日々雑記


メーデー

2016-05-01

朝から大学。

乗換駅前で、メーデーのポスターを見て(左後ろはハルカス)、地下鉄の階段を下りようとするとパチンコ屋。早くも並んで開店を待っている人たち。なんか不思議な光景。

連合主催のメーデーには安倍首相も参加、「景気回復の実感を手に入れることができるよう全力を尽くす」と。
ま、企業に賃上げを促し、ともかく賃上げが政府主導で行われたので、さしたる驚きもないけれど。
労働者からみると、連合系と全労連系に分裂したままの野党系はいったい何をやってるという感じ。「さらなる賃上げ」「企業間や正規・非正規社員間の格差是正」もむなしく響く。

町工場の中で育ったためか、メーデーといっても5月1日(今年はたまたま日曜日)は仕事ですといった労働者が大半。「赤旗持って公園へ遊びに行ける人はよろしいなぁ」と聞いたこともある。
親方が「よっしゃ、君らの言う通り来月から賃金倍に上げたる。せやけど、来月末で工場、たたむで。ええな!」と逆ギレしようものなら、メーデーどころではない。
そのあたりが何時までたっても見えていない野党。被雇用者だけが労働者やあらへん。

休日は授業、電話、メールもなく、図書館も開館しており、けっこう仕事が進む。

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◎ □ △

2016-05-02

某所より、とある報告書を頂く。

頂いておきながらここに記すのも憚られるのだが、文章中の所蔵者・仏像名の前に◎ □ △の記号が並ぶ(◎の中黒も)。つい「あぁ、まただ」と思ってしまう。

凡例にそれぞれ「国宝」「重要文化財」「府県指定文化財」「市町村指定文化財」と記すものの、読むほうとしては実に読みづらい。展示図録ならいざしらず、専門家によるシンポジウムなのでことさら指定の有無が問題になることもないのに。

時折、指定品ばかり展示して自己満足に浸っているであろう展覧会もあるが、新しい発見とか新しい見解を示さないと、見ている方は面白くなく、つい自分で見つけることに励んでしまう。

一度、これまでの指定、特に□ △を外して未指定品も含めて、企画者が考える◎ □ △を再構築してみてはいかがか。そうすればもっとエキサイテイングな展開になったであろうに。
(と、シンポジウム会場を凍りつかせた前科者が言うべきことではないが・・・。)

残念。

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天理参考館

2016-05-03

天理参考館「大和名所絵図めぐり一枚刷りに見る、ふるさとの風物―」展へ。
刷物、絵図、名所記から読み解く大和の名所案内。

地図や絵図を扱った奈良の版元 絵図屋庄八の「大日本早引細見絵図」は黒線で「大和巡り道」、朱線で「西国巡礼道」が記されている。この両方を歩くと大和の名所・仏閣がほぼコンプリート。

「大日本神社仏閣御領」上中下は各地の寺社石高を相撲番付に見立てた番付。「上」では、神社の部で伊勢神宮(内宮)の4万2千石、春日社2万2千石、石清水7040石、(出雲)大社5千石余と続く。寺社では高野山金剛峯寺21700石余を筆頭に興福寺21119石、東叡山1万3千石、延暦寺、増上寺各5千石。奈良の寺社で千石を超える寺社は他に吉野蔵王権現1013石、東大寺2211石余、法隆寺千石余。

「和州奈良之絵図」「ならめいしょゑづ」では、描かれた寺社の状況で絵図の刊行時期がほぼわかる。元禄5年(1692)大仏開眼、宝永6年(1709)大仏殿再建、享保2年(1717)興福寺金堂・南円堂・南大門の焼失、寛政元年(1789)興福寺南円堂の再建、安政6年(1859)元興寺金堂・五重塔焼失。

