余名のご参加を得、あつく御礼。終了後の質問等もあって皆様熱心、こちらも気をよくし30分の予定が45分に。

終了後、早稲田大学會津八一記念博物館へ。
うちの博物館と同じく旧図書館建物を再生した大学博物館。
《明暗》(横山大観・下村観山)、《羅馬使節》(前田青邨)は厚いカーテンに覆われて展示されていなかったが、1Fの「富岡コレクションの近代美術」、2Fの「富田万里子コレクション-異文化の交差展」を見学。
「富岡コレクション」は東京・大森にあった富岡美術館(2004年に閉館)の資料一括を早大へ寄贈されたコレクション。満谷国四郎や瀧和亭、橋本雅邦、下村観山、矢部友衛などの作品が並ぶなか、1m足らずの木造菩薩立像(11世紀後半)。左肩以下などが失われているが、その由来が興味深い。
この仏像は昭和2年に谷崎潤一郎が奈良・森田一善堂から購入したもの。昭和7年には谷崎から志賀直哉に譲られ、昭和29年には志賀から大倉亀(コレクター)に渡り、同35年には大倉から壺中居、47年には壺中居から富岡重憲へと移り、54年には富岡美術館所蔵となり平成16年に早稲田大学へ寄贈という来歴が明確にわかる資料である。

2Fの「富田万里子コレクション-異文化の交差展」では授業の最中で、学生がたくさん。うちではありえない賑やかな光景にびっくり。古地図や長崎版画、陶磁器など會津八一の資料ともども展示、(まさに)学生の教育に活用。そのほか充実した大隈記念室にも学生が見学しているなど、うらやむばかりの光景に驚きを隠せない。
「(大学の)歴史を刻む」というのはこういうことかと思い、我彼の違い(これは風土による違いも大きい)を実感するばかり。

夕刻、同僚へのねぎらいのため新宿へ向かう。架線にビニールが引っ掛かったという阪和線ぽい理由で、中央線が大幅遅延。

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道頓堀フォーラムin東京

2015-01-24

9:00東京センター集合。別室にて展示作業開始。
既にプレ展示を行っているので戸惑うこともなく・・・。
(早稲田コラボ展ポスターは早稲田カラー、フォーラムポスターは関大カラーと、プチ気遣い)

午後から道頓堀フォーラムin東京。各ご遺族のかたも参加。
私、環境都市工学部の橋寺先生、総合情報学部の林先生、早稲田大学文学部(演劇博物館副館長)の児玉先生、文学部の高橋先生が登壇。児玉先生の講演では、金山平三や小村雪岱、田中良、伊藤熹朔などが登場し、興味津々。講演での口調は時折、関西弁らしい言葉・・・。16:45、修了。
その後、展示資料の撤収、梱包、大阪への発送を進めながら、同僚に「児玉先生の講演、関西弁、出とったけど・・・」と尋ねると「児玉先生、出身は西宮なんですよ。」と。納得。

5時半過ぎに終了、メンバーと別れてフォーラムに来ていた同級生と東京駅近郊で一献。終日働きづめだったので、酔いの回りが早いこと。
今夜も東京泊。

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祝宴

2015-01-25

朝、東京出発。
正午から、後輩で元同僚の「住田古瓦・考古学研究奨励賞」受賞の祝賀会で阿倍野ハルカスへ。上層階へのエレベーターが、展望台以外よくわからなかったので案の定、迷子・・・。

門外漢なので、「住田賞」なるものが如何なるものか知らなかったが、住田正一氏は海事研究に名をはせ、また全国国分寺の古瓦を蒐集された人で、海事研究や古瓦研究に関する研究奨励を出している。ちなみにご子息はJR東日本元会長の住田正二氏。

元同僚、同級生、後輩、先輩など多数参加。2時間ばかりの祝宴。
受賞者は東日本大震災復旧・復興支援に伴う埋蔵文化財調査で宮古に派遣された。引出物として宮古の四季や風物が写し込まれたカレンダーを頂く。

