日々雑記


ひやり

2016-04-01

入学式、そして「ガラス」展オープン。

開館と同時に博物館へ行き、最終チェック。
無事に開館を見届けて部屋に戻り、あれこれしているところ、携帯が普段とは違う音で鳴る。んっ?
「緊急地震速報 三重南東沖で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)」。
しばらくすると「大阪府北部 震度3」ぎやぁ~~。

大慌てで研究棟(耐震装置あり)から博物館へ向かう。展示品には背の高い瓶などもある。しかも展示点数が多いためゴムなど敷いていない。
走りながら、確か博物館は耐震工事が終わったはず、阪神淡路大震災ではスイス・バウアーコレクションの“豆彩”が“粉砕”(こんな時に“韻”をふんでいる場合か)したと嫌な思い出も甦る。

展示場に駆けつけてケース内を巡回するとまったく変化はない。よかった~。
しばらくたって「吹田市 震度2」の発表。
初日から寿命が縮む思い。

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ホームカミングデー

2016-04-03

くもり空ながら、「ホームカミングデー ~2016スプリングフェスティバル~」開催のため開館。

博物館横では「関西大学なにわ大阪研究センター」の開所式。学長や理事長等が来館。
案内は展示内容をよく知る学芸員や事務職員氏にほぼまかせて、こちらは受付対応。
「率先して案内して下さらないと・・・」と周囲はかなり嫌がるが、なぜか受付周辺が安堵する。

なぁに、受付にいる背広姿のおっさんが、館長であることは学内関係者以外、誰も知らない。
交替で受付をするが、若い学芸員(本学卒)はここが図書館であったとは知らないので、そういう時に役に立つ。「こちらが開架式、左が閲覧室でした。階下の窓口は複写室です。」「おおっ、そうやった。思い出したわ」などと。

本日は240名強の入館。
館長職(何の役にも立っていないが)も、はや1年が過ぎた・・・と実感。

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彩色

2016-04-04

こてこての彩色が塗られた仏像をよく見るが、どこがよいのかまったくわからない。いっぽうで剥落した彩色でみずぼらしい感じになっている仏像ではなんとかしないと、とも思う。

彩色は無名の絵師(彩色師)によるのだが、時には後世に名を遺した絵師による彩色もある。
石川・七尾市本延寺の日蓮聖人坐像。永禄7年(1564)に長谷川又四郎信春(等伯)26歳の時に彩色寄進。御多分に洩れず、現状の彩色は後補。
後補の彩色は明治あたりと思うが、塗り直した絵師は、像内の銘記をみて、あぁ!やっちまった と思ったか。

土井次義氏による長谷川又四郎信春が等伯と同一人とする説を発表したのが、昭和13年。
等伯も無名絵師のひとりだったのか。

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待ってはる 再び

2016-04-05

今日から授業開始。
新学期早々、校内の学生の多さにやや疲れて帰宅。

「来るの、待ってはるで。今度は仏さん。」と家人。帰宅早々いきなり何を・・・。
「はい、はい・・・。」といいながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出しプシュ。う~ん、サイコ~。
「マジやて。」と家人。

ちびちびやりながら、授業(会議)も始まり、この時 のようにしばらく調査予定もない。いったい何ごと・・・と思いつつ夕刊を広げていると、別部屋(PC常置) から「ほら、ほら」と呼ぶ声。

缶ビール片手に行くと、画面には某寺院の住職による Twitter(及びまとめ)
「ね、呼んではるでしょ。」と。画面を見れば、確かに。しかもご指名。マジや・・・。
「明日にでも(某寺院に)メール、差し上げたら。」
「そうするわ。」とほろ酔い気分もすっかり冷めて、真面目モード。

PCで普段、何を見てるねんと若干いぶかりながらも、2回戦(焼酎・日本酒)突入。
「信用してへんかったな!」と後ろから蹴り。

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横道に反れる

2016-04-06

朝、拝見のお願いメールをし、関連資料をあれこれ。

今日知られる友学のデビュー作は奈良・王龍寺十八羅漢像。製作時期は梅谷和尚を招いて再建開山した元禄2年(1689)頃。
これは『奈良市彫刻調査中間報告書(その2)』に掲載。完全な宇治・萬福寺十八羅漢像の縮模像である。この頃に父康祐を亡くしている。

次いでながら同報告書(1から4)を見ていると、奈良・十輪院弘法大師坐像(江戸時代)が目に留まる(『同中間報告書(その3)』)。像高79.6㎝。
ふと十輪院・理源大師像(慶長18年・宗印/弁蔵作)の畳座・牀座が弘法大師像のものであったことを思い出す。
理源大師像の像高80.9㎝。見比べると体格、膝前の衣文ともよく似ている。像高の差もわずか1㎝ほど。セット関係じゃないのかと思う。
薄め拡大のコピーを取りながら見比べ。たぶん弘法大師坐像も慶長18年 宗印と弁蔵作と思うものの、肝心の銘記は頭部内面(だと思う)。
『大和古寺大観』3「十輪院」をみると、「御影堂」の項には「新しい須弥壇に近世の厨子を置き木造弘法大師坐像(慶長17年〔1612〕銘)を祀っている。」(岡田英男氏)とある。
えっ?典拠はどこ・・・。

横道に反れているのも気づかず没頭していると、快諾のお返事。友学、友学・・・。

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はあ?

