日々雑記


洛陽大宮方大仏師(1)

2020-10-1

過日の青森・最勝院金剛力士像は「七条大仏師流」を肩書としていた右近の作。それに触発されて「洛陽大宮方大仏師」の肩書についての整理。

有名どころは、なんといっても「洛陽大宮方上之」大仏師 藤原種次(種久)。 慶安5年(1652)宮城・仙台東照宮獅子・狛犬製作に始まり、貞享2年(1685)『京羽二重』には「室町一條上ル町 大仏師右京」、延宝3年に法橋位を叙位し、「(入道)院達」。

この推移を考えると、元禄5年(1692)滋賀・西教寺阿弥陀如来立像を修復した「仏工定朝廿八代大宮方正統 大仏師右京」は「仏工定朝廿八代」を冠しており、藤原種次(種久)・院達とは別人の可能性。

こたびは「右京」か。

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洛陽大宮方大仏師(2)

2020-10-2

改めて、「洛陽大宮方大仏師」。

(1)寛文13年(1673)大阪・光明院快円慧空像 「洛陽大宮方大仏師法眼祐勢造之」
(2)貞享元年(1684)大阪・観音寺弘法大師像  「洛陽大宮方大仏師右近康和作」
(3)貞享3年(1686)高知・竹林寺金剛力士像ほか* 「京都大宮方大仏師右近康和」
(4)〔元禄5年(1692)滋賀・西教寺阿弥陀如来立像*〕「仏工定朝廿八代大宮方正統 大仏師右京」
(5)元禄13年(1700)兵庫・戸平薬師堂阿弥陀如来像 「洛陽大宮方大仏師右近」
(6)元禄15年(1702)京都・法泉寺十一面観音像* 「大宮方上之大仏師法橋院朝」
(7)宝永2年(1705)高知・地蔵堂観音菩薩像*「洛陽大宮方大仏師福田院卓」
  以後、福田院卓は宝永7年(1710)高知・豊楽寺鏡台まで。
(8)享保9年(1724)山口・阿弥陀寺五大明王像「落陽(ママ)上之大仏師法橋院達長嶋外記作焉」〈*は修復〉

(2)(3)(5)は同一人、(7)はその関係者といえそう。

延享版『京羽二重大全』に登場する院海はなぜか「洛陽大宮方大仏師」を名乗らない。

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ノンキャリア

2020-10-3

少し年長の人びとを見るにつけ、「名誉館長」や「参与」「大学(非常勤)講師」」などの肩書を見る。肩書なんかどうでもよいが、こちらにとっては“反論”するほどの「学歴」が伴わない。もちろん「何を根拠にそう言っているのだ!」と反駁されるものの、世間は学歴が大事らしい。

小生、ここで示すように、最終学歴は学士(学部卒)。ただ学位は博士(文学)〔大昔、院生に「とび級」と言われたことも〕。学士→(修士)→博士というレールに乗っていないことは事実。
「学歴」を整えたい(〔修士課程(修了)〕を得たい)と、改めて思う。

「をいをい。博士課程の学生を指導しているやないか」と思う方もおられるけど、自分自身の研究に何が足らなくて(いっぱい足らない)、それを克服するにはどうしたらよいのかを、大真面目で再考するこの頃。

ノンキャリアの哀しい性。

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やきもき

2020-10-6

10日に沖縄で検討会・会議が開催予定。

翌日には、大学の用務で千里山(関大)にいないといけないのだが、前例(2016-2-12)もあるので呑気に構えていたところ、JTA・JAL・ANAは新型コロナでかなり欠航。
那覇→大阪の始発は、ピーチ(MM0212便)那覇11:30発関空着13:15。
ありゃりゃ、絶対間に合わない・・・。日帰り?

おまけに台風14号が接近中。関空・那覇間の始発便・最終便、どちらが欠航しても検討会・会議は欠席。
10日のピーチ便往復(関空始発、那覇最終)をとったものの(沖縄日帰り用務。ありえんチョイスだがやむを得ない)不安は尽きない。

暇があれば、ピーチの運行状況をみている。

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尼崎市立歴史博物館

2020-10-9

雨のなか、尼崎市立歴史博物館の開館式・内覧会へ。

ようやくこの日を迎えた。
尼崎市立歴史博物館構想は、1986年に発足、学芸員の募集も行い、5年後の開館に向けて収蔵資料の充実などの準備を計る。ところが、バブルが崩壊し、尼崎市の財政悪化、1995年の阪神・淡路大震災もあり、2001年にはついに建設休止。
2009年には、現在地(旧尼崎市立高等女学校〔1938年築〕)に文化財収蔵庫が移転、以来、小規模ながら丁寧な企画展示が開催される。この間、退職した学芸員もいる。

