日々雑記


プロの眼

2015-07-01

午後、ギャラリーかわにしさんが、はるばる愛媛・西条市から博物館へ来られ、矢原氏ともども対応。

案内していると、黒い人影・・・。学生が見に来るとはあまり考えられない。ふとみると、ギャラリー島田(神戸市)さんが来館。
ギャラリーかわにしさんもギャラリー島田さんもその道のプロ中のプロ。四者相揃って各作品の批評が続く。さすがに作品をみる眼光は鋭い。案内しながらそういう見方もできるんだと感心。

その後、常設展をご覧になられて、しばし館長室で現代美術談義。

午後には文学部の先生が研究者の方とともに見学されるなど、今回の展覧会は、(学生向きの)大学博物館ではなく大人向きの展覧会と思う。学生ばかりを相手にしていると博物館は衰退する。齢を重ねて初めてわかる、知ることも多い。

お帰りになられた後、授業(リレー講義)のため教室へ向かう。

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片岡球子

2015-07-02

今、名古屋で「生誕110年 片岡球子展」が開催中。

かつて卒論で片岡球子を採りあげた学生がいた。「球子は・・・」とコメントすると、「うちのタローちゃん(岡本太郎)は・・・」などの言葉が飛び交い、こちらが「あんた方は(画家の)身内ですか?」などと会話するような楽しい学生が多かった学年であった。

片岡球子が描く富士山は、どれも大胆な構図とカラフルでパワーに満ちそして見事に美しい。
片岡球子は「朝、亭主に叱られた奥さんが、これを見て、気分がスカッとするような富士山を描いた」と述べている。
素材も岩絵具はもとよりパステル、木炭、クレヨン、アクリル絵具、プラチナ箔など、日本画家ながら本質的には油彩画の感覚である。
沈みがちの気分を回復するにはもってこいの作品。
見に行きたいなぁ。

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俗人の肖像彫刻

2015-07-04

午前中、博物館に広島修道大学の市川薫先生が来館。
展示後半になり学外からの来館者続々。
学内で少し迷われたとの由。学内者にとってはなんでもないところだが、学外の方々が博物館へ来られるのはやや難易度が高いらしい。ちょっと改善の余地ありか。

午後から佐野公民館の講座(2回目)。
「『俗人の肖像彫刻』、アジアの他国にはありますか?」との質問。
維摩居士は在家ながら文殊と問答しており、ちょっと違う。敦煌莫高窟の蔵経洞(17窟)には洪べんの坐像があるなど高僧の姿はいくつか知られるが、俗人となると・・・。
しばし考え込むも(近代以前の)中国や朝鮮半島での俗人肖像彫刻は全く思い浮かばない。「考えておきます」とひきとったのだが、全く見当もつかない。
日本なら篤信家の肖像彫刻はそれこそたくさんあるのだが。

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逆志向

2015-07-05

大学院入試。

就活混乱期のさなかだからか、将来の進路に「学芸員希望」と書く者多し。
いやぁ、(研究テーマにする)その作家の作品、日本に所蔵されていないのだけれど・・・。
そういう意地悪な質問を投げかけるわけにもいかず「これからの研究計画は?」などと問う。

逆だったらどうだろうか。
「○○博物館(美術館)に就職したいです。研究テーマは何をすればよいですか?」「あそこには××のコレクションがあって担当学芸員が2,3年後には定年となるはず。だから▲▲を研究しなさい」という風にアドバイスできるかもしれない。
しかしながら願書は志望理由と研究計画書(学内入試)。白紙委任ではイケナイ。

学生自身の志望や趣向もあるが、今のように"学生の自主性"ばかりに任せていては、実るものも実らない。理工系のように、学生に研究テーマを“与える”でも構わないのだけれど、学生は嫌がるだろうなぁ、きっと。

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小林太市郎

2015-07-07

昨日は、調査やら元東博のM氏や元京博のK氏など文化財に関わる方々との会合があり、その後一献。
1200㎞も離れた町で夜9時まで飲んで、帰宅(帰宅できるのが不思議)。

