日々雑記


入試に出ない日本(近代彫刻)史  問題1~2

2018-2-1

今日から入試。久々に迷?入試問題。(どこの入試や)

 荻原守衛がロダンに会ったときに、ロダンが不思議そうに、「君の国には、いい彫刻があるのに、どうしてヨーロッパなどに勉強にくるのか」と質問したことを荻原守衛は書いている。ブールデルの弟子であった(  ①  )も、同じような質問をしばしばブールデルから受けたことを書いている。(中略)荻原守衛は(  ②  )に日本に帰国している。帰国してすぐに(  ③  )に行って日本の彫刻を見て感動している。自国の彫刻も知らないでヨーロッパに彫刻を勉強しに行く、というのも、いかにも(  ④  )的な明治的風景のような気がする。もっとも、いままで自国の絵画、彫刻を知らないでヨーロッパに絵画や彫刻を勉強に行く若い作家が多いから、この明治的風景はいまでも続いているといっていいかも知れない。
土方定一「日本の彫刻」『藝術新潮』7巻10号(1956年10月)

問題1 (    )に当てはまるもっともふさわしい語句を次の語群から選びなさい。

(ア)高村光太郎(イ)朝倉文夫(ウ)清水多嘉示(エ)戸張孤雁
(オ)明治17年(カ)明治22年(キ)明治36年(ク)明治40年
(ケ)上野(コ)鎌倉(サ)京都(シ)奈良
(ス)後進国(セ)脱亜(ソ)近代(ナ)鹿鳴館

問題2 これは開催中であった「日本の彫刻」展についての文である。会場はどこか?

(1)東京国立博物館(2)国立近代美術館(3)神奈川県立近代美術館(4)根津美術館

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入試に出ない日本(近代彫刻)史  問題3~5

2018-2-2

問題3 ロダンは生涯一度も来日しなかったが、なぜ日本に「いい彫刻」があることを知っていたのか?

(a)『白樺』同人であった有島生馬から日本彫刻の話を聞いていた。
(b)1900年パリ万博での出版物『Histoire de l'art du Japon』を知っていた。
(c)パリを訪れた岡倉天心から日本美術についてたびたび講義を受けていた。
(d)荻原守衛が持参した日本彫刻史の書籍をみて、その内容に驚嘆したから。

問題4 荻原守衛がロダンの自宅を訪問した時に同行したのは誰か?

(1)林忠正(2)ウォルター・パッチ(3)スタージス・ビゲロー(4)エミール・ギメ

問題5 引用文のあと「『君は日本の彫刻になかにある造形的な法則を発見することによって鎌倉、室町以来、( ⑥ )彫刻をひとびとに示すべきだ』という重要で真面目な問題を弟子の前に提出したにちがいないと、ぼくには思える。」と土方は述べている。
( ⑥ )に記された語句は次のうちどれか?

(イ)見失われていた(ロ)衰退していった(ハ)推移してきた(ニ)黙殺されてきた

問題3は、かつて普段の定期試験で実際に出した問題。
正解率は非常に低かった・・・。

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解答と補足

2018-2-3

問題1
荻原守衛がロダンに会ったときに、ロダンが不思議そうに、「君の国には、いい彫刻があるのに、どうしてヨーロッパなどに勉強にくるのか」と質問したことを荻原守衛は書いている。ブールデルの弟子であった(①清水多嘉示)も、同じような質問をしばしばブールデルから受けたことを書いている。(中略)荻原守衛は(②明治40年)に日本に帰国している。帰国してすぐに(③奈良)に行って日本の彫刻を見て感動している。自国の彫刻も知らないでヨーロッパに彫刻を勉強しに行く、というのも、いかにも(④後進国)的な明治的風景のような気がする。もっとも、いままで自国の絵画、彫刻を知らないでヨーロッパに絵画や彫刻を勉強に行く若い作家が多いから、この明治的風景はいまでも続いているといっていいかも知れない。
問題2
(2)国立近代美術館
問題3
(b)1900年パリ万博での出版物『Histoire de l'art du Japon』を知っていた。
問題4
(2)ウォルター・パッチ
問題5
 鎌倉、室町以来、(⑥見失われていた)彫刻をひとびとに示すべきだ

補足
荻原守衛は帰国後まもなく、こういうことを述べている。
近頃日本でも、余程従来の西洋崇拝を脱して来たやうでもあるが、猶ほ未だ西洋崇拝熱に全然離れず、寧ろ之れに心酔して、日本の固有の美術に眞美の存ずることを知らぬ人々が澤山ある。(中略)今少しく眞面目に日本の固有の美に留意して、研鑚努力して貰ひ度いのである。
荻原守衛「予が見たる東西の彫刻」『藝術界』8月号(1908年8月)
夭折しなかったら、もっと面白い近代彫刻が展開されただろうに。残念。

