日々雑記


不動明王像

2020-11-1

早朝に出立し、山形県南部某所へ。
遠山(飯豊山?)は既に冠雪、集落もはや冬支度。一部の民家は雪囲いの準備。

像高1丈の不動明王立像。
腰を大きく捻った体躯はもとより二の腕にも力強いさが認められ、16世紀後半(1560~1580)頃の作品。
本格的な造形から京都仏師による制作とみられる。

この時期、山形を活動圏とする京都仏師として七条西仏所の康住らがいる。康住は永禄4年(1561)中村地蔵堂地蔵菩薩像、同6年長源寺釈迦如来像、天正15年(1587)正念寺阿弥陀如来像、翌年には康住の実子 康佑と猶子の大貮が西明寺十一面観音像を制作している。七条西仏所と山形の関係は深い。
活動時期に偏りがあり、西明寺十一面観音像の翌年は滋賀・長命寺大日如来像を制作、その後は関西での造像に集中していることから、京都から運んだのだろうか。

こちらの理解不足なのか、造形的にはちょっと不思議な点がある。
頭髪が巻毛なので、頭頂には沙髻がある。また髪が総髪(オールバック)の場合は、頭頂には頂蓮が載る。この像の場合は、巻毛ながらも頂蓮がある折衷様。

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奉加帳

2020-11-2

朝から雨模様。

体内に寛文9年(1669)の奉加帳などが納置されている(現在は別保管)。
奉加帳の下半分はほぼ失われているが、「十文」などの金額と約50名の寄進者。合計しても不動明王像の造像には及ばず、もちろん制作時期とも合わない。
よくみると、金属製の腕釧、臂釧、足釧の位置が微妙にずれており、瓔珞に比べると、細工もあまり上手とは言えない。矜羯羅童子像・制多迦童子像にも同じ釧。

関係書類をみると、(別寺からの)移動費用と推測されているが、仏像の移動は基本的に関係者のボランティア。明治時代に移動した際、関係者が両腕をもったためだろう、両肩に修復痕が残る。一般の人はどんな仏像であれ、一木丸彫りの意識しかない・・・。
おそらく寛文9年に釧類を付けたのであろう。奉加帳はその折のものと推定、もとは腕釧、臂釧、足釧がない不動明王像とみられる。

類例は?とスマホで検索すると、突拍子もないが、願成就院不動明王像(運慶)など、腕釧、臂釧、足釧がない像がちらほら。運慶様?なのか・・・。

午前中、知己のN先生が来寺。
昔話をはじめ、久しぶりに彫刻史談義に花が咲く。

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矜羯羅童子像

2020-11-3

不思議な点がもうひとつ。
制多迦童子像は胸前で合掌する形姿ながら、矜羯羅童子像は右手を後ろに大きく伸ばしている。

多くの矜羯羅童子像は腕を組み宝棒を立てるタイプが一般的ながら、矜羯羅童子像の視線も左手首内側をみる形(女性が腕時計をみる形)で、非常にイレギュラー。
不動明王像や矜羯羅童子像の特殊な図様は、湯殿山(修験道)と関係するのだろうか。

右肘外側に緩やかな刻線を刻むのは、羂索を持つ不動明王像の右手にも確認できるので、この作者の特徴だろう。

再びスマホで検索すると、願成就院不動明王像の矜羯羅童子像など一部の像が後ろに右手を伸ばしている。ちょっと大きな宿題。

3日間、篤い歓待に感謝しながら名残惜しくも帰阪の途につく。

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截金

2020-11-4

1日より今日まで学園祭(On Line)期間なので授業はなく、やや疲れているものの、某所で調査に臨む。

造形もさることながら美しい截金や彩色に感嘆。
昔、学生が「疲れた時に美しいものを見ると、心なごみます」と言っていたことを思い出す。

構造は、頭部は一木・面矧ぎで、躰部は一木割り矧ぎながら内刳りする際に首下部分に「受け」を彫り残すもの。近世には、単純化されて頭部・躰部別材一木造で躰部の首に丸い枘孔を穿って頭部を差し込むタイプがあるが、その前段階かもしれない。
こういう頭部と躰部の接合はこれまでみたことがないが、そういう仕口である。

