日々雑記


西陵古墳

2024-3-1

今日から3月。小春日和。
調べ物があって和歌山県立図書館へ。

大学図書館でもある程度調べられるが、調べる対象の地元都府県レベルの図書館が最強である。
関連する書籍も常備しており、あれこれ悩む時間があればすぐさま行って当該頁をコピーするのが吉。

帰途、道の駅みさきで休憩。

左手には旧みさき公園の灯台。遠くには淡路島が見える。手前は、こんもりと茂った小山にみえるが、西陵古墳(5世紀前半)。古墳ビューの楽しみは上空からに限る。
末永雅雄『古墳の航空大観』 (学生社・1975年)は名著なり。

帰宅後はコピー整理。

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製作と制作

2024-3-2

提出した原稿の初稿が返ってきた。
校正者(同業者)から既に幾つかの指摘が入っている。
大きな問題とされたのは「製作」と「制作」の違い。(ほかに「修理」と「修復」)

若い頃に、業界の重鎮と呼んで差し支えない大先生(既に鬼籍に入られた)に
「美術作品は『制作』、それ以外は『製作』、江戸の仏像は美術作品でないので『製作』だ!」
とえらく怒られたが、今なら、じゃ仏像の美術作品と非美術作品の境界―なんか髪の毛が薄い人と禿の人の境界にも似ているが―はどこですかと問い糺したくなる。

手元にあった近世の仏像に関するいくつかの論文をみたが、大先生のように一貫して「製作」とするものもあれば、逆に「制作」で統一されているものもある。
執筆者の顔を浮かべると、前者は大先生と同じ考えをお持ちであろうことが想像でき、後者の方は今でもご示教等を頂く方々。
論文ひとつで近世仏像をどう見ているのかがわかるのは面白い。

今回は、事を荒立てたくないので校正者の意図を組んで「製作」としたが、次回からは「制作」に統一しようと思う。

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建造物修理報告書

2024-3-4

仏像に関する報告は、彫刻調査報告だけにとどまらない。

過日の和歌山県立図書館では、『重要文化財(京都)清水寺経堂・仁王門修理工事報告書』(2004年)を閲覧。経堂釈迦三尊像の報告が掲載されている。像底銘も挿図写真として掲載。
ところが、うかつにも『重要文化財金剛峯寺大門修理工事報告書』があるとばかりに端末で蔵書検索すると「該当する資料が存在しません。」と。マジか・・・。
改めて携帯で検索すると、奈良県立図書情報館に2冊も架蔵。
和歌山に京都の報告書が架蔵され、和歌山の報告書が奈良に架蔵。

2冊か・・・。1冊は貸し出し可能だろうかと奈良県立図書情報館利用者カードを見ながら考えている。

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三寒四温ながら

2024-3-6

寒い日ながら、西門の桜もほぼ開花。

学長室学長課から(2023-6-30 飛び火)ご相談の依頼メール。

「どうやら慣例で振り替えをお願いをした先生に司会をお願いする、となってるようで・・・」ではなく、振替授業にお願いできる先生の曜限と先方の曜日を勘案しての作戦変更とも思える。
しかも秋学期。まだ三寒四温の時候、受講生数も未知数なのに。

これも「お仕事の一環」。引き受けたからには気持ちよく進めたいので、了承の旨を返答。

帰宅後、家人に愚痴っていたら「私も行きたい」と。
むぅ・・・。

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科研費

2024-3-7

同じフロアの先生(退職者)の研究室整理を見ながら、そろそろカウント・ダウン。

懇意にしている先生から科研費採択の報。
何度か不採択となったが、ようやく採択となりこちらも大いに盛り上がる。
「共に頑張りましょう!」と元気よくメールを打ったまではよいが、研究期間最後の年はこちらが退職している。あらっ、どうする?

いつも親しくさせて頂いている先生(学内)に相談。
先生曰く、「非常勤講師として何処かの大学に籍を置いて継続される方法がありますが、個人の専有空間を設けていない、うちのような大学は認めないというところもあり、大学によってまちまちの対応です。 もうひとつは、大学など科研申請できる機関の『客員研究員』となる方法があります」と。
謝意を述べて、改めてメールを変更。

幸いにも、研究代表者のおられる大学には「客員研究員」制度があり、知己の先生がたも所属している。恐る恐る事情を述べ「妄想ながら・・・」と切り出して送信。
すぐさま返事が届き「大歓迎!」との由。

何事も先方へ迷惑をかけることがなくなって、しばし安堵。
(その後、ちょっと恥ずかしいことが判明したが・・・。〈ポンコツ野郎!〉)

