日々雑記


行基像

2015-05-01

知人(非美術系)から講演会の折に見せられた行基像の時代を教えてほしいとの問い合わせ。

写真を見れば、二宮金次郎そっくりな童顔の“修行僧”の姿。台座からの一木彫成。なぜか文書も付属。説明には「奈良時代」とある。
どう見ても18世紀から19世紀にかけての製作。
ダメというのは容易いが、ダメな理由が必要である。

行基信仰の産物といえ、奈良や大阪には行基千年忌や千百年忌に関する供養塔、あるいは近世三昧聖との関係史料がかなり残る。文書をみると「三国相伝荼毘引導」なる文字も。どうやら千年忌(延享4年・1747)あるいは千百年忌(弘化4年・1847)の頃に製作されたのだろう。

そうした意識がないと江戸時代製作の役行者画像を行基像とみなしてしまうことだってある。
肖像の場合は絵画、彫刻に関わらず、機縁が必要。

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哀惜

2015-05-02

知人が2月に不慮の事故で亡くなったことを知る。享年38歳。

前職末期の頃、調査でたくさんの近世仏像が出て、どう纏めてよいかわからないと切羽詰まった手紙を頂き、若干のアドバイスと資料を送ったのが初めての出会い。まだ大学の助手かリサーチ・アシスタントをされていた頃である。
その後美術館に努める傍ら、地域に残る仏像を調査研究し、次世代にどう伝えていくか行動されていた。美術館や東京で直接会うこともあったが、最近は論文や書籍を送り合っては音信を確かめていた。この1月も話題に出たばかりである。

同封された地元新聞掲載の追悼記事を読んでも未だに信じられない。
気持ちの整理ができずにいる。

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日常

2015-05-07

慌ただしい日常が舞い戻る。

仕事を終え、かなり疲れて電車に乗り込むと、残念ながら座席がなくしばらく立つことに。
若者だけではなく殆どの大人がスマホをいじっており、本を広げている人はごくわずか。
見ていてあまり良い光景とは思えない。SNSやメールだろうか、ゲームだろうか。何がそんなに気になるのかちっともわからない。
乗り換えると、またもや同じ光景。

大人がだんだんとアホになっていく。
若者の活字離れを嘆く前に、まず自らの姿勢を振り返れと言いたい。

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聖護院

2015-05-09

龍谷ミュージアム「聖護院門跡の名宝」展へ。

冷泉為恭模写の"メタボ新羅明神像”や熊野本地仏、役行者像など「本山派」ならではの作品が多数展示。天正19年(1591)の宮内卿康清の役行者像も展示。じっくり拝見。
仏像は本尊の不動明王立像をはじめ峰定寺不動明王二童子像、兵庫・伽耶院不動明王像などが勢揃い。変わったところでは、杉森信盛(近松門左衛門書写の大般若経や道寛法親王初入峯に使用された金剛杖と斧。

障壁画も仮皇居としたことがあって、豪華そのもの。狩野高信(この絵師は「永徳」とサインする)筆金地『瀟湘八景図』屏風(二曲一双)は裏面に長澤蘆雪筆銀地『木賊・朝顔図』が描かれ、リバーシブルな屏風(同時期のものと思う)。土佐光芳の韃靼人狩猟図も秀逸。

その後「近畿地区大学教育研究会」のために京都大学へ。いわゆる「充て職」のひとつ。

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飛鳥史学文学講座

2015-05-10

午後、関西大学教育後援会主催の飛鳥史学文学講座のため、明日香村中央公民館へ。
上階では明日香村文化協会で上野誠氏が講演。
好天ながら130名余の方が聴講。深謝。

今年は切り口を変えて南都の仏像を語る。当時の青年たちにとって和辻哲郎『古寺巡礼』や會津八一の影響がどれほど大きかったのか実感。
講演前、役員の方々との談話で「仏像の話だと「飛鳥(明日香村)」ネタが枯渇しないですか?」と。幸いにも副題に「-やまと・あすか・まほろば塾-」とあって“(奈良地方なので)助かっています”と本音をポロリ。「一度、運慶や快慶の話をうかがいたい」とも。

終了後、天候もよいので橘寺に参拝。如意輪観音坐像を久々に拝見。

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即断即決

2015-05-11

朝、博物館へ出向くと、机の上に透かしの入った豪華な出品依頼状。某館からのもの。
確認した後に鉛筆でチェック。印鑑は金庫にあるのであとは事務方が粛々と処理。

最近は博物館から授業、会議等へ出向くことも多い(だいたい週の半分は博物館にいる)。
どこともそうだが、博物館の仕事は多く、スタッフは慢性的に少ない。で、時には学芸員のお仕事も担うことも。居ることで、時間差なく物事が進行する(仕事が前に進む)メリットも大きい。
即断即決。

夕刻になり研究室に戻る日々。

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転職サイト

2015-05-12

帰途、電車の吊り広告(DODA:転職フェア)を見ていると、様々な企業がずらり。よく知る会社もあるし、全く知らない会社も。
そのなかにひときわ長い会社名「米海軍施設技術部隊極東地域本部」。はぁ?