今日は10:40から授業。さすがに5分ほど遅刻。
学生の発表後、質疑応答。発表内容に関して「小林太市郎」に言及。
「博覧強記と広い視野に支えられつつ大胆な推論を展開するため、通常の実証的な学者にはない魅力を持つが、批判されることも多い」とされる小林太市郎。発表ではさらりと流されたが、「どうして?」「どういうことで?」とツッコミ。

学問は実証的でなければならない。「そういう真似をしてはいけません」と。
大昔、(関西では)註記のごくわずかな学術論文がありふれていたことを思うと、ここで忠告しておかなければとつい。

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見立て

2015-07-09

午後から博物館実習実践研修会「煎茶研修」。

詩画軸を読みながら煎茶をいただく研修。講師は佃一輝先生と若宗匠の佃梓央氏。
キーワードは「見立て」。

大坂町人の、現実(世俗)から離れた中国文人趣味、「文房」「自娯」「去俗(離俗)」を求め、煎茶を楽しむということを実践を通して体験。
文房に見立てられた講座室で鯉の掛軸があり、文房具が添えられ、軸を読み解きながらしばし「俗を離れる」。鯉もまた己?の見立てか。

今回は大阪大学のH先生とゼミ生10人ほどが参加。彼等もまた将来の科挙官僚となるであろう。士大夫の素養が感じられた。

いつものことながら最後のご挨拶もできずに授業のため教室へ駆け込む。

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キンコン♪

2015-07-10

とある日の夕刻。部屋で仕事をしていると、LINEがキンコン♪
見れば今春卒業した学生(現社会人)から。

このゼミ生たちはゼミ連絡等でのメールのやり取りが面倒で、「センセ、ちょっと(携帯)貸して下さい」と全員がLINEで繋がっている。

東京で研修中の元ゼミ生がそのまま東京勤務との近況報告。「体調に気をつけてしっかり頑張りなさい」とエール。その後他のゼミ生から続々とキンコン♪、キンコン♪と大激励。そのうち「遊びに行く」「お盆はいつ帰る?」「久しぶりに会いたい」「旨いもの食べたい!」などと大盛り上がり。
不肖 指導教員としては放置するわけにはいかず、お盆のさなかの同窓会を企画提案・・・。
導火線に火をつけたように、再びキンコン♪キンコン♪とLINEの着信音が連打。

波長の合うゼミ生だけあって、こちらも再会が待ち遠しい。帰宅後に梅田あたりの店を物色。

なんか、最近こんなことばかりやっている・・・。

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指定管理

2015-07-11

佐野公民館の講座(最終回)。
終了後、大変恐縮しながらも「来年度はここ(公民館)も指定管理者制となりますので、今後どうなるのかわかりません」と仰る。

周辺では図書館、博物館、市民センターなどの指定管理に関わる話をよく聞く。基本としては「行政のスリム化」なのだろうが(これは住民にとっても首長にとっても大きなメリット・PRとなる)、最小限まで減らすことが絶対善なのかはなはだ疑問である。

例えば、台風が上陸し避難勧告が出されたとしよう。たちまち公民館は避難所となる。避難所に毛布や非常食を運び入れるのは誰なのか、避難者の把握は誰がするのか。非常時にこそ公務員が必要なのだが、あまり想定されていない。平時だけを想定して云々というのは危機意識に欠けすぎている。
とはいえ、一企業の社員がヘルメット被って避難所の管理運営をするとは思えない。

難しい問題である。

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キッズミュージアム

2015-07-13

午前中、博物館に行くと6名の職員、スタッフが電話対応に忙殺中。
なにごとと思いきや、今朝9:00から8月4日・5日開催の「キッズミュージアム」のプログラムの事前申込。
正午もまわっても電話は止まない。

応援したいのはやまやまだが、事情を知らぬ者が加わって混乱に拍車をかけてはいけないので事の成り行きを見守る。チラシをよく見ると、専用電話も設けられている。

14ほどあるプログラムのうち事前申し込みは6つのプログラム。場所や事前準備の関係で1回につき6~30名、日に2~4回実施するのだが、正午頃には、空席のあるプログラムはごくわずか。お昼休みに掛けてきたお父さん(家族から頼まれたのだろうか)が「既にいっぱいとなりました」と告げられ、落胆した声が耳に残っていると職員氏。
前職の「子供体験学習会」でもこういうことはなかった・・・。

恥ずかしながら小職としては、なにゆえに大好評なのかわからない・・・。館長失格!!

