日々雑記


焔肩仏? 燃燈仏?

2022-10-3

事情あって中国古代仏像の講義準備。
引出し奥から14年前の講義資料をガサゴソと取り出す。

沂南石墓や孔望山磨崖像、揺銭樹、神亭壷に続いてサンフランシスコアジア美術館 仏坐像(建武4年〈338〉)。
中国紀年銘仏像のうち最古作。
次いで、ハーバード大学フォッグ美術館仏坐像(4世紀)。

肩に火焔がある仏像のひとつ。
あれ、これって燃燈仏じゃね?と思うものの確証はない。改めて調べるも「焔肩仏」とはあるが、燃燈仏とは記していない。自明のことなのか・・・。
仏坐像台座の右側面(向かって左)に花茎をもつ童子(人物)が表現。右側側面にも童子が表現。手に何かを持つも未詳である。
「焔肩仏」は仏説阿弥陀経に出てくる阿弥陀如来。定印を結ぶので阿弥陀如来でいいのかも知れない。

さすがに考え過ぎか・・・。

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旧派

2022-10-4

ゼミ発表で「黒田清輝」を入れたので、その準備。

黒田はフランスでラファエル=コランに師事し、『朝妝』が国民美術協会(Société nationale des Beaux-Arts)の公募展に入選、帰国後に第4回内国勧業博覧会に出品。この折の裸婦像が問題になり後に「腰巻事件」「裸体画論争」が起こる・・・。
あれ、サロンじゃなかったのかと(無知を承知で)。確か邦人初のサロン入選作品は五姓田義松「人形の着物」と「詩人ルーヒド・クルモンの肖像」(水彩画)。
1880年にサロンは民営化され、アンデパンダン展や国民美術協会が分離したとはいえ、サロンはサロンやで。

黒田はさておき、五姓田義松は1876年、工部美術学校に入学するもフォンタネージ帰国後の退学組。その後は明治美術会の設立メンバー。
五姓田義松は原田直次郎と同じく旧派(脂派)だったのか。

今日に至っても洋画・日本画とも旧派はあまり注目されていないように思う。

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東京国立博物館

2022-10-5

珍しく平日のオフ日。思い切って東京国立博物館へ。
定番のように雨天。

久しぶりにゆっくりと展示を拝見。
菩薩立像。善円作と推定される作品。唇に水晶を嵌めている珍しい技法も。
踏み割り蓮華座で、左足の蓮華がやや沈んでおり、背後に回ると蓮肉部分も衣の裾でやや凹んでいる。非常に柔らかな蓮華座。「ちょっと替って、立たせて下さい」と思うようなふんわりとした踏み割り蓮華座である。
次いで、春日本地仏のひとつとされる善円作文殊菩薩立像。小像ながら優等生の趣。
内山永久寺伝来厨子入愛染明王像や興福寺勧学院本尊であった文永10年(1273)康円作文殊菩薩五尊像。文殊像光背の笛と笙を吹く迦陵頻伽が非常にいい。

あれもこれもじっくり見ていると、14室に伝安閑陵古墳出土白瑠璃埦が展示。
白瑠璃埦だけでなく、外箱、黒漆塗の内箱もある。東博ニュースをみると、このほか帛紗(内布)、仕覆、小掛台が付属している。非常に厳重な収納。内箱には「御鉢」と揮毫。

2階に上がれば、「東京国立博物館の模写・模造ー草創期の展示と研究ー」展。
菱田春草「普賢延命像」模本に混じって、横山大観「伝平清盛坐像」(六波羅蜜寺蔵)。
この時同時に仏像も模造事業が行われているのになにゆえ絵画で・・・と思う。
模造、特に仏像の模造者についてはある程度理解できるものの、絵画の模写者については不明な人が多い。模写作品をみながらこうした素晴らしい仕事をしているのになぜ無名なのか不思議に思う。

時計を見るとすでに4時過ぎ。この後静嘉堂文庫美術館へ行かねばならない(私用)。
東洋館と法隆寺宝物館は諦めて丸の内に向かう。
深夜に帰宅。

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大人の事情

2022-10-6

同期赴任、自宅もほど近く、昵懇の仲ともいえる先生からのお願い(振替授業)が来た。
承諾の即答で、すぐさま受講生に周知。

こんな時、「こちらの授業計画に支障をきたすので」「関係ないのですが」と、拒否する先生も多いと聞く。そうはいっても学生が欠席していたのでは、お話にならない。
大人はそんな時に「ご無理、ごもっとも」と言いながらも承諾するのが、当たり前のように思うのだが。