「旅館ますや源右衛門引札」「御定宿紀野国屋甚八・だらに助所立花仙吉引札」は同一名所案内分に旅館名のみ違えた引札の定番。これはさほど問題はない。しかし猿沢池畔にある同じ旅館の図柄の引札に「旅亭金波楼」「いんばんや庄右衛門」と。看板もそれぞれ違える。またもわずかにクローズアップした構図で「御定宿小がたなや善助」。いくら旅館の立地の良さを強調し、あるいは複雑な事情がありつつも、客は迷うだろうと思う。

木版色刷「大峯山掛図」。上部中央に「大峯山」と刷り、右に深山弁財天像、左に地蔵菩薩像を描き、画面中央に蔵王権現、右下には役行者像、左に理源大師像、周囲に大峯八大童子を配置する。もちろん理源大師像は山伏姿にて。

常設展で興福寺東金堂の絵馬(天正13年・寛永20年)が展示されていたのにはちょっとびっくり。

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村野藤吾の建築

2016-05-05

村野藤吾建築をバンバン潰して新しい学舎を建てた側の者が言える立場ではないが、村野の北九州市立八幡図書館が解体の危機。
解体後は駐車場という何とも情けない跡地利用。

こういう重要な建築は国登録有形文化財でも指定しないと、ペラペラの建物ばかりとなってしまう。ペラペラの建物ではペラペラの学生しか生まれない、そういう気がする。
旧図書館(現博物館)も書庫部分を壊した後、残った部分が国登録有形文化財となった。

博物館では5月21日に「村野藤吾建築をめぐるトークと見学会」を行う。橋寺知子先生の講演と「村野藤吾作品としての関西大学千里山キャンパス」と(残った村野設計の)学舎見学(要申込み)。詳細は博物館まで。

失われた大学の村野建築(一部)はこちら。今、籠っている部屋(研究室)も村野藤吾の設計。

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猫絵

2016-05-06

学生に振り回された「日本最古の猫」。
日頃から親しくさせていただいているO氏のブログより、日本最古の猫は法隆寺宝物館 秦致貞筆《聖徳太子絵伝》(延久元年・1069)に描かれているとさりげなくご教示を受けた。場面は物部守屋の焼き討ちであるとも。

さっそくe-国宝で確認。
確かに堂舎入口でうずくまる灰色と黒の斑の物体。たぶん猫だろう。
それとないご教示に深謝しきり。

授業中、ふと件の学生と目が合う。
講義を続けながら、もしもあの時、「猫絵」に関心があれば、猫についていろんなこと(愛猫家の宇多天皇や狩野探幽筆《佐久間将監像》)が広がったのにと思う。

他人事ながら、やっぱり「猫に小判」かと。

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京都

2016-05-07

朝から京都国立博物館「禅-心をかたちに-」展へ。

良全筆《釈迦三尊像》。横でみていた若者が右手に巻いた数珠?を掲げ「カッケー。俺と同じだ」と。なるほど。
《臨済義玄像》。穏やかな表情(大徳寺)から一転、「怒目奮拳(どもくふんけん)」像(養徳院)に。養徳院画像は中幅の達磨像が左右幅(臨済像・徳山像)より小さい。表装も異なり、当初より三幅対でなかったのかも。
吉山明兆《円爾像》はでかい。何らかの機縁・法会のため製作されたようだが、仏殿に掛けられるのだろうか。
無関普門所用《九条袈裟》には阿修羅像も刺繍。妙心寺開山の関山慧玄像。死の直前、画像の製作を禁じて以後100年以上、製作されなかったとする。その禁を破ったのは妙心寺を再興した日峰宗舜、雪江宗深(前期展示)。秀吉に書き直しを命じられた永徳筆《織田信長像》や政宗17回忌に際して製作された伊達政宗倚像も興味深い。
彫刻は康運作《慈雲妙意像》や建長寺伽藍神像、聖僧文殊像など。もちろん方広寺・宝冠釈迦三尊像も。

