日々雑記


木喰のすすめ

2016-11-01

知己の方から浜松市博物館「遠江の木喰仏」展の招待券をご恵贈。御厚意にあつく深謝。

円空と木喰、どちらかを選べと問われれば、すかさず「木喰」。
何しろほぼ全ての作品に製作年(月日)が書かれている。かつて「木喰」の贋作も見たが、それは似ても似つかないシロモノであった。

円空は面白いものの、贋作多すぎ。
一度、科学的分析(C14年代測定)でもかけて、真贋の分別がまず必要。

昔、電信柱は丸太製であった。それがコンクリートや金属製に替わっていった時、防腐用のコールタールが塗られていない丸太電柱から多数の“円空仏”が造られ、市場に出回ったとされる。
それでも実物を見れば真贋がわかりそうな感じだが、時折展覧会で「“円空仏”を彫ってみよう」などのイベントを覗くと、子供の方がうまいんじゃないと思うことも。
需要と供給のバランスで作品が生まれるパターン。

まれに円空を扱いたいという学生が出てくるが、木喰仏を薦めている。近郊にもいくつか作品が残ることだし・・・。

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出羽国

2016-11-02~04

山形行。

今回は午後便にて。
ところが、伊丹で機材繰りの影響で1時間20分の遅れとの告知。慌ててお寺さんへ連絡。山形到着は夕刻4時前。
夕闇迫る頃にお寺にお伺いし、仏像を拝見、写真撮影。

翌日からはスムーズに調査。
各寺で18~19世紀の京都仏師の在銘作品を調査。
調書取りながらここは本当に山形なのかと見紛うばかり。

2日間とも調査時間に余裕が出来たので、天童市立旧東村山郡役所資料館「愛宕神社所蔵品と旧東村山郡役所資料館収集品展」、山形県立博物館「企画展「よみがえる古の大寺院 寶幢寺至宝展」をそれぞれ拝見。

前者では、3尺ほどの不動明王立像(90㎝)・毘沙門天像(93㎝)・勝軍地蔵騎馬像の3躯が展示。不動明王像、毘沙門天像は正徳2年田中弘教の作。
勝軍地蔵騎馬像は天正12年頃の製作とされるが、不動明王像、毘沙門天像より後の製作か。
後者では地蔵菩薩坐像。蓮肉天板裏に「貞享5年(1688)」「山城京七条方桐木大仏師井関氏 念正法師彫之」とある。作風は一見、室町後期風の重い表現。京仏師の作品と解説は記すが、作風から見る限り京仏師の作品ではなく地元仏師の可能性。
この時期の京都仏師は「山城京七条方桐木大仏師」という曖昧な地名表示ではなく、「烏丸通御池上ル丁」などと記すはず。未出品だが、神明神社の弘法大師坐像の書付に「京都寺町三条上ル所 田中六兵衛□ 寛政□□月」とあるのが正しい。ちなみに田中六兵衛も京都仏師。
(近世彫刻にとって)恐るべし、出羽国。

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お披露目

2016-11-06

午前中、久保惣記念美術館「第六次久保惣コレクション 特別展 響きあう美―宗達・北斎・ロートレック―」へ。

「和泉市ふるさと元気寄附」(ふるさと納税)による購入資料と久保家からの寄贈品のお披露目。先だっては江川淑夫氏(江川コレクション)からの寄贈品と、所蔵資料が益々充実。こういう「ふるさと納税」の用途もあるものだと。

伝俵屋宗達筆《源氏物語 横笛図》、同《源氏物語 松風図》、伝土佐光則《源氏物語 扇面貼交屏風》、角倉素庵《嵯峨本伊勢物語》、《伊勢物語八橋龍田川図屏風》など、まずは中核の「伊勢」と「源氏」。

《光忍上人絵伝断簡》は仁王門の様子。若冲《乗興舟》もさりげなく展示。
浮世絵は広重《名所江戸百景》をはじめ、橋本貞秀《大日本国郡名所 紀伊國伊都郡高野山》(残念ながら鳥瞰図ではない)、河鍋暁斎、揚州周延他「縮緬絵コレクション」など質的充実をはかっている。洋画ではゴヤ、ミロ、ピカソや藤田嗣治《眠る猫》と多彩。

新館では、5次までのコレクションと青銅器と鉄斎《寿老図》(明治41年)。くつろぐ寿老人の右上に「かしらより 心をながく もちてミよ 寿命無量の 身とはなるべし」「七十三翁/鉄斎」と。