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一市民

2015-07-14

記すことをやめようと思ったが、やはりおかしいので敢えて記しておく。

同級生に前市議会議員がいる。「前」というのは4月下旬の選挙で落選したからである。
落選後のブログで、市民からの様々な要望・相談に対して「さも市会議員のような顔をして?市・府の関係部署の職員とかけあったり、弁護士さんに連絡とったりする中でほとんどの事案が解決に向いつつある」と述べ、バッジがなくても頼りにされて「うれしい限り」と締めくくる。

世間から見れば、貴兄は単なる「クレーマー」に過ぎない。もう少し言うと、「プロ市民」に成り下がったということにもなろう。議員バッジがなくなれば前議員といっても一介の市民。貴兄が同じ会派の現職議員に事情を話し相談を持ちかけることは当然だが、一介の市民である貴兄自身が直接市・府の関係部署の職員とかけあうことなんてあり得ない。
それで「事案が解決に向いつつある」ならば、市政や府政に大きな歪みがあると言わざるを得ない。議案や案件でもなんでもない一市民からの要求を呑んだと。それが出来ないから皆、陳情や要望を現職議員に出すのじゃないか。

弁護士バッチがない弁護士が弁護活動を行うと罰せられる。議員でもない者が関係部局と交渉し「解決に向いつつある」こと自体、市民の負託を受けた議会制度を崩壊させるものだと、なぜ気付かないのか。

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“裏焼き”

2015-07-15

デジタルカメラと単純な被り布の大型カメラ(4×5・8×10)を解像度(復元度)の違いから比べれば、後者に軍配が上がる。精度とコスト面からは6×9ですら圧勝。
ところが意外な弱点がある。

4×5(8×10)フィルムシートをフォルダーに入れる際には、フィルムの切り込み(ノッチ)を右下に持ってくるようにいけない(そうしないと写らない)。もちろんこの作業は暗室や遮光袋の中で行う。
ファインダーにあたる磨りガラスには上下左右が反転した画像が写り、フォルダーをセットしピントを合わせて撮影。

現像したフィルムも左右上下逆転の画像。
上下反転はすぐさま理解できるが、能面や太陽の塔とか巴紋など単純な対象ほど左右反転が判らない。つまり現像済フィルムの表裏が判らないのである・・・。
間違わないようフィルム(正画像)上端に印を付す所もあるが、多くは現像済フィルムそのもの。

展覧会にこうしたフィルムが多用されるものの、ポスターやチラシ、時には図録も請け負うデザイナーや印刷業者にとって、実物は見たこともなくフィルムに焼き付けられた資料の正画像を知る由もない。そこで”裏焼き”というアクシデントが発生する。クライアントである博物館・学芸員がチェックするものの、時には文字情報に気を取られて、裏焼きを見過ごしてしまうこともある。刷り直しか正図版の別刷り挿入か、どちらにしても非常に気が重い。
その点、デジタルデータはよほどのことがない限り、まずは”裏焼き”はおこらない。ただデジタル画像のこの部分をトリミングしてA2のポスターに使おうと思ってもボケボケで、撮影時にはポスターの詳細が決定し、トリミング部分を指定、敢えて別撮影する必要が生じる。

「帯に短し、襷に長し」の画像事情である。

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金策 光琳

2015-07-16

来年(今年?)は尾形光琳没後300年。

貞享4年(1687)6月に父 宗謙が亡くなり、市之丞(光琳)には遺産相続の一部として光悦の硯箱、信楽水指、能道具一式などが譲られる。
遊び好きの浪費家で女癖の悪い光琳は、元禄7年(1694)には「光悦鹿之硯箱」「信楽水指(塗り蓋あり)」(親爺の遺品?)を質入れし、金7両を借りる。期限は翌年3月、利息は月1分。もとより返済できず質流れとなる。同じ頃に弟 権平(乾山)からも借金。
翌年12月には脇指2腰を質入れし銀400匁を得、同じ頃に、宗達勝手屏風(宗達の屏風!)、信楽花入、茶入、染付や瀬戸の皿や鉢などを売却、銀338匁余を得る。元禄9年(1696)には乾山から借金返済の催促と財産整理の勧告があり、同10年にはようやく乾山と妙顕寺からの借金利息分銀2貫目を返済。

