日々雑記


レオナルド・ダ・ビンチ

2021-6-2

通勤途上、座席に座ると立命館大学の車内広告。「ダ・ビンチは、生み出せる」。

ビンチ村か~い!というツッコミは、さておき、ちょっと困惑。
レオナルドは”絵画作品を製作しなかった”ことで有名。67年の生涯で現存する絵画は15,6点。30年ほど後に生まれたラファエロだって37歳の生涯ながら120点以上の作品が現存する。

それは数少ない作品の歴史を見れば納得できる。
例えば『岩窟の聖母』。これはルーヴル美術館バージョンとロンドンナショナル・ギャラリーバージョンがある。ルーヴル・バージョンは1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれたが、注文主の要求に応じず、その後、別人に売却(裁判沙汰とも)。
(裁判に負けたために)ロンドン・ヴァージョンを製作し、渡したと言われている。

「荒野の聖ヒエロニムス」(1480年頃)「東方三博士の礼拝」(1481年)。これらは未完成の状態。
このことは依頼主との契約が守れなかったとされる。有名な「モナリザ」も1503年頃に着手したとされ、依頼主フランチェスコ・デル・ジョコンドとの受渡日(契約)が守れなかったためにレオナルドの手元に置かれ、その後契約解消となってフィレンツェを離れる直前の1515年頃に完成したとされる。
レオナルドは、極端なほど完璧主義者であることは疑いない。

クライアントの要求に応じず、納期も守れないような“完璧主義者”は社会に適応しない。でも立命館大学では、あらゆる分野で才能を発揮した「万能の天才」を生み出せる環境であるということを強調しているのだろう。

大阪のおっちゃん、おばちゃん(の予備軍)の予想とは、ちょっと違った車内広告。

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琉球王国文化遺産集積・再興事業

2021-6-3

昨日午後に「(過日の取材の件)今日の夕刊に掲載されます」との連絡があり、帰途、ターミナル駅で購入。Web版(全国版)は有料記事らしい。

内容は一連の沖縄・仁王像復元の経緯。
途方に暮れていた時に、材質や年輪年代測定から内地製とわかり、それに対応する仁王像を探しピッタリな仁王像が見つかった時には嬉しかったが、現地を訪れる(2016-9-15)までは不安で、門内に建つ姿をみて安堵した記憶がある。

この事業(「琉球王国文化遺産集積・再興事業」)のお披露目展は、既に1月から沖縄各所・離島で開催されているが、内地では秋に九州国立博物館(特集展示:「琉球王国文化遺産集積・再興事業 巡回展 手わざ-琉球王国の文化-」10/19~12/12)で開催 。
この時期に九州へ行かれる方はぜひご覧ください。

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”木津”物

2021-6-5

遅まきながら馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』(中公新書)を読了。

若い頃、「椿井文書」がどういう文書かも知らず「椿井仏師に関する文書も含まれますかね?」などと呑気に年長の歴史研究者に問うたところ、「あれ(椿井文書)はね、偽文書群なんでそういう文書は扱わないように気をつけないといけません。"椿井モノ""キヅモノ"と思っていれば間違いないですから」とやんわり注意されたことがあった。
若かったとはいえ、奈良椿井町に由来する椿井仏師と椿井大塚山古墳の「椿井」と混同している点からして大間違いであった。

冒頭(33頁)から「論社」について記述。「論社」については、以前に触れたことがあって少しギクッとする。読み進めるうちに椿井政隆は彼地まで足をのばしていなかったことにやや安堵。
後半は椿井政隆ワールドに嵌った見知った方の名前が散見する。

「これまで椿井文書の存在に気づいた研究者の多くも、それを研究することは『およそ時間の無駄でしかない』ため、同様に黙殺という対処をしてきたに違いない。」(6頁)の一文は、主語こそ違え、実感として非常によくわかる。

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井上喜内

2021-6-7

某文化財課より「井上喜内」の問い合わせ。
もう誰?という世界である。

天明5年(1785)の製作。居所は「京都寺町通 □□上ル町」。まず□□が判読できない。やむなく相国寺『参暇寮日記』(明和6年〈1769〉)を見ると「寺町通押小路下ル」とある。押小路の下(南)は「御池」。
□□は御池と読めなくもない。

