日々雑記


「頭の中が空っぽ」では困る

2015-08-01

旧聞ながら、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産国内推薦候補に決定。・・・ということは「百舌鳥・古市古墳群」が見送り。
2010年に「世界遺産暫定一覧表」に登載されて以降、平泉(2011年)、小笠原諸島(2011年・自然遺産)、富士山(2013年)、富岡製糸場と絹産業遺産群(2014年)、明治日本の産業革命遺産(2015年)と連敗中。

「世界遺産を大阪に」のスローガンとは裏腹に「もう、世界遺産はええんとちゃう」といった雰囲気がなきにしもあらずである。
このあたりで大きく方針変更しないといけない時期に来ているように思える。

今年4月の文化審議会世界文化遺産特別委員会の資料によれば、構成遺産(古墳)は61基。うち写真などでみるような“大きな前方後円墳”は25基ぐらいしかない。しかもその大半は陵墓や陵墓参考地など宮内庁の管轄。つまり半分ほどは“陪塚"クラスの小さな古墳。
“陪塚"クラスの小さな古墳も学術的には意味をもつのだが、世界遺産候補として含むのはいかがなものだろうか。
現地に赴くと、そのことがよく理解できる。たとえば国史跡指定の「赤面山古墳」(F16)。高速道路橋脚下にあり、方墳ながら橋脚下のただの丸い土盛りしか見えない。七観音古墳(M24)も公園内の植え込みと見間違うほど。
最大の問題は緩衝地帯(バッファーゾーン)。大小の古墳の周囲に密着?している住宅。中国のように即退去、遺跡公園化できればよいが、そういうわけにもいかず・・・・。課題山積。

「ハニワ課長」でいちびっている場合ではないはず。

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オープンキャンパス

2015-08-02

昨日、今日とオープンキャンパス。本日、相談コーナー兼ミニ講義付。

なんとなく大学に来る目標がないというか、希薄というかそんな感じがする。小・中・高の教員免許を同時取得出来るというデマを信じ、「それは無理っ!」と言っても駄々をこねる学生(隣町で開いている「大和大学」のオープンキャンパスに行けば、と喉まで出かかった・・・)など、教員免許取得に関する相談事多し。
加えて保護者からは○○専修で有利な就職先はどこかなど、あきれるばかりの質問が多い。
後者は、企業が「人物本位」「学部不問」で採用しているなか専修に特化した採用などしているはずもない。前者は駄々をこねている時点で教員不適格である。
大学で何を学びたいか、何をしたいのかが全く見えてこないし、今年は特に資格取得に執着した質問が多い。

返答するのも億劫になり、隣の教員に任せること多し。ダメ教員。

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久七と宮内法橋

2015-08-03

近世大坂仏師「宮内法橋」といえば、兵庫歴博 K氏の大きな調査研究業績のひとつである。
偶々、中山寺に関するK氏の研究論文を読んでいると、銘札に「仏師大坂之住宮内卿」「仏師形部卿/削 久七」「仏師形部卿/削 四良左衛門」の銘記。
旧金光寺蔵仏師系図の「康以(久七ト云)―康寿(左兵衛尉・康音聟)―久七」を重視し、ふたりの「久七」がいると主張しているが、異論もある。

寛文6年(1666)、東寺講堂諸尊像の修復には康乗・康春・康元を大仏師とし、小仏師として「左兵衛次賀江氏康寿」「重左衛門藤野氏音久」「五兵衛佐々木氏行次」「八良右衛門中川氏知久」の名がみえる。
一方、天和3年(1683)の香川・根香寺の四大明王像は納入文書から、大威徳明王が佐々木内匠、降三世、軍荼利、金剛夜叉は久七が制作したことが判明。大威徳明王六面のうち本面と脇面は佐々木内匠、他の三面は「重左衛門」「八郎右衛門子息四郎左衛門」「六左衛門」「四郎兵衛」「六兵衛」「与兵衛」が担当。
このことから「重左衛門」が東寺の「藤野音久」、「四郎左衛門」は「中川知久」の子息ということがわかる。

「久七康以」の弟子が「左兵衛康寿」である以上、久七は康寿より同格かやや下の位置づけにならざるをえない。
翻って中山寺。宮内卿の配下に久七と四良左衛門。 やっぱり、久七と「久七康以」は別人であると強く思ういっぽう、「宮内卿(宮内法橋)」は京都から大坂へ移住した七条仏師傍流の仏師と考えたいのだが。
兵庫・鶴林寺新薬師堂薬師三尊像の修復(延宝6年・1673)も宮内法橋の他に「忠円」と「元真(玄信)」が担当。