尼崎城の再建が機運となって、ようやく明日、開館の運びとなった。構想当時の学芸員も退職(再雇用)や定年まじかの方もおられ、旧職の頃に資料借用に来られた方もいる。
苦節30年余。

式典会場中央には菰樽。向かって左には市長(右)と教育長(左)。
菰莚の生産は、尼崎の企業がトップシェア。これから「鏡割」ながら、真似事にて。
昔の製法で製作した菰、このあと常設展示資料として使用される。

授業のため、内覧会の途中で退館。
「雨降って地固まる」ではないが、今後の大きな活躍を願わずにいられない。

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強行軍

2020-10-10

台風14号が近畿最接近中のさなか、早朝に関西空港へ。
風雨激しく、連絡橋(鉄道)も止まる可能性があるので、車にて。雨・風ともに強いまま。
待合室でも「沖縄行は離陸後、長時間ベルト着用サインが付くので、化粧室の利用はいまのうちに」とアナウンス。荒天のなか、出発が20分ほど遅れて離陸。

沖縄本島あたりで目覚めると、このありさま。ほぼ定刻に那覇空港に着陸(途中、嘉手納基地の上空を飛んでいたが、どういう空路なのだろうか)。

那覇の予想最高気温31℃。小禄から糸満市へ向かう。

糸満は那覇に比べるとやや古い町屋が残るところ(地元民曰く「田舎です」)。

石筍を御神体とした白銀堂〔拝所での線香・ウチカビの焼き火禁止〕や山巓毛(さんてぃんもー)公園にある御大典記念山巓毛改修碑(1932年)〔沖縄戦当時、米軍の攻撃目標になるとして、日本軍が台座から碑を切り倒した?〕や防空監視哨跡を見た後、某所で長い検討会・会議。

終わって、さくっと今後の打ち合わせをして空港まで送ってもらう。
打ち合わせもあったので最終便(MM0220)にしたが、18:00以降の関空行きはこの便しかない。

定刻よりもやや早い目の那覇離陸、関空着で、日付が変わる前に帰宅。
やろうと思えばできる「沖縄日帰り用務」。二度としたくないけど。

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大学院入試

2020-10-11

大学院入試。

某大学院要項では、事前相談として
大学院で希望する研究と、教育指導体制、今後2年間の研究環境・学修生活等に齟齬をきたすことがないよう、互いに理解し合うことが望ましいと考えています。出願登録期間開始日の1ヶ月前までに、できる限り指導を希望する担当教員との事前相談を行ってください。
の一項が明記されている。

そりゃそうだ。突然、受験に来られてもどんな学生なのか皆目見当がつかない。学部受験ではないので、事前相談なしには願書を受理するわけにはいかない。

「ウェルカム!Welcome!」もいいけれど、書類が形式的に整っておれば受験OKというのはいかがなものかと思う。何のためにメルアド公開されているのが分かっていない。
大学院入試なのに、学部入試とほぼ同じ扱いでいいのだろうか。

相変わらずの受験クオリティ。

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サプライズ

2020-10-12

先週の初年生授業。スライドが少なかったのか、後半グダグダになりながら授業終了。

終了後、幾人かの学生対応をして、最後の学生。はいっ?
「〇〇〇〇の息子です。親爺に『挨拶に行けと・・・』」。「えっ!大きくなって」。

〇〇氏とは旧職の同僚である。以前から年賀状のやり取りがあり、古い年賀状に貼られた家族写真に写っていた男の子である。

かつて、高校の同級生(女性)の子供が受講していたことがあったが、改姓していたので気づかず、同窓会(2011-1-3)で授業の様子が暴露されたこともあった。
今回は流石に油断していた。あの男の子がこんな年齢になったとは・・・。

歳もとるはずであると思いながら、今日のグダグダな授業はさすがに反省。
明日、早朝出立ながら、部屋に戻って次回の準備に励んでいた。

予想できた(?)とはいえ、突然のサプライズだった。

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24時間、戦えますか

2020-10-13

バブル全盛期の栄養ドリンクのコピーである。

このところ、コロナ禍直前に依頼していた調査や依頼を受けた調査が、休日や本業(授業)の前後に入る。
まずは調査をお願いしていた(2020-2-27)案件

授業を終えてそのまま調査寺院へと向かう。閉門間際に到着。
調査対象は南北朝時代(14世紀中頃)の十二神将像。

既に調達済の夜間道路工事用のバルーンライトを点けながらの調査。子神像の調書を取りながら兜と頭部の大きな隙間に気づく。 兜を少し触ったところ、兜だけが少し動く。
そっと持ち上げると、案の定、茶髪の頭が露呈。
驚く以前に、武装形の神将像の頭髪が茶髪というのは、偏見ながらイメージ的になんとなく納得。