「宗達・北斎・ロートレック」ってなんちゅう組合せ?と思ったが、心なごんで帰宅。

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習俗

2016-11-07

日蓮宗の寺院の調査はたいへん。
本堂には十界本尊像と日蓮聖人像、脇には各開祖像など、脇の番神堂に行けば三十三神像、他にも鬼子母神像などなどあって、その数ざっと50躯ほど。それぞれ開眼した銘記なども数多く残り、ほぼ1日がかり。

日蓮聖人像には実際の布で縫製された法衣・袈裟や“綿帽子”を着用している。
調査では法衣を取り外すのだが(法衣を取り外すと木彫の法衣が現れる)、調査が終わるとまた着せなければならない・・・。時折、裸形であってくれと思ったりもする。

中尾尭氏によれば、池上本門寺に始まるらしい。本門寺日蓮上人像は裸形なので致し方ないとしても、木彫の法衣のうえから布製の法衣・袈裟は“習俗”であり、昭和30年以降に全国に拡散したという。

聖人も寒かろうと思ったのか善意ながらの行為だが、調査する身になっては、本当に大変。虫やカビの原因ともなるのだが、取り立てて禁止にしようとする動きは見られない・・・。

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非常事態

2016-11-08

終日、秋雨。
大阪は“2025年の大阪万博”で盛り上がり。アホの極み。

会場建設費は1200億~1300億円、運営費は690億~740億円と試算。全国への経済波及効果は約6.4兆円と試算。誰がこんな数字を信じるんですか。
「健康・いのち・長寿」の後は博打(カジノ)構想。夢ばっかり見て、全然足元を見ていない。

全国学力テスト(中学)で、国語44・43位、数学25位・30位という評価。町では、天王寺駅でバット振り廻して2人が重軽傷、行方不明の4歳男児の親が傷害致死と遺棄致死で再逮捕、警察では覚醒剤取締法違反で逮捕された女が取調室で証拠品を再ゲット!
…万博で浮かれている場合ではないはずなのだが。

いつも言うようだが、コナモンでお腹を満たしてお笑いで過ごしていると、こういう事態に陥る。「治安」「教育」よりも「銭儲け」。そりゃ、平日朝10時にパチンコ屋に大行列ができるはず。

非常事態やとは思わないのか、大阪は。

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乾枯せしむ

2016-11-10

週末に法華宗本門流 大本山本興寺(尼崎)で講演会がある。ゆめゆめ「日蓮宗」などと口走ってはならない。

重要文化財《日隆上人坐像》。明治37年に旧国宝指定。
『両山歴譜』(日心本)に次の記述。
「同年(享徳2年・1453)、師六十九才、本興寺堂前に数囲の榎樹あり。師、つねに毎朝、此の樹の下に立ち、日天子を拝す。よく久しく誦経し、此の樹に我が影像を彫刻せんと欲すこと、久しく。八月十六日暁天に門人に告げて曰く、昨夜、予が偏身痛事、甚だし。若し榎木、損じる無しか否か、汝、往きてこれを見るべしと。門人、見て還りて報せて曰く、昨夜、悪障月の光、或人が南方の大枝を刈り払うと。奇かな。師之精魂は木中に微に入る。泉州堺之住人仏工浄伝という云者を招き、遺像を造ることを告げる。浄伝、これを(承)諾し、乃ち木を刈り、乾枯せしむ。」

「享徳三年、師七十才、時に仏工浄伝、清浄潔白にして、数旬に功をなす。師自ら開眼供養せり。世に是を七十歳の尊像という。尼崎御文庫堂の御木像はこれなり。」
榎の「偏身痛事」はともかく、「乾枯せしむ。」というのはいかにも現実ぽい。
この手の話は伐採後直ちに彫刻を造ってしまうというのが常套だが、伐採後半年以上も木を寝かせて乾燥させている。表現からも享徳3年製作に間違いないだろう。「泉州堺之住人仏工浄伝」というのは皆目分からないが、日隆は宝徳2年(1450)に泉州堺・顕本寺を建立しているので、その機縁からかとも思う。
像内には「おこつ」と墨書された紙片に歯・頭部の骨片が包まれていたとされる。頭部が抜けることを知っての処置。

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手抜かった!