2016-04-08

本日、灌仏会。仏生会、降誕会とも。

仏縁?あって、授業は「仏教の誕生・仏教美術の誕生」。

身重の摩耶夫人が実家へ里帰り中、途中のルンビニで産気づき、右脇の下より誕生しました。釈迦はすぐさま七歩歩いて右手で天空を指し左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と産声をあげました。すると天から冷温二水-産湯ですね-が、釈迦の頭上に注がれました・・・。
で、今日は何の日ですか?と問う。
考える学生もいたが、多くは、はあ?という表情。

クリスマスは誰もが知っていても(実際に教会へ行く者は僅か)、今日がお釈迦さんの誕生日だとは、ほとんど知らない。

外国のビザ申請書には「宗教欄」があって「NONE」と書けば、海外の人はそれを「ひとでなし」と読む。「Buddhist」と書くんだったら、もう少し反応してもよいと思うのだが。

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肩書

2016-04-09

千手院へうかがうため、予習。仏師友学(初代)について。

寛文5年(1665)生まれ(寛文7年とも)。正徳5年(1715)に法橋叙位。享保14年(1729)には友学(子)が法橋位を叙位しているので、この頃まで没するか。

父康祐譲りなのか、友学も肩書を大いに“盛る”。
康祐は「自元祖定朝廿六代平安城住/禁中様惣本家大仏師左京/法橋康祐之作」(埼玉・清善寺釈迦三尊像)、「従元祖定朝法印/二十六世惣本家/大仏師左京入道勅/法印康祐/作」(大阪・久米田寺弘法大師像)と。
親父に負けるものかと友学も「仏工元祖定朝法印二十六世大仏工左京法印康祐伜三男源姓清水氏友学入道康倫」(群馬・宝林寺釈迦如来像)。

千手院の台座銘は「仏工京□□友学」とずいぶん控えめ。また「京仏工」ではなく「仏工京」。
□□は2文字分だが、元禄16年なので「法橋」とはならない。「康倫」「入道」も無理。しばらく考えて「清水」が妥当なところかと。
不思議なのは、蓮華座天板上に銘文が書かれていること。日蓮宗の釈迦・多宝如来像の蓮華座で時折みかけるが、通常はあまり天板上に銘記を記さない・・・。フォロワーさんが心配しているように擦れて消えるから。では、なぜ?

考えれば考えるほど不思議な銘記。

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千手院

2016-04-10

曇り空ながら暖かな日。千手院を訪問。
『新修関市史』のコピーや友学事績など関連資料をお渡してさっそく御像と台座を拝見。

うわぁ、端正、美麗な千手観音坐像。美しい御顔、柔らかな衣文表現、均整の取れたプロポーション、友学なかなかやるじゃんと(心の中でガッツポーズ)。
台座、光背は典型的な唐様(仕様)。肝心の□□は文字の痕跡すらうかがえない。ちょっと残念。
きっと雨宝童子像、春日大明神(難陀龍王像)にも同じ銘文があるはずと、ご住職に手伝ってもらい台座を覗き込むと、銘記はなし。あれっ?じゃ千手観音像の像底にはあるはずだと、お許しを頂いて像底を見ると、こんな造作(写真)がされている。
・・・・・・。

心落ち着けて、改めて虚心に観察。
千手観音坐像の柔らかな衣文表現や均整の取れたプロポーションは延宝年間、幅を持たせても貞享あたりまでかと。
それに比べると、雨宝童子像、春日大明神(難陀龍王像)は巧みな彫技ながら柔らかさにやや欠ける・・・。本尊台座の諸特徴と雨宝童子・春日大明神像の特徴は共通しており、これら3件は友学による元禄16年の製作と。

昨日の予習をあわせて考えて(想像して)みると、友学は台座の新調と雨宝童子像、春日大明神(難陀龍王像)の製作を引き受けた。完成後、千手院に送られて遷座の儀。 この事を後世にとどめようと同院二世泰梁和尚が台座天板上に記した・・・と。
だから「仏工京(清水)友学」と他人風な表記だったのか。銘記は3件が届いてからの執筆。筆者は二世泰梁和尚。だから天板上だったのか。

すっきりしたことや未だ納得しないこともあるが、思わぬ「仏縁」で多くの仏像に巡り合えたことにあつく感謝しつつ、千手院をあとにする。

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千手院の歴史(メモ)