帰宅後、ネットで調べてみると、やはり米軍が求人募集〔技術職(電気設備、機械設備、建築、土木)〕している。もちろん正社員。雇用主は国(防衛省)だが、使用者は在日米軍となり、国に雇用されるが、国家公務員ではないとも。

「英語でのコミュニケーションを取ることに抵抗がなく、これから英語力を高めたいという意欲のある方でも可能です。基地内には英語専門の語学訓練もあり、就業時間内または就業後に英語力を磨くことも可能です。」と大学的に嬉しい文言も。
勤務先は横須賀基地。ハワイでの研修やサンディエゴ、ワシントンなどへの出張もあり。

グローバル学生よ、急げって思ったが、転職サイトやった。

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奈良礼賛

2015-05-13

午前中から午後にかけて大きな会議が2つ。特に後者は波乱必至の様相で、しかも司会を務める・・・。

終わってぐったり。午後からも会議が続くが、「何か現世にこせこせしながら生きてゐるのが厭になったら、いつでもいい、半日なりと過ごしてゐること。」(堀辰雄『大和路・信濃路』)との声が遠くで聞こえ、過日も「ストレスを溜めないこと」と事務職員氏からの助言もあって、思い切って奈良へ。

奈良県立美術館「奈良礼賛」展。
竹内久一の東大寺戒壇院四天王像(広目天)、山田鬼斎世親像、薬師寺東院堂聖観音像の模作が並ぶ。 東京国立博物館の模写模造計画 は既に茨城で見たが、この展覧会はそこから「創案」という段階まで踏み込んだもの。
関野聖雲《吉祥天像》は「模造」と「創案」の折衷。明治後半以降の彫刻が“ぬるぬる”とした彫刻になるのは高村光雲の変化による影響だろうか。絵画では下村観山《闍維》が秀逸。

山田による世親像模造はおやっ?という表情だが、同じフロアに展示されている狩野芳崖「官遊地取」(明治19年)の「世親像」によく似ており、ちょっと意外。そのほか、室生寺住職丸山貫長や奈良・対山楼の史料も奈良ならではの史料で興味深い。

その後奈良博「古写経」展に向かったが、既に閉館。
また堀辰雄の声が聞こえたら奈良に来ようと思う。

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レコード

2015-05-14

10:40から博物館講座。
大阪芸術大学博物館柳知明先生と関西大学社会学部小川博司先生との対談を交えながら大阪芸術大学博物館所蔵の蓄音機とSPレコードによる「生」演奏。
エジソンの蝋管式蓄音機をはじめ、展示中の蓄音機を使用。電気を使わない、ボリューム調整もない、しかし音が再生できるという、現代学生にとっては不思議な物体である。

レコードを楽しむといった世代にとっては垂涎の講座。終了後も多くの質問が出る。

館長挨拶。気をもむところであるが、耳学問で、昔のカラオケと通信カラオケの違い。今から思えば、昔は音をカバーできる領域が小さいので音がスカスカであるといった話。初期の頃はシロフォン中心の録音演奏であったとも。

終了後、授業へ。

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隣の芝生

2015-05-15

会議、授業、会議、会議とタンバリンのような学務を終え、渋谷の國學院大學へ。

打ち合わせまで少し時間があり、博物館は既に閉館、校内のベンチでたたずむ。当たり前だが、國學院大學には鎮守の森・「神殿(神社)」がある。
見ていると、下校の教職員や学生のうち10人に1人ぐらいが拝礼をして校門を出る。やはり核となるものがある大学は違うと感心しきり。

学術メディアセンターの一角で、U先生、上智大学のK氏のほか、T氏と打ち合わせなどなど。
夜も更け、議論も煮詰まったところで一献。横の大きい部屋(教室?)では別途、先生を囲んで研究室のメンバーが大コンパ。
我が職場との格差を感じることしきり。

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御家騒動

2015-05-16

熊本絡みで永青文庫へ。

2代細川忠興は、3男忠利に家督を譲って隠居、出家して三斎宗立と名乗る。寛永9年(1632)に忠利が豊前小倉藩から肥後熊本藩の領主として熊本城に移ると、自らは八代城に入り、あれこれと忠利・光尚に難癖を付けて権力を保持、熊本本藩(忠利・光尚)と八代(忠興)とで対立が激化。老害そのもの。
相互に疑心暗鬼となり、家老、奉行、毒見役から茶人、国境沿いの庄屋、御用商人までが忠誠の起請文を作成。殊に八代城主松井寄之は本藩城主の忠利の実弟(忠興6男)にあたり、そのため、「兎角之通路」との噂も出る始末。
この御家騒動は忠興の逝去(正保2年(1645)12月2日)によって収束・・・。
ちょっと納得のいく内容。