2016-11-12

午後から講演会。明日は日蓮のお会式。
沿道では団扇太鼓が鳴り響く。予定より少し早くに到着し、宝物等を拝見。なんでも虫干会(11/3)に天下五剣の一つである「数珠丸恒次」が展示されたが、その折には3千人もの見学者が訪れたとの由。今回は「数珠丸」はなく、曼荼羅本尊、琉球漆器などを拝見。
ご挨拶のあと、持参のパソコンをセットし、蘇我紹興、高平(大岡)春卜の障壁画を拝見。見事なり。

定刻になり檀信徒の方がたを前に講演開始。しばらくするとパワーポイントが動かない・・・。
やや古いパソコンながらしばらく前まで自宅で使用。えっ~! 再起動させ再び画面が戻るが、しばらく話をして、次に画面を進めたいと思ってもまたフリーズ。再び再起動・・・。
なにもこんな大事な場所で壊れなくても。(大泣!)
やむなくレジュメだけで話を進める。

1時間の講演ながら、不出来な結果にがっくり。大切な慶事に泥を塗ってしまい猛反省。
Kさん、なにとぞリベンジの機会を。

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『上宮太子拾遺記』

2016-11-14

「飛鳥大仏について阪大の調査結果が出たので、何かコメントは?」と旧友(悪友)からメール。
またその話かと、やや気色ばむ。

サンケイ新聞では「鎌倉時代の火災で顔と手以外が失われ、補修されたと記す文献」があると記すが、そんな史料は存在しない。
「鎌倉時代の火災で顔と手以外が失われ」の典拠は、『上宮太子拾遺記』巻2所収の
建長(「建久」の誤写・建久7年(1196))丙辰六月十七日亥時。為雷火令炎上了。寺塔無残。但佛頭與手残。云々
の記述である。〔国文学研究資料館 日本古典籍総合目録データベース 書陵部蔵勧学院本『上宮太子拾遺記』 80コマ目〕ただし「以上泉高父私記文也。」とあって、『行基年譜』の編者でもある泉高父(宿禰)の私記文からの引用である。

『上宮太子拾遺記』は、ほぼ上宮太子の懐妊から誕生、逝去、それ以降におこった諸々の出来事、関連事項を年譜風に記した史料である。
「建長丙辰六月十七日亥時。・・・」の記事は、太子十三歳(敏達13年)の項目に記載。同項目には「秋九月。弥勒石像一躯。今右京元興寺東金堂に在リ」から始まり、以下弥勒石像に関する記事が列記される。そして件の記事が続き「十四歳 同十四年乙巳」と次項目に移る。
「但佛頭與手残」は弥勒石像の被害ではないのか。
『上宮太子拾遺記』巻4には、飛鳥大仏造立・完成の推古13~14年、推古17年の両説が記載されるが、共に建久7年の火災による大仏被害については何ら記していない。

「建長丙辰六月十七日亥時。・・・」の直前には「或人云、件石像長一尺余。或八七寸。坐像也。色白極固。面貌奇麗耳。文」と記されるが、この「文」とは泉高父私記文のことである。弥勒石像の形状と火災後の状態を『上宮太子拾遺記』は泉高父私記文から引用しているのである。

敢えて言う。「但佛頭與手残」の主語は鋳造の飛鳥大仏ではない。

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蘆雪ふたたび

2016-11-15

朝から和歌山県博へ。大学へ行くよりも近い・・・。

「企画展示場」に展示の襖絵の大半が入れ替え。
《牛図》は代赭を使った牛を挟んで成牛と親子の牛。代赭の牛は「赤牛」なのかなどと考える・・・。
《五祖栽松焚経図》は指頭画。手や指の動きがそのまま画面に現れ、禅宗の厳しい教えを如実に表した作品。

展示場コーナーを利用しての《虎渓三笑図》。8面のうち左端のほぼ何も描いていない襖の前に立ち、右側を向くと、こちら(鑑賞者)が橋の手前(俗界)に立ち、橋を渡りきった慧遠と陸修静がすぐ傍に立ち、橋の向こう側には遅れて陶淵明と童子の姿。見事な遠近感が表わされ、なんという絵画空間の再構成なのかと実感。

再び応挙《雪梅図》前で立ちすくむ。春まじかの「寒のもどり」なのだろう。
蘆雪といえば仔犬。《花鳥群狗図》はわれ先に母犬の乳房に飛びつく仔犬たち。駆け寄る狗、転げる狗などを下目づかいで見る母狗はなんともほほえましい。