2016-04-11

正応2年(1288)
 刀鍛冶「関七流」のひとつ奈良派の兼常氏らは、春日神社北隣に千手院を創建、菩提寺とする。開基は壁天梵圭。【明治初年の寺院明細帳による】
元亀2年(1571)
 8代兼常が春日神社の北隣に千手院を開基建立。【「兼常系図」(美濃刀大鑑)による】
元禄元年(1688)年
 龍泰寺17世天庵正尭を拝請開山とし、泰梁克玄が開法道場として再興。
元禄7年(あるいは9年)(1694年・1696年)
 現在地(西日吉町)に移転。
寛保3年(1743)
 火災焼失。
延享年間(1744~48)
 統州孝伝により再建、今日に至る。
以上、『岐阜県の地名』(平凡社)による

寺蔵の棟札には、元禄9年に千手院が焼失したことが記載。
また『新修関市史』史料編4にも、文政8年の写しながら、元禄10年春に千手院の御願により「御地頭様より寺地申受け候」とした古文書が掲載。発給人は「千手二世泰梁」。

千手観音坐像は、元禄元年の開法道場の本尊と思え、元禄9年の火災によって本尊像のみ救出、移転後も本尊として祀られた・・・ということかと。

もと友学作の千手観音像があり、それが後に何らかの事情で失われて、やや古作の千手観音像に代わったことも想定されますが、現状では、頭光中央と白毫の位置が合っており、像底部と台座天板の大きさも違和感(寸法違いなど)ないことなどから、元禄9年の火災の際に本尊像のみが救出され、移転後の元禄16年に本尊台座、光背の新調、脇侍?像の製作付加がなされたと考えております。

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無題

2016-04-13

(某氏が)文化財課に勤務したころ、各地の文化財の調査をした。田舎の寺で江戸時代末期の仏像があった。寄木が外れて仏像の態をなさない状況だった。住職から将来、県の指定文化財になるだろうかと相談された。江戸末期のものだから難しいだろうと答えたという。次に行ってみると、仏像がなくなっている。わけを聞くと、指定文化財にならなければ価値はない、価値のないものに金をかけて修理しても意味がない。よって供養したうえで焼却したという。
歌田眞介『油絵を解剖する-修復から見た日本洋画史-』41頁
「どんな粗末な作でも、往時の人々の未来への発信ではないか、我々はそれを見て過去を直視し、未来を展望できるのだ。情報は多いほど正確に展望できるに違いない」と某氏。

激しく同意。問題はその価値をどの角度から見いだすかにかかっている。寺院史か地域史か、はたまた美術史か。いずれにしろ、まず見に行かなければ、何も始まらない。
仏像は歩いてこないのだから・・・。

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亡国のTV

2016-04-14

夜、熊本県益城町で震度7を観測する大地震が発生。その後も大きな余震が続く。

各TV局では通常番組を中断して報道。
益城町に入ったNHKの記者が、ビビっているのか興奮しているのかわからないが、なんかプロレスの実況中継のような絶叫調。東京サイドも察したのか、東京からのアナウンスを最大限にかぶせて記者の声を遮る。スタジオは救助や避難活動に忙殺中の市町村役場へ呑気に電話。
もう、ジャマ、ジャマ!

民放はもっとすごい。
神戸サンテレビは、九州での地震だったのかそのままゴルフ番組を継続(もう他人事なんだ…。後にL字テロップでアニメを放映。)
熊本ではスナック帰りのおねぃちゃんみたいな短めのスカートをはいたアナウンサーにヘルメット被らせてガス漏れ現場に向かわせマイクを向ける。
停電で暗闇のなか、ヘリを飛ばして火災現場を撮影。現場に到着した頃には火勢が弱まっており、救急車や消防車の赤色灯を映し出して「救急車や消防車が多数来てます」とコメント。
わかるて、画面みたら。

各局スタジオでは「自宅から避難される時にはブレーカーを落して避難して下さい」と。
停電になっているというのにどうやってTVが見られるのですか。生死に関わるかも知れない緊急時に、誰がTVの前に座っているのですか。(←漫才のよう)
スタジオはいったいなにを考えて誰を相手に喋っているのか。
相変わらず熊本では「周りの人は余震を感じながらも、携帯やスマホを見ています」って記者がコメントしているが、そこで気付よ。誰もTVなんか相手にしていないんだと。

普段はローカルTV局集めて“ご当地選手権“にみたいな番組しか作らないから、こういう時には、ぐだぐだの総崩れ。「危機」を「喜々」と解するバカモノばかり。
TVはなんといっても反省しない、責任をとらない、の典型だから、「報道」とは名ばかりの「野次馬根性」が画面から全面に拡散。

TVはいつの間にこんな箱に成り下がったのだろうかと思いつつ、TVを消してネットで静かに事態の推移を見守る。被害の少なからんことを祈るばかり。

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敗北感

2016-04-15

1回生向けの授業。恒例のこの内容。

いつものように講義をして終了。今週も終わった~、と廊下を歩いていると先ほどの受講生。
「センセ、見て下さい」と差しだされたスマホには奈良国立博物館のTwitter。「実は日本最古の「絵に描かれた猫」」と。
ついさっき「日本最古の猫絵」と喋ったことや奈良博のTwitterを見たことも思い出す。
「どっちが『日本最古の猫の絵』ですか?」となおも畳みかける学生。
手抜かった・・・。
まだ信貴山縁起絵巻展に行っていないので、その件については来週まで待って下さいと猶予を乞う。