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御山の上の大学

2018-2-6

まだ入試期間。図書館もなかなか入れない。

再び寒波襲来。各地で雪の被害も出て、大学入試も雪の影響で云々といわれているが、某御山の上の大学を見ろである。

昨年10月23日の台風で大学への鉄道が不通になり、以降、麓の駅から御山の上までずっと代行バス。
大学HPでも「運転再開時期は未定の模様」「復旧の時期などは本学では把握しておりません」とそっけない(リンクは貼ってある)。
もちろん大学は、学園祭もオープンキャンパスも授業も定期試験もずっと「通常通り」で、なにごともないかのような大学の日常が広がる。

こういう(もう大人なんだから考えろよ的な)「突き放した」姿勢は個人的に好感。
何でもかんでも自己不満があるとブー垂れて、プンスカ言っているうちはまだまだ子供である。

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大般若経

2018-2-9

終日口頭試問。(卒論や学生以外のところで)閉口・激昂すること甚だ多し。

某寺所蔵の平安時代後期の大般若経第439。奥書に「正和5年(1316)」「和泉国南郡山直仲村大蔵寺御経也」とある。
えっ~近所やないか、由緒あるお寺は久米田寺ぐらい・・・、どこだどこだと検索。近傍のインターチェンジ傍に「山直中神社」があり、そこにあたるらしい(正式名称は「中村神社」)。

平成19年3月に閉館した岸和田市立郷土資料館(岸和田城)の所蔵品(現在市所有)にも巻590がある。

残りはどうなったのだろうかと想像するいっぽう、一見、何でもない神社の横に平安時代の寺院があったとは。

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館内での挨拶は遠慮させていただきます

2018-2-10

大型店舗のトイレに行くと「このトイレは従業員も利用いたします。トイレ内での挨拶は遠慮させていただきます。」と貼紙がしてある所がある。
別に不思議とは思わないが、時折美術館や博物館でも似たようなケース。

大きな展覧会に行くと、たまに同業者が複数いる場合がある。
こちらはさっさと作品を引き続いてみたいと思い軽く挨拶するだけだが、中には作品の前であれこれ雑談を始める人もいる。作品に関することならいざ知らず、聞きたくもない、どうでもよい些細なことが自ずと聞こえてくる。その場をさっさと離れるのだが、これは別分野の人でも同じ。
いまここでそれを話さなければならないことなのか。

いったい君は美術館や博物館に何しに来たんや。

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近藤清石

2018-2-11~12

近藤清石関係で山口出張。

萩藩士の近藤清石は諸国を遊歴、伊勢の足代弘訓から強い影響を受け、藩の右筆となり幕末には事跡編纂掛となって古記録の調査にあたった。維新後は「防長風土誌」「山口名勝旧蹟図誌」など防長両国の史実に関する数多くの著作を残し、明治17年には各地の神社仏閣からの古材を集めて雪舟の古跡雲谷庵を再建。

「下駄仏」の記載は近藤清石『山口縣風土誌』のみ見える。「一畳敷」と雲谷庵再建との類似した関係。

考察資料は集まり所定の目的は果たしたが、翌日、ここはホンマに山口?という情景に驚くばかり。

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三校まで

2018-2-14

午後から奈良にて御用出仕、その前に奈良博「お水取り」「薬師寺の名画-板絵神像と長沢芦雪筆旧福寿院障壁画-」「名もなき知識、発願者たち(写経編)」を大急ぎで見る。

「お水取り」。恒例となったが、見るたびに注目する作品が異なる。今回は「二月堂修中献立控」。
図録には「肉・魚を一切利用しない精進の献立」とあるが、解説文には、15日(満行)が終わると「酒」も出されたとある。労いのためでもあろうが、本音が透けてみえる。ぜひ次回はその項目の丁を開いて展示してほしいと思う。
「名もなき知識、発願者たち(写経編)」は館蔵の「中阿含経巻第九〈善光朱印経〉」。善光発願の天平宝字3年(759)の写経ながら、奥書に坤宮舎人少初位上秦忌寸忍國「初校」、左大舎人少初位上大隅忌寸君足「再校」、散位従八位下大網君廣道「参校」。
今朝「念校」をポストに入れたばかりで、さすがに「念校」というのはないか。
「薬師寺の名画-板絵神像と長沢芦雪筆旧福寿院障壁画-」。長澤蘆雪・明誉古間の襖絵と板絵神像が妙にマッチした展示空間。板絵神像は永仁3年(1295)、南都絵所吐田座堯儼の筆。5面が男神、北殿第三間の1面は女神の計22神を描く。
狛犬(鎌倉時代/伐採上限は1271年)も出品。板絵神像とかなり近い時期。