会場には明治の監査状。連名のなかほどに「岡倉覚三」の氏名。
応挙筆《雪梅図》(「雪中梅花図襖」)、蘆雪筆《群猿図》(「岩ニ猿猴図屏風」)は共に「美術上ノ参攷トナルヘキモノ」と、5等。かなり厳しい評価と思えるのだが。

その後、大学。

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紅葉

2016-11-17

学内の紅葉も今がピーク。
すれ違う学生も「これでええやん」という声もあれば、「やっぱ、京都に行こうよ」との声も。人それぞれ。
さすがに今年も「鞍馬~!」などと聞こえることもなく・・・。

いやはや、それどころではない。
失念(断念)していた仕事は再来するわ、別件で書類は書かなアカンわで、いきなりてんてこ舞いの状況。加えて、来年の授業担当(リレー講義)の日程もやってくる。
紅葉どころではなく早や師走モード。

もうすぐ駆け足で冬が迫ってくる。郵便局では年賀状が売られ、新聞ではおせちの予約が紙面広告を塞ぐ。年々慌ただしさが増すばかり。
いつもながらのバタバタ騒ぎ。

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関大防災Day

2016-11-18

午前中の授業前、講師控室に機器類のカギを取りに行くと、普段の貸出簿がピンク色。今日は避難訓練で、60分授業との由。
こんなことなら昨夜遅くまで授業準備しなきゃよかった・・・。

講義エンジン全開の11寺30分過ぎ、予告放送があり授業は終了。しばらく間があって地震音、またしばらくして係員が来室、学生共々グランドまで誘導・・・。

避難訓練は7回目だそうだが、火曜、木曜、金曜と曜日こそ違え、いずれも11:35から。
関大の地震は必ず2限目におこる・・・。
3階吹き抜け全面ガラス貼りの出入口から避難させるなど、避難経路にも問題と思われる点もある。学生のほとんどが阪神大震災の時にはまだ生後すぐか、まだ生まれていない世代なので、だらだらと避難。
銀行の強盗訓練のように予告なし抜き打ちでやってみてはと思ったりするが、それこそ大混乱、現実の負傷者も出る有様で、非難の嵐となること必至。

ホンマに大丈夫かいな。

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狂言『仏師』(その1)

2016-11-19

とある田舎者が持仏堂を建てたが安置する仏像がなく、仏師に頼もうと思うものの、田舎に仏師はおらず、都にやってくる。「自ら仏師であると」と詐欺師がやってきて・・・と始まる狂言『仏師』。
代金と納期を尋ね・・・。
仏師:「万疋で御ざる」
田舎者:「値はこぎりますまひ、いつごろでけませう」
仏師:「されば十年ばかりせずはでけますまい」
田舎者:「はあ、いや、それほど待つことはなりませぬ」
仏師:「いや、その儀で御ざるならば、明日でかして進ぜう」
田舎者:「いや、是は又、だうした事で御ざる」
仏師:「いや、不審な御尤で御ざる。長ふ申(す)のは、それがし一人して刻(きざ)もと存ずる。又急ぎなれば、あまたの弟子が集まって、おみぐしを削り、御手を刻み、衣のひだを取り、致すのをば、さてそれがしが、にかわをもつてひたひたと付けますれば、時の間にでけまする」
『狂言記』(新日本古典文学大系58)岩波書店
最後の仏師の台詞は、高村光雲『光雲懐古談』「『木寄せ』その他のはなし」にほぼ登場。
一週とか、十日間とかの間に、仏師はその注文品を仕上げるのであるが、たとえば、厨子に入れて、丈五寸の観音を注文するとすれば、仏師屋では見本を出して示す。七円、十円と価格が分れているのを、十円のに決めて日限を切って約束をする。そこで仏師屋では、小仏を作る方の人が観音を作り始める。と、その五寸の観音の台坐を持って来い、と、それぞれ分業の店から、五寸という寸法で附属品を取って来る。それから、また、厨子を持って来い、何を持って来いとやる。まだ本尊がすっかり出来上がらない中に、附属品も、納まるものもチャンと揃そろっている。日限の日になって観音が出来上がると万事用意が整っているのだから、五寸の立像の観音は、辷るように厨子に納まり、そのまま注文主の手に渡る。ほんの半月以内の短日月でこう手早く揃うのは、分業の便利であって、繁昌すればするほど、それが激しくなり、そうしてその余弊は仏師の堕落となり、彫刻界の衰退となりました。
光雲は分業制の弊害が「仏師の堕落」「彫刻界の衰退」に繋がったと断じているが、果たしてそうだろうか。