その後、土曜講座「仏師の古文書」を拝聴。羽田聡氏による「仏師院吉関連文書」に関する内容。丹波国国分寺地頭職は永正6年(1509)に、院勝と土佐光信、覚雄との争論に敗れて幕府が収公との由。拝聴しながらその他色々と考えることも。

講座終了後、龍谷ミュージアム「水 神秘のかたち」展へ。
水をキーワードにしたさまざま造形作品が展示。春日龍珠箱などを見ながら、なぜ善女龍王像と雨宝童子像が付加されたのだろうかと気にかかる。
見ているうちに楽田寺《善如龍王像》。懐かしい図である。まだ学部生の頃、拝見して興味深く思った作品。あの頃は近世初期の作品と聞きながら面白い図様だったので白黒の細部写真を複写させてもらったことがある。公民館2階で夜におでんを食べながら編集のお手伝いなど、ちょっと酸っぱい思いも甦る。室町時代(15世紀)の作品との由。

閉館直前に退出。疲れたので関空特急はるかにて帰宅。

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飛鳥史学文学講座

2016-05-08

好天。関西大学教育後援会 飛鳥史学文学講座のため、明日香村中央公民館へ。

講演前、役員の方々と歓談。前回の菅谷先生の講座では東大寺執金剛神像に触れられたらしい。
スライドプリントを見ながら、「これが奈良博で出品される日も近いでしょう」と。「『天平展』では、新薬師寺頞儞羅大将像、『東大寺のすべて』展では戒壇院四天王立像や法華堂日光・月光菩薩立像が既に出品されています。残る“大物”はこれしかないと思うのですが」と。

講座は、善派仏師について。ちょっとした知見(希望的推論)を交えて講筵。120名余がご聴講。深謝。あれこれと話題が飛ぶのを恐れ、昨夜にスライドを厳選したのが裏目。予定より10分ほど早く終了。

終了後、橘寺。橘寺から見上げた空がきれい。

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ぼやいてはる

2016-05-09

終日雨天。
同僚の中谷先生がぼやいてはる

無理もない。肝心の大阪(の博物館・美術館)は殆ど関心がない。地元出身の絵師(金子雪操、日根対山、須磨対水など)には多少の関心はあるものの、多くは資料購入費すらなく、大坂市中の絵師は大坂歴博や大阪市美におんぶに抱っこ状態。
大坂画壇の作品を網羅的に収集・研究しようとすると、行政サイドではなく在阪大学がなんとかしないといけないのだが、多くの大学も文科省などの指示などでそれどころではない。
ぼやくのもむべなるかな。

いやぁ、もう海外の然るべきところで収集保管されておればいいんじゃないかと諦観。関空-欧州7万円で行ける時代なんだから、何も行政や大学が無理せんでも、見たいと思う人は海外に行ってみればよいのではないかと。
「欧米のコレクターは関心」ならば、そのうちにつられて日本人も関心を寄せるのではないか。そうなれば朝日新聞社主催で「大坂画壇 里帰り」展でもすれば好評間違いなし。浮世絵ブーム、若冲ブームの再来である。
そもそも大阪人に(文化的)何かを期待しようと思っても土台無理である。幾ら西山芳園の扇面花鳥画が3千円であっても「腹の足し」にならないモンは買いまへん。

記事の後段には「今秋の創立130周年記念展で一部が紹介される見通しだ。」とさりげなく大学博物館のPR。感謝。

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困った

2016-05-10

久しぶりに博物館へ寄ると、様々な打合せ(この後、行事が目白押し)。
行事のなかに「蓄音機で聴くSPレコード演奏会」がある。蓄音機(HMV193 英グラモフォン社 1930年頃製造)は昨年度購入資料(かなりの英断)。