32歳の時に時の関白二条綱平と知り合い、生涯にわたって光琳のパトロンとなるが、光琳の30歳後半は金策の連続。

今ならすぐさま弁護士が駆けつける事態だが、光琳48歳(江戸へ下向した頃)の時に、乾山は光琳のために金45両を借りてやっているとも。
乾山なくしてはの光琳である。

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大阪限定

2015-07-17

昨夜のうちに大阪に暴風警報。「早すぎるっ!」と末娘。
こちらも、もし休講になれば、ムサビのシンポジウムに駆け込んで・・・と一抹の期待。
しかしながら現実は通常通り授業。

暴風警報がどの地域に発令されたら休講になるのかは大学によって異なる。

関西大学・・・大阪府全域
関西学院大学・・・大阪府全域と兵庫県阪神、北播丹波、播磨南東部エリア
同志社大学・・・(予報一次細分区域)京都府南部、大阪府 (予報二次細分区域)京都・亀岡、南丹・京丹波、山城中部、山城南部、大阪市、北大阪、東部大阪、南河内、泉州
立命館大学・・・キャンパスが大阪、京都、滋賀に分かれているためか、基準はみあたらず。
近畿大学・・・大阪府全域と兵庫県阪神エリア、奈良県北西部、五条・北部吉野エリア、和歌山県紀北エリア、京都府京都・亀岡エリア、山城エリア

残念ながら関大は大阪限定。終日強雨。

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矢原展終了

2015-07-18

矢原繁長展、1245人の来館を得て無事終了。

振り返れば、企画からパンフ、原稿、展示等までよくやった。何分、現役作家なので交渉事がことのほか多い。これまで主に作品資料中心で、相応の配慮はするものの「借用できればこちらのもの」という意識がなきにしもあらずである。
ところが、作家自身が展示作業やプロデュースするので助手役に徹せざるをえない。

展覧会が始まっても来館する学生が少なくガランとした展示室で、へこむこともあった。しかし幸いにも大人がわざわざ博物館まで来られ、また教職員の方も多数お越しになり(金曜日 大雨のなか日頃お世話になっている職員氏が来館 感謝)、一定の好反応を得たと思う。

連休明けからは、最終授業と試験の合間を縫っての撤収作業と返却。
矢原氏はさっそく7月23日から「ぎゃらいーかわにし」で次の個展。

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皆料

2015-07-20

以前発表した蕪稿に、「『皆料』を付した請負注文の初見は、建長3年あるいは建武3年とされる院信発給の『東福寺造仏注文』とみられ、少なくとも14世紀前半には「請負制」による一括請求(支給)が発生した」と記した。「皆料」とは今風の言葉でいえば「こみこみ」。

造像に際して依頼者は基本的に食米(食料)、禄(褒美)、作料(制作料)からなる造像料の他、木材などの材料調達も仏師の要請によって依頼者が手配することになっていた。そのため依頼者は個々の諸材料に関する支度注文を発給するが煩しく、「皆料」の用語を使う「造仏注文」を仏師が発給することで、材料費も作料も「こみこみ」の一括請求に代わったというのが主旨。

長寛3年(1165)4月28日、仏師明円発給の3尺愛染明王像10躰の「造進支度注文」(『平安遺文』3346・3347)。
幅8、9寸長さ3尺の御衣木10切、硯・筆、敷筵10枚、浄衣10領(うち1領は大仏師料として)のほかに、作料として准絹1300疋、砂金3分。前者は材木・木造・塗り・彩色・錺等の料、後者は持物・光背・細金等の料。

同じ4月に院慶が発給した3尺愛染明王像10躰の「造進支度注文」(『平安遺文』3348)。
長さ3尺の御衣木、筵3枚、浄衣1領(大仏師料か)の他、案(机)10脚、筵10枚、継紙10枚、「勒布」10段、人夫20人、但し雨天時には別途「覆料」も。
「料物事」として「准絹千五百疋 皆料」と計上。1500疋は明円分の材木・木造・塗り・彩色・錺・持物・光背・細金等、合計の料にあたるものか。

