日々雑記


節分まで

2016-01-03

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

いやはや。
先月は「師走」だったが、走るどころではなく"暴走"の日々が年末まで続き、まったく更新できずに初めて”穴”を開けてしまった。猛省。
種々の会議や打ち合わせ、授業に出張、その合間に新聞社(複数)からの問い合わせなどなど諸々が山積。
おかげさまで?有り得ないことだが三日三晩、大学で過ごすことも。
要領が悪いことや、老齢にも関わらず手を抜くということも知らずの自業自得ながら、何の罰ゲームかと思うほど。

放心状態になりつつあった年末某日夜、ふと梅田の「手相占」のドアを開けていた。
(今から思うとかなり精神状態がおかしいと思うが・・・)
私より若干若いと思われる男性に「この(仕事の)状態、いつまで続きますか?」と左右の手のひらを広げて相談。あれこれ身の上話をしながら”占う”ことしばし。
ふいに「生年月日は?」と問われ答える。
しばらく間があって「来年の節分までの辛抱です」とのお見立て。想像していたよりも半年早い。気をよくしてそのほかのことも。20分ほど話し込んで3000円也。

授業でも「節分は陰陽が入れ替わる時節」と話していたので「節分」という言葉が気にかかる。
「節分」か・・・。

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关西机场

2016-01-04

通勤に利用しているJR阪和線関空・紀州路快速。
日根野駅で前4両が関西空港行、後4両が和歌山行に切り離し。
訪日外国人が関空に向かわずそのまま和歌山へ行ってしまうケースが多発。

そこで昨年12月から、日根野で切り離しのアナウンスが日、英、中、韓の4か国語となった(日以外はテープ放送)。どこでアナウンスするかは状況次第。
ともすれば短い駅間でアナウンスすると、ずっと放送が流れることも。

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康朝のこと

2016-01-05

康朝は宝暦9年(1759)3月5日に七条左京家の康伝の子として生まれる。七条左京家は運慶以来の伝統・作風を江戸時代まで引き継いだ京都仏師で、江戸幕府の御用はもとより東寺や比叡山の御用を務めた京都仏師の名家。
安永3年(1774)3月30日に16歳の若さで法橋に叙せられている。父康伝が26歳で法橋に叙したことから、康朝は七条左京家の若きプリンスであった。

安永3年4月には福井・永平寺の女神像、大権修利菩薩像を父と共に修復し、翌月には京都・八坂神社西楼門の随身像を祖父康音、父康伝とともに製作している。また安永5年(1776)には三重・東海寺の親鸞聖人像を製作。

寛政5年(1793)9月17日に父康伝が亡くなり、康朝は「大仏師職」を引き継ぐ。「大仏師職」は当時の京都で最高位の仏師に与えられる称号で、七条仏師以外は名乗れないことになっていました。
寛政9年(1797)に秋田藩主佐竹氏の菩提寺である天徳寺金剛力士像、文化6年(1809)には津軽藩主菩提寺の青森・長勝寺金剛力士像など藩主からの製作依頼に応えており、上質な作風や康朝の実力もあって寛政11年(1799)10月26日に41歳で法眼に叙される。 文化8年(1811)には延暦寺と山麓の日吉大社関係の仏・神像の修復を行い、同14年(1817)には山形・龍泉寺十六羅漢像を製作しするほか、祇園祭の山鉾「孟宗山」の御神体(人形)の製作や三重・本光寺聖徳太子像の修復を手掛ける。康朝の弟子である福地善慶も山形・相応院の大日如来像(寛政8年・1796)を製作。
文政元年(1818)5月7日(6日)に60歳で逝去。