それで「選曲をセンセにもお願いしたい」と。
「わ、わかりました。」と快諾したものの、小・中学校の「音楽」は体育に次いで低い成績(高校は「美術」)で、担任から成績表を指差されて「ほらぁ、ここにアヒルさんの行進が・・・」と苦い記憶しかない。
「演奏及び選曲」として名があがっているが、もちろん私が「演奏」するわけではない。手回しで蓄音機のネジを巻くぐらい・・・。
篠塚局長は早々とドヴォルザーク『新世界より』を選択されたが、上野製薬株式会社からご寄贈いただいたSPレコードのリストをまだ見てもいない。
困った・・・。

いっそのこと「午後のひと時、○○さん(先生)からのリクエストにお応えして・・・」とするか。

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加筆

2016-05-11

大仏殿前で野宿する尼公がいない・・・。なんで?と、思ったが、野宿の尼公は後世の加筆だったらしい。

慌てて、図録を読み返すと「様々な検討結果から後の加筆・改変と思われる個所は基本的には描かなかった」とある。
詞書には「夜一夜申してうちまどろみたる夢に」とあり、大仏殿扉内側で寝転がっているのは夜だったのか、と。ぐぬぬ…。
図録には文化庁模写の図版が6枚あるが、改変個所は見た限り(保険をかけておく)例の個所のみ。なかなか厳しいものである。詞書、そして絵にも加筆・改変があるとすれば、まだまだ検討の余地あり。

京都・大山崎町に隣接する大阪・島本町には「東大寺」なる地名をみつける。もと東大寺領。

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大阪歴博

2016-05-12

午前中、大阪歴史博物館「平成24・25・26年度 新指定文化財」展へ。 仏教美術関係(オリジナル)は、今宮夷神社 男神坐像・男神半跏像、源聖寺地蔵菩薩立像、絵画は刺繍青面金剛像(四天王寺)、刺繍西国三十三所観音像(宝泉寺)のほか真宗関係(阿弥陀如来画像)。
パネル展示ながら荘厳浄土寺叡尊坐像(正徳3年・1713)や西念寺千手観音立像(享保5年・1720/平田庄兵衛)も指定。

源聖寺地蔵菩薩立像は頭躰部通して手首、足先を除いて一木造(内刳りなし)。一瞥すると平安時代中期頃か思うものの、細身の体躯や大振りの衣文から13世紀とされる古様な作品。いきなりナックルボールを投げられたよう・・・。三津寺の仏像もそうだが、最近、大阪市指定の仏像は変化球が多い。
刺繍青面金剛像(四天王寺)の童子は左は柄香炉を持つことから聖徳太子、右も拱手するが聖徳太子だろう。庚申信仰の根本像とされる。延宝5年(1677)の寄進。

常設展示では大坂画壇の銭必東や岡田半江の作品が並ぶ。近代では村野藤吾の写真パネルと心斎橋プランタン(1956年)の椅子、テーブル、衝立が展示。
両脚が細い鉄心?が2本組み合わせた点や弧を描きながら交差するデザインは村野ならではのもの。

朝から良いものを見た。午後から授業。

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講演会

2016-05-14

昨日から喉が痛いが、今日は声がかすれている…。どうも夏風邪。

お昼前、VIP‐OBを迎えての博物館案内。

午後より企画展「なごみのガラス-坂崎幸之助 和ガラスコレクション-」講演会。講師は神戸市立小磯記念美術館・神戸ゆかりの美術館 館長 岡泰正先生。
冒頭、司会・講師紹介をつとめる。
講演は石川・七尾室木邸のガラスに始まり、八王子城、長崎出島、そして坂崎コレクション、関大博物館のガラス器に話題が及ぶ。

「『作家』ではなく『職人』を育てよ」とも。
作品を前にオレが、オレの主張がぁ・・・、というのとは全く別次元の世界。

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教育後援会

2016-05-15

午後から教育後援会総会・学部別教育懇談会 いわゆるPTA。

学部別教育懇談会の前後に博物館へ。THE ALFEEを知っているためか、観覧者多数。ちなみに坂崎幸之助氏は明治学院大学文学部英文学科中退(名誉学士)。関大OBではない・・・。