結局、旧館には行けずじまい。後日、また。

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慈雲尊者

2018-2-17

近つ飛鳥博物館「慈雲生誕300年記念『慈雲尊者と高貴寺-いつくしみの書とその教え-』」に。

高貴寺と黒川古文化研究所からの出品で、企画も黒川古文化研究所(とは書けないので主催:慈雲生誕300年記念展実行委員会)。
「紺紙金泥両界種字曼荼羅」(寛政3年)は原在中が「四門界道」を描き慈雲が種子をしたためた作品。金剛界曼荼羅成身会「賢劫千仏」の部分は未完成。でも外箱には別筆で「書幷開眼也」と。内箱には慈雲による種字を書き入れた旨と「御仏は盡せぬ法をそのままにいたらぬ処なきすがたとて」の歌を記す。「楊貴妃骨相図」(原在中・天明3年)や「優婆塞弟子」山本義照による慈雲各肖像画も興味深い。
図録も黒川古文化研究所による「研究図録」4である。
近世戒律に関わる近世宗教美術はやっぱり面白い。

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赤尾右京

2018-2-19

興福寺中金堂がほぼ完成とみえ、南円堂四天王像→中金堂四天王像、旧金堂四天王像→南円堂四天王像に移動、法相六祖像(国宝館・奈良博)→南円堂に集結との由。

「細かいモン(とはいえ2mもあるのだが)、先に移動して大丈夫かな」と杞憂。中金堂には、台座光背を含め6mほどの釈迦如来坐像(文化8年・赤尾右京作)と台座を含め4mほどの薬王、薬上菩薩像が安置される予定。ま、新中金堂は広いのでなんとかなるやろ(後は日通の腕次第)
薬王、薬上菩薩像はもと西金堂本尊の脇侍像(建仁2年・1202)。

本尊よりも脇侍や四天王像に関心があるのは無理もないが、本尊について誰も何の言及もしないのは不思議で仕方がない。

「赤尾右京運栄」は、宝暦9年(1759)生まれ(数え歳)で、興福寺釈迦如来像は52歳の作。「京都室町通松原上ル北」に住し、肩書は釈迦如来像には「定朝31世」「運慶28世」を名乗るが、別像では「備中法印廿六世正統」と。古様を模した巨像である。
「運慶」とせずに敢えて「備中法印」としたのは何ゆえなのか・・・。

新中金堂に移動する際に像内をくまなくみたいと思うのは私だけだろうよ、きっと。

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前鬼・後鬼

2018-2-21

昨日、今日と某所にて調査。

前鬼・後鬼像。
恥ずかしながらどちらが前鬼、後鬼なのかわからず、最初、調書での名称は「前鬼・後鬼(その1)」「同(その2)」と。
それではあまりに素人っぽいので、現場にてスマホで確認する始末。前鬼像は斧を持ち笈を、後鬼像は水瓶と笈なのか・・・。忘れまい。

Wikiによれば、前鬼は奈良・下北山村、後鬼は奈良・天川村の出身とのこと。また生駒山麓の「鬼取」という地があり、前鬼・後鬼が役行者に捕えられたところと言う。

厳めしい表情ながらどことなく愛嬌のある表情。構造など難しい仏像が続いた後だけにそう見えるだけかも知れない。
残念ながら役行者像は現代作。このアンバランスは何故なのか再び眉間に皺が寄る。

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保存と修理の文化史

2018-2-22

午後、京都文化博物館「保存と修理の文化史」展。

資料の管理、修理に関する事例を紹介した珍しい展示。殊に彫刻は往々にして「後補!」で済ましてしまう場合が多い。特に彩色は何時の補彩なのか考えあぐねる時が多い。

寛文8年「宇治平等院奉加帳」(オリジナル)を初めて拝見。「大仏師康甫」とあるが、康甫が定朝作の鳳凰堂阿弥陀如来像を修理した気負いや経験は全く見えない。実に淡々としている。実に不思議。

古仏の修理は霊験性、生身姓を保つ仏師(持齋・信心)のみが許されたという指摘は近世に当てはめても興味深い。本山お抱え仏師、高僧に従う仏師、地方へ下向する京都仏師など、資料をみながら色々と想像。久しぶりに京博本「大仏師系図」も拝見。康正あたりを展示。
たいへん勉強になった企画展であった。