ふとしたことで、旧職に寄託されていた仏像の話で盛り上がる。もう25年前のことだが、先週のことのように覚えている(流石に「昨日」とはいえない)。

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堕地獄

2020-11-5

授業再開。今日の共通教養科目は「地獄」。

このところ、親が自らの欲望などのためにわが子を殺傷するような心痛む事件が多い。

1970年頃までは「尊属殺人」(刑法200条)があって、子が親など親族を殺すと、一般殺人より重い量刑が下されていたが、違憲ということで殺人罪と同様の量刑となった。
今は逆。そうした思いで熱く講義。

もう我々は人が息絶える時の姿は、病院の病室でしかみることは出来ない。一方で、格闘ゲームなどでは倒した相手など考える余地すらない。

こうした地獄(2011.7.21)のみならず、現実にも起こりそうな予感。
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老いの坂

2020-11-6

学園祭期間中、出歩いていたので未処理のお仕事やメールが満載。

この頃、めっきりと事務処理能力が低下。以前ならテキパキと処理するところ、なかなか処理できない。またミスも多発の傾向。

「熊野観心十界曼荼羅」にみる「老いの坂」でいう左半分あたりまで来ていることは自覚しているが、正直、歯がゆい。

「老いの坂」では、この後、孫に導かれながら坂を下っていく。しかも女性のみとなり、いつしか男性は消えている。なかなかシビアな坂。

疲れているのかもしれないが、ちょっと「老い」を実感。
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ひと踏ん張り

2020-11-7

大学。土曜日なので静か。

この時期、来年度にかけての様々な学務が到来。授業はいまのところ対面ながら、その他は殆どオンライン。1月のプレスチューデントプログラム(専修紹介)もビデオ撮り。

毎年、受講生が楽しみにしている(いた)見学会も、今年は中止の憂き目。各自で見学してもらうしかない。
高野山見学に参加した学生たち(2019-10-7)も、早いもので今は一生懸命、卒論作成に励んでいる。

こちらも、ひと踏ん張りしないと。

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苦労の痕跡

2020-11-8

朝からほぼ1か月ぶりに尼崎市立歴史博物館へ。

開館までの長年の苦労もあって、専門的知識をいかに平易に説くかに重点を置く展示であった。そもそも専門家やマニア向けの解説はいらないのが持論。

ナビゲーションキャラクターもよい雰囲気を出している。
東園田遺跡出土のイイダコ壺や玉杖形木製品など見るべき資料も多く、なにしろ城下町なので展示資料は豊富。

見学後、事務室周りを拝見。以前、携帯で撮った画面(左)と見比べてみると、別の建物のようでもあり、長年の苦労の痕跡でもあるような・・・。
ちょっと感慨深い。

社会人編入試験のため大学へ。

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経験則

2020-11-10

Information is not knowledge. The only source of knowledge is experience.(情報は知識ではない。知識とは唯一経験から得られるものである)

アインシュタインの言葉だそうである。

ネットなどで様々な情報が集まる一方、その情報の真偽の判断、使い方を間違っている人をたまに見かける。
情報鵜呑みでは”情弱”と言われてしまう。

ちょっと残念。

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元興寺五重塔

2020-11-14

江戸時代に東大寺大仏殿が再建されるまで、奈良のランドマークは元興寺五重塔であった。

興福寺五重塔は50m、元興寺五重塔72m。高低差を考えても遠くから目立つ塔。
東京発の新幹線から東寺五重塔が見えると、「京都まで帰ってきた!」と実感するように、近世、奈良に向かう人は元興寺五重塔がみえると、ようやく奈良に到着したと実感していたに違いない。

安政2年(1859)2月28日夜、近隣の火災により火焔に包まれ焼失してしまう。嘉永7年(1854)6月の伊賀上野地震で五重目の屋根瓦が落下し、素屋根の状態に着火、全焼してしまう。
誠に惜しむべき惨状。

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専修別相談

2020-11-17

お昼休みに「専修別相談」。

学外の方に説明すると、文学部は入学時に「総合人文学科」へ一括入学。その後1年間は、各コース(専修)が提供する授業を受け、11月26日~12月2日に各コース(専修)へ登録。その後、最大受入人数(定員)を超えた専修では選考(「抽選」ではない)。
定員内であればそのまま専修に分属となる。

アナウンスがあったかどうかは知らないが、選考に漏れた学生は、定員に余裕のある専修にしか登録できない。
例えば、第1希望A専修、第2希望B専修で思っていたところ、A・B専修ともに選考が行われた場合、A専修の選考に漏れた学生は、B専修以外の「定員に余裕のある他専修」を選ぶことになる。
まぁ、大抵は定員内に収まるのだが、ちょっと注意が必要。