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キッズ・ミュージアム

2015-08-04

博物館キッズミュージアム。
朝から虫取り網をもった子供たちが続々。キャンパス昆虫探検隊をはじめ縄文ポシェット作り、鉄道模型運転コーナー、紙飛行機など盛り沢山の内容。
紀伊国屋書店さん(本のPOP広告)や関大ボランティアセンター、丹波市等々多くの方々のご協力を得る。今年はカイザーズクラブも参加。

役割分担表には「館長:なんでも」とある。いわゆる”遊軍”。
館内・外を回ってなにかとお手伝い。館内ではスケッチ大会。旧山田寺仏頭(レプリカ)を真横からスケッチする子供。上手。
午後には芝生のもとで「紙飛行機大会」があり、遠くまで飛ばした子供(1位~10位)に賞状と景品をプレゼント。
午後もスタンプラリーの景品を配布。景品は事務方が大学各所から調達したもの。黒い鞄(出版局からの提供)や大学の絵葉書、メモ帳、ペンなど。
保護者の方は「カバン、カバン!」と子供たちにささやくものの、子供たちはなぜか大学の絵葉書がお気に入り。

これまで最高の1016名の方にお越しいただく。“ミニオープンミュージアム”なり。

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木簡レプリカ

2015-08-05

早朝、私事にて末娘を伊丹空港に送り届け、大学博物館「キッズミュージアム」へ。

今日も朝から暑いが、9時過ぎからたくさんの親子が来館。
総合受付付近で案内図とスタンプラリーの用紙を配ったり、館内入口で会場を案内したり、手荷物(ベビーカーや虫取り網・虫籠)を預かったりと、ちょこまかと動いている。

昼食後は学内で打ち合わせがあり、その後某市文化財審議会へ向かう。
文化財審議会での諮問対象は古文書。説明を受けながらなるほどと納得。
配布された資料の傍らに現在展示中の図録。そして図録購入プレゼントとして渡される木簡レプリカ(前回の指定物件)。天平18年(746)9月に若狭国遠敷郡野里(郷)の相臣山守が塩3斗を調を納めたとの内容。若狭と当地とは直接関係なく、平城京から当地へ運ばれたものと推定。
ヒノキの薄板にプリンターで作成したとの由。よくできている。

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引き継ぎ不如意

2015-08-06

就活生ではないが、朝から企業訪問(大学の御用)で梅田へ。
家人曰く「一番、苦手な仕事」ながら、よい感触で面談を終え、某市文化財審議会(昨日とは別)へと急ぐ。

近畿ではよくある話だが、指定候補は考古学資料中心。ところが諮問の説明を受けてもよくわからないことが多い。
今回の諮問物件は標高90m近いところに立地する群集墳のひとつである片袖式石室をもつ円墳(6世紀末~7世紀初頭)。径19m、"周溝"を含めた径が24.5m。高台に位置する群集墳ながら幅2.5mの"周溝"を伴う円墳があるのか・・・と。石室のみ完存するので史跡指定というが、指定範囲も決まっておらず、実にあいまいな内容。

別件では「こんな資料があるがどうするのか?」と逆質問する職員(再雇用)。
いや、関連資料があるなら事前にペーパーにして配布すべきだと思うのだが・・・。
前職でも「こんなこと(関係資料)、知っているが、どうするのか?」と高飛車に出る上司がいたが、問い質しても書面すら出ず、記憶もあいまい。この世代の共通して悪いところ。
後に続く職員に何も引き継ぐことも出来ず、「オレは知っているぞ」という変な意識がありあり。

大事な資料とは思うが、書面が出ない以上、このまま死蔵資料として墓場まで持って行ってくれと思ったり。
終日、猛暑。

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調査

2015-08-09

某所で仏像調査。久しぶり。しかも神社で仏像という・・・。

千手観音立像。
背面に朱漆で「寛正元庚辰六月」と記されるが「春日作之」と続く。よく見ると裾付近に「再興」の文字。修復した個所もみあたらず、おそらく寛正元年・1460年)に新たに造られたものと判断。