まだ御衣木、硯・筆、敷筵などは依頼者の負担ながら、造像事業における「皆料」なる用語は、すでに12世紀後半からみられる。
猛反省。

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十王と閻魔

2015-07-21

夕刻、矢原展の撤収作業が済み博物館事務室に戻ると、学生が来室。
聞けば、博物館実習展で「地獄」を取上げたいとの由。
「聖衆来迎寺 六道絵」や「地獄草紙」の複製など関大にあるはずもないが、ともかく図書館の往生要集の版本などを紹介しているうちに、資料室に教材資料として江戸時代の「十王像」1躯(首ほぞに「六」とあるので変成王像か)があることを思い出し、同室に案内。

色々見ているうちに「仏説十王経」やモノクロながら「北野天神絵巻」の複製もある。「けっこうあるじゃん」としたり顔で話すも学生は浮かぬ表情。
さては、授業、聞いていないな(受けていないのかも)。一般教養等で毎年、「地獄」の美術を扱っているのだ。
一応、像高を計ったものの、お目当ての資料ではない様子。「ま、要るんやったら貸してもよいが・・・」「は、はい。」と。
借りて展示して「閻魔王像」なんてキャプションつけるようなことがあれば、すぐに怒鳴り込んで返却してもらうつもり。

この頃、実習展とはいえ、知識も不十分、お遊びの展示が多すぎる。

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となりの人間国宝

2015-07-22

過日夜、1200キロ離れた街で呑んでいたのだが、同席していた斜め前のM氏が、“重要無形文化財保持者(人間国宝)”であることを知り、驚愕至極。その折頂いた名刺を確認しても肩書に「重要無形文化財保持者」とはないものの、やはりご当人である。

こちらは肩書や年齢等は全く気にしない性分であるものの、人によってはそれが自らのアイデンティティーであることに拘り、相応の応対をしないと突如、不機嫌になる方もおられ、気を遣うことも多い。
もとよりM氏はそうした方でなく、門外漢のまったく基本的な事柄にも気さくに丁寧に返答していただき、「先生、泡盛、来まし~た。カラカラ(酒器)いきま~す」などほざいていたのだが、今思い返せば、冷や汗一斗もの。

脳裏に浮かぶ「人間国宝」といえば、桂米朝ぐらししか思い浮かばない。
知らなかったとはいえ、酒宴の折の無礼、ひらにご容赦のほどを。

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銘記

2015-07-23

博物館で午前と午後、プレ・キッズミュージアム「筆と遊ぼう 1日書道教室」開催。
講師は鈴木葩光先生、伊賀本妙智先生、葩光会の羽田さん、関西大学書道部の学生。
好きな文字を先生に書いていただきそれを手本に半紙や色紙に書くプログラム、消しゴムで雅印を作るプログラム、そして最後に大きな紙に好きな文字を書くプログラム。自由に文字を描き、魂を入れて書くことの大切さを学ぶ。色紙、大きな紙はキッズミュージアムで展示後、返却。

色紙や大きな紙に文字を書いている子供たちを見て、ふと思う。

平安時代や鎌倉時代の在銘作品(仏像)は仏像の上下に沿った形で墨書銘(結縁銘)を記していない例がかなりある。大宰府・観世音寺十一面観音像は上下逆に記したり、斜め上に向かって書かれている。小野・浄土寺阿弥陀如来立像(快慶作)も上下反対にしないと判読できない結縁銘がある。
これらの墨書銘は仏像用材となる御衣木の状態(どちらが頭部の方向なのかわからない状態)で書かれた銘記といえる。上下に沿った墨書銘(結縁銘)は荒彫りが済み、頭部と体部がわかる状態で記されたもの。
子供たちが楽しく自由に書く文字を見ながら、しばし厳しい表情。

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深謝

2015-07-23

午後「1日書道教室」の挨拶の後、立正大学の笹岡先生が来館。京都出張の折、データベースに掲載して下さいと、とわざわざ立正大学仏教文化財修復研究・実習室での報告書等を届けてくださった。深謝しきり。
近世仏像の研究は、修復の現場でも役に立っているようである。

