日々雑記


絵画制作は素養のひとつ

2022-6-1

Web講座(とあるプロ団体向け)、終了。

宗達・光琳派の流れ(私淑)で、光琳は宗達作品をもとに絵画を学習したと言及。風神雷神図屏風各種も提示。
ところが、理解できないとの質問。光琳余話のとばっちり。

現在では、絵を描く(描ける)ことは趣味のひとつとしてしか理解されないが、近世社会では、富裕な町民、医者、武士などである以上、絵が描けることは素養のひとつであると説明。口には出さなかったが、西洋風にみれば、絵画制作は「ノブレス・オブリージュ」である。
遊び人光琳だって、二条家や銀座役人等の交友関係からみて絵ぐらいは描けた。大坂商人ですら仕事が終われば絵を描いており、後世「大坂画壇」と呼ばれる存在となる。

説明しながら、以前、高野長英は絵を描くことが出来たのかという質問を思い出す。
プロ並みに描けたかどうかは疑問だが、絵ぐらい描けないと、漢詩ひとつも書けないと、職人や長屋の住人と見なされるのオチである。
光琳に絵画の素養があったからこそ、万事行き詰って絵師になろうと決意したのではないだろうか。
絵筆で身を立てようとし、初歩から学んでいては何時になることやら・・・。

終了後、現在の素養とはなんだろうかとふと考える。

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旧国宝

2022-6-2

午前中、某市の文化財審議会。

配布資料のなかに指定文化財解説の冊子があった。 帰途、パラパラとみていると、天正~慶長期かと思える阿弥陀如来立像。こういう作品も指定なんだと、解説を読んでいると鎌倉時代末期の作としている。
えっ~、と思いつつよく見ると、国指定重要文化財。指定年は明治37年(1904)。

国の指定制度は、明治30年(1897)の古社寺保存法制定に遡る。同保存法は昭和4年(1929)に国宝保存法となり、 昭和25年(1950)の文化財保護法施行に伴い廃止。
文化財保護法施行にあたっては、古社寺保存法・国宝保存法での「(旧)国宝」は全て「重要文化財」となり、そのなかから改めて国宝に指定してきた。
近年の重要文化財指定はほぼ問題ないが、旧国宝からの重要文化財指定物件のなかには、指定に足るべき要素を見いだせない作品も含まれる。
なんせ100年以上前の価値基準で指定されているのだから。

「旧国宝」(=現重要文化財)の仏像のなかには、六角紫水が「既に国宝指定済ナレドモ甚タ拙作 鎌倉初ノモノナルベキモ国宝トシテ充分ノ価値ヲ認メガタシ」と指摘した仏像もある。実作品をみると、確かに根幹部のみが辛うじて鎌倉時代だが、他は近世の大改造を受けた作品である。

とはいえ、指定解除あるいは指定の再検討は、法的にも現実的にも難しく、今日まで放置されたまま「重要文化財」の看板だけがひとり歩きし、多くの人は看板だけで評価する。

21世紀ながら、玉石混淆の国指定重要文化財である。国指定にしたくても指定出来ない文化財(御物)もあるというのに。

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「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」

2022-6-3

今日のゼミ発表は、藤田嗣治の戦争画とその後のフランス移住。

恐らく発表で示す作品は「アッツ島玉砕」ぐらいだろうと、こちらも事前に渡された原稿をもとにパワポを作成。14点存在するとされる藤田の戦争画(大・小)を集め、2009年に小磯記念美術館で使ったパワポを藤田用に改編。
あの夏はずっと戦争画に没頭していた。

左翼的な日本美術会(旧日本プロレタリア美術家同盟)の初代書記長内田巌(1948年日本共産党入党)が藤田を戦犯としてスケープゴートしたことから、嫌悪を抱き渡仏・永住する大きな契機になったことは否めない。
藤田も、内田の師が藤島武二(陸軍美術協会副会長、没後は藤田)で、内田自身も「日本の秋(大詔奉戴日)」(1941年)や『靖國の繪巻』「壮絶!マユ河畔の殲滅戦」(1943年)も発表し、第1回聖戦美術展(1939年)、国民総力決戦美術展(1943年・藤田は「アッツ島玉砕」を出品)、第2回陸軍美術展(1944年・藤田は「血戦ガダルカナル」「神兵救出に到る」を出品)、第3回陸軍美術展(1945年)に出品していたではないかと、文句のひとつでも言いたくなる。
若い頃には黒田清輝から低評価を受け、黒田の印象派をパリで行えば時代遅れと嘲笑され、日本では多くの画家と同様に、いやそれ以上に戦争記録画を描いたのに、何故オレだけが・・・という思いはよく理解できる。
「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」の言葉もむべなるかな。