教育後援会総会の案内チラシに羽間コレクション「紺糸威桶側鋲留腰取五枚胴具足(浅野忠義銘)」が掲載。
案内チラシを持参され、これがみたいと仰る方あり。受付付近にいたこちらが「今は展示していないんで・・・」と言ったところ、受付の職員氏が「左手、入ったところに展示されております」とやんわり訂正される。
覗くと確かに展示されている。掲載されたことで急遽、展示したとの由。「紺糸威桶側鋲留腰取五枚胴具足」の見どころは全く分からない(武器・武具は苦手)が、よいものらしい。

蓄音機(館蔵資料)演奏会も随時実施。博物館は17時にCLOSE。
本日の入館者1240名。既に4000人以上が入場。

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リアルなダンボール

2016-05-16

ヒト様の事を言える立場ではないが、同業他者の車内広告。

ダンボールでイベントのモニュメントを製作中。
つい、イベント(在阪TV主催)が終われば・・・と想像するまでもなく、しばらく後には粗大ゴミとなって廃棄処分。「ま」とか「く」とか切り抜いた段ボールなんか誰もほしいとは思わんでしょ。
コピーには「モノづくりは、リアルな現場でこそ磨かれる」と。

小型の家電製品を買うと、折り紙細工と見紛うばかりの1枚ダンボールからなる緩衝材が入っている。熊本地震の際にはダンボール製の簡易ベッドが支援物資として配布されている。こういうのが、「リアルな現場」というべきではないだろうか。
一過性のイベントでダンボールを大量消費してモニュメントを造っても、何の意味ももたない。
学芸員出身だからだろうか、これだけの段ボールがあれば、蓋付きの収納箱がいくつ造れるだろうかとつい机上の計算。

大学の車内広告はどことも頭を悩ませるが、これはあまりにもお粗末。

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『撥雲余興』

2016-05-17

数多く抱える“宿題”のなか、長く難渋しているのが、木造坂上田村麻呂像。

松浦武四郎『撥雲余興』(明治14年)に来歴が記載されており、現物も東京・静嘉堂文庫に現存。
表面の甲冑はいかにも中国古代兵の俑を思わせる表現ながら一木造彩色の資料。『撥雲余興』には嘉永7年(安政元年・1854)や安政2年の年号があるので、恐らくその頃の製作とみられるが、形姿の類例がない・・・。
甲冑姿で床几に座り軍配を持つ坂上田村麻呂像もあるが、甲冑表現の近いものとして月岡芳年《月百姿 田村明神 音羽の月》がある。やや前傾姿勢なども似ているが、刊行時期は明治19年。

『撥雲余興』「坂上田村麻呂像」の挿絵を描いたのは河鍋暁斎。暁斎と芳年は国芳門下の兄弟弟子である。国芳関係者は前掛け(甲冑)姿でやや前傾する姿を田村麻呂の図像として捉えていたのではないかと妄想するもそれもおかしい話。ふりだしに戻る。

その他の松浦武四郎木彫資料も何から考察すればよいのか全く見当がつかないものが多い。だからこちらに話が来たのかと納得。

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行くぜ 山形

2016-05-18

クラウドファンディングによる山形・永昌寺十六羅漢像の修復。
目標額83万円をはるかに超え、最終的に159万8千円を達成。
当初は第三 迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)尊者像のみだったが、目標額2倍近い寄進を頂き、第七 迦理迦(かりか)尊者像も修復。
迦理迦尊者像台座裏には「七条左京」の墨書銘があり十六羅漢像は康朝の手による製作とわかる。

公開修復:6月4日(土)~12日(日)
記念講演会:6月4日(土)19:00~20:30
修復完成記念公開:6月14日(火)~30日(木)
詳細は こちら

相応院・大日如来坐像(福地善慶)と並んで近世後期彫刻の頂点をなす作品である。この後七条左京家の作品は下降線を辿り明治に突入。実人を思わせるなまめかしい表情は”精神性”がないとも酷評されるが、この写実の高さが明治の彫刻へと繋がる・・・。