喫煙室で「最近の子は“TPO”もわからんのかいな」などと同級生の愚痴を拝聴。御尤もながら、昨夜も同じような愚痴を聞いたような・・・。

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文雅な雪

2015-01-27

終日、雨が降ったりやんだり。午前中、博士論文(課程)の公聴会、午後は梅田・グランフロント大阪(ナレッジキャピタル)で打合せ。

研究室にもどって東北地方の先生から頂いた著書の御礼を(ワードで)したためる。絵葉書。投函してからしまったと後悔。

絵葉書の図柄は「雪の室生寺」。
関西のような「暖国」にとって、雪はめで楽しむ文雅な風情あるものとしてとらえられるが、豪雪地帯でもある信濃国北国街道柏原宿出身の小林一茶は
霜降月の始より、白いものがちらちらすれば、悪いもの降る、寒いものが降ると口々にののしりて、
   「初雪をいまいましいといふべ哉 旅人」
と門人あての書簡に記している。
こうした雪に対する江戸・大坂人の無知が鈴木牧之『北越雪譜』の刊行にも繋がっていく。(青木美智男編『日本の近世』17・中央公論社)

ちょっと絵葉書を出す相手を間違ってしまった。反省。

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調査

2015-01-28

時折、吹雪く中、京都の某寺で朝から金剛力士像(江戸時代)の写真撮影と簡易調査。

裳の折り返し下部で、僅かに傾斜した水平な矧ぎ目が通る。そこから足の間に縦の矧ぎ目。上半身はどうも基本的に左右2材矧ぎ。ちょっと不思議な木寄せである。面部後面材は上半身の体躯材とともで、面矧ぎ、玉眼。斜めに下半身を作って上半身の部材を載せるような・・・。

もしこの推測が妥当だとすると“胴切り”と俗に呼ばれる技法である。“胴切り”の作例は今までいくつか見たが、有名なのは、康弁作《天燈鬼立像》。腰部で水平に胴切りにし、大きな三角材を挟んで上半身の材を載せている。江戸時代の金剛力士像といえども「く」の字形に上体を曲げているので下半身の“切断面”をやや傾斜させたか。

午後は会議ディなので、終了後は大学へと急ぐ。久しぶりの仏像調査ながら、なかなか存分に浸ることができずもどかしい限り。

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続 読書の時間

2015-01-29

午後、筆記試験。受講生ほぼ全員受験(普段の授業はどこに居たのか?)。
参照条件は「一切許可」ながら、裏サイトのおかげ?で、ほぼ全員プリントのみ持参。山川出版社『高校 日本史』と辻惟雄編『カラー版日本美術史』(美術出版社)を持参した者も各1名。

前者は問題外として、後者のみ持参してどの位の回答ができるのか、試験が終わって、試しに『カラー版日本美術史』を片手に回答してみた。
わずか4問。もちろん合格圏内にほど遠い・・・。
これも正答がわかってのことなので、200頁近い記述から初めて見出すとなれば、回答の参考にならならないことは言うまでもない。

途中、質問あり。鬼の首を取ったかのように、答案用紙の一部を指さして「ミスプリ(ント)!」と。「問題をよく読んでください」。
講義内容がまったくわかっていないことに気付いていない。

『カラー版日本美術史』などを読んで正答できるなら、授業などいらないはずである。
結局、最後まで読書の時間に費やし、鉛筆は動かぬままに。
(『高校 日本史』は諦めて途中退出。)

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長谷寺

2015-01-31

午後、奈良・長谷寺へ。
登廊横には霜よけの藁の笠をまとった冬牡丹が咲いている。

門前は伊勢本街道まっただなか。「伊勢参宮」(伊勢詣)は江戸時代の庶民あこがれの大旅行。殊に東から伊勢詣をする人は西国三十三所、四国八十八所とも兼ねた旅行ともなる。西国巡礼一番札所が那智・青岸渡寺であることも伊勢に詣でて・・・という事情によるらしい。

総受付には秋葉権現、普門院に不動明王、蔵王堂に蔵王権現と諸仏が安置。本堂では脇の難陀竜王像が春日大明神、雨宝童子像が天照皇大神の化身との由。
巨大な十一面観音像をしばらくぼぅと眺めていると、どこかに行っていた家人が大きな袋を下げて現れた。
「ご朱印、もらってきた。『ご朱印は三種類ありますが、どれにしますか』って聞かれたけど、オーソドックスなご朱印で、っていうと、これなんやけど・・・。」と。
見れば「大悲閣」。加えて大きな袋には「大和七福八宝めぐり 」。そこには「大黒天」の朱印。

豊山派の派祖 専誉僧正(1530~1604)が泉州大鳥郡出身ということもあって堺に関わる石碑が目につく。確か定和上人像(鎌倉)の慶長5年の修理銘にも「大施主泉州鉢峯住 養観敬白」とあったような。
本堂からの道すがらにある「道明上人御廟塔」をみる。鹿谷寺の十三重石塔を思い出すほど、かなり古い石塔と見た。

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過去ログ