ゼミ関係で小早川秋聲を扱う学生もおり、この頃の傾向はちょっと「戦争と美術」のようである。

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田中高福

2022-6-6

午前中、電話あり。
「あの~〇〇という者ですが、當麻寺仁王像の件ですが、なぜ高福が1766年に亡くなったことが分かるのでしょうか?」と。
なんでこちらに?と思いながらも、「(お読みのように)系図に『明和三丙戌九月十日ニ卒ス』とありますので、と回答。
「系図は見ることが出来るのでしょうか?」「ちょっと無理かもしれませんね」「そうですか・・・」

「高福」作品を所蔵しているかもと思ったが、田中主水の作品がヤフオクなどに多数出品されていることを思えば、うかつに答えることは避けたほうが吉である。
改めて系図をみると、
「金剛 高福作」「力士 保久作」と割書き。ちなみに保久は25代主水康光の3男、高福は2男である。
一般には「那羅延金剛」(阿形像)、「密迹金剛」(吽形像)となるが、「金剛」(阿形像)「力士」(吽形像)とも記すらしい。(法藏館『総合仏教大辞典』)

長年の懸案(2019-8-29 千差万別)であった當麻寺仁王像もようやく修復の運びに。

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教員は美術に関心なし

2022-6-7

新潟・越後妻有里山現代美術館MonETで修学旅行中の中学生が作品2点を破損、美術館が被害届提出とのニュース。起こるべくして起こった事故。

そもそも教員は(予備軍も)、現代美術も含め美術に関心なんか毛頭あるはずもない。
美術館・博物館に入館しても「ハイ、14:00 ここに再度集合、それまで自由解散!」と受付付近で叫ぶだけで、教員にとってはしばしの休憩タイムである。
一緒に入館しながらも、なぜ教員が展示品を説明しないのか、なぜ学芸員に解説を頼まないのか。教員にとって美術館・博物館は一時の休憩場所としてしか理解していないからである。

予備軍も然り。
一喝するまで私語雑談が続き、一喝後は爆睡タイムか内職タイム。ほんのひと握りつまみの学生しか授業を聞いていない。
家庭でも児童・生徒が「なぁ、教科書のこの絵、不思議やねんけど・・・」と聞いても、「そんなこと、学校の先生に聞きなさい。それより国語の宿題、終わった?」と言うだけである。学校の先生に聞いても答えてくれず、子供の疑問がうやむやに消されていく。
大人にとっても美術教育?情操教育?それって、なんか腹の足しになるのか?程度の理解しかない。

これが日本の美術鑑賞教育における現在地。うちだけかも知れないけれど。

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わか井をやぢ

2022-6-9

左は「わか井をやぢ」、右は「林忠正」と読める。ご存じ、浮世絵に押されたハンコである。

明治6年(1873)、明治政府初の出品を遂げたウィーン万博。それを機縁に佐賀・嬉野茶の輸出商の松尾儀助を社長、若井兼三郎を副社長にして半官半民の起立工商会社を設立。
折からのジャポニスムでパリ支店を開店。パリの通訳は1878年のパリ万博からの林忠正。
その後、二人は起立工商会社を辞め、明治17年(1884)「若井・林商会」を立ち上げ、浮世絵をはじめとする日本美術品が、日本からパリに集められ、浮世絵にはハンコが押されて販売。
当時の日本人が見向きもしなかった浮世絵はそのほとんどが彼らの手元に集まる。

明治26年(1891)、アムステルダムでティツィング浮世絵コレクションが競売に。
このことは日本からの浮世絵の輸出が絶えたこと、つまり日本での浮世絵が払底したことに他ならない。

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煙突の煙(1)