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俗人仏師

2024-3-8

知己の学芸員氏から、再び仏像の問い合わせ。
「俗人仏師に関する研究(論文)はあるのでしょうか?」と。しばし考え、無いよなぁと思う。

敢えて上げるなら龍谷ミュージアム等で開催された「みちのく いとしい仏たち」に類した仏像だろうか。しかし世の中には“いとしい”とは言い難い仏像も多く存在する。

頭部一材、躰部の頸を凹に彫り込み、頭部を挿し込む。主要躰部は一木で背面は四角く彫り込む。両腰から両脚左右端に刳り込みを入れて前腕部(角材)をのせ、前腕部上と肩下との間に上腕部(角材)を嵌め込んで彫刻。
なんだか、ブロックを摘み上げているような造形。像底中央の丸孔は不定形で(内刳りと貫通しているかは不明)、ある時期に納入品を取り出そうとした(取り出した)か・・・、などと説明。
少なくともプロ(専業仏師)の手に拠るものではないと思う。

まだまだ分からぬことだらけと思いつつ、都内へ。

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榧園好古図譜

2024-3-9

朝から國學院大學博物館「榧園好古図譜ー北武蔵の名家・根岸家の古物(たから)」展へ。

「榧園好古図譜」に描かれた古物と現物を対比させながらの丁寧な展示。個々の古物を見ながら、『榧園好古図譜』表紙の花卉図(直筆)〔図録から〕は誰の手によるものだろうかと思う。

その後常設展示を見て、三浦泰之さんのミュージアムトーク「“好古家”松浦武四郎と根岸武香の交流」。

松浦武四郎のネガティブなイメージが淡々と語られ、聞いているこちらとしてはハラハラドキドキ。

例えば、古典籍収集家林若樹の聞き書きとして、『撥雲余興』の表紙に使うとして柏木貨一郎から古写経(天平勝宝八歳具注暦抄写)を借りたが、松浦が中央より数寸を切り取って返却したところ、柏木も貸す際に経巻を目方に掛けていたので、承知せず、松浦から切り取った分を取り返したという有名な話がある(『若樹随筆』)。

これだけ聞くと、柏木もなかなか用意周到とも思える(もちろん松浦が一番悪い)が、昔の古写経調査は、先生が経巻を開かずに経巻1巻を掌に載せ、「あ、これは平安(時代)、これは鎌倉の後のほう(後期)、こちらは室町」と判断していたそうで、不審に思った学生(調査員)が尋ねると、「(経巻の)重さで書写時期がわかる!」と言われたそうである。
もちろん今では1巻、1巻広げて奥書を確認するが、昔のこととて大般若経600巻を全部広げていては何時まで経っても調査が終わらない。
そうした感覚が、柏木の時代にはあったのであろう。

講演の最後には、松浦と竹内久一との交流(「元禄会と明治骨董史」『書画骨董雑誌』45、1912年)が語られ、ちょっとびっくり。

夕刻に私用のため終了後、帰阪。

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忘れ去られた画家

2024-3-11

個人的に調べている洋画家の宇和川通喩(うわがわ みちさと)。

〈経歴〉
明治10年(1877)に函館市で生まれ、松本楓湖に師事して日本画を学ぶ。
明治31年(1898)東京美術学校西洋画選科に入学、同35年(1902)7月同校研究科(西洋画)を卒業。
明治37年(1904)から翌年に沖縄県立中学校美術教師となる。大正3年(1914)に日本郵船鹿島丸で渡仏。大正6年(1917)に第1次世界大戦の戦火を避けてニューヨークに一時滞在、帰国。帰国後に滞欧作個展を大阪三越で開催。
大正11年(1922)年頃に再び渡仏、約3年間をパリに在住。昭和2年(1927)には大阪市美術協会幹事となり兵庫県武庫郡本山村野寄ヘルマン別館に在住。
昭和4年(1929)に阪神婦人洋画研究所で赤松麟作、桜井忠剛と共に指導にあたる。
昭和17年(1942)没。

叩き台のひとつ。

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けいおん!

2024-3-12

朝から雨模様。午後より文化会・学術研究会(クラブ)の顧問会議。

昨秋、専修学生から「顧問になって欲しい」とのお願い。以前も専修学生からサークルの顧問になって欲しいとの依頼があってすんなり引き受けたので、今回も快諾。
ところが、サークルの時にはなかった学生センターからの顧問会議開催通知がくる。
ちなみに柄にもなく「軽音楽部」である。

文化会・学術研究会45団体の顧問(教員)が対面・ズーム等で会議。
配布資料をみてびっくり。部員が250名もいるじゃないか。
これまで書類などのやり取りで1部パートと2部パートがあるとは理解していたものの、こんなに大所帯であったとは。

主な年間スケジュールも分かったことだし、これからはちょっと顔出ししておいたほうがよいかも。
入学式後の勧誘活動にジーパン、ジャンパー姿で現れて部員から怪訝そうな表情で見られるかも知れない(ほぼ専修学生しか面が割れていない)ので、びっくりさせてあげよう。
「顧問やけど、なにか?」「えっ! い、いいえ・・・。」