罰文の諸神諸仏に「阿蘇大明神」とあるのは地元色ならでは。
未使用の罰文(熊野誓紙)のストック(13紙一括)があったのは驚き。どこまで疑心暗鬼だったのか。

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四色問題

2015-05-16

殊のほか早く用件が済んだので、足を伸ばして金沢文庫で鉈彫りの薬師三尊像(「日向薬師」・10~11世紀)を拝見。

末端研究者の資質として疑われるかも知れないが、鉈彫り像をみると、ドラマにも出てきた「四色問題」を思い出す。どんな地図でも隣り合う国々が違う色になるように塗り分けるのに必要なのは最低何色必要かという問題である。
隣り合う国々を腹部や腕、裳の折り返し、条帛などにたとえ、色をナタ目の方向にたとえて見る。
そうすると、完成度(ナタ目の方向)が高いのは向かって左の月光菩薩像。日光菩薩像は条帛垂下部で若干やや行き詰ったように思える。日光菩薩像胸部には墨描による瓔珞。中尊に至っては部分的に若干のノミ目とあたりをとった丸ノミ跡。中尊の台座丸框、反花部分もナタ彫り。

「従地湧出」「化現」など言われているが、こういう見方をすると見えてくるものもわからないだろうと思いつつ、「四色問題」に励む。

魚の口から両腕が飛び出ているような像を含む十二神将像(定智本十二神将図像に依拠)もじっくり。

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最終日

2015-05-17

朝、自治会の用事を済ませて大学。教育後援会総会・学部別教育懇談会 いわゆるPTA。
本日は企画展「かんさい・大学ミュージアムネットワーク連携展『大学の扉を開く』」の最終日。

博物館に向かうと、多くの保護者が来館。列品解説や蓄音機の演奏会も随時実施。既に2000人目の記念状が渡され、2500人目の賞状もスタンバイ。なぜそこに私の名前が と一瞬戸惑う新米館長。

PTAを済ませて博物館に戻ると、2500人目の賞状も既に手渡され、なお続々と来館。
5時過ぎにようやくCLOSE。ご苦労様でした。

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撤収作業

2015-05-19

昨日より撤収作業。今日は授業の合間を縫ってのお手伝い。
展示品の開梱時にはいなかったので(展示資料の収納状況を知らないので)、専らサイコロ(展示台)やワイヤーフックの整理など細々したこと。

午後、大阪芸術大学のI先生、Y先生が資料の撤収に来られた。こうした どう扱ってよいのかわからない資料もある。I先生は元学芸員。書籍や展覧会を通してお名前はよく知っている。ところが、ご本人に直接お会いするのは初めて。

展示台を収納する倉庫は常設展示場奥。常設展は営業中(?)ゆえ監視カメラを見ながら来館者がいない頃を見計らって倉庫に運び入れる。
居ないことを確認して運び入れたら、おひとかた、監視カメラの死角におられた。「たいへん申し訳ありません」と言いながらそのまま倉庫へ突入。

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均一セール

2015-05-20

お昼休み、定価販売で有名な古美術商の目録を見る。
この類いの目録は、若干勉強が必要。800万円の西村五雲もあれば、30万円の雪舟もある。そこを見極めつつ頁をめくる。

後半は、某洋画家の小特集。
ぱらぱらと頁をくっていると、9点掲げられているなかで、1点を除いてすべて25万円。キャンバスの号数や額装、掛幅装の違い、植物、静物といったジャンルに関わりなく同じ価格設定。
「どれもこれもいっしょやね。じゃ均一価格で。」という気分が漂う。
細かく設定すると、「この作品が30万円、こちらが25万円、この違いはどこにある?」といった問い合わせの対応(言い訳)を考えたりしないといけない。
五十歩、百歩の違いを説明するのも億劫である、じゃ均一セールで・・・。

功名だけどその程度の画家なんだ。
個人的には25万でもやや高いようにも思ったり。

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罰当たり?