2022-6-10

左はクロード・モネの代表作「印象・日の出」(1872年)。ふとしたことで照明を変更すると、背景がよく見える。
左手には煙突が立ち並び黒煙を吐き、右手には、回転クレーンも描かれる。

なぜ、ル・アーヴル港の日の出を描くのに、煙突の煙やクレーンなんだと単純に疑問。
冬の朝もやの光景を描くのになぜ、港と工場地帯なのか?
日の出なら朦朧体で描いた横山大観ぽい作品でいいじゃないのかと思う。

記憶を辿ると、こういう“煙たい絵”を見たことがある。小出楢重「風景」(1925年)である。“大大阪”と呼ばれる時代の幕開けを告げる作品で、大江橋北詰の堂島ビル上階から西を眺めている。画面左右のみならず奥の工場群も黒煙たなびき、堂島川を進む船までも黒煙モクモク・・・。
煙突の煙は、都市発展の象徴であることを痛感。

モネもル・アーヴル港の発展を”カッコイイ”光景と思い、そこに日の出を描き込んだものと妄想。

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煙突の煙(2)

2022-6-12

近代西洋絵画で、朝もやっぽい作品を探すと、ウィリアム・ターナー「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号 1838年」(1839年)の右側部分〔上〕や「緋色の夕日」(1830-1840年頃)〔下〕に行きつく。
モネは、1870年7月に起こった普仏戦争の徴兵忌避のためにロンドンへ渡っている。そこで、ターナーの作品を見ているはず。
「緋色の夕日」の背景には、長い橋やビル群が描かれ、また「戦艦テメレール号」も遠景などに蒸気船。やはり都市発展の象徴。

エドゥアール・マネが「オランピア」(1863年)を描き、一応1865年のサロンに入選したものの、当時の娼婦を描いたゆえに大批判を浴びた。その反論に、「今の時代、さすがにティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』(オランピアの元ネタ) じゃないでしょう。
もう19世紀でしょ。蒸気機関車も走っている時代ですよ。今の時代のヴィーナスは『オランピア』ですよ」と述べたのも無理はない。

都市化や工業化が”カッコイイ”時代であったとも思える。

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煙突の煙 おまけ

2022-6-13

ターナー「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号 1838年」は、2020年からの新20ポンド紙幣の図柄として、ターナーの肖像とともに使われている。

解体のために小さな蒸気船にえい航される帆船の戦艦テメレール号。そこには新旧の交代が読み取れる。全体を画面右には沈みゆく夕日、左には登ってくる月も描かれている。

下にある「Twenty Pounds」の文字の右側に、「Light is therefore colour」(従って光は色です)と書かれている。これはターナーの言葉(1818年)。
日本でもこうした紙幣が出来ればいいなぁと思うが、さて、誰にするかが問題。

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名残り惜しくも

2022-6-15

19日でなら歴史文化村 企画展「観音のいます地 三輪と初瀬」が終了。
再度、見学へ。
またまたじっくり拝見。何度見ても見飽きない仏像。

満足しながら修復室を見ると、當麻寺仁王像が立っている。これから写真撮影の模様。
奥行は小さいながら、左右幅はこれでもかと広がった仁王像である。
田中主水の事績は小像が多く、恐らくこれまで一番大きい像ではないだろうか。

色々な思いを残して、次回の企画展に期待したいと思いながら帰途につく。

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教養

2022-6-16

一般教養の授業。
「このなかで“お茶”を習っている人は手を挙げて。」と。
誰も挙げない・・・。
6、7年ほど前までは、1人、2人は手が挙がった。
既に“お茶”は絶滅。(茶道部はどうしているのだろうか)

もちろん「お茶」「お花」が教養であった時代は、はるか昔に過ぎ去ったことは承知している。
茶室に入り、床の掛軸を鑑賞し、亭主が扱う茶道具や釜をみながら、茶碗を愛で、一服の茶を楽しむ・・・。
そんな時代も過ぎ去ったのかも知れない。
前職で好評だった子供向け体験学習会「お茶室探検、抹茶のお味」も確認したら、無くなっていた。

試験答案での「唐物」の正解率が低いのもなんとなくわかるような気がする。

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幸啓と幸慶

2022-6-16

知己の仏師さん(修復担当予定)から、アメリカの方が所有する仏像(厨子底に墨書銘)について「コノサクシャハ、ダレデスカ?」とのお問合せ。
何度かメールを送られたが、こちらには未着でようやく届く。 訪米することはないが、久しぶりの在外案件。

銘文には、文化8年(1811)、関東の総本寺の住職名、施主名そして「彫工 法橋幸啓」とある。多くの事項は判明説明できて報告文を送ろうとした時、ふと同音の「幸慶」が脳裏に浮かんだ。あれっ~、同一人?