振替授業と同じ受講生の授業でも「大人には大人の事情があり、それで相手が助かれば、よいのではないでしょうか。皆さんも大人です。仏教の『利他行』です」と弁明?しておいたが、どうも最近は「私が!オレが!」という気分が強いように思える。
こんな気分で卒業して社会に出ても、最後に困るのは自分である。

「情けは人のためならず」と言って、巡り巡って自分によい報いが来るのだが(期待してはいけない)、「親切にするのはその人のためにならない」と曲解している人も多い。

夕刻、振替授業の受講生に学長課からの直メールが届き、ビビっているかもしれないが、大人の事情によるもので、くれぐれも恐れないように。

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投げやり教育

2022-10-7

当方の事ではない。
茨城・稲敷市出身の日本画家 松本楓湖(1840年~1923年)である。

鳥取藩御用絵師・沖一峨に学び、安政3年(1856)彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入門、明治元年(1868)に菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。明治10年代に浅草栄久町の自宅に安雅堂画塾を開いた。
安雅堂画塾からは、今村紫紅、速水御舟、高橋廣湖、小茂田青樹といった錚々たる画家を輩出している。

楓湖の教育は、「自由主義というよりも、寧ろ放任主義といった方が当たっていよう。絵手本一枚画いてくださるでなし、描法ひとつ教えてくださるでもない。戸棚に土佐、狩野、容斎派等の粉本類が相当あり『好きなものを勝手に写したがいい』と仰有り『どうだ、何か写したか、見せろ。』と仰有るでもない。吾れ関せず焉といった格好で、隣室で終日仕事をされているのである。」
富取風堂「恩師を語るー松本楓湖先生のことー」『白日』14巻6号 1940年6月)

また添田達嶺「松本楓湖の性行と逸話」の「藝術教育家としての楓潮」にも「楓潮の門人教育は、先師容斎の遺鉢を承けて絵画の自由教育を標榜し、門人各自の個性を尊重して何らの束縛を加ふることなく、寧ろ絶対無干渉の態度であった。楓潮の云ふ通り投げやり教育であった。
だから安雅堂画塾の幾十百の門人は、何れも各自の趣味思想信念に隨って、自己の好むところに進み、所謂楓潮流とも云ふべき画風を固守する者は幾人もなかった。或者は遠く奈良平安の古美術に学んで醇乎たる感情の表現を志し、或者は土佐狩野の古格を研究して姸爛華麗な傅彩の描写を試み、或者は中国南宋の遺法に倣って枯淡洒脱の別天地に遊び、或者は純真な感情と鋭敏な観察を以て自然の核心に触れやうと苦心し、或者は宗達光琳の装飾的美観を現代に活かさうと努力するなど、百花繚乱、千紫萬紅の趣きがあった。」と記している。
添田達嶺『半古と楓湖』睦月社 1955年
(出典はいずれも日本美術院『日本美術院百年史』2巻下資料編 1990年12月)

「出藍のほまれ」とはいえ、「栴檀は双葉より芳し」もあるのだろう。
手取り足取り指導するだけが教育ではないと思ったり。

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奈良の大仏、江戸へ行く

2022-10-10

天明6年(1786)の白山人可候「大佛左捻」(黄表紙本)。
奈良の大仏が、江戸で諸仏の開帳が盛んであると聞き、江戸へ赴き一騒動を起こす内容。

奈良の大仏が大仏殿唐破風に腰かけて草鞋を履く冒頭の挿図がいい。
この後、頭光を笠に見立ててキセルをくわえて東へ下る。大井川もひとまたぎ。その姿を天道に見とがめられて泣きだす始末。

元禄4年(1691)に大仏の頭部が完成するが、百年近くも座り続けていると、大仏もやや不良ぽくなるのか。
キセルをくわえて腕組みし、上からに睨みつけている大仏はちょっと怖い。

夕刻、振替授業を実施。

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合羽大仏

2022-10-12

寛政5年(1793)2月20日、江戸・品川海晏寺で本尊の聖観音菩薩が開帳。この時に合羽大仏の造り物が登場。

『武江年表』には、「品川海晏寺本尊開帳なり。銀杏の木を中にこめ、桐油合羽もて盧舎那仏を作る。らほつは蜜柑籠、白毫は銅だらひ、指の爪はすげ笠にて有りしと覚ゆ。」と記され、『きゝのまにまに』には「盧遮那仏の像を作りて観せ物とす」。
海晏寺山内の銀杏の大木を真柱とし、枝葉を含めて桐油紙(合羽)で覆い、白毫は大銅盥、螺髪はミカン籠、指爪は菅笠で造られた盧舎那仏像であった。
ただし「観せ物」(見世物)としての大仏であった。