行くぜ 山形。

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端渓の「眼」

2016-05-19

午前中、博物館関係で法人役員の方(顧問)と面談。めちゃめちゃ緊張。

面談のなかで「硯」の話題が出て、端渓の硯は「眼(がん)」が多いほどよいなどと。
和やかに面談が終り、博物館に戻る途中、「端渓の硯の『眼』って何ですか?」と同行の事務方。
「硯石の中に小さな斑点があるんです。それを『眼』と言うんだそうです」「硯は盥の水に浸して石を見るとわかるそうですよ」などと歯切れ悪く・・・。

中学生の頃、書道の時間中ずっと墨を摺り続けていた小生(それ故今でも悪筆)、文具七宝といってもピンとこないが、奥本大三郎『東京美術商売繁盛記』(中公新書)で「澄心堂」が取り上げられている。それぞれに奥深い内容。

「いやぁ、美術商を取上げた本の聞きかじりですよ」と弁明。
門前の小僧にも及ばないが、なんとか切り抜けた。

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無題

2016-05-20

夕刻、8年間博物館で働いて頂いた方の退職式(昨夜は歓送迎会 本当にご苦労様でした)後、大学某所へ。

現在、学芸員諸氏は秋の創立130年記念展に向けて活躍中。某所で寄贈絵画を選択中。
覗きに行ってみると、抽象絵画(でかい!)を前に。タイトルが付けられているが、その意図するところ全員理解できず。ま、抽象画なんで。
「せめて『無題』だったら、見る人があれこれ、想像できるんですが・・・」と展示資料候補リストに抹消線。
こうして学芸員によって選択された作品や資料が展示場に並ぶ。

相変わらず「ドーンといきなはれ。後の責任はこちらが持つので安心しぃ。」と小職。世の中には自身の過ちをスタッフに詫びさせる阿呆もいると聞く。 何ゆえに一生懸命に仕事している人間が阿呆の失敗・失言を詫びなければならないのかと、かなり憤りを抱くことも。

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村野藤吾ツアー

2016-05-21

午後より「村野藤吾建築をめぐるトークと見学会」。司会・進行は小生(なんか最近定番化してない?)

本学教職員、学生や府文化財担当者も含め100名弱の参加。1967年に村野が設計したB102教室で橋寺知子先生による「村野藤吾作品としての関西大学千里山キャンパス」の講演。懐かしい写真が続々。

その後自由散策と関大学舎ツアー。
多くは村野ファンらしく、壁面の写真や博物館の螺旋階段などをカメラに収めその後、見残しのないように学舎ツアーに参加。

残っている村野建築は約15棟ほど。関大最古の建築は阪急の車窓から見える一高学舎(1953年)。1955年(簡文館・現博物館)から1960年代まで学舎等々の設計建築が続き、最後は一高新校舎(1980年)に。写真は第1学舎の螺旋階段(現存せず)。

学生にとって普段何気ない校舎にカメラが向けられ、行き交う学生も、何の団体だとやや驚きの表情のなか学舎ツアーに向かう。

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ちょっとうるっと

2016-05-23

授業で東大寺南大門金剛力士像。

簡単な概略の後、ビデオ『甦る仁王~吽形編~』を視聴。教室の照明を弱くすると、さっそく教室の後ろでぐだ~と寝る者あり。ヲイヲイ。
吽形像の剥落留めから始まり、南大門からの搬出、解体、燻蒸、そして組み付け。まだこの頃、学生は生まれてもいない。

見ていると、委員長の西川新次先生、美術院の山本敏昭氏、文化庁の松島健氏、奈良大学の井上正氏など、今では鬼籍に入られた方々の御顔が映し出される(もと上司も)。
特に懇意にして頂いた方々の肉声を聞いていると、なんだかうるっと来てしまった。
解体修理開始からもう30年近く前。