仏躰と着衣等の関係。
有名な事例としては奈良・伝香寺地蔵菩薩像や新薬師寺地蔵菩薩像(おたま地蔵)。本像に類した事例としては、三十三間堂の婆藪仙人像〔頭巾が着脱〕がある。「―はい。前回の授業で述べたように『身体と着衣の分離』ですね。」〔《日本東洋美術史a》のひとコマ―〕

古くは大阪・法道寺阿弥陀如来像などの院政期の仏像にも認められる(伊東史朗「作品紹介 阿弥陀如来坐像 大阪 法道寺蔵」『学叢』13)。
こうした写実表現―仏・菩薩が理想的な仏の世界に存在するのではなく、我々が立つ地平の延長線上に仏・菩薩が存在する―の重視がこの時代にはまだ息づいていたことを実感。

調査終了、終電近くで帰宅。日中の調査と違い、夜間の調査はかなり疲労。
帰宅後も明日の準備があるので、駅前の24時間営業のコンビニでドリンク。
残念ながら「リゲイン」ではなく「ユンケル」を手にレジへ向かう。

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居職と出職

2020-10-14

Twitterで知った長谷寺仁王像(阿形)の解体〔NHK高知:こうちいちばん〕を見ていたが、途中で驚愕仰天。

宝永4年(1707)の修復銘札だが、「佛師洛陽大宮大佛師法橋福田院卓康和」「小仏師 大工 土佐吸江村 門谷久左右衛門」とある。福田院卓と右近康和は同一人。

仏師は工房を構えて、仏像を製作し出来上がれば完成品を寺院に運び込んで終了。これは「居職」である。
それに対して、藤江木工左衛門ら江戸市中の仏師が奥州に行って黒岩寺薬師如来像を修理したのは「出職」。
仏師が居職・出職を共にすることは知っていたが、土佐一国でこれほど明らかになる事例は少ない。

小仏師として吸江(ぎゅうこう)村の大工。吸江村には長谷寺の本寺である吸江寺があるが、吸江寺の関係か竹林寺の関係かのどちらかだろう。

福田院卓(右近康和)は、貞享元年(1684)か翌年に高知に来て、貞享3年には竹林寺仁王像などを修復し、その後南国市、香南市(吉川)を経て、宝永4年、5年には長谷寺で仁王像や十一面観音像を修復、宝永5年以降7年(1710)には大豊町で豊楽寺や定福寺で修復や製作に努め、近隣や時には大川村の仏像を製作している。

出職仏師の典型である。

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出張料

2020-10-15

出職で思い出したことがある。
大坂・心斎橋筋塩町東側の仏師藤村隆水が河内・道明寺三之室に宛てた亥年5月11日付の「覚(尊像等修理見積覚え)」〔『藤井寺市史』第5巻史料編3〕。

薬師堂の薬師・同厨子・日光月光・十二神将像、三之室の大日・十一面・天照大神・弥勒、一之室の阿弥陀、松寿院の地蔵・阿弥陀、神前の狛犬の修理。総額銀420匁1分。(オプション:厨子「洗たく」は持込みで銀25分)
各堂は現在の道明寺天満宮境内になっており、神前を除いて堂宇、各仏像は存在しない。「覚」には、各修理内容と金額が提示されており、文末に
「罷越候節ハ日数之積りニ御座候間 壱日分四匁三分之手間賃相成申し候」とある。
心斎橋筋塩町から道明寺までの直線距離は約16キロ。

1日4匁3分。今でいう電器修理明細の出張料にあたる。「覚」では、弥勒の宝冠「かたし」と持物の不足を補って銀4匁5分。
何日間の修理か不明ながら、「御差越之方御ツイへ無数御座候」とある。

取次役にとっては、ちょっと思案のしどころか。

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昔話と仏像

2020-10-17

調査のご依頼があった某市の調査。休日ながら山間部の寺院へと向かう。

1件目は、某寺にある肖像彫刻(立像)。茶系の古色が塗られているものの、19世紀初頭の製作と判断。胡粉地茶系の古色はどことなく明治初頭ぽい。
寺には覚書があり、別寺が廃絶になり、子院に移された記録が残る。子院が明治に廃絶し什物は某寺に譲られたという複雑な経緯。子院が記した覚書は年紀もないが、どうも譲与目録のようである。 覚書には、応永や嘉吉の年号がある什物も含まれており、室町期に隆盛を誇っていたようである。