次に作品。臨済宗とはあまり御縁のない像。現代に像表面にニス状のものが塗られ、テカテカになっている。

建築関係の調査の「付属調査」で確認されたとの由。棟札等の関係が分かれば何とか出来る-堂宇の改修に伴って仏像も新調した-のだが、これだけでは何ともならない。残念。

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旧四面宮木造四面菩薩坐像

2021-6-9

文化遺産オンラインに諫早市の旧四面宮木造四面菩薩坐像が登載。
説明?に「日域総本家 大仏師法印左京孫 張瀬刑部作 寛永二年 乙酉 八月吉日」と墨書銘あり。※本朝大仏師正統系図によれば、第二十六代康祐が左京法印の号をもち、その孫である…」とあり、リンクが張られるもリンク先は文化遺産オンラインTOPに戻る。

一見よさげな像で寛永2年でもいいのかもと、よく見れば「江戸時代/1705」と記載。
宝永2年。逆に驚く作風。
詳しく知りたいとググると、長崎県の文化財(しかも県指定)に紹介。

気になるのは、諫早市・慶巌寺金剛力士像(2018-4-4)は延宝3年(1675)に康祐が制作しているが、慶巌寺山門はもと四面宮山門である。
明治初年の神仏判然令で四面宮と並置していた荘厳寺は分離されて、本尊阿弥陀三尊像は安勝寺、山門は慶巌寺、什物は竹崎観音寺に移動。(山口八郎『諫早を歩く』)
あらっ「総本家大仏師法印左京」(康祐)と「孫 張瀬刑部」が結びつくではないか。
孫?康祐が生存しておれば75歳時の作品。成人の孫がいても不思議な年齢でもない。
本田諭「七条大仏師音湛について─新出作例から見た江戸初期における七条西仏所の一動向─」にも「清水大輔」(康祐は清水姓)といった、似たような事例が掲出。

康祐には、尾形光琳同様に憚かられるような人間(女性)関係があるんじゃないのか。

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指定

2021-6-10

3年ほど前に調査した仏像が市指定になったとの報告を頂く。嬉しい限り。

各地にまだまだ光が当たっていない仏像が多い。そもそも仏像や仏画を見ようする文化財行政が圧倒的に少ない。例え、埋蔵文化財担当であっても住民からの文化財窓口なのに、半ば「ウチでは扱えません」という(現実にそのように発言するところもある)消極的な姿勢である。
出身大学なり隣接の市町村、都道府県に問い合わせて、住民の負託に応えることもできるはずだと思う。

文化財行政と言えど決して閑職でないことは経験上、身に染みて理解している。でも住民の希望-別に道路や学校を新設せよとの要望の類ではない-を「ウチでは扱えません」という対応では、「じゃ、お前らは何担当や?」と窓口で罵倒されても仕方ないと思う。
こうした行政の姿勢こそ改めなければならないと思うのだが。

ともかく今夜はプチ祝杯。

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范石甫信士

2021-6-12

范石甫(范道生)にあてた禅語録。
無漏無相之像不假(仮)彫鑿布漆不用一點(点)灰泥彩色
という文言がみえる。

仮彫・ノミ・布漆・「灰泥彩色」という用語。「不」の位置を無視して読めば、仮彫鑿〈彫刻の意か〉をせず、布漆を用いず、ひとえに灰泥を点じて彩色すとも読めるのだが。
語録ながら文意が読み取れないでいる。

困った・・・。

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国際化の現状

2021-6-14

『海外所在日本美術品調査報告』7(ケルン東洋美術館)〔文化財保存修復学会 1999年〕をみていると、末頁あたりに、妙法院風神?(Thunder God)像(B27)、興福寺無著像(B28)、興福寺板絵十二神将像(B29)、法隆寺金堂持国天像(B30)、妙法院迦楼羅王立像(B31)が掲載((B28)のみ写真未掲載)。

ケルン東洋美術館オンライン(https://mok.kulturelles-erbe-koeln.de/)で確認していくと、いずれも写真未掲載ながら、色々なことが判明。
風神像は雷神像(Rai-ten:B27)の誤りながら、無著像(B28)と共に新納忠之介の作品。そのほかはオンラインでは、確認できない。