ひとり感慨に耽っていたが、学生の反応はいまひとつ。

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妄想夜話(その1)

2016-05-24

洛中一のダメダメぼんぼん “尾形光琳”。
元禄9年(1696)までに父宗謙より相続した財産はすっからかん。ようやく絵筆で生計をたてる決意。

元禄9年には江戸に箔座が設置され、全国の金箔・銀箔が統制。元禄11年(1698)には金・銀箔の使用を停止する御触が洛中に流布。これから絵筆で身を立てんとする光琳には痛い御触。

そこで光琳は“金箔・銀箔めいた”素材を(発明←ここがエライ)使用。
《燕子花図屏風》の燕子花の下に金箔がない、晩年の《紅白梅図屏風》にも金・銀箔が認められないなどと科学的に報告される(異論も大いにあり)が、光琳といえど幕府のお達しに逆らうわけにもいかず、とはいえ真鍮を使うのもみじめっぽい。そこで代用金箔・銀箔を使用。

《紅白梅図屏風》は津軽家伝来、大和文華館《中村内蔵助像》(元禄17年・1704)より後の作品とされる。
中村内蔵助は元禄12年に銀座年寄、正徳4年(1714)に闕所、追放。宝永2年(1705)には、金箔・銀箔の使用が全面禁止(『徳川実紀』)。
《紅白梅図屏風》に金・銀箔をふんだんに使用すれば、中村内蔵助の極刑や津軽家も罪科に問われかねない・・・。そこでかつて使用した“代用金箔・銀箔”に変更。

今日の光学的調査成果・議論を無視した妄想夜話。

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“遊軍”

2016-05-25

午前中、某市で襖絵等の調査。

大学教員も大変ながら市町村の文化財課も大変。職員はごくわずかだが、絵画、彫刻、工芸、建築、古文書、考古資料、民俗等々あらゆる文化財を担当しないといけない。専門は不問。調査もしなきゃならんし、時には住民からの寄贈・寄託の手続きや保管場所の手配・確保などなど・・・。しないといけないことが山積。そうなると“遊軍”の我々が各分野でお手伝いすることに。

こちらも“仏像”はもちろん、絵画・工芸など「美術」と思しきものはすべて扱う。
でないと、絵画は絵画の専門家、工芸は工芸の専門家などと個別にお願いせねばならず、その交渉もまた大変。よい作品、まあまあの作品、ダメな作品の加減が分からず、「これを見てもらっても大丈夫だろうか」と交渉前の不安もよぎる。そうした場合も法量と写真のリストさえあれば、後はなんとかなるだろう。

件の襖絵は「常信」の落款があるが、もとより(狩野)常信の作ではない。一部に大きな亀裂があるものの、瀟洒な山水図襖。
その後、修理の話に及ぶところだが、今日のところは現状確認にて委細は後日。

午後から会議。大急ぎで大学へ向かう。

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妄想夜話(その2)

2016-05-26

週に3回はこの陶板画の前を通る。

住吉大社太鼓橋の左手には、この光景。四天王寺と称されている。下部には石鳥居も描かれて・・・と説明。
しかしながら描かれた塔は多宝塔、横には経蔵(鼓楼)様の袴腰の建物。

周知のように四天王寺は五重塔・金堂を巡る廻廊があり、廻廊の北端に講堂があり、現状では講堂(廻廊)の外側に北鐘堂が存在する。
いっぽう、画面をみると、袴腰建物と多宝塔は接近、右側にもお堂が近接しており、廻廊は全く描かれていない。
建物の不連続(境目)からみると、塔と石鳥居の間はかなりの画面が存在したとみえる。この右側は太鼓橋。