頂いた修復報告書の中に千葉県藻原寺 日向上人像の修復報告がある。「延宝6年(1678)」「西川右近作 三十六才」の造像銘。データベースによれば東京・八王子市広園寺令山和尚坐像を「西川右近 六十一才」が制作している。ただし令山和尚坐像は製作時期が不明。
日向上人像の事例から西川右近は寛永20年(1643)生まれ、令山和尚坐像の製作は元禄16年(1703)と判明。(数え歳)

常設展示を案内しながら、データーベースのことなど、色々と要望等を承る。
とりあえず、種々の学事が終わる来秋までは動けない・・・のが悔しい限り。
頂いた資料をさっそく入力しないと。

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元興寺

2015-07-24

御用出仕にて奈良へ。
詳細は秘すが、とうとうというか、遂にというか・・・。

約束の時間まで少し余裕があったので、特に目的はないものの元興寺へ。
猛暑のなか、極楽坊本堂は風が通り涼しい。まさに“極楽”。礼拝の後、囲繞しながら堂内を見学。智光法師坐像、禮光法師坐像が安置。薬師如来立像・十二神将像(中院町所有)は元禄15年(1702)の作。この前年に安井門跡道恕によって『元興寺極楽坊縁起絵巻』が新調。宝蔵院(宝物庫)では湛海不動明王坐像、南無仏太子像などを拝見。
ガラスケースにひっそりと入った僧形八幡坐像(塑像・江戸時代)はまさしく薬師寺僧形八幡三神像の模造。巧く出来ている。

御用の後、ナイター開館となっている奈良博「白鳳」展へ。薬師寺月光菩薩立像はこんなに大きかったのかと素直に驚嘆。

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晩年の秀吉

2015-07-26

最後に残った授業「EU-日本学フィールドワーク」(大学院)。
どこへ引率してもよいということで、晩年の秀吉を振り返り、猛暑の中の京都へ。

まずは「耳塚」。
秀吉の朝鮮出兵(慶長の役・1597~98)で持ち帰った朝鮮・明国人の耳、鼻を埋めた塚。は慶長2年(1597)9月28日に秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌らが施餓鬼供養が執行。
周囲の石柵は京都の侠客「伏見の勇山」こと小畑岩次郎(元治元年・1864~大正6年・1917)の斡旋により当時の歌舞伎役者や演劇・浄瑠璃関係者が寄進したもの。石柵には「中村雁冶郎」「三代目竹本越後太夫」「片岡仁左衛門」など。

次いで豊国神社。
秀吉は慶長3年8月18日に死去したが、当面、その事は伏せられ「大仏の鎮守社」として創建。「豊国大明神」の神号が与えられ、「豊国神社」となる。徳川の世になり社殿は辛うじて残ったたものの、門は閉ざされ朽ち果てるままに放置された。
明治天皇が大阪行幸時に「(この状態は)いかがなものか」ことで再建、国宝 唐門も南禅寺金地院から移設されたもの。南禅寺金地院以前は二条城、その前は伏見城の遺構と伝えられる。

その後、方広寺。「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘を前に方広寺大仏の歴史。
文禄5年(1596)慶長伏見地震の際に初度の大仏は崩壊。「大仏を安置したのは国家安泰のためだ。余(秀吉)は若干の金銀をなげうち、奈良の大仏を模して数年かけて完成させた。その志を何とも思わず、おまえ(大仏)は図体が大きいのも恥じず、今自らの一身を保つことさえできず、裂け砕けるとは何たることか。お前のような役立たずの仏を余は信じない」と秀吉は大仏に弓を引いた・・・。
方広寺を去り智積院へ向かう途中、京博前の石垣でも解説。
智積院(祥雲寺)に向い長谷川等伯一門の「楓図」「桜図」を見学。ここでは秀吉の愛児鶴松の夭折と狩野永徳、等伯の関係を語り、大書院にてしばし休憩。