合羽大仏は大いに評判となり、文化元年(1804)三月上旬に大坂難波新地で合羽細工の大仏の見世物があり、また同6年(1809)8月1日から名古屋七ツ寺境内後方で合羽大仏の見世物が造られた。
大坂難波新地での合羽大仏は「是ハ先年、御地於品川造り候由、御状にて承り居申候位の儀と奉存候、尤、座像御丈十六丈」と品川海晏寺合羽大仏に倣った大仏で16丈を計り、七ツ寺での合羽大仏は「下地は籠にて拵へ、雨合羽にて是を包み、至て能細工」したもので、「みくしより蓮座迄凡七間余」あったとする。

幕府は、造り物の合羽大仏は「大造之見せもの等差出候儀は、神仏崇敬之意に違ひ、不埒之事ニ候」とのことで、天保13年(1842)2月に「無謂新規ニ大造之造り物、或は見世物等致候義は、決而無用可致候」と禁令を出すに至る。
なお禁令によると、寛政11年(1799)、文政10年(1827)にも同様の禁令を出したが、効果はなかったようである。

葛飾北斎『七々里富貴』をみると、その製作工程がよくわかる。

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光雲の合羽大仏

2022-10-13

合羽大仏は、高村光雲も制作している。
『高村光雲懐古談』「佐竹の原へ大仏をこしらえたはなし」に製作工程が記されている。
「千住の大橋で真中になる丸太を四本、お祭の竿幟にでもなりそうな素晴しい丸太を一本一円三、四十銭位で買う」「兄の友達の左官で与三郎という人が下谷町にいるので、それに漆喰塗りの方を頼んで貰いました。」「大仏の例の螺髪になると、一寸困りました。俗に金平糖というポツポツの頭髪でありますが、これをどうやっていいか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄はえず、板では仕様もない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹笊をこしらえる家が並んでおりますから、そこへ行って唐人笊を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれが丁度はまりますけれども、額際とか、揉もみ上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合いの笊を注文して、頭へ一つ一つ釘で打ちつけていったものです。仏さまの頭へ笊を植えるなどは甚だ滑稽でありますが、これならば漆喰の噛り付きもよく、案としては名案でありました。」
大仏の目、耳、口や後頭部に窓を開け、そこから見物人が外を見ることが出来る仕掛けにもなっていた。
大仏の姿が屋根にもかこいにもなるが、内側では胎内潜くぐりの仕掛けにして膝の方から登って行くと、左右の脇の下が瓦灯口になっていてここから一度外に出て、印を結んでいる仏様の手の上に人間が出る。そこへ乗って四方を見張らす。外の見物からは人間が幾人も大仏さまの右の脇の下から出て、手の上を通って、左の脇の下へ入って行くのが見える。それから内部の階段を曲がりながら登って行くと、頭の中になって広さが二坪位、ここにはその目の孔、耳の孔、口の孔、並びに後頭に窓があって、そこから人間が顔を出して四方を見張らすと江戸中が一目に見える。四丈八尺位の高さだから大概の処は見える。
大いに参考となる記述であると思いつつ、光雲は正しく幕末仏師であることを実感。

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飛鳥史学文学講座

2022-10-16

午後より明日香村中央公民館にて。今回は野迫川村の仏像について講演(報告)。タイトルに「奥高野」と付けたが、奈良県である。

隣にはフェンスに囲まれて新しい建物が建設中。いつもお世話いただいている明日香村の方に、「世界遺産登録のための博物館ですか?」と尋ねると「村役場」ですと回答。
確かに今の村役場は古く、組織からしても狭小である。

講座は、離島部を除く全国最小の村の文化財の紹介とどう保護していくかという内容。
5分の休憩を挟んでほぼ2時間の講筵。

終了後、野迫川村で生まれ育った方に感謝と誤読(立里=たてり、柞原=ゆすはら)の指摘を受ける。この方、現教育長の同級生で、現村長は教え子であるとの由。

こうした状況は日本各地で発生。本当に何とかしないといけない。

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イギリスの馬鹿者

2022-10-18

ロンドンのナショナル・ギャラリーでゴッホの「ひまわり」にトマトスープがかけられる事件発生。
「JUST STOP OIL」のTシャツ姿のエコテロリスト。

幸い、画面にガラスが嵌められており額の軽微な損傷で済んだが、ゴッホの「ひまわり」と環境保護と何の関係があるのか。環境保護というなら、まずはそのピンクに染めた頭髪から改めるべき。