奈良博《仏涅槃図》はいくら凝視してもオリジナルと補筆の違いはまったく分からず。
正解の写真パネルが欲しい。

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議論白熱

2018-2-23

午後、某文化財審議会にオブザーバー参加。
現地確認もあったが、会議自体は淡々と終わると思いきや、がっつり5時まで議論。

担当者と「参考資料」にして今後の調査の進展に委ねようと打合せしたが、「そういうことなら、重要ですね」などと危うく指定候補に。全国の指定状況や当地での現状を担当者ともども縷々説明し、ようやく納得していただいた。
ややおかしいとも思うが、担当者共々ほっと。

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東京ドタバタ

2018-2-24

始発に乗って上京。

朝から「運慶」展(金沢文庫)を見学。
会場に入ってすぐさま《仁王像雛形》。東寺南大門様との由。
仁王像の雛形としてよく紹介されるが、各材を左右に矧いでおり(矧ぎ面も興味深いが)躰幅は確保できるが、二王像の奥行は難しい。面部を前後矧ぎと考えれば躰部も前後矧ぎになるのが一般的である・・・。
岡田美術館四天王像、保寧寺阿弥陀如来坐像、かんなみ仏の里美術館勢至菩薩立像などなど関東の仏像が並ぶ。永福寺跡出土金具や瀧山寺聖観音菩薩立像装飾金具なども。もちろん光得寺大日如来像、金沢文庫大威徳明王像、滝山寺梵天立像の運慶仏も。
あれこれ見ているうちにタイムリミット、東京センターに向かう。

センターで運慶とまったく関係のない講筵を90分。話をしながら運慶は神像を造らなかったのかと頭の片隅で思う。

講筵後、職員氏に挨拶し東博「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」へと向かう。待ち時間はなかったものの大混雑。白檀薬師如来坐像は長蛇の列。三十帖冊子、阿弥陀如来坐像はスムーズ。
見ていくと、仁和寺の所蔵品も散りばめられているが、末寺出品が多いせいか仁和寺の歴史的な蓄積はあまり見えてこない。
葛井寺《千手観音菩薩坐像》の驚愕すべき千手も内陣に年久しく落ちていたものを元禄12年に整えたことも無視されている。

驚いたのは観音堂再現コーナー。千手観音立像と二十八部衆像+風神雷神像。ここだけは写真撮影可とあって白檀薬師如来像や葛井寺千手観音像以上の人だかり。多くの人が皆、手にスマホやタブレットをもち記念(あるいはSNSのため)に撮影にいそしむ。江戸時代の仏像がこれほどの人気であったとは驚愕至極(たぶん違う)。
二十八部衆像・風神雷神像は蓮華王院像のミニコピーで近世の作。図録では「七条仏師であろう」とされているが、京都町仏師の運節である。

帰宅は予想通り、深夜。

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盗撮

2018-2-27

終日、某所で調査。

頭体一木造の天部像(平安)。背面腰より下を割り放し・・・と像底を見るも、体部共木の足枘の木目は左右反対方向。片足は別材で体部に差し込む?などと懐中電灯を照らして確認していると、傍らの庵主さん(女性)曰く、
「ヒトやったら(センセは)確実に捕まらはりますよ」と。「ん?」と思いつつピンときた。
「そうですね。スカート(裳)のなかを覗くわ、写真撮るわで、新聞に載ったら、即大学やめなあきません。」と大笑い。
その後「そこまでして、何がわかりますの?」と聞かれて、観察途中ながら構造の説明。
「それやったら、気ぃ済むまで見て下さい」とのお墨付き。

冤罪だ!オレは調査研究のためにスカート(裳)のなかを覗いて、写真撮っただけや、と許されるのは仏像の世界だけ。
結局、凝視しながらも全く矧ぎ目は見えずに不可解のまま。

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新収蔵品展

2018-2-28

和歌山県立博物館「-新収蔵品展-」「先人たちが残してくれた『災害の記憶』Ⅱ」を拝見。
最近、R26のバイパスが伸びたのでぐっと近くなった。

知足上人に贈られた桑山玉洲筆《雪館集飲図》や野呂介石・野際白雪筆《那智・富嶽図》、もと襖絵?と見られる野呂介石筆《墨梅図屏風》等々。 野際白雪《富嶽図》は山頂が台形。御用絵師狩野興益筆《富士図》の山頂とはかなり異なる。
《和歌浦図巻》(1851~71年に製作)は在りし日の和歌浦を描いた作品。ほのぼの。

《刺繍如意輪観音像》(貞享4年)は上に「山野熊」とあり、那智如意輪堂(青岸渡寺)に奉納されたもの。大坂天王寺に居した繍師心窓常円の作品。心窓常円は他にも大泰寺《熊野三所権現本地仏像》(貞享2年)、法隆寺《聖徳太子摂政像》(元禄3年)が存在。

写真はかつてご褒美に頂いた「大峰葛城千日満行者」月海阿闍梨良融の自画像。
もちろんじっくり拝見。

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