さくっと調査を済ませると、無住寺で見てほしい仏像があるという。先導されて2件目の調査。

寺に着き、「江戸(時代)と思うのですが」と中央厨子の扉が開かれると、聖観音像が安置。むむむっ!
像前面全体に大規模な彫直しはあるものの、表情などは平安後期の作風を残している。写場に移そうと像を持つと、後面がやけに薄い。ん?
観察すると、後頭部際から背面にかけて鉈で割いたようにざっくりと切除されている。残った体幹部には内刳りの痕跡もなく節が2か所もあるので、元はおそらく一木造(内刳り無)の像なのだろう。右手は前膊半ばあたりまで同木。

そうした所見を話しながら調書を取っていると、興味深い昔話をされる。
ここからそう遠くない所に古い寺があり、秀吉攻めの時に反抗して焼討ちに遭ってしまった。反抗した僧たちは殺され、生き残った僧も四散する。四散した僧侶のひとりが焼討ち後に寺に戻って焼け残った本尊を抱えて、当地に来てこの寺を建てて安置したとされています。地元の昔話ですし、抱えてきた仏像は大日如来ともされていますし・・・。
どことなく合点がいく昔話である。

調査機材の後片付けをしながら、昔話に仏像がよく登場するが、その関係については誰か論じているのだろうかと思う。

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すきなすび

2020-10-19

近世仏師が発給する仏像の新造、修復に関する註文(古文書)。
「銹漆」「唐様」「七度焼」「滅金」「蝋色」など専門用語?が駆使される。
発給の仏師は理解していたが、註文を受け取る寺院は果たしてこれらの用語を正しく理解していたのだろうか、と長くいぶかっていた。

この疑問がちょっと氷解。

往来物(寺子屋などの教材)のひとつに、元禄5年(1692)刊行の中村栄成『用文章綱目』がある。タイトルからうかがわれるように手紙類のフォーマット。
そのなかに「仏師新佛古佛再興目録」があり、仏像や製作に関する様々な専門用語が列記されており、上述の用語も含まれている。他にも「番匠大工材木目録」「屋根屋目録」「鍛冶目録」も所収。
寺子屋の教材だから、多少の意味は教えているはず。漠然ながら専門用語も覚えているので註文に描かれた専門用語や文意もわかるのかと。

台座の細部名称に「敷茄子(しきなす)」がある。
「仏師新佛古佛再興目録」では「すきなすび」とルビ。

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静かな夜

2020-10-21

いつもこの時期は、18:00から20:00まで、学生が飛鳥の庭で学園祭の練習を大声でするので騒々しく、図書館に逃げ込む。

今年も始まったので、いつも通り学園祭はあるのだと思ったが、受講生に聞くと「オンラインで行うそうです」と。
ところが、クラスターが発生してしまい学園祭の練習も中止。

秋の静かな夜の研究室。まるで既に学園祭が終わったかのよう。

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微妙な距離感

2020-10-23

とある仏像の授業。
仏像の約束事(儀軌)と作者の個性の関係。殆どが初学者なので出来るだけわかりやすく。

作者の頑張り(創造力)は約束事に縛られない部分で発揮される。しかしそれは、約束事から少し外れている、普通とは少し違うということを気づいてくれる仲間内で初めて活きる。
またこうした微妙で大切な変化(流行)は、違う集団には理解できない・・・というくだりでこのスライド。

「男性という集団は、すべてピンク色!としか見えてません。でも大袈裟ですが、女性はどの色を選ぶかに人生を賭けています。」
「彼氏は、そんな時はスマホでもいじって時間を潰すか、同じ集団(カップル)なので、彼女に聞かれたら『これがいいかもしれない』とアドバイスしてあげて下さい。」
と(いつものように)脱線。

授業終了後、受講生と雑談。
「よくわかる譬えでした。でも横に居ながら全く無関心なのも困るし、分からない人からあれこれとアドバイスされるのも、うっとおしいです。そのあたりの微妙な距離感が大事だと思うのですが」と。

おじさん(男性教員)ながら、思わず納得。確かに。

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信濃・善光寺(1)

2020-10-24

坂井衡平『善光寺史』を見ていて、ちょっとびっくり。

よく知られるように信濃・善光寺仁王門仁王像は、高村光雲と米原雲海による制作だが、元禄13年(1700)の炎上後、宝暦2年(1752)の創建、弘化4年(1847)の善光寺地震で焼失し元治元年(1864)に再建、明治24年に再び焼失。大正7年に再建という歴史をたどる。