来年度入学生からは、「フランス学専修」「ドイツ学専修」が「ヨーロッパ文化専修」、「中国学専修」と「アジア文化専修」が「アジア文化専修」に再編。

語学系の専修は英語以外皆無となる。語学が苦手な身であるが、いずれも長い伝統をもつ専修(旧学科)なので、一抹の寂しさを感じざるを得ない。

登録開始直前の25日にも開催。

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康湛と康敬

2020-11-21

知己の方からヤフオクに「康湛法印」厨子仏が出品された旨を知る。

興味深く見てみると、厨子裏に「大仏師 三十四世 法橋左京 康敬(花押)」の金泥銘。
「康湛法印 作」と書いたのも康敬によるもの。

康敬の作品は数少ない。山形金勝寺や永昌寺などに関連の記録等が残る。また鹿児島・花尾神社に「勢至菩薩一体(厨子入)康湛作」があり、法橋七條左京康敬の極状が付属しているという。〔鹿児島市・郡山郷土史(平成18年3月発行)〕。これは弘化4年(1847)に薩摩藩主島津斉興が寄進したもの。

最近、昭和5年12月「仏師 清水正光」書写の「本朝大仏師正統系図幷末流」が古書店に出る(現在も販売中)など、資料的には散逸の傾向。

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学内にて

2020-11-23

勤労感謝の日ながら授業日。

学内を歩いていると、「もうこの時期、メーカー1本に絞らんと・・・」と携帯で話をしている男子学生。4年生か3年生かはわからない。
わがゼミはなんとか全員内定済で、今は卒論作成に集中。

今年の就職状況はかなり厳しく、いつかの会議でも「(内定が取れず)就職留年しようとしている学生には、来年確実に内定が得る確証がないどころか、来年はもっと厳しい状況になると伝えて下さい」とアナウンス。事実、厳しい状況報告も。

もとより海外留学を目指す学生はよくよく考えないと、ぶっちゃけ大変な事態になってしまう(大学も未だ絶賛おすすめモード)。

まあ、足元を見つめ直すよい機会と思えば、いんじゃないかと思ったり。

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天平礼賛展

2020-11-26

授業前に大阪市立美術館「天平礼賛」展へ。
いろいろと興味深い展覧会。
気になるのは、仏像と”近代”。

仏像については、かなり懐疑的な印象。
正倉院などに残る工芸品や絵画などは確かに唐の影響を受けていると思う。鳥毛立女屏風とアスターナ・樹下美人図などは典型例である。
とはいえ、天平彫刻が同じように唐の影響を受けていたとは考え難い(そのような解説もなかったように思うが)。
天平文化といっても分野によって影響を受けたものと自律的展開をしたものがあるはずである。そこを一括りしての展示はいかがかと思う。

かたや近代。
戦時下の*1942年に『天平の文化』(朝日新聞社・初版1928年)改訂版が出される。
その「再版の序」に
惟ふに、皇國の隆替と東亜の興亡を賭したる決戦下、八紘爲宇の大旆の下に、日本精神を昂揚し日本文化を宣揚することの喫緊なる今日より切なるはない
と述べている。
*浅井和春「仏像と近代」(東京国立博物館『大和古寺の仏たち』展)では昭和18年(1943年)となっている。

流石に主催者として朝日新聞社なので、出品できないが、浅井氏が論述するように、良きにつけ悪しきにつけ、日本が頑張る時には、「日本精神や日本文化の宣揚に”天平”への回帰が叫ばれていたこと」に他ならない。
そうした視線で作品をみると、もっと違う見方が出来るのに。個人的にはちょっと複雑。

今更ながら新薬師寺多聞天立像・増長天立像(文永6年〈1269〉)〔常設展〕に驚く。

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怒涛の11月

2020-11-30

来年度シラバスの依頼。大学関係で別件でもうひとつの依頼も来る。
11月は目いっぱい仕事。図書館にすら通えていない・・・。

コロナ禍の関係で、授業もオンラインと対面の並行授業が続いている。
これはさすがに厳しい・・・。

夜遅い帰宅時に関大前を通ると、大勢の学生がたむろしているが、大丈夫だろうか。
大学インフォメーションでの注意喚起だけでなく、夜回りが必要じゃないかとも。

明日から「師走」。どんな難題が降ってくるのだろうか。

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