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公慶の話はどこへ

2016-01-06

今日から出勤。昨冬の新聞記事がようやく手元に。

1ヶ月ほど前の出来事。
東大寺大仏の螺髪は492個。9個は脱落との新聞記事。
「1000年伝えられてきた定説が覆った」との見出し。はぁ?と思いつつ朝から授業。
授業が終わって部屋へ戻ると某新聞社から電話。
件の螺髪について。螺髪の数に仏教的な意味があるのか、なぜ減ったのか?などと。逐一説明しているうちに午後の会議。一旦中断して会議に臨む。
再び電話。まず外れている9個のうち1個はすでに奈良博の「東大寺公慶上人展」に出品。同展には室町時代の「勧進用」螺髪も出品されている。
江戸の螺髪は長さ20.2㎝(6寸6分)、径23.6㎝(7寸7分)、勧進用螺髪は長さ21.5㎝(7寸)、径24.3㎝(8寸)。
『東大寺要録』では螺髪について『延暦僧録』をもとにした長さ1尺2寸、径6寸、966個と『大仏殿碑文』による長さ1尺、径6寸、966個の2説が掲載。公慶上人の「南都大仏修復勧進帳」では『大仏殿碑文』説を採用。定説でもなんでもない。
『延暦僧録』『大仏殿碑文』は径6寸ながら現存の螺髪は径7寸7分なので966個を信じたとしても螺髪の数は減少。
「螺髪の数は数えないのですか?」と言われても髪際での個数と肉髻頂までの段数を数えることはあっても、総数まで数えることまではしない。
螺髪の大小や形は時代や地域、寄進者の趣向に委ねられ、そこに仏師の創意工夫がみられるなどと説明。その後も話は鎌倉大仏などに及び、電話を切るともう夕闇。
今日はいったい何をしているのかと訝るばかり。

…と、電話で公慶上人の苦労を熱く語り、「辛労相積の故」江戸で客死したとまで伝えたのに、小見出しには「江戸の修復 資金が不足?」と。 不足しているのはヒヤリング能力。

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Kōshin

2016-01-07

今日から授業。

ドイツ・ケルン東洋美術館に「文殊菩薩坐像」あり。頭部内に銘があるらしく、「元和元年(1615)」と「Shichijō Daibusshi Kunai Kōshin 」と。
「Kōshin」って?と訝るも「Kunai」(宮内)とあることから康清のことだろう。「清」をshinと読んだ誤り。

当たり前だが、近世の仏像も海外に流出している。
大英博物館にも康祐(これも先日まで康猶とされていた)作の文殊菩薩騎獅像(蓮華座がなく獅子に直接跨っている)や多武峯実相院持仏堂の千手観音坐像(天文7年・椿井次郎作)(これも寛文10年の修復銘を制作銘と誤解)などがある。

グローバルな社会と思いながらも、本当にこれでいいのかと。

大英博物館蔵    文殊菩薩騎獅像    千手観音坐像

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桃源郷

2016-01-10

イギリス人の女性地理学者イザベラ・バードは、伊藤という通訳兼助手の男(18歳)を伴って明治18年(1885)7月中旬に新潟から米沢街道の十三峠を越えて山形・小松(現川西町)へ向い小松から北へ、山形、天童、と巡っている。イザベラ・バート『日本奥地紀行(原題:Unbeaten Traks in Japan)』には、小松に入った時の印象を次のように伝えている。

米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくのエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。
The plain of Yonezawa, with the prosperous town of Yonezawa in the south, and the frequented wateringplace of Akayu in the north, is a perfect garden of Eden, “tilled with a pencil instead of a plough,” growing in rich profusion rice, cotton, maize, tobacco, hemp, indigo, beans, egg-plants, walnuts, melons, cucumbers, persimmons, apricots, pomegranates; a smiling and plenteous land, an Asiatic Arcadia,

米沢平野(置賜盆地)を「エデンの園」「アジアのアルカディア」と激賞。現地を訪れるとこの賛辞に深く同感する。

ちなみに大阪-置賜・山形を結ぶ夜行バスも「アルカディア」号。

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天台山石橋

2016-01-12

「天台山ニハ有石橋、破戒罪業之人無渡得、其橋事、本国之人十之八九ハ不遂前途、但於日本国之人多分渡之、令感依此願渡海之志歟云々、即此重源聖人所渡其橋也、尤可喜々々、其橋体広四寸、長三四丈亘大河上(河自南流北、橋自東亘西)其橋西辺有大巌、縦広共六尺許也」(『玉葉』寿永2年正月24日)と、重源が九条兼実に熱く語った中国・天台山石橋(石梁瀑布)。
この奥には518人の生身の羅漢が住むとも。この時、栄西も同行。
既に成尋も訪れて感動している。