仁王門をくぐると山門があり、山門は寛延3年(1750)の再建。古くは「仁王楼門」「四天堂」とも称された。
『善光寺史』の文意が取れないものの、寛保年間(1741-2)に京仏師雲入法橋による四天王像、天和2年(1682)の「定朝廿四代右京康意」銘、寛延3年(1750)に黒田高山受取云々と記録に見えるという。

天和2年の「定朝廿四代右京康意」の銘が、仁王像の制作とすれば、高野山大門仁王像阿形像(元禄16年〈1703〉)のような像かも知れないと。
ふと、思い出したことがある。

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信濃・善光寺(2)

2020-10-25

以前、善光寺の仏像を調査している研究者から「井川康敬」についての問い合わせがあった。その折は拙稿を送ったように記憶するが、善光寺のどの仏像かはよく覚えていない。経蔵の傅大士像?・・・。

「井川康敬」は大坂仏師。なぜ大坂仏師の作品が信濃にあるのか見当もつかなかったが、『善光寺史』によれば、経蔵の鉄眼一切経の寄進は元禄7年に大坂亀屋某による寄進。
もし一切経と共に傅大士像も寄進したとすれば、大坂仏師が制作しても不思議ではない。

定朝廿四代右京康意と井川康敬。高野山大門仁王像で競望した仏師たちである。

高野山大門仁王像の競望は、ひょっとして実質的には康意と康傳の競望であって、康意と井川康敬は既に善光寺で結びついていたのかも知れないと妄想。

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粉河寺展

2020-10-27

午前中、和歌山県立博物館「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」へ。

粉河寺縁起をさくっと見る予定だったが、第1室には「康林(倫)」作の二十八部衆像(三十三間堂直模像)が展示。
「康林」とあるが、墨書銘は「元祖定朝法印廿六世/大蔵院法印康祐三男/大佛工法橋友学入道康林/作之/京富小路二条住」とあってまさしく康倫(康輪)の作品。
享保5年(1720)、6年の制作なので、康倫56、7歳の作品。下甲や衣の端部に黄檗の特徴がありあり。直接彫り込んだようなものあり、貼り付けたようなものもある。例の金泥梨子地も見える。ちょっと粒が少ない感じ。

じっくり観察していては肝心の国宝粉河寺縁起にたどり着けない。次に来る時は・・・と歩みを進めていると、9世紀の二天像。
一見すると完全な姿にみえるが、共に両肩以下はすべて近世の補作。台座には元禄4年(1691)、宮内法橋の銘。
当初の部分を参考にして両手を補作しているが、巧すぎ。江戸仏師侮るなかれ、である。

お急ぎで進んで、国宝粉河寺縁起をみるも、先の二像が頭から離れない。
そうこうしているうちにTime Up。泣く泣く大学へ。

今度は1日かけて国宝粉河寺縁起をじっくり拝見することに。

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天平礼賛

2020-10-28

昨日から大阪市立美術館で『天平礼賛』展が開幕。

出品リストをみると、奈良時代の様々な作品はもとよりここ で述べたような近代の作品もかなり入っている。

明治になり、「国史」を補強するものとして「(日本)神話画」をテーマにした作品が制作され、フェノロサは、

「日本美術は固有の妙所あり、之を維持するは日本の国躰を維持すると同一なれば、国躰上より之を保存発達せざるべからず」(「鑑画会フェノロサ氏演説筆記」 1887年)

と東京美術学校の開校以後、美術での国粋主義が勃興する。
その後、日清戦争に勝利し「アジアの一等国」となるべく次第に神話画が歴史画へと移行するとともに、美術作品も国際色豊かなテーマが選ばれるようになる。
まさしく「天平」の名にふさわしい作品が登場していく。

竹内久一「執金剛神立像」「広目天立像」はこれとは違う制作意図だが、そうした眼で、近代作品や書籍をみたい。

寺崎広業「大仏開眼」(東京藝術大学美術館 1907年)も出品して欲しかったが何しろ大作だから無理か・・・。

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寒い教室

2020-10-30

夕刻、先週終わった授業(リレー講義)へのコメントカードを返却に教室へ。
さ、寒い・・・。
とは言え、まだ始業のチャイムはなっていない。

300名弱定員の教室に40名弱の受講生。黒板向かって左側の窓は全面開放、前後の扉も開放されて寒風が教室を吹き抜ける。
授業前なのに寒い教室・・・。

次週からは学生共々携帯カイロ持参で夕刻の授業を行わないといけないかもしれない。
いくら何でもやり過ぎではないかと思う傍ら、今、風邪をひいてしまうと、どうなるのだろうかと一抹の不安もよぎる。

大阪も、はや晩秋。

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