週末のウキウキ感が敗北感に一変し、うなだれながら部屋に戻って千野香織『信貴山縁起絵巻』(名宝日本の美術←絵巻に関する蔵書はそう多くない)や鳥獣戯画の図録などを読み比べ。

《信貴山縁起》は後白河院(1192年没)の関与を示唆するもので、今回の展示も『地獄草紙』や『彦火々出見尊絵巻』が出品。千野氏によれば1157~1180年頃とされる。『日本絵巻大成』は佐和隆研氏の「鳥羽僧正覚猷説」。
いっぽう《鳥獣戯画》は《両部大経感得図》等との比較から上野憲示氏は1140~1160年頃、福山敏男、小松茂美両氏は1157~1179年頃とされる。
ますますわからん。奈良博の展示では、《信貴山縁起》(古)<《鳥獣戯画》(新)という何か確実な根拠が示されているのだろうか。

思わぬ直球勝負に頭を抱える・・・。明日にでも奈良博へ行くか。

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本震

2016-04-16

昨夜(今夜)の寝入りばな、家がぐ~ら、ぐ~らと揺れている。地震!

寝ぼけ眼で家族全員、起き出す。PCを立ち上げてみると大阪南部 震度3(後に震度2に訂正)、震源は熊本。えっ~!過日の震度7では拙宅は揺れなかったのに。
朝PCをみると、14日夜の地震は「前震」で、昨夜の地震は「本震」とのこと。人的被害はもとより熊本城、阿蘇神社などの文化財被害も甚大。

14日以来絶えず熊本では地震頻発。震度4は日常茶飯事、6弱、6強も時折というのが、なんとも恐ろしい。
大学博物館からの緊急連絡があるやもしれずと、終日 待機。

1年ほど前に熊本へ行っている。
夜、お世話になった熊本県立美術館や学芸員A氏の安否などをY先生のTwitterで知る。たいへん気になっていたが、連絡するのもいかがと思っていたのであつく感謝。

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正木美術館

2016-04-17

午後、正木美術館「姿を伝える形をたどる」へ。

チラシの良全《騎獅文殊図》は後期(5/19~7/3)展示。今(前期)は虎関師錬賛《騎獅文殊図》。賛は左から右。鑑貞《三聖図》は手前から道士(道教)、孔子(儒教)、釈迦(仏教)と並ぶ。禅宗の外典研究を示す作品。邵庵全雍賛《三龐図》、海北友松《黄初平図》、慶舜《鉄拐仙人図》、喚舟《群仙図屏風》(左隻は後期)など神仙世界が提示。そのほか誕生仏像や旧丹波国分寺の金銅菩薩半跏像も。

神仙世界はそれぞれアイテムが重要。
《三龐図》。龐(ほう)居士は自らの財宝を海に投げ捨て、家族共々、竹細工で生計をたてる。龐の妻や娘(霊昭女)の前には竹籠。黄初平はもと羊飼い。道士に見込まれ金華山へ拉致。探し訪ねた兄の前で白石を1万頭の羊に変じる術を披露。
最後に総まとめの《群仙図屏風》。藍采和(花籠)、韓湘子(笙)、曹国舅(拍板)、李鉄拐(魂魄・瓢箪)の四仙と霊芝の入った籠を背負う道士。

義堂周信《墨蹟 少室の銘》。至徳3年(1386)秋の執筆。
南禅寺に住する「自称少室」(嵩山少室山の達磨=少林寺の達磨)の嵩九に請われて執筆した墨蹟。「九季面壁(面壁九年)」を目指して修業中の、(日本の)達磨と自称する嵩九に対して達磨の心に至ることを奨める内容。墨蹟には「吾法不執文字、不離文字」「夫如是坐者、是真坐禅也」と。義堂周信は同年3月に南禅寺住持。
暖かな激励の言葉である。

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大阪クオリティー

2016-04-17

正木記念館では地元茶道・花道団体展が開催、和服姿の御婦人やスーツ姿の男性の団体で美術館も賑やか。作品を見ているとその小団体が来るので、傍らに寄る(作品正面で長居するので)。

小団体。
作品の前で、「“何でも鑑定団”、見てはる?」「こないだは切手やったやろ、あれと同じもんが家(うち)にもあって・・・」「そうなん。TVで切手は・・・」と。
名品の前に立っているまさに今、ここでそれを話さないといけない話題なのか?