「天台山石橋」は絵画にも描かれ、曾我蕭白や祇園南海は千尋の谷と共に石橋を描くが、現実はそれほどでもない。

やっぱり想像力豊かなほうが絵画は楽しい。

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村上大工 稲垣

2016-01-13

天保12年(1841)に越後中条町荒川神社拝殿を建てた「稲垣八郎兵エ重貢」(棟梁)と「稲垣周左エ門則□(裕)」(脇棟梁)。
弘化4年(1847)には、同朝日村虚空蔵堂を建てる。この時は「稲垣八郎兵エ重貢」(棟梁)を筆頭に稲垣周左エ門則裕、稲垣又八□□、稲垣重次郎則周、稲垣平八、稲垣亀八と稲垣一族のほか、山脇長兵エ忠宜や栗山儀左エ則寿や「塗師棟梁」の成田善太良、成田善七も。
嘉永5年(1852)朝日町瑞雲寺本堂の棟札には「稲垣八郎兵エ重貢」の名。その後、安政6年(1859)の富浦町永見寺本堂棟札に「稲垣喜惣治」と見えるが、その後「稲垣」姓の大工は消えてしまう・・・。
(高橋 恒夫『近世在方集住大工の研究』第12章 「越後の出雲崎大工とその活動」より)

稲垣周左エ門則裕(有磯周斎)は本業(大工)の傍ら、村上堆朱や社寺の彫物彫刻を手掛けるものの、残念ながら菅原鹿蔵は手がかりなし。

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了慶のこと

2016-01-15

授業も終わり、さぁ昼ごはんと思っているところに、秋田の地方紙A社の記者から問い合わせ。
以前と同じような質問と同じような回答を言い、取材終了。結局、昼ごはんを食べ損なって午後からの会議までの間、改めて「了慶」について。

宝永 2年(1705)愛知・名古屋市西光院 御本尊三仏台座 「京柳馬場四条下ル 仏師了慶 」
享保14年(1729)秋田・藤里町宝昌寺 釈迦如来坐像「蔵之丞作」★
享保21年(1736)秋田・秋田市陽沢院 本尊(宝暦5年(1755)焼失)、「仏師了慶」★
元文 2年(1737)秋田・本荘市永泉寺釈迦三尊・十六羅漢像★
寛保元年(1741)京都・京都市二尊院 阿弥陀如来立像
「京極二條大仏師三位辰巳□□□ 蔵之丞 /再興之」★
延享 2年(1745) 秋田・北秋田市白津山 正法院 丈六地蔵菩薩半跏像
宝暦 2年(1752) 京都・京都市建仁寺開山堂 源頼家木像「辰巳蔵之丞作」
不明       秋田・本荘市仁王尊堂 聖観音菩薩坐像
不明      秋田・三種町森岳寺 釈迦如来像「「□□二条下ル町 大仏工辰巳蔵之丞」★
〔『仏師系図』では元文4年のこととする〕
(★は京博本『仏師系図』「蔵之丞 了慶」に記載あり)
このほかいくつかの作例もご教示いただいている。

地元(秋田)の作例が俄然多い。ちょっと記者自身で調べれば色々なことがわかるのに。

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遅延

2016-01-18

関東地方では雪のためダイヤが大幅に乱れる。

ところが、関西では降雪もないのに、はぁ?という理由でダイヤが乱れる。
阪和線は、オーバーラン(アナウンスでは「停車位置の確認」)、地下鉄は乗り入れている阪急のドア故障(こちらは「車両故障」)で、ずっと遅延の連続で大学最寄駅。

遅延を回復しようと焦っているのか、天王寺行普通電車の「行先表示」が反対方向の「熊取」となっている。停車中の車掌にこっそり告げると、苦笑いしながら感謝。

人間、誰だって焦るとポカをするもので、思わず同情。
いいんですよ、どのみち普通電車はすべて天王寺行だとわかっていますので。

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やまがた夜話

2016-01-19

山形で仏像の連続講演会。詳細はこちらだが、なかに興味深い講演がひとつ。

東北古典彫刻修復研究所所員 足立収一氏による「やまがたの仏師たち~江戸時代の仏師に求められたもの、迫る文明開化~」。日時は2月17日(水)18:30~19:30。

さっそく手帳を広げてみると、16日は学部の口頭試問、18日は修論の口頭試問。あれこれ山形行きを思案するも、いずれもかなり難しい状態。

幕末仏師が迎えた明治初年の状況は仏師によってかなり印象が異なる。「仏教破壊のあおりを食って仏に関係した職業は何事によらず散々な有様でありますから、したがって仏師の仕事も火の消えたようなことになりました」(高村光雲『幕末維新懐古談』)が定説のように扱われ江戸の仏師、仏像が消滅したように語られるがちだが、実態はそうでないように思う。
仏像等や堂舎の破壊イコール幕末仏師が仕事を失ったということは論理的にもおかしく、むしろ「彫刻」というジャンルがもたらされ、旧来の神仏像そのほかに限定された製作領域が拡大したことや文化財や文化財保護といった考え方の誕生によるのだろう。