改めて「幸慶」の事績を調べると、活動時期もほぼ重なり、法橋幸啓は「江戸神田鍛冶町3丁目」、幸慶は「江戸神田鍛冶町2丁目」に居住。幸啓の俗名は「勘兵衛」、寛政12年(1800)に京都・仁和寺から法橋位を受領し、5代にわたって受領している。

むぅ、送られるのが日本の仏師さんなので、どこまで記すか迷ったが、取り急ぎ(遅れているので大急ぎで)、同一人の可能性が高いとして、修正の説明文を送付。

複雑だがネット情報もまじっているので、こちらもこれから確認作業に入る予定。

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神坂雪佳

2022-6-19

ようやく細見美術館での見学会。

「光悦村図」にちょっと吃驚。
これまで図録で一巻と記されていたので「羅什三蔵伝絵巻」のように普通の絵巻だと思っていた。
一見すると、元巻子装の光琳筆《四季草花図》額装(細見美術館蔵)2014-11-02 脱力系のたらし込み と同じワイドサイズ。
59.0cm×183.5.0cm(複数画面)と、こちらは尺八の絹布である。まさに「琳派最後の絵師」。
光悦、宗達、光琳、芳中、抱一、其一とほぼ前段で既にお腹いっぱい。その後に雪佳の作品がずらりと並ぶ。

雪佳は意匠図案家として知られるが、絵画作品もなかなか楽しい。

学生とあれこれみていると、はや時間。久しぶりに茶室 古香庵を覗いて解散とする。
学生よりも教員が喜んだ見学会である。

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珠洲・法住寺

2022-6-20

昨日から強震で揺れる珠洲。

珠洲には、こちらの案件 2018-7-27 金剛力士像、ついに立つ でたいへんお世話になった法住寺仁王像がある。
非常に心配。

最初は小さな写真だけを見て年紀と作者を確認し、現地で見た時には、安堵して脱力した。
想像以上の仁王像であった。

2007年の能登半島地震以降、各所で文化財の被害が出ており、いまだ、未指定文化財 2021-3-25 総持寺祖院 が放置されたままなのだろうかと、ちょっと憂鬱にも。

人的・物的被害の少ないことを祈るばかりである。

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桜井香雲

2022-6-21

終日、雨天。

「桜井香雲の経歴って判りませんか?」と大学院生。
「法隆寺金堂壁画」の模写情報が圧倒的なネットだけでは、いかにも不安要素がいっぱい。
授業が終わって改めて調べると、どうも大坂の仏画師のようで、考古学会『考古界』1巻11号(1902年4月)に「櫻井香雲氏の訃音」が掲載されている。

早速、図書館送信で閲覧しようと思ったが、外は強雨だし、院生だから次回に書誌情報を提示しようと決意。

大学院生には、厳しいハセ センセ。

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退廃芸術

2022-6-24

ゼミ発表は、ナチスの退廃芸術展。

左は退廃芸術の対となった「大ドイツ芸術展」会場にて。右端からアドルフ・ツィーグラー、ゲルディ・トロースト、ヒトラー。
アドルフ・ツィーグラーは巨大な「アウトバーン工事記念碑模型」を展示。

発表後、4分ほど1937年ミュンヘンでの「退廃芸術」会場映像を視聴、その後会場に掲げられた作品を提示。美術館は多額の税金を使ってこんな絵画や彫刻を購入していると主張したディスプレイ。
退廃芸術展での作品の大半は売却されドイツから離れ、ドイツ以外の人からは(ドイツ)表現主義の画家に注目が集まり、ユダヤ系芸術家がこぞってアメリカへ亡命していく。