ところが、透彫り舟形光背裏にも同様の朱書銘。文字が左右に振り分けられているが「寛正元庚辰年暦」と。
地元の方も光背も同時期と思われたのだが、いかにも整った光背で、「(光背は)江戸時代初期ではないでしょうか」と。台座は江戸時代(17世紀)。光背にも寺院名が記されており、像背面に記された寺庵名とは異なる・・・。

寺庵から寺院、寺院から神社と不思議な移転を経た模様。
しかし、寺庵も寺院もあまり聞いたことがないとはどういうことだろうか。現地の地名も記してあるのに。

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無名でいいのかも

2015-08-10

再び旧聞ながら新国立競技場が迷走中。「アンビルトの女王」と呼ばれた方の当初設計案。

実は、博物館建設でも同様のことがいえる。著名な建築家の設計による博物館が建てられても、使い勝手がことのほか悪いのが定石。
いわく壁面に人工滝が落ちる仕様にしたがオープン初日に雨漏り、身障者用通路が途方もなく長かったり、入口がわかりづらかったり、円形の建物なので展示ケースが小刻みに置かれて絵巻物など長尺の資料が展示できない等々。

著名な建築家の多くは、施設で働く者や利用する者の側にたって設計していない。外観デザインだけが重視されて機能性は二の次。依頼者側も高名な建築家による設計ということで押し切ってしまい、どうしようもないほどダメな施設に陥りがち。よもや名声やデザインだけで設計しているわけでもなかろうに。

因みにオープン初日に雨漏り云々 の設計者は迷走する新国立競技場問題の関係者。
雨漏りしても、ヒビひとつ入らぬコンクリート壁はさすがである。

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がっちりマンデー!!

2015-08-12

夕刻よりゼミの同窓会。JR大阪駅(!)に勤務中の1人を除き全員出席し梅田(!!)で開催。

久闊を叙しながら、話題は勤務のこと。
恥ずかしながら個々の勤務先は今日まで知らなかったが、とある人の勤務先の話題になると、「みたみた!『ガイヤの夜明け』で」とか「『がっちりマンデー!!』にも出てたよね」などと。

ご存知の方も多いが、『がっちりマンデー!!』は日曜日の7:30から放映している経済番組。出張先で何度か見たことがある。日曜日の朝から経済番組ですか・・・。

環境が変わるとこうも変わるのかと実感。みんな、あまり無理するなよと思う。

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歴史が変わったかも

2015-08-14

甲府市教育委員会編『甲府市指定文化財 円光院木造厨子入刀八毘沙門天像及び勝軍地蔵像修理報告書』(円光院発行)をご恵贈賜る。深謝。
円光院「勝軍地蔵幷刀八毘沙門因由」(宝暦9年・1759)によれば、両像は永禄8年(1565)に武田信玄が康清に命じて彫刻したものとされる。

康清は七条西仏所。康清と並んで康住がおり、康清の後嗣に康温と続く。
康清は天正11年(1583)に大徳寺総見院 織田信長坐像を、康住は康厳とともに慶長4年(1595)西方寺豊国大明神(豊臣秀吉)坐像を制作。康厳も鹿児島・日置市徳重神社の御神体である島津義弘像を製作との由。
どうも七条西仏所の仏師は時の覇者の肖像をよく製作している。

もし関ヶ原の合戦で豊臣方が勝利をしたならば、七条西仏所はその後の造像界の頂点にたったのかも知れない。
狩野派と同様、戦国期の仏師も誰に付くかでその後の命運が分かれた。“敗れた”七条西仏所はその後、日蓮宗の造像に携わる。

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なんでや?誰や?

2015-08-15

東寺の史料である『聞書并日記』「東寺塔御再興之事」によれば、寛永20年(1643)6月5日午刻に五重塔内四仏八菩薩像の御衣木加持が行われた。
「奈良大仏師四仏并八菩薩之両目鼻口四ヶ処以鑿一打了但各々不打之四仏モ八菩薩モ一仏一尊ニテ兼之者也」とある(『国宝教王護国寺五重塔修理工事報告書』)。

17世紀半ば近い頃に京都になぜ奈良仏師が登場するのか、既に寛永6年(1629)2月には七条仏師の康音が東寺大仏師織を補任したにも関わらずである。

暑いさなか、ついなんでや?誰や?と叫んでしまう。

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検討会(1)