2015-05-22

兵庫津遺跡(兵庫城)では石垣のほか、周辺の町屋群の礎石や井戸などに墓石が幅広く転用されていたとの 神戸新聞の報道

「ようこんなひどいことを…」と呟いたのは神戸市教委の担当者。「『領地を制圧した見せしめに破壊したという見方もあるが、墓石に対する宗教的な意識が希薄で、墓地を石材の供給源として捉えていた可能性が高い』と指摘」したのが誰か記されていないが、安土・桃山時代では、ごく普通のことである。

誰からも領地を制圧されなかった自治都市であった堺の中世町並みも同じ。発掘調査でも五輪塔や板碑などを溝の側壁などにどんどん転用。既に中世墓の機能喪失といった点からも研究がなされている。刻まれた文字に金箔が押された五輪塔片も転用されている。今風に考えれば生前に造られた墓石となろう。

「罰当たり」であると思うのは現代人の発想。当時の人たちの発想をもって考えないと、こうした記事が生まれるのだろう。もう少し考えましょう。

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考えは言葉となり、言葉は行動となり

2015-05-25

蓮体が撰した『浄厳大和尚霊徳記』。
下総の者が北川運長に5寸の不動三尊像を造らせ、浄厳に開眼供養してもらった。仏像はとりわけ端厳威験に出来上がり、礼拝していたが「此の仏像は甚だ小さいのになんと値(代金)が高いことよ。きっと仏師が私腹しているのだろう」と疑念を持つようになり、礼拝のたびにそう思っていた。
ある時、制多迦童子が彼に憑り、「小像だからとてどうして威験がないと言えようか。汝はなぜ我を軽んじるのか」と種々口走り、発狂し病んでしまった。そこで親族が集まって種々懺悔したので、しばらくすると病が癒えた。
2、3か月すると、またあの時の思いをおこすようになり、今度も制多迦童子が彼に憑いて、種々口走り発狂してしまった。親族は再び色々と懺悔したけれど、このたびは病も癒えず遂に死んでしまった。「開眼供養する人によって新仏であっても威霊はこのように大きい」と諸人は言いあった。

「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」というのは映画「マーガレット・サッチャー」の中のセリフ。

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高野山の話題

2015-05-27

「高野山開創1200年記念大法会」が終わった高野山地元民の話題。
「もうホンマ、大門の前に勧進札立てて『本日、研修のため高野山はお休みいたします。あしからずご了承下さい』ってしたいぐらい・・・」
「食堂のショーウインドウをみたら、きつねうどん・きつねそば以外のメニューの札は全部伏せてあって、ネイティヴの観光客が、ここはレストランではなくヌードルショップだとぼやいていた・・・。」
「宿坊で働く若者は、朝5時頃から夜12時まで働き詰め。それが50日間連続毎日満室。ブラック企業どころではない。疲れ切って・・・。」
南海の利用者は50日間で計13万1324人で前年同期の2・5倍。期間中の参拝客約60万人で、1日あたり1万人。高野山は完全に飽和状態。
なんとなくこれ(記念大法会)で終わる雰囲気ではなさそうな予感。

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梱包

2015-05-30

朝から新居浜へ。土曜日ゆえ宝塚附近の渋滞がひどい。予定より10分ほど遅れて到着。
資料(作品)の梱包。既に半分ほどは梱包されている。門前の小僧よろしく、板ダンボールで作品ピッタリサイズの箱を作ることが出来るが、今回はその必要性はなく、エアーキャップで包み込む。

もちろん作品(資料)によって美術運搬専門業者に任せることも大事だが、須恵器片1片、柄杓1本まで、業者が梱包、輸送、開梱しないといけないのだろうかと時には思う。そりゃ、資料(作品)の調査や研究も大事だが、モノの扱いを知る上では自分で扱ってみることが一番じゃないか。それをせずしてすべて”お任せパック”でいいのだろうかと思ったりする。

幸いにも教育(博物館実習課程)には携わっていない。
板ダンボール1枚、学生に渡して資料ぴったりサイズの被せ箱を作れとか、板材で仏像用の担架を作れとかはいわない。でも「博物館情報論」とか「博物館運営論」よりももっと大事なことがあるのではないかと思うのだが、それは学芸員じゃなくて美術運搬専門業者のスキルであるとの声もでそうだが、なんだか複雑。

人様のことを言える資格はないが、世の中”使えない学芸員”がかなり潜伏している。

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美専車

2015-05-31

朝から搬出。積み荷の指示をし、トラックは一路大学へ向かう。
今回は美専車(美術専用車)を使うほどの資料(作品)でないために、現地集合、こちらも追って大学へと向かう。

「美専車」に同乗しての集荷行脚、返却行脚を懐かしく思う。
万が一の場合、学芸員同乗では困るということで同乗させない館もあると聞いたが、今はどうなっているのだろうか。同乗させないといっても奥深い山間の寺などに借用、返却に向かっても交通手段がないところもしばしば。やむなく最寄駅でひらってもらったことも。逆に展示スケジュール目いっぱいで、夕刻東京、翌日午前中奈良で集荷というのもあった。夜通し東名・名神を走ることになる。もちろん宿泊費はなく夜食代がわずかについたはずだった。
座席の一角でのんびりくつろぐということもあまりなく、図録校正の念校やごちゃごちゃと仕事をしていた記憶がある。

トラックに遅れること小1時間。大学到着。 資料を博物館へ運び入れて、帰宅の途に。

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過去ログ