在外仏教美術も大半は近世や近代の模刻仏像だが関心がないために、他人様のことは言えた資格はないが、不十分なデータベースとなっている。

これが、日本の「国際化」の実情なのかと思わず、憂う。

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初期画面の風景画

2021-6-15

先日来、PCを立ちあげると、日本っぽい湖畔を描いた風景画が現れる。
(今は別画面に代わったが)
画面左に小島と遠景はそう高くない山並み。右下には「F.K. 1969」のサイン。イニシャルなので、てっきり日本人画家と思い込んでいたが想起する作品はなし。

何度も検索するも、特定できないでいた。
今日、久しぶりに「painting」「lake」「F.K.」「1969」で、検索すると、見覚えのある風景画。これか・・・。

ジョン・フレデリック・ケンセット(John Frederick Kensett:1816年~1872年)の「ジョージ湖」〈メトロポリタン美術館〉。
ケンセットは、アメリカ・ハドソンリバー派の画家との由。

てっきり、中禅寺湖か洞爺湖の風景だと思い込んでいたが、まさかアメリカだったとは。

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驚愕

2021-6-16

とあるショールームを訪問。
ショールームの一角にアクリルケースに入った黒楽茶碗、スパナ、錆びた鎖・・・。
なんという組み合わせ。

しげしげ眺めていると「お持ちになりますか?」と促されて黒楽茶碗を指名。もし万一落として割ってしまったら、かなり高そうやなぁと腕時計を外して茶碗に触れる。
持ち上げた途端、か、軽い、異常に軽い・・・。若干の緊張とは逆に、思わず落としそうになったわ。

材質はすべて発泡スチロール。
そこに塗装を施したもの。実物に限りなく近い塗装技術を誇るというのがPR。
元の位置に戻しながら、仏像の複製品に使用できないだろうかと、ちょっとお仕事モードに入る。

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弘法大師千年忌

2021-6-17

東寺講堂の修理報告を熟読。

気づいたのは如来像、菩薩像の台座銘。明治17年(1884)の修理は「大師一千五十年に付」再興したとある。仏師は京都の松本康慶、田中豊治、大阪の春日有慶、同徳次良。

「大師一千年」では?とみてみると、天保5年(1834)には田中弘教が台座の新調。『新東宝記』(東京美術)に掲載された修理見積書時と思ったが、こちらは文政9年(1826)のもの。
「一千年」以前で、御忌が機縁で修理された例はない。

「大師一千年忌」など御忌により彫刻や絵画が修復・製作される事例は各地に残る。

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東照宮・台徳院殿両木像

2021-6-21

今日より対面授業再開。
久々に『知恩院日鑑』を披見。
『日鑑』享保16年(1731)8月11日条。
東照宮・台徳院殿の両尊影、唯今迄宝蔵に納め置き候処、供養申し上げず、麁末の儀に思召しに付き、本堂え徳泰院殿御影の左右へ今日遷座なり奉り候。
宝蔵にあった徳川家康・秀忠尊影(木像)が、本堂の徳泰院殿(家康母 於大の方)像に左右に置かれたとのこと。

徳川家菩提寺である知恩院、殊に「帝都鎮護之御影」である徳川家康像がなぜ永く宝蔵に納められていたのか。
「『知恩院旧記採要録』に、元和元年(1619)9月に秀忠が江戸から京都に上り、知恵院の三門、経蔵、大塔の建立、そして仏師康猶に自分の等身大の像を造るよう命じた。そして翌年4月17日に安置したと言う。家康像はこれより先に造られたようで、秀忠像とあわせて「帝都鎮護の御影」と呼ばれた」像は、寛永10年(1633)正月9日の火災で勢至堂、経蔵、三門を残してすべて焼亡し、両像も焼失してしまったのではないか。

知恩院にとって非常にヤバい状況となり、再建した霊廟も竹矢来で厳重に隔離され、肝心の徳川家康・秀忠尊影も秘密裏に再建された・・・と考える方が自然である。

だからこそ、『隔蓂記』承応2年(1649)12月10日条の「於左京、而東照宮・台徳院殿両木像令拝之也。知恩院之籠霊廟之像也。」とあるのか。
納得。

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オープンキャンパス?