《群仙図屏風》前に立つ小学生(息子)連れのご婦人。
息子曰く「これ(屏風)、久保惣美術館で見たことあるで~。」「へぇ。」「こないだの社会見学、久保惣美術館で・・・」と母親にスマホを見せる。「源氏物語?」と母親。
いやいや、まず盗撮を叱るべきだろう。

正木美術館の1F一隅と2Fは正木孝之氏の茶道具。2Fに《青磁 連弁文鉢》が展示。
小団体の男性がその前で首を傾げている。
2Fにあがってきたご婦人に「先生(←私ではない)、どうみてもこの鉢に菓子3つ載らへんのですが?」と大声で叫ぶ。どうも鉢には菓子3つと習ったようである。お茶の先生も「そうねぇ~」と困り顔。 いや、それはごく普通の青磁茶碗だから。
キャプションには「鉢」とはあるが、見込みに2、3つの小さな虫食い(釉薬のはげ)があり、正木氏は鉢として利用したと思われるが、個人で茶を飲むのには全く問題、遜色ないもの。
それを「碗」としなかったのは、「正木君、こんな碗で茶を嗜んでいるのかね」と茶人から言われたくないからだと想像。
結局のところ、男はキャプションを見て作品を全然見ていない・・・。
茶道・花道に親しみ、習っている者ですら、この体たらく。他は推して知るべし。

以前、大阪市内で大学(某センター)が一般向け講演会を開催。大学職員氏もお手伝い下さる。参加した一男性が尋ね事(質問)あって、大学女性職員氏を呼び止めたが、その時の呼びかけが凄まじい。「おい、ねーちゃん!」。
ここは学術講演会であって決してキャバレーやガハァハァな親爺が集うクラブではない。

日頃、「文化果つる大阪」と罵倒しているが、これが大阪クオリティー。さすがとしか・・・。

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白手袋

2016-04-18

いつから学芸員が白手袋で作品を扱うようになったのであろうか。

ずいぶん昔、東京国立博物館の研究員K氏が国宝《八つ橋蒔絵硯箱》を取り扱う姿をみたことがある。
K氏は入念にガーゼっぽい白布で手を拭っている。白布にはエチル・アルコール含浸。キュッ、キュッと音を立てるほど拭った後は、手の掌を動かしながらアルコールを乾燥させて、おもむろに素手で取り扱い開始。

白手袋は問題。
高級な手袋は繊維が作品の損傷個所に引っ掛かかって、無茶すると損傷部分がぺりっと剥がれる可能性。人(学芸員)の皮膚感覚は鋭く、布(白手袋)1枚挟んだだけでも鈍感に感じる。

かくいう小生も白手袋持参。
ひとつは信仰の対象であるご本尊・ご神体を所有する寺社が仏像(神像)を素手で触ることを嫌がる。これも信頼を得れば、多くは白手袋を外して素手。
もうひとつはマスコミ対策。
「絵柄」として欲しいという要求。文化財=高価なもの=扱うには「白手袋」という図式が既に出来上がっている。マスコミと揉め事を起すのも寺社を巻き込むのでしぶしぶ白手袋。
撮影後、すぐさま素手に。

もちろん、調査前には必ずアルコール含浸“赤ちゃんお尻拭き”でキュッ、キュッと手拭い。
要は手の油分が作品に悪影響を及ぼすのを避けるということが眼目。
目的を見失って手段だけが最優先。

ともかく白手袋は過去の産物かも。

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いかなることでも

2016-04-19

昨夜、熊本県立美術館A氏より熊本地震による文化財被害についてのメールあり。無事の知らせを直接いただき、安堵。

文化財被害は想像以上の惨状を呈す。重文の釣鐘は落下し、県指定の仏坐像は光背(台座右下)が頭部に落ちて頭部が落下、割損(左下)。体部の矧ぎ目も割損などなど。美術館事務室もすさまじい状況。

朝、短文のメールを打ちながら、人命のこと、ライフラインの復旧、そして文化財となった時、いったい自分は何ができるのであろうかと。

阪神淡路大震災の折、ほんの僅かだが関わったことがある。文化財被害の実態把握として、神戸市から依頼を受けた方と各お寺へうかがい、被害状況の記録と堂内に散乱した仏像の破片を採取してビニール袋に入れて保管をお願いする。
いや、必要なら何でも。被災地は3号配備の状態だから、なにも文化財に拘ることはない。手伝うことが出来れば何でも。

そう思いながら朝の授業へ向かう。

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続 亡国のTV

2016-04-19

過日、「『危機』を『喜々』と解するバカモノ」「TVはなんといっても反省しない、責任をとらないの典型」と記したが、何もそんな期待?に応えんでいいから。

カンテレ(関西テレビ)の中継車は熊本で給油の割り込み(18日)、毎日放送は“被災地で弁当調達”(19日)。
カンテレは18日にお詫びとニュースを流したが、今日には早や「お詫び」はトップ頁から消え、毎日放送は「関西からの支援続く」と、はぁ?なニュース。共に在阪TV局。次はどこのTV局かとつい疑心暗鬼。