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真仏師〔まむし〕

2016-11-20

再び狂言『仏師』から。
仏師:「いや、それがしは仏師でおぢやる」
田舎者:「はあ、こりや仕合で御ざる、してこなたはどの流れで御ざるぞ」
仏師:「されば、運慶、湛慶、安阿弥といふておぢやる、それがしは安阿弥でおぢやる」
『狂言記』(新日本古典文学大系58)岩波書店
同様の内容をもつ狂言『金津』にはアドリブも入る。
親(仏師):「洛中に人多しといえども、わごりょの尋ぬる真仏師(まぶし)は某(それがし)でおりゃる」
金津の者:「悲しや悲しや、さされてはなりませぬ、必ずそばへ寄ってくださるるな」
親(仏師):「そなたは何事を言うぞ」
金津の者:「でもこなたは、まむし〈蝮:筆者註〉なとは仰せられぬか」
親(仏師):「それもそなたの聞きようが悪しい。まむしではおりない、真仏師と言うたことでおりゃる」
金津の者:「仏師なら仏師でよさそうなものを、真仏師と仰せらるるには、何ぞ子細ばしござるか」
親(仏師):「なかなか、子細がある。まず昔から、運慶・湛慶・安阿弥というて、仏師の流れに三流(みなが)れある。なかにも某は安阿弥の流れじゃによって、それゆえ真仏師と言うたことでおりゃる」
『狂言集』(日本古典文学大系43)岩波書店
狂言『仏師』の初演は慶長年間とされるから、近世京都仏師に対する一般の理解かと。

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琵琶湖文化館

2016-11-23

滋賀県立近代美術館「つながる美・引き継ぐ心ー琵琶湖文化館の足跡と新たな美術館」展へ。滑り込みセーフ。

長福寺《阿弥陀如来坐像》、天満神社《天王立像》の鉈彫像や節の多い材を使った五百井神社《男神坐像》などに関心。観音寺《銅造千手観音坐像》は、膝前や体躯だけみれば平安時代の金銅仏に見紛えそう。ただし表情は明るく極めて近世風。

曾我蕭白筆《叡山図》、《楼閣山水図屏風》が共に出品され、じっくり。《叡山図》はおとなしいとまでは言わないが、一見、「(作者が)誰だ?」と思うほど奇怪な表現ではない。画面右上に「暉雄」とあって蕭白かと。《楼閣山水図屏風》は確かに奇怪な画面だったが。あとは《聖徳太子勝鬘経講讃図》など。

今後は、近現代美術・仏教美術・アーツ・ブリュットの3本柱で運営。常設展でも野口小蘋の作品が展示。
文化ゾーン内の紅葉も今日が盛り。

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プロは違う-狂言『仏師』補遺-

2016-11-24

近世京都の地誌『新修京都叢書』(全25巻)に記された仏像の作者を抽出した興味深い資料がある(根立研介『科研費報告 仏像制作者の伝承と「名付け」をめぐる研究』2017年)。
指摘されているように、他にも止利仏師、康尚、康慶などが加わる。もとより東西本願寺本尊が快慶作阿弥陀如来像など「信憑性」に欠ける事例も。
同報告に掲出された運慶作は66件ほど、快慶作は53件ほど、湛慶作は25件ほどで、定朝は39件。
狂言『仏師』と似た傾向である。

しかし近世仏師の肩書からすれば、運慶は鎌倉仏師を除けば、赤尾右京や岡本外記、大蔵卿、玄慶など京都仏師ではごく少数、安阿弥も大坂仏師宮内法橋のほか、左近法眼や江戸で活躍した大部、光清など、湛慶(単独)に至っては皆無に近い。

最も多いのが「定朝」。 京都仏師のほとんどは「定朝〇〇代末孫(末裔)」を肩書とする(21世紀の仏師にあっても定朝〇〇代)。 運慶、湛慶、安阿弥とは違って定朝は京都生まれ、京都育ちだからだと想像するものの、分業制の大成者としての意味合いが強かったのか。

それにしてもこの“温度差”が気になる・・・。

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マジか

2016-11-25

とある9世紀末から10世紀初頭ごろの仏像。

大昔に見たことがあって、正中に割れ(内刳りなし一木造)があったり、虫喰いなどもありちょっと痛々しかった。螺髪は後補。これほどの作品だからその後に指定を受けて文化財修理に及んだようだが、螺髪がすっかり無くなっている。
あれ!いくら後補といえども”禿げ頭”にするのは度が過ぎているとしか言いようがない。