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當麻寺仁王像

2024-3-15

なら歴史芸術文化村から「修理完成記念 當麻寺の仁王さん」展(4月6日~5月12日)のポスター・チラシが届く。早速、合研前に掲示してもらう。

「ミツバチの仁王さん」らしく、バックは黄色ベースにハニカム模様。もうちょっと仁王像が大きければと思うものの、実際、仁王像の前に立つとかなり大きい。
まもなく修復室から展示場へ移動との由。関係する史料や資料、修理の様子がわかるミニチュアも同時に展示予定。

田中松慶さんが生きておれば、どんなに喜んだことだろうかと思うと、ちょっと切ない。大昔、田中家史料を展示した折には、松慶さんは当時の拙宅から自転車で10分ほどの距離に住んでおられて、展示にいたく感謝された覚えがある。

そろそろ、準備もしないといけない時期・・・。

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御後絵(おごえ)

2024-3-18

アメリカ退役軍人の遺族から遺品中に、第十三代尚敬王と第十八代尚育王の御後絵が発見、沖縄に返還との報道。
既に2001年にFBIの盗難美術品ファイルに登録。

まぁ、FBIのリストにあるからアメリカに渡ったことは容易に推測できるが、沖縄の「はしゃぎよう」がハンパない。

御後絵の所有は個人(尚家あるいは旧円覚寺)にあるが、発見された画像には「沖縄県教育庁文化財課」のクレジットが入るわ、コメントする関係者も△△△△博士(芸術学)とするわ、沖縄県人のイヤな一面を見る。
君たちがアメリカに行って発見したわけではないんだよ。

せっかくの慶事に興ざめしきり。

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卒業式

2024-3-19

午後より卒業式・卒業証書授与式&卒論優秀者賞授与式(受賞者は前列中央)。

もう一人、海外の大学院進学に決まった学生。
なかなか日本では研究者が僅少な研究分野で、隔靴掻痒をしながらの卒論作成。こちらも慣れない英文の推薦状を書いたりしながら、結果を待つ。

数日前にA大学院(合格)・B大学院(合格:授業料全額免除・生活費支給)・C大学院(結果待ち)・D大学院(結果待ち)との連絡があり、本人の希望は、C大学院→A大学院(授業料200万)→B大学院だが、小生の意見を問われた。
隔靴掻痒しながら苦労して書いた卒論だが、これで斯界に通用すると思ってはいけない。B大学院でしっかりと本を読み、実地調査を重ねて研究の基礎を積み上げ、A大学院・C大学院(博士課程)へ進学しては、いかがかと。
世の中、進んでいく気があればどうにでもなるよと思う。

皆、卒業おめでとう!さらば関大、達者で暮らせ!

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富嶽三十六景

2024-3-21

午前中、大学院(修士)の修了式。

クリスティーズ・ニューヨークで葛飾北斎「富嶽三十六景」全46作品がで355万9000ドル(約5億3700万円)で落札のニュース。

「富嶽三十六景」〈神奈川沖浪裏〉は、クリスティーズで結構扱っているが、2021年には180万ドルで、2023年3月には276万ドル(約3億6200万円)(この時はもう1点出品されたが、159万ドル)。
コンデションに左右されるものの46作品で355万9000ドルとすると、ちょっと意外にも思う。

当時は1枚20文前後(蕎麦1杯16文)だったので、今ならチャーシュー麺程度・・・というのは授業ネタ。
今では、庶民どころか富豪も躊躇する高騰ぶりの浮世絵である。

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赤尾右京運栄

2024-3-22

過日、届いたEUワークショップ報告論文集。

チューリッヒ大学のMirjana MURERさんの Hiddenn Trasures:East Asian Art Collections on Swiss Castlesを拝読。
所在地はスイスのMeggenhorn Castle(画像下)。厨子内の仏像は聖観音菩薩坐像。
赤尾右京運栄だったのか。制作時期は19世紀初期から前半頃。

こうした城に赤尾右京の作品があるとは、正直、びっくりである。

このほかにも古九谷や薩摩焼、染付(青花?)の食器などもあるようだ。ただ、彼女も言及するように玉石混交の東洋美術品で、東洋美術なので関心が薄いというのが現状であるらしい。
金銅製の仏像も掲載されているが、こちらは明朝の作品。

EUワークショップも長年に亘り実施しているが、関大のほうは自身の研究(中国人留学生のみ「日本の戦争美術」)、ルーバン大学とチューリッヒ大学(今回)は月岡耕漁などで、なんか段々と双方の乖離が酷くなる一方。
果たしてこれを文化交流といえるのだろうか。
ま、関大ですから。