こういうぐだぐだのTV局の状態を心理学、精神分析では「躁的防衛」というらしい。
あまりにもショックなこと、苦しいことがわが身に降りかかってきた際に、その事実を真っ向から受け止めることが辛すぎるので、無意識裏に否認し、逆に「万能的な爽快感、支配感、勝利・征服感、軽蔑」を作り出すことによって、ストレスの原因を忘れようとする心の働きを指すことだそうである。譬えが非常に不謹慎ながら、いわゆる「葬式ハイ」。
とすれば「報道」とか声高に叫んでストレスを感じるよりも、何がおこってもタレントを多用して、お笑い番組、バラエティ番組だけを作り続ける方がよほど精神的にもいいんじゃない。
「報道」といった無理・無茶は禁物。

TVも(「からして」 とすべきか)「大阪クオリティー」。

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信貴山縁起絵巻

2016-04-20

朝から奈良博「国宝 信貴山縁起絵巻」展へ。

平日、午前中なのでほとんど並ばずに拝見。
「山崎長者」巻は、倉から飛び出す鉢、揺れ動く蔵、大騒ぎの長者宅…と速いテンポで物語が展開。一息つくところで命蓮との交渉。ふたたび米俵が動く急展開。妄想すれば製作当初から詞書がなかったんじゃないかと。

「延喜加持」巻では冒頭から詞書。多くの人は詞書の部分をスルー。ところが、こちらは「かうち」改変「やまと」の部分を凝視。後ろの人が「そんなところで留まって・・・」とどんどん前へと追い抜かしていく。なかなか難しい(巧みな)改変。

「尼公」巻。地面の雪を踏みしめた足跡。信濃出立は冬。紆余曲折あって感動の弟(命蓮)との再会。それを祝うように倉が描かれる。紆余曲折のなかに「猫」。みていると、「猫」なんかどうでもよくなった・・・。
その後、住吉廣保、冷泉為恭、文化庁の模本。不思議なことに文化庁模本には「上げ写し」で模写されているにも関わらず、大仏殿前で野宿する尼公がいない・・・。なんで?

その後、彦火々出見尊絵巻、粉河寺縁起絵巻、地獄草紙が展示、絵巻コレクター後白河院の宝蔵を彷彿。
他に、毘沙門天や信貴山由来の宝物が展示。湛海《不動明王像》(貞享2年)も。
以前「大和の名刹 信貴山至宝展 信貴山縁起と毘沙門天像」展(横浜そごう 1998年)に先立つ調査・写真撮影にわずかだがお手伝いすることがあった。その折にいくつかの近世仏像が展示されていたと思うが、今回は名品ばかり。八尾・意満寺毘沙門天像などに加え、円快作《聖徳太子童形坐像》が出品されていたことに驚き。さすが奈良博。

見終わって後、大学へ。今日は18:00から授業。

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ゴラァ~!!

2016-04-22

授業・会議・打合せ・授業と、はやダブルバーガー状態。

最後の授業を終え、やや疲れ気味ながら過日の学生対応。
「あの猫の話なんやけど…」「猫?あぁ、あの話ですか。」
「調べたけど、どうも同じ頃に描かれたようで・・・。」と説明すると、
「別にいいんです。授業でセンセが『嘘、言っている』と思っただけで」。

かなり、むっとしたが、「まだまだ高校生」という家族の声も聞こえ、「そうなんや」と軽くいなして終了。まさに「猫に小判」の状態。
結局は「独り相撲」。疑問は卒論テーマに悩める学生へのストックに。

相手は高校生、高校生… 冷静に、冷静に…と呪文。

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辞めたいです。

2016-04-23

午前中、大阪駅前の大学コンソーシアムで授業。終了後、大学へ。

大学に戻り書類をいじっているさなか、(6年前の)ゼミ生が来室。今は総務部勤務。

開口一番「もう(会社を)辞めたいと思っているのですが…」と相談。
「もう6年か…。じゃ辞めれば」と。「人生、息抜きも必要でしょう」といろいろ雑談に及ぶ。
別れ際、「センセなら、『絶対、辞めるな~!!』とおっしゃるかと思ったのですが、意外でした」。

終身雇用もなくなり、自分が満足、充実できる日々を過ごすためにのみ「会社」が存在。勤務先に人生を捧げる「社畜」は結局のところ毎日の生活を空しゅうするばかり。「晩節を汚す」という言葉もちらほら。

帰宅途中にメール。「もうちょっとだけ頑張ろうと思います」。
あなたが歩む人生ながら、いつでもご相談にのります。はい。

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「大阪ぎらい」の道頓堀

2016-04-24

休日。

昨日の大学コンソーシアム大阪での講義テーマは「大阪の都市と文化」。
ガイダンスだけで終わってはまずいので、「大阪ぎらい」による道頓堀の話題。

いまや「“爆買い”の聖地」となった道頓堀。
5年ほどここに関わる研究を続けたが、もうあかん。
芝居街、演劇の街から文化が花開くといったことを指摘しても、「文化?それって儲かるんかいな」という無反応ぶり。調べたこと、判明したことを展示はもとより様々なところで訴えてきたが、当の道頓堀は、道頓堀川にプール作ったらとかで(結局断念)、文化基盤(遺産)にまったく関心ない。結局、一般向けの講演会やらコンサート(?)で人を集めてお茶を濁して終わり・・・。