午後からは京都国立博物館。新館前で見どころなどを話し自由見学。
京都・大興寺十二神将像(巳神・午神 院よう・正和5年(1316))には驚き。東寺金堂十二神像に瓜二つ。
3時過ぎに解散。暑い一日。

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もう目新しくないのか

2015-07-27

石見で奈良時代の木彫仏(圓福寺 観音菩薩立像)、発見。今秋の石見美術館「祈りの仏像-石見の地より-」展に初出品。

ところが、お見立て違いはないものの、どうしたわけか、マスコミは小さいな囲み記事扱いで、ネット上でもあまり反響は芳しくない。
どうしたのだろうか。

そういえば、昨日の京博でも静岡・鉄舟寺千手観音立像(奈良時代)が出品されていた。奈良時代の木彫仏なのに学生の反応が薄いのは、教師(小生)の側に一因があるのだが、世間でも奈良時代の木彫仏があちこちにあることが、当然のことと思っているのだろうか。

記者発表が「奈良から江戸時代に制作されたとみられる仏像11体を確認した」という曖昧な内容もさることながら「中国地方最古の木彫仏」ということでは、既にインパクトが薄いのかもしれない。

毎度のことながら(基本的知識すらない記者相手の)記者発表は難しい。

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返却

2015-07-29

新居浜のアトリエへ作品を返却。
博物館では朝から積み込みを終え、こちらは自宅より新居浜に向い、アトリエで待つ。

作品を返却し、矢原氏とともに西条市のギャラリーかわにしさんへ御礼のご挨拶。

昨日まで個展が開催されていたので拝見。
写真では新作に見入っているが、もっと関心をひいたのが、足元にある床板。カヤを切り揃えるための“まな板”。端は折れ、切り揃えた刃の跡も残るが、風合いといい自然無垢な調子がとても上品。一輪挿しの花器もまたよく合っている。

作品とよくマッチし、これなら掛幅の代わりにもなると述べたが、ギャラリーかわにしさんは「矢原さんの(新作)は、待合に掛けるほうがよい」とおっしゃる。新たな黒を目指していくつかの作品も披露され、こちらもつい「チョコレートのパッケージ」と手厳しいことを述べたこともあったが、また新たな作品シリーズが生まれたようである。

夕刻、すべてが終了し帰阪の途に。

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定期試験

2015-07-30

午前中、試験(本部待機)、午後はこちらの試験担当。

試験が始まる1時間前に千里山では落雷多数、大粒のにわか雨。そのため阪急千里線が遅延し、急遽、延着証明書が提示されれば「追試験」の案内が挟み込まれる。
幸い、試験が始まる頃に晴れ渡り蒸し暑いばかり。試験では延着証明書提示者もなく、つつがなく試験が開始。

試験終了10分前(試験開始30分経過後試験終了10分前までは退室可能)に退室した学生が、答案用紙を渡す際に「ここの問題、間違ってますよ」と。
一瞬、どきっとしたが、問題をよく読んでいないようで、無言で答案用紙を受け取る。
間違っているのは君のほう。

試験後、某博物館に駆け込んで打合せを済ませ、その後、職場(大学博物館)研修会(と称した暑気払い)へと梅田に向かう。

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高山右近

2015-07-31

大学で諸々の用務を済ませ、午後、「高槻しろあと歴史館」に向う。「北大阪ミュージアム・ネットワーク」の会議。

「高槻しろあと歴史館」は名のごとく高槻城の一角。
高槻城自身はないものの、高槻城といえばキリシタン大名「高山右近」である。常設展示でも、城下にあったキリシタン墓地で出土した木製のロザリオや「二支十字」が墨書された棺の蓋板が展示。
その一角に「厨子入妙見菩薩坐像(能勢形)」。厨子と像背面のわずかな隙間に小さな3連タイプの銅板レリーフ(確かに古そう)が挟み込まれていたとの由。レリーフ中央パネルには聖母子像らしきもの。厨子入妙見菩薩坐像(能勢形)は18世紀末頃~19世紀の作品。台座には能勢氏の家紋である「切竹矢筈十字」。隠れキリシタンの遺品と言わんばかりの資料。
300年近く、銅板レリーフはどうしていたのだろうか。

夕刻は同窓会。

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過去ログ