これまでの西洋美術の中心地がヨーロッパやパリからアメリカに移る大きな原因ともなった「退廃芸術展」。また発表でも指摘があったが、近年では「エミール・ノルデはナチスの画家」という評価もあった。

こちらとしても、このあたりがほぼ限界の領域。

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三店方式

2022-6-25

朝から大学。

昨日の初年次授業での模擬プレゼンは「18歳成人のメリット・デメリット」。学生が頑張って色々と調べて発表しつつも、こちらはとんでもない観点で発表を聞いていた。

発表のなかで、競輪・競馬などのギャンブルは18歳でも学生は禁止、いっぽうパチンコは18歳以上ならOK。発表ではパチンコは娯楽なので・・・と説明。
パチンコが娯楽?と思いながら、ごくごく浅い経験ながら「三店方式」を考える。

出玉が入った”ドル箱”。これをカウンター?でお菓子などを交換する人はほとんどいない。普通に持っていけば硬質カードぽい「特殊景品」に交換(経験ないけど)してくれる。それをパチンコ屋そばの景品交換窓口(一応、古物商)に持っていくと、相応の現金に交換。「特殊景品」は、景品問屋が景品交換所から買い取りパチンコ屋に卸す・・・という循環構造。
これも一種のギャンブルじゃないのかと思う。

大昔、フィールド・ワークと称して教員が学生を引率して競馬場へ行って皆で馬券を買って一喜一憂し、その他諸々のこともあって、クビになった教員もいた。

ギャンブルと娯楽。実は紙一重というかほとんど表裏一体とも思えるのだが・・・。
18歳にとってあまりにマニアックな内容なので、タイムリーな選挙権の話題で質問。

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ロココ

2022-6-27

西洋美術史も、もうちょっと。今日はロココ美術。
ヴァトー、ブーシェ、そしてフラゴナール。

フラゴナール「ブランコ」を示しながら、
「左の男性はどこを見ていますか?」「女性は靴を飛ばしています。男性はどうする?」と質問。
「靴を取って来る」「男性は取ってきた靴をどうする?」「履かせる!」「正解‼」と(一応、授業です)、
女性からのコケットリー(蠱惑)を説明。

フランス宮廷文化の爛熟期ゆえ、もってまわった言動が良しとされた時代。ベルバラでも、オーストリアから嫁いだマリー・アントワネットに女侍従が「フランス語が分かりませんか?」と問われ、「あなたのフランス語は分りますが、何を言っているのか分かりません」と答えたほど(典拠未確認)、ぶっちゃけ男性からすれば、めんどくさい時代になった・・・。

そうした説明の後、フラゴナール「シーソー」(1750~55年)。
「皆さん(女性が大半)がシーソーに描かれた女性ならば、次はどうする?」と。
さすがに「ブランコ」の解釈で困惑したのか、反応なし。
「(上がったシーソーの女性が)ふん!と体重をかけてシーソーを下げては、ロココ時代の女性としては失格。この場合はキャーと言いながら男性側に滑り落ちるんですよ。男性も(女性を)受け止める準備は満タンです!」

講義しつつも、こちらのほうがこれでよいのだろうかと不安がりながらも、そうした時代だったのだろう。

平民にとっては、ふざけんなよ、貴族!という思いも大きい。
1789年のバスティーユ襲撃以降、フランスは革命に明け暮れるのも無理はないと思う。

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岐阜大仏

2022-6-29

早朝より岐阜市。岐阜大仏に関わるお仕事。

ご依頼頂いた折、これからは若い方がと辞退したのだが、「近世(江戸時代)なので・・・」と、またこちらが苦しい時代に助けて頂いた恩師の名が出て、ふたつ返事でお引き受けすることに。

午前中、新築の市役所で相談の後、午後から正法寺へ。
未調査分の作品を確認。岐阜大仏の前立像や十一面観音像、白衣観音像、五百羅漢像上のレリーフ。
大仏(釈迦如来像)は建築絡みもあってかなり資料が充実してきた。

野外はすでに37℃ながら、大仏殿内に涼しい風が吹き込んでくる(今日は観察のみ)。
ユニークな構造もヒントを得ることができた。

今年の”夏休みの宿題”のひとつ 岐阜大仏。

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