「こうした文化基盤(があったこと)を見なかったことにする、どうでもええやんと思う今の(大阪の)大人たちには、ほとほと失望しています。受講生の皆さんは道頓堀にこうした文化があったことを覚えてください。大人になって、この大阪をなんとかしないと、と思った時に必ず役立ちます」と他大学の学生相手に。

沈みゆく大阪の文化(研究)にこちらも下船。

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扇面の画角

2016-04-25

授業準備。モネ《ラ・ジャポネーズ》を見る。

タイトルや背景の団扇とともにジャポニスムの影響を強く受けたとされ、何度も見ている絵だが、今日はなんだか不思議な違和感。うむ?
よく見るとモデル(モネの妻)が持つ扇子に違和感。なんか扇の角度(左右端の親骨)、でかくねぇ?

《ラ・ジャポネーズ》の画像を取り込み、PC画面に分度器をあてる おバカ教員。約175度也。

いっぽう日本の扇面は120度から150度ぐらい。ちなみにドガの《扇面画》の多くも画角約180度。
そんな扇子、日本で見たことない。もしかしてと「西洋扇」「中国扇」を検索すると、時期不明ながら180度に開いた扇面がちらほら。ジャポニスムといえども、扇に関しては中国あるいはヨーロッパかなと。ふと、ジュリアナ東京の・・・。

再び横道に逸れてしまったと思っていると、授業終了のチャイム。
もうすぐ授業が始まる。あちゃ~。

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つまらぬこと

2016-04-26

帰宅中の車内で、講義の際に書いてもらったミニッツペーパー(コメントカード)を見ようと取り出したが、慌ててカバンの中に戻す。

以前、講師の先生(常勤・非常勤かは不明)が、電車内で小さい紙(たぶんミニッツペーパー)を見ながら朱書きでコメントを記入していたところ、それを見ていた男性が「車内で答案を採点するというのは、(個人情報の観点から)いかがなものか」と大学へクレームが来た。
それ以来、この類は他人が(見ようと思えば)見ることができる所では開陳しないことが、了解事項。
小さい紙ながら0点とか8点とか記しておれば問題だろうが、まったく窮屈な世間である。

所在なさげに座席(ボックス型)に座った会社員をみていると、携帯でゲーム中、その隣はタブレットで貸借対照表(?)を開いて確認(もうすぐ株主総会)しており、前の座席ではSNSに書き込み真っ最中。その前で他人の私は吊革を持ったまま立っている。

クレームを寄せた男性はきっと車中で立ったままだったのであろうか。なかなか座ることができず、腹立ちまぎれに大学へクレームを寄せたのかもと。
なんせ、うちのミニッツペーパーは紙片左肩に大きく「関西大学」と印刷済。まるわかり。

こちらも最寄駅まで立ちっぱなし。

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萩野咲慶

2016-04-27

久々の仏師ネタ。
萩野咲慶(1812~78)は江戸後期から明治時代にかけて活躍した新潟・佐渡の仏師。

咲慶の孫にあたる萩野由之『佐渡人物志』「産業及技藝」(昭和2年)には、咲慶は17歳の時に佐渡・五十里に滞在する京都・福田長慶に従って彫像を学び、24歳(天保6年・1835)、上京して林如水に学ばんとしたが、林如水は既に死去、京都・奈良の諸社寺を訪ねて幾多の彫像をみて帰郷、佐渡にて神仏霊像の彫刻師になったと記す。

『佐渡人物志』などには咲慶17歳(文政11年・1828)の時に福田長慶に学ぶとあるが、五十里に滞在した京仏師は智積院仏師福岡長慶。滞在時期は天保3年(1832)で、咲慶21歳の時。
佐渡は智積院と関係が深いようで、佐渡・新穂の農家の三男である土田麦僊も17歳で智積院に預けられたが、得度前日に出奔し鈴木松年門下に入っている。

略歴の「かかる師(長慶)の許に長居するのも無益」とは失礼だが、上京後、林如水の死を知ったということは、佐渡で長慶から如水の名を聞いたのであろう。なぜ長慶は如水を紹介したのであろうか。
ちょっと不思議。

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もっとがんばりましょう

2016-04-28

話題の『フランス人がときめいた日本の美術館』(ソフィーリチャード 集英社)。

外圧本(「ほら、外国人が日本の美術(館)に言及しているでしょ。あなたがたも日本の美術を学ばないと、グルーバル時代に生けていけない」)として学生に示そうと買ったのだが、頁をめくると、むぅ・・・。

「お役立ち情報」として英語の有無や祝日も書いてあるので邦訳本とわかる。原著は『The Art Lover’s Guide to Japanese Museums』(2014年4月)。
冒頭、8頁で日本美術のジャンルと現代までの歴史を概略するが、かなり驚きの内容。
「釈迦族は長く垂れた耳たぶが特徴です(貴族の家に生まれたため)」(p13)などはご愛嬌だが、「屏風はふつう、2面を1双と数え」、「(絵巻物は)物語の場面が約60センチごとに区切られて続いている」(p12)など著者の誤解がかなり目立つ。「めでたいとされる動物のひとつが虎で、力と勇気と権勢を表わしている」など、はぁ?といったことも。
力と勇気と権勢=めでたい?