午前中、専修ガイダンス(2回生)。

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時間割

2024-3-25

あと1週間で新年度。
来年度の時間割表を作成、壁に貼る。

新しい担当科目はひとつ、久しぶりの担当科目がひとつ・・・。
なんか少ないような気もするが、気のせいかも知れない。

思っていた以上に安堵となるか、はたまた混乱するかは、お楽しみ。

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仁王さんのスカート丈

2024-3-26

このところの長雨も午後から止んでようやく春も近い。
西門の桜は既に葉桜、法文坂の桜はまだ蕾かたし。

某有名古刹に所蔵される金剛力士像。
阿・吽形像ともにスカート(裳)丈が非常に短い。正面では膝頭が丸見え、背面でたなびく裳裾はふくらはぎ半ばあたりで終わる。
写真を見た時には、冬空のもと短いスカートで闊歩する女性を思い出したほど。

形制は東大寺南大門金剛力士像とほぼ同様。報告書では、制作時期は鎌倉から南北朝時代、来歴は昭和7年に骨董商から購入したとの由。

一般の方には意外なことかもしれないが、東大寺金剛力士像の姿は中国・北宋様の仁王像で、和様の仁王像ではない。
興福寺金剛力士像もスカート丈が短いけれど、こちらは和様の形制。
興福寺像の姿勢(和様)+東大寺像の形制(中国様)=明治末から大正頃の模古作品か。

良い論考だっただけに少し残念。

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温度差

2024-3-28

ずいぶん前から四国4県で「四国八十八箇所霊場と遍路道」調査が行われ、多くの調査報告書も刊行。
四国遍路の世界遺産登録に向けた取り組みである。

報告書をみると、構成資産の把握に各県で内容に温度差がみられる。
護摩札1枚に至るまで計測、写真、銘文など丁寧に記録している県もあれば、あわよくば重要文化財や県指定文化財になればと“優品探し”と思って調査している県も。
仏像、しかも近世・近代(四国遍路)が主なターゲットだから、後者は遍路道の石造文化財が中心。ちょっと勿体ないような気もする。
独自で進めてくれれば問題ないが、かつて各地で行った「歴史の道」調査と同様の結果が目に浮かぶ。

何にしろ担当部局のやる気次第で、出来上がる報告書は充実したものにもおざなりにもなってしまう。

四国だけではなく各地でも起こっていることを、昨年、身に染みてわかった。

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自立する仁王像

2024-3-30

この話題(2024-1-16 べた足(偏平足))以来、自立する仁王像が気になっていた。
本日好天、産直帰りに大淀町権現堂仁王像を見学。

円盤状の石製台座上に立っており、円盤状の石に枘穴を穿つことはない。背面にはかつて支え木があったが現状では無く、まさに自立する仁王像。

明暦2年(1656)大坂今橋道(通)リ尼崎町、大仏師国見大部卿 藤原重光の作。
もともと文禄4年(1594)に泉州の大寺より天狗が両脇に抱えて飛んできたという言い伝え(山門正面には天狗像が鎮座している)が、『奈良県南葛城郡誌』(大正15年)によれば、葛城村大字南郷の鶏足寺大門にあった仁王像は「今尚大淀村大字仙徳寺にあると云へり」と記されている。権現堂の隣は泉徳寺。だとすれば、もとは葛城にあった仁王像である。
大坂仏師による仁王像の典型、あるいは地域的な特徴かもしれないと想像。

東大寺南大門仁王像が如何に例外中の例外であることを思い、足枘を造らずに自立させる仁王像を造ってこその仏師であると思うのだが・・・。

過日、某新聞記者の問い合わせに対してこの話をメールで述べたら、無反応。
新聞記者も新世代。

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奇特な出版社

2024-3-31

ヘンなメールが来た。
Busshi.com は間もなく市場にリリースされます。当社にオファーをしていただけます。販売は当社が担当します。ウェブサイトはなく、ドメインのみが販売されています。ぜひご連絡いただければ幸いです。  蔡玉✕
一瞬ぎょっとしたが、ドメインが違う。

とは言え、〈近世仏師事績データベース〉が無くなると困る人もあろうし、ヘンなところに飛ぶのも迷惑がかかる。この頃は書籍化?しようと無謀にも思い、事績の再確認、補綴を始めていたところ。

この類は、古くは黒川春村、小林剛、江口正尊、また久野健編『江戸仏像図典』にもあるが、いかんせん出典が確認できない。また各地の調査報告でも江戸仏師が多数確認できるが集成したものがない。

ウェブサイトでは所詮消える運命、ならばと思っていた矢先の出来事。
最悪、自費出版でもいいかと。

ほぼ漢字ばかりの辞典を引き受けてくれる奇特な出版社はないものだろうか。

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過去ログ