それにしても残念。

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吉門生運

2016-01-21

今日で授業も終了。

高橋恒夫『近世在方集住大工の研究』によれば、19世紀以降、周防大島の大工が徳島や愛媛、高知へ出稼ぎに出ている。そのうちの1人が吉門藤次生運。
吉門生運は高知・仁淀川町に多くの社寺建築を残している。欄間や木鼻、蟇股などに見事な彫刻も吉門生運の手によるのだが、仏像までも製作している。

大阪では延享5年(1748)に堂社彫物師の草花政信・正信が西願寺一字金輪三尊像を、また美濃村権左衛門が随身像や狛犬を製作している。
そう考えると、18世紀後半からは神仏像は仏師の”専売特許”ではなくなっている。いわば鑿など彫刻道具を持つ者は立体(彫刻)を手掛けていたのである。

約半世紀が過ぎ、近代彫刻萌芽期の作家が仏師だけではなく牙彫、宮彫り、大工、石屋など様々な「彫りもの」の世界から出てきたことも納得。

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ラヴ and ピース

2016-01-23

午後、入学前教育(プレ・ステューデント・プログラム)。任意の書籍を取上げて批評。

現役作家(日本画家)が芸術を扱った本。どうも芸術はラヴ and ピースみたいなことが書かれていて共鳴するとのこと。
暫く黙っていたが、コメントを求められて日本の戦争画やヒトラーの退廃芸術を振り返ってみても決してそうではないと。

もうひとつは大学教授がアメリカの美術鑑賞についての本。
アメリカのトップ・エリートは美術鑑賞を大切にしている、比べて日本は・・・といった内容。
日本での音楽の授業(教育)は音楽鑑賞があるが、美術では幼稚園から高校まで実技製作一本道。鑑賞(方法)を知らないままさしたる興味も湧かずに大人になっていく。
筆者は美術教育にも携わっているらしいが、そちらの言及はなかったらしい。

まぁ、まだまだ高校生だから無理もないが、高校の授業はいったいどういうことを教えているのか、このプログラムが始まるといつも思う。

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最強寒波

2016-01-24~25

「今季最強寒波」のもと東北某県へ出張。
家人はもとより経理担当部署からも心配とのこと。
冬でも滅多に欠航しないものの伊丹空港に着くと、鹿児島・長崎・出雲は次々と欠航、東北方面でも伊丹、羽田に引き返す条件便もありやや不安。
外(伊丹)は雲ひとつない快晴なのだが・・・。
無事、定刻通りフライト。
某県に着くとすべて平常通りの運転。予定通り調査をこなす。

そもそも雪や寒さに対する“耐性”が全く違う。過疎地ながら通りに人はおらず降雪時は不要不急の外出はしない、長靴は必携、防寒対策も完璧。
TVニュースでは沖縄で魚が仮死したとか雪による交通トラブルが報じられて、一大騒ぎになっているが、こちらにおれば別にどういうこともない日常の光景。

さすがに本堂は寒いので庫裡での調査が続く。暖かいことに感謝。
言葉には出されなかったが、扱う作品(仏像)も含めて、"暖かい"関西からわざわざこの時期に調査へ来るとは、やはり「変な」研究者であるらしい。

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ウィン・ウィン

2016-01-27

先週、千葉のとあるお寺さんから電話。
修復した地蔵菩薩像に「小澤運登」の銘ありと。ネットに出ていたので誰だとの由。
データベースを見ながら説明。

暫くすると、御礼と開山上人像の「大内蔵卿」銘も。関連資料を添えて解説書を送付。
昨日、再び御礼と今度は御本尊の阿弥陀如来像。修復銘ながら仏師某の名前。これはさすがに記憶にない・・・。
送られた写真を見ると、某人のそばに「光祐」の銘。そこから辿ると修復した仏師が判明。仏師某は光祐の弟子で、状況からみて1700年代前後に修復したと返答。
みたび御礼と修復の写真を改めて見直したら「元禄拾四辛巳」の銘があったとのご報告。