2015-08-18

朝から那覇へ。まだまだ観光客多し。

部材の接合部に「ほぞ」がみえる。しっかりと中央やほぞの幅まで毛引きの墨線が入る。こうした仕事はやはり京都以外では考えられない。

ただ、いくつかの部材は部材の矧ぎ面にそれぞれ凸・凹を造り差し込んで接合している。
こういう仕口は建築には使われるが、仏像彫刻には用いられない。モレリの鑑定法じゃないが、こうした点に大きな違いがみえる。
那覇泊。この時期、ホテルは専ら地元系のビジネスホテル。

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検討会(2)

2015-08-19

朝から再び検討会。
T大のO先生(樹木年代学)も合流。
色や見た目で判断しても、樹木の同定はプロでないとわからない。表面は黒い部材ながら「ヒノキ系」ですと。微小な断裂片を採取。詳細は後日に報告とのこと。

午後から県立図書館。昨日の席上で示された沖縄タイムス社『沖縄美術全集』5(建築・彫刻・工芸・民具・祭祀)を確認に。
昨日はぱらぱらと見ていたが、興禅寺(首里金城町)に明宗義宣坐像があり、像には「元禄乙亥八暦」「京流仏師大谷政信因記」の墨書があるとする。明宗義宣は27代、33代の円覚寺住持。
大谷政信因記は大谷政信内記の誤りだろう。「開山之像」として戦災を逃れて今日に至ることに驚き、しかも京都仏師が・・・。
沖縄戦ですべて失われたと思うのは早計。もう一度ゆっくりと見直さないと。
そのほかいくつかのコピーを取り、帰阪の途につく。

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放光樟像

2015-08-21

秋に大淀町・世尊寺(比蘇寺)で奈良県文化財保存課の神田雅章氏と講演をすることとなった。

吉野寺、比蘇寺と呼ばれ、『日本書記』の「放光樟像」や『水鏡』の「沈水香」などにも登場する吉野屈指の古刹。
「放光樟像」である阿弥陀如来坐像はこれまで平安時代、奈良時代作の十一面観音像の頭部は鎌倉時代とされてきた。
ところが、両者には「元禄十三年」「法橋大佛師左近家城康住」などの墨書銘があることがわかり、えらいこっちゃと。

そこで調べて分かったことが、荒廃著しかった律宗系寺院が浄土系を経て、現在の曹洞宗へと変わっていった近世の歴史。

面相をみれば、飛鳥大仏や法隆寺金堂釈迦如来像を彷彿とさせる雰囲気。
「(写真図版の)縦横の比率間違ったんじゃない」と疑われた方も。

こちらはともかく神田氏の講演(奈良時代作の十一面観音像)は貴重な報告講演。

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地蔵盆

2015-08-24

今日は地蔵盆。大学裏通りの地蔵堂にも提灯がぶら下がる。

さすがにお菓子などは配られないようだが、普段地蔵堂の前を通るこちらとしては年1回の"晴れ姿"である。

長年、地蔵盆が終わるとそろそろ夏休みの宿題に取り掛かるような生活。その名残でお盆前からこの日までは調査依頼をしないようにしてきた。ところが、「地蔵盆」の風習があるのは関西だけだとわかり、愕然。
今、振り返れば地域コミュニティの最たるものであった。
あまり知らない近所のおっさん(おっさんはこちらのことをよく知っている)に声をかけられるなど、地域住民が地域の子供を把握していたのである。

田舎に住んでいるためか、帰宅途上、地蔵堂の前にいる子供の話題は、はや“(だんじり)祭”。
まだまだ地域コミュニティが健在な土地柄である。

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出張講義

2015-08-26

午後より岸和田高校で出張講義。
同高校は岸和田城の裏手すぐ。横には、我が家の迎賓館的存在の「五風荘」。旧寺田財閥の別邸で現在は和風レストランとして使用。門は東大寺中性院を移築したとの由。
高校に入ると、向井久万の大作。貴賓室には久万の墨彩画や小川翠村の富士山図などが掛けられている。共に岸和田中学校(岸和田高校)卒業生。眼福にあずかる。

大学と同じ90分の講義だが、まだまだ高校の授業が始まったばかり。途中で5分の休憩を入れながら講義を聴く生徒たち。なぜか同席の先生がたが目を輝かせて聴講されていた。