見る限り、これを四天王寺とみなすのは難しく、住吉神宮寺ではないかと。
『住吉名勝圖會』に描かれた神宮寺の挿図をもとに東北方向からみれば、西塔、鐘楼、札所、常行三昧堂とかなり密接。そして石鳥居はまさに住吉大社西鳥居。
つまり四天王寺は描かれていないのである・・・。

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運慶の没年

2016-05-27

運慶が亡くなったのは、『東寺諸堂縁起抄』所収の仏師系図にみえる「貞応二十二十一死」の記述や来迎院文書からの補強により貞応2年(1223)12月11日とされている。
これに対しては、なんら問題ない。

ところが、近世に入ると『東寺諸堂縁起抄』所収の系図を知らなかったとはいえ、運慶の没年は揺らぎをみせる。
田中家『代々忌日之次序』では寿永2年6月29日、『金光寺過去帳』では安元2年6月29日、美術研究本『本朝大仏師正統系図並末流』でも寿永2年6月29日を没年と記載。
寿永2年(治承7年・1183)となれば南都焼亡から3年しか経っていない。『本朝大仏師正統系図並末流』では運慶の事績として建久8年(1197)のこととして東大寺大仏殿脇侍のことが記載され、まったく矛盾している。安元2年(1176)にしてもデビュー作である円成寺大日如来坐像の仕上げ真っ只中である。

しかしである。両者は年号こそ違え6月29日は共通しており、運慶の命日は6月29日であるとする似たような伝承や史料が存在したのであろう。とはいえ、全くの誤謬。

これだから近世の仏師系図はあてにならない・・・(笑)。

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1945±5展

2016-05-29

兵庫県立美術館で「1945±5」展が開催中(~7/3)。

さすがに宮本三郎《飢渇》など直接的な「戦争画」はないものの、製作依頼した陸軍省(天覧のため)から受領を拒否された小早川秋聲《國之楯》や新海覚雄《貯蓄報国》などが展示。

ちょっと驚いたのが、リーフレット。見開きで片面は次回の「藤田嗣治」展。
渡仏後パリの寵児となり、その後従軍画家として、帰国後は《アッツ島玉砕》など数々の戦争画の大作を描いた藤田嗣治。終戦後、戦争協力を非難されて渡仏。以後終生、日本には戻らなかった。

「廃墟と自然」「世相・前衛美術」として1946年から1949年までの作品が取り上げられているが、きっとそのなかに戦時中は戦争画を描き、敗戦後は世相の非難を逃れて作品を発表していた画家がいるのであろう。

リーフレット掲載の藤田が怒っているように見えたのは、気のせいか。

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曹洞宗のお寺

2016-05-31

知人に山形行の日程を知らせたら、あれも見られては、これも見られてはと嬉しい悲鳴。
有り難い限りである。

こちらが無知なのか(←たぶんこっち)、それとも不思議なことなのかそれすらわからないが、曹洞宗寺院で釈迦・文殊・普賢像を本尊とする寺院が多い。
どうぞどうぞ、とお言葉に甘えて仏壇上方まで上がらせていただくと、あれっ?定印を結んでいる。宝冠を被っておれば別に問題ないものの、ばっちり螺髪がある如来形で法界定印を結ぶ。 ごく普通に見れば阿弥陀如来像である。どうしてそうなるのか理由を見いだせないでいる。そのほかにも色々と不思議な仏像の組合せも・・・。
どう解釈してよいのか分からないが、経験上、現場で返答に窮することが多い。曹洞宗は他宗派に比べて異種組合せが多すぎるような気がする。最近では達磨立像、大権修利菩薩立像ぐらいでは驚かなくなった。

こうしたことをもう少し宗門大学などで研究してくれればいいのだが、そうした動きはなく、”ミニ本山”としての末寺にあってもかなり大きな問題だと思うのだが、こちらもあまり関心はなさそうである。
せめて十六(十八)羅漢像の形姿と尊者名とを整理してくれば助かるのだが。

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