翻訳者もボルドーワインやアガサクリスティーには関心あるものの、日本の美術については至って疎いようで、日本の美術館は展示替えがあることについて「その理由は美術品の性質にあります」と訳す。続く文章は「天然顔料の褪色・劣化」に触れているので、そこは、性質よりも材質だろう、普通。
内容も那珂川町馬頭広重美術館のコメントが「隈研吾の建築には心底感心します」などと、感心したのはそこですか?といったはてなな印象。

日本美術をちょっと見知った程度の著者と日本美術に無知な翻訳者とのコラボ―レーション。集英社もよく出版したものである(マンガに傾倒しているから?)。
ちょっとは早稲田大学で日本美術史を学んだハリーパッカードの爪の垢でも煎じて飲めばとも思うのだが。

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七は「ひち」である

2016-04-29

「昭和の日」ながら朝から授業。もちろん半期15回の完全実施ゆえ。出席学生、少なめ。

井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)読了。
抱腹絶倒の内容はさておき、こちらも似たような経験をもつ。

研究紀要には英文が必要。「七条仏師」を「Hichijou-Bussi」とした。
しばらくして編集委員の方から「しちじょうぶつし」じゃないですか、と怪訝そうに疑義。
いやぁ、そんな訳はないと思い、大慌てでN先生の『日本中世の仏師と社会』(英文サマリーが掲載)をみると、「Unkei,the Kei School,and the Shicjijo Bisshi」と。
ありゃ「しちじょうぶつし」。
以前も索引付きの史資料で「ハ行」を探して、ないやんと早合点して本を閉じたことも。ちなみに『国史大辞典』でも「しちじょうぶつし」(谷信一)。

しかし七条仏師は京都“中華思想”のど真ん中(四条烏丸通水銀屋町)に居住していたので、彼等が生きておれば「『しちじょうぶつし』やあらへん、『ひちじょうぶつし』!」とダメ出しされそう。

私のワードは「ひちじょう」を打つと当たり前のように「七条」が候補の冒頭にあがる。

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2016-04-30

 
連休開始。
兵庫陶芸美術館「明治有田 超絶の美 -万国博覧会の時代-」展へ。

明治初期に、社会インフラの整備や近代化・洋風化(のための外貨獲得)が急速に行うことができたのは、陶磁器をはじめとする手工業生産(+梱包材としての浮世絵)の賜物であると考えており、生産品のセレクションは国内・外の博覧会が担ったと言うものの、「どうして茶碗なんかで軍艦が買えるのですか」などと全く相手にされない。
いやぁ、考えてもみぃ。2mもある花瓶(ウィーン万博出品の《染付蒔絵富士山御所車文大花瓶》)なんか日本でどう使うねん・・・と授業の愚痴を言っても始まらない。

多数の作品。明治初年からポット、クリーマー、シュガー入れ、カップ(5客)のコーヒーセットがあることに驚き。和風文様ながら西洋食器を意識した器形もあり。トカゲのような雨竜を貼り付けた壺、対になる花瓶の花窓内は左右対称(反転)した図柄。こういうのがヨーロッパで好まれた。
パリ万博に滞在中の8代深川栄左衛門に宛てた深海墨之助の書状。パリでの調達希望項目。「摺石機械」「模様類絵本」「錦絵ノ具類」「油絵筆(大・中・小)」。「錦絵ノ具類」は「右、佛国製第一等也」とし、「錦絵ノ具ヲ油ニテ解(ママ)キ ナマリ(チューブ)ニテ作タル」「色ハ御望次第 何色ニテモ有候」と。
初期香蘭社は1879年に現・香蘭社と精磁会社に分離。ちなみに香蘭社の社名は「カオリン」に由来。
香蘭社の褐色下地は白磁に染付といった雰囲気に合わないと思って見ていたら、なんと清朝黒地五彩(ブラックホーソン)を意識した作品だったのかと。他にも仙蓋瓶を意識した秋草牡丹唐草文の水注。いっぽう「精磁会社」もミントン写しの瓔珞文コーヒーカップ。

明治12~30年にかけて徐々に西洋向けデザインと日本向けデザインが意識され始める。違いはやはり余白の有無。明治28年に皇室向け洋食器にパルメット文、明治12~30年頃の《色絵褐地花喰文壺》などは洋画と同じく、天平回帰の動きだろうか。

満足しつつテーマ展「色絵よもやま話 -兵庫のやきものから-」。
こちらはある意味興味深い。京焼写しの色絵亀甲文手桶形水指(明石)はともかく呉州赤絵や色絵花鳥図鉢などの明朝写しを基本とした三田や珉平(淡陶社)など江戸時代そのままの姿勢。コーヒーカップやキャセロールに和風文様-ヨーロッパ-など全く眼中にない。

大満足・納得しながら館を出る。

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