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ゴッホの薬

2015-08-27

もう1ヶ月以上も就寝時に横になると、喉からヒューヒューという音がする。時折咳き込んだりで、まったく熟睡できていない。
お盆を過ぎた頃から酷くなり、過日、意を決して近所の病院へ行く。
どういう病気なのか(病気であるかどうかも)よくわからないとの診断だが、気管支を広げる薬をもらって服用。

薬の説明書には「テオドール」とある。咳き込んでごっほ、ごっほというので、「テオドール」という薬を服用するのは出来すぎの話ではないか。
ちなみにテオドール(テオ)はゴッホの弟。画商として生活費を援助するなど兄フィンセントへの経済的に援助した。

名前がよかったわけではないが、爾来、ヒューヒューという音は無くなり久々に熟睡している。

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嘆息

2015-08-28

どことは言わん、何かも言わん。
せやけど「拡大すると、武将の鼻血がブー」では学問の以前の問題やろ。素人がただおもろいと思うことで、なんでこの時代にそれがテーマになるんか、なぜ名家に伝わったのか、学問としての俎上がまったくあらへん。単に引き延ばして面白がってるだけや。
そんなもん持って商店街で披露しても、今晩の夕飯はどうしょう、大根1本安いかどうかを気にしている大阪のおばさんに関心あるわけない。

いっぺん、それを使って授業してみたらええ。どれほど関心のある者がおるのか、どれだけ勉強しようという気概のある者がおるのか、試してみたらええ。
どうでもええ作品を後生大事に扱い、大事な作品をおもちゃにしよる。

やっぱり、大阪に文化の華を咲かす基盤はないちゅうことやね。

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猿沢池に鹿、飛び込む

2015-08-30

東大寺ミュージアムでは「江戸時代の大仏開眼・大仏殿落慶供養」が開催中(~9月14日)。

大仏開眼会は元禄5年(1692)3月8日~4月8日の30日間にわたって行われた。
この時もすごかった。当時3万5千人足らずの奈良町に約22万人が訪れた。玉井定時(奈良奉行与力)の記録『庁中漫録』にその喧噪混乱ぶりが余すことなく記されている。
一、他国の者 奈良に来れば 猿沢池に立寄り、奈良案内の教えに随いて 菓子を擲(なげ)て鯉鮒等に与えてその魚を見物す、此例をよく魚知りて 幾等(いくら)も浮かびて菓子を食う、此度 五七日の内は、菓子に付いて魚浮かぶといえども 数十万人の擲ぐる菓子ゆえ、食いあまして魚浮かばず 擲ぐる煎餅饅頭等 水に数万浮かびたるを 却(かえ)って鹿飛入りて食う。 菓子を魚に与うとて池に擲ぐるに魚浮かばず事は古今これ無きの事なり…池の近辺にて菓子を鬻(ひさ)ぐ者 凡そ金子百両余も得たるよし

一、開眼会につき諸国より参詣人多し、とりわけ大坂の諸人男女 我一二と先に争い 大坂をうちうつして詣ず 大阪高麗橋より闇晴峠〔暗峠?〕を越え、奈良まで人 相 続く、尺地も遊地なし、いかように急ぐ旅人 駕籠にて往来する者も人にせかれて急がれず、道に泊まりて 2日かけ 大坂又は奈良に来るよし
他にも大混乱の有様が記されている。

この史料は、東大寺でのシンポジウムで春日大社の岡本権宮司が紹介された。今も時折、講義などで使わせていただいている。

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江戸期の神像彫刻

2015-08-31

とある方から仏像の問い合わせがあって、御礼(?)かたがた江戸時代の神像の写真が送られ「江戸期の神像彫刻についても、調査の必要がありますね」と。

神像という仏像に比べて比較的単純な造形ですら、なかなか“物差し”がない。もっとも「秘匿すべし」を旨とする神像ならではの事情もあるが・・・。

現場の最前線に立つ人たちにとって近世の彫刻が登場すると、いつもこんな思いが去来する。
最近はようやく近世彫刻の重要文化財等の指定も増えたが、世間の誤解や偏見はまだ多い。東京国立博物館や京都・奈良国立博物館あたりで大きな展覧会でもすれば世間の眼も変わるだろうが、まだ機は熟していないようである。
そうした意味で1967年に奈良国立博物館で開催された上原昭一氏担当の「室町時代仏像展―在銘作品による―」は大英断。

写真は貞享4年頃とみられる牛頭天王像。
送られてきた写真を見ながら仕事の行く末をふと考える。

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