2021-6-23

この頃、関大前通りはこうした関大の幟が乱立。飲食店をはじめ歯医者さんまでも。

オープンキャンパス?
これまでのオープンキャンパスではこんなことはなかったし、確か、オープンキャンパス(グリーンキャンパス)は6月28日。ミニ講義を担当するがこれも先日中止になったはず・・・。はて?

他の先生との雑談で尋ねてみると、「ワクチン(職域)接種ですよ。ワクチン接種すると、500円の地域振興券(お買い物券)がもらえるそうです」と。「お買い物券」は関大の幟がある店舗等で使用できるらしい。

ただでさえ、商業地としては厳しい環境(夏・冬・春休みは学生激減)で、コロナでオンラインとなれば、地域の核として盛り上げようとするのは必定である。

いっそ、昔のように休講情報を学内掲示にすれば、学生は自ずから大学に来るのではないかと思うが、いまさら後戻りも出来ず・・・。
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コインチョコレート・ゴーフルなど

2021-6-24

宮内庁生協が解散との由。
知人もいることから、これまで様々な関係から利用していた。

宮内庁に複製品(須恵器大甕?)をお願いしたり、前職後半でも種々お世話になった。
職場へのお土産は「金・銀コインチョコレート」(表面は菊の御紋)。
とある事務職員さんは、お土産を大切に持って帰って神棚に祀っていたらしく(食べろよ)、出張から半年ほどたった夏頃に「また宮内庁に行く出張はありませんか」と逆に問われたこともあった。聞けば、頂いた「菊の御紋チョコレート」が神棚で溶けてしまってどうしても新たなチョコレートが欲しいとのこと。「いやぁ、(正式の)『皇居参観』では買えると思うのですが・・・」と返答した覚えがある。

最近では、ゼミ旅行(2019-1-22~23)で皇居案内をお願いしたが、知人がインフルエンザに罹り、案内が中止となった。そのお詫びとしてゼミ生向けにゴーフルが届いた。
(別に気を遣わなくてもええのに)
その時の卒業式にゼミ生に渡したが、そのまま実家のおばちゃんに送った学生もいる(おばちゃん宅の神棚にゴーフル缶が鎮座していると思うが。)

ネタ的には、宮内庁生協の解散はちょっと残念。

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いきなり、南北朝・室町

2021-6-25

対面授業が始まり、1週間。ほぼ2ヵ月ちょっとの間、オンラインであった。

とある彫刻史の授業。
4月冒頭のガイダンス(この回は飛鳥大仏の話題も)に始まって、今日は定朝や院政期、運慶、快慶、善円など“メイン・デッシュ”をすべてぶっとばして(ON LINE)の「南北朝・室町彫刻」。

まじめに見ている受講生には理解できるが、「久しぶり~!」などと言っている学生にはなんのことやら、さっぱり。
「研究者も参考書も少なく、未知の領域に入ってきましたが・・・」と言っておいたが、後はマニアックな世界に突入。

知らんで~。

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ダウン

2021-6-29

一昨日午後、急に寒気がしてダウン。熱はやや高い(37.0℃)。
大事をとって、昨日は終日休講。
このところ、週6で仕事などをしていたためだろうか。

まだ倦怠感が残るものの出勤。
梅雨時はあまり無理をしてはないけない。もう歳なんだから。

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造像比例

2021-6-30

東北芸術工科大学 文化財保存修復センター紀要をご恵贈いただく。感謝。
今回の報告は「錐点」。造像比例に関わる重要な要素。

詳細はお尋ねすることにして、髪際から口唇の値が大切。
仏像調査の時には、14、5か所の計測を行うが、髪際から口唇の値は計測したことがなかった。
今後は気を付けてみようと思う。

仏像計測も高名な先生が大昔、京都かどこかの調査に参加した時、ノートの端に「継子のように」像高のみ記されていることに驚いたと記されていた。
また太田古朴『木割法』(1961年/綜藝舎)で「現在日本美術史に於ける仏像彫刻研究は殆ど表面的様式論に終始していると云っても過言ではない。しかもその様式論は客観的根拠が稀薄で、各人好みにまかせて主観を並べているにすぎないのが大多数」であるといった批判に対して今日なお全否定できるとはいいがたい。

天邪鬼の戯言ながら、ちょっと行く末が心配にも。

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