後補といえど目立たぬように螺髪を植え付けるのが普通じゃないか、あるいはいったん”禿げ頭”にしてもよいから、平安初期風の螺髪を植えてやるのが、人情ならぬ仏情ではないか。
両手首、持物も後補ながらそのまま。しかし後補の黒漆を除去して黒漆の剥がした個所が目立っている。
「制作当初の部材や当初の彫刻面、彩色、漆箔は最も尊重され」「粗悪な後世の付加物(後補、補彩など)は技術的に可能な場合は修正、除去する」方針だろうが、「信仰の対象であるため寺の要望を尊重し、欠損部などを復原することがある」という方針はどこに消えたのか。

「仏像を文化財修理に出したら、腕が無くなって戻ってきた」という逸話が、よもや今の時代におこるなんて信じられない。
ある意味、近世の修理よりひどい。

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壺中之展

2016-11-26

大阪市立美術館「壺中之展」へ。
「特別陳列」と銘打ちながら大阪市立美術館開館80周年の蔵出し大展覧会。

昭和11年(1936)5月1日に大阪市立美術館は誕生。戦前、文展の堕落、公募展会場(美術館)の必要性が叫ばれるなか、1926年に東京府美術館(東京都美術館)、1933年に大礼記念京都美術館(京都市美術館)ができ、そして天王寺の美術館が竣工。だから第1回の展覧会は「改組第1回帝国美術院展覧会(帝展)」。
従って冒頭展示は第1回改組帝展出品作の橋本関雪《唐犬》。
その後は、名品逸品がこれぞとばかり続く。総数約300件。しかも展示替えなし。
カザールや田万、山口、阿部コレクションなどに圧倒。しかも関西一円の古社寺からの寄託品も勢揃いし、前期・後期どころか4期全作品総替え展示替ぐらいにしてもよいほどのボリューム。近代洋画などは2階廻廊に展示される。

朝に「ちょっと天王寺の美術館に行ってくるわ」と出かけたものの、午後2時過ぎても会場で作品を見ている・・・。
ちょっとどころではなかった、大阪市美の底力。

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負のスパイラル

2016-11-28

仕事中、全国に村のお堂や会所にどれほどの仏像があるのだろうかと想像。

多くは指定も受けていない仏像が安置。お堂や会所は普段は無人で施錠。高齢化のなか、集まることも難しくめったに開けることのない扉。
逆に鼠や小動物は格好のねぐら。糞もするし布団がわりに様々なものを持ち込んでくる。梅雨や積雪の時には多湿で黴が繁殖。仏像の部材は膠の寿命が来ており、誰に気付かれぬまま崩壊へと静かに進んでいく。

指定を受けていないと、修理費の捻出は高齢化、過疎化のなかで極めて難しい。そもそも一般の人も村の担当者(生涯学習課あたり)も「指定を受けて初めて文化財」という認識。
気付いた頃には、部材は鼠にかじられ、いつのまにか“亡失部材”になり、もう元の姿には戻せぬ状態に陥る。

この「負のスパイラル」をなんとかしないといけないと思う。

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人間失格

2016-11-30

久々に会議出席(代理)。

卓上にはアルマイトの盆のうえに小さなヤカンと茶碗がいくつか積まれている。会議が始まると、多くの人はお茶を飲みつつ議事の行方を聞いている。

眼の前にある他人の茶碗をみながら、ふと思う。
このお茶は、誰が準備するのであろうか。大きなヤカンにお茶を沸し、複数の小さなヤカンに移し替え、人数分の茶碗を揃える。その数100口弱!各人飲み終えたお茶碗やヤカンの洗浄は、いったい誰が洗って片づけるのだろうか。
それは仕事に忙殺される事務職員さんたちである。

いったい何時の時代のこと?「女性はお茶汲み要員ではない」という常識はどこへ行ったのか?
こうした前時代的なことが平然と行われ、誰も何もいわないという不思議な世界。
いくら多数の研究を重ね、多くの院生を博士に仕立てたとしても、こうしたことに気付かない人は社会人として失格なんじゃないかと思うし、院生も彼らの背中を見て育つ…。

社会不適格者と烙印を押されても仕方ないのか…と、紙コップのコーヒーを飲みながら嘆息。

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