不完全ながらも確実に人のお役に立っている。
こちらも胎内漆箔像の事例がひとつ増えた。ウィン・ウィンの関係。

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むっちゃ、難しい

2016-01-28

筆記試験終了。火曜日の分(高槻)と合わせて455枚の答案用紙。

試験開始30分過ぎると答案が出来た者は退出し、こちらも試験終了後の枚数確認や学生退出の指示も軽減。火曜日は試験終了前に全員が提出し楽だったのだが、今日は違った。

試験開始30分過ぎてもほとんど退出者がいない。あれっ?
記述問題も少なく特別難しい問題ではない。退出できない終了時間10分前近くになってようやく半数が退出。残りの者は問題をみながら熟考中・・・。
試験終了。
慌ただしく答案を回収し、枚数確認や学生退出の指示などドタバタ。
答案を回収しながら聞こえるのは「むっちゃ、難しい」「ぜんぜんわからへん」の学生の嘆き節。
それは・・・ ちゃんと出席していないから。

ちょっとしたひっかけ問題にも「問題、間違っています」との質問も複数。問題をよく読みなさい としか答えられない。
昨年と同じような問題ながら昨年は開始30分過ぎには、”頑張る”学生は20名ほどだったのだが、今年は思わぬ事態。

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オカクラミクス

2016-01-29

終日、冷たい雨。隣接市で教養講座。

昨年の飛鳥史学文学講座を聴講された会長さんが同じ内容でもよいからと懇願されて承諾。
とはいえ、全く同じ内容とはいかずにバージョンアップして臨む。受講者90名余。

岡倉天心の話に及び、「アベノミクスは『3本の矢』から成りますが、天心の文化財政策は『4本の矢』からなります」と。
1本目の矢は文化財調査、2本目の矢は東京美術学校の設置、3本目の矢は博物館設立、4本目の矢は美術院の創設・・・と説明。
説明しながらも文化財政策のマスタープランがうまく循環したものだと感心。

事前に15分前に終わって質問の時間を確保して下さいと頼まれたが、質問は出すじまい。
しかし散会後、和辻哲郎『古寺巡礼』や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』の本を持参され、これを機会に読み直しましたとの声あり。
安堵。

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左京敬而彫工者

2016-01-30

再び東北某県へ出張。

以前から見てほしいという依頼 があり、ようやく今日に至る。
現地に着けば、依頼者をはじめ住職、地元の教育委員会の方、有識者、近隣市の文化財委員等々総勢7名がお出迎え。おおごとの態。ありゃありゃ・・・。

件の作品を調査。像内木札と思しきものが保管。もちろんそこには「再興」の文字と「維時寛政四壬子天七月初一日仏師○○村左京敬而彫工者也」と。
寛政4年(1792)に再興したことがわかるのだが、「仏師○○村左京、敬して彫工の者なり」ってなんだかヘンな感じ。左京敬而?
差し出されたもう一枚の木札には「元文第五(1740)」の年紀と別当(当該仏像は旧神宮寺蔵)、願主、地元仏師の名前。
予想していたように、地元仏師が製作し地元仏師が修復したのだろう。

しかし横の依頼者は頑として「(左京が)近隣村の仏師とは認めない。江戸仏師か・・・」と思い続けておられる。調査後の説明でも、当地は上方文化(流入)の玄関先であると、穏便に説明。

その後、雪道を走りながら次の所(主目的)へ移動。
そろりそろりと狭い農道を走る・・・ガチの雪道。

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東北某市

2016-01-31

引き続き、東北某市で調査。
1~2時間に1本の列車(新幹線開通により激減)に乗りながら、昨日手渡された写真数枚をみる。

以前、某博物館の学芸員からの問い合わせと共に送られてきた写真とまったく同じ。その折には、学芸員へ回答を送ったのだが、どうも先方へうまく通じていなかったらしい。
確かその時のの資料がPCに残っていたはず・・・などと思いながらぼんやりと車窓を眺める。

某寺到着。
「遠ぐがらきとごやっておしょうしな」と挨拶されて、仏像と付属文書の調査。
調査している最中に色々と質問されるが、会話の半分くらいは聞き取り不能。漫才の影響か、つい大阪弁で答えても先方はほぼ理解。

2尺弱の仏像が光背・台座・厨子込みで30両。中ランクでも1割引きの27両。運送料、梱包代は別途請求。
”ぼったくり”と言わざるを得ない内容だが、寺では豊かな地元を裏付けている証左と受け止めており、どう返答しようかとしばし黙考。しかもややこしいことに仏像だけが現存している。
当該地域が豊かなことは確かなんだが・・・。

再びローカル線に乗って最終便にて帰阪。

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