その「ひまわり」は、アルルの黄色い家を借りて(弟テオ全額負担)、画家仲間をアルルへ呼ぼうとした絵画(結局ゴーギャンしか行かなかった)なんだぞ。
ゴッホの思いも分からずに自らの主張を訴えるため絵画にトマトスープをかける馬鹿者。

大阪人なので、そこはやっぱり「トマトスープはやっぱり「HEINTZ(ハインツ)!」ってボケなきゃ。クラフト・ハインツ社からは名誉棄損で訴えられると思うけど。

狙われる名画はいくつもあるが、美術を愛せない人は、人も愛せないと思う。
誰も共感なんかしない。

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重要文化財

2022-10-20

過日の某所での会議席上。
建築史の先生は、近い将来は重要文化財指定!と意気込まれ、「重要文化財はその分野(建築)の様相を典型的に示す(学術的に価値の高いもの)である」と力説される。

議論の方向から仏像に振られること必至。思わずうつむきながら考える。
近世の仏像で重要文化財は・・・と考えると、日光山の銅造釈迦如来坐像、湛海作厨子入五大明王像、東大寺大仏脇侍像など肖像彫刻を含めても20件。東大寺大仏脇侍像以降は、高村光雲「老猿」(明治26年〈1893〉)と荻原守衛「女」(明治43年〈1910〉)の2件のみ。
日本彫刻史をみても室町時代ぐらいまでは俎上にのぼるものの、その後は一足飛びに近代彫刻へワープ。

日本建築史のように近現代に至るまで連綿とした年表があるわけでもなく、日本彫刻史は快慶までの仏像と近代彫刻が重要文化財の射程内にありますとは、さすがに言えず「附(つけたり)」という形で話を濁す。

謎のミッシング・リンクである現状に誰も異議をとなえない。

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忘れ物

2022-10-21

過日の会議をぼんやりと考えながら、夕刻の授業のため大学へ向かうも乗換え駅(JR淡路)で車内に携帯を置き忘れたことに気づく。
まずいよ、ヤバいよ。

大急ぎで研究室に向かい、JR忘れ物センターに連絡。乗車日時、区間、カバーの有無、待受け画面(雪の山形鉄道)等を聞かれ、しばらくすると久宝寺駅で預かっているとの回答。 知らずに女性専用車前で待っており、あれれと車両を移動したので号車は覚えていたのが幸い。

夕刻の授業を終えて速攻で久宝寺駅へ。どなたかは存じ上げないけれど、駅へ届けて頂いた方に深く御礼と感謝。2度と忘れないように鈴でもつけるか。

最近、とみにこの手の失敗が多い。

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紙製仏像

2022-10-22

紹介状を持って大谷大学図書館へ。

校内は授業中なのか休校日なのか学生はまばら。
お目当ての書籍は『無遮’90(和光大学 日本彫刻史・絵画史ゼミナール報告書Ⅶ)』所収の斎藤望「紙製の仏像について-静岡・龍潭寺の地蔵菩薩立像を中心に- 」。
関西では、京大図書館と大谷大学図書館のみ架蔵。

興味深い論文で数頁ながら何度も読み返す。(もちろん複写もした)
静岡・龍潭寺に寄進目録が残り、東山天皇宸翰の反故紙が寄進され「此御反故紙製之仏像ニ可令作給」と紹介。

これまで紙製仏像の多くが地蔵菩薩像であるため、追善という意図が強調されるが、他例からも結縁の意味を持つとも。また龍潭寺には紙製観音菩薩立像も残るとも報告。
上記の一文が「さりげなく書かれることから(紙製仏像が)けっして特異なものではなく、ある程度一般的に行われていたことを推測させる」と強調。

悉皆調査が進むなか、紙製仏像はその多くが江戸時代制作のためあまり注目されない。
紙製仏像はまだまだ研究の余地が残る。

今日は時代祭。バスも迂回。

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高村光雲と松本楓湖

2022-10-23

過日の記事(2022-10-7「投げやり教育」)を読んだ知人から感想のメールを頂き、感想のなかに光雲が手掛けたアーレンス商会の唐子が器物を差し上げている形の洋燈台の話があった。

そうだったのかと納得。若い頃に東京で発表した際にアーレンス商会の洋燈台を取り上げたが、当時は松本楓湖って誰?という認識である。

改めて『高村光雲懐古談』「店初まっての大作をしたはなし」を読むと、アーレンス商会の番頭が高村東雲宅にやってきた機縁は、「諏訪町の湯屋の裏に」住んでいた松本楓湖がアーレンス商会の職工に仕事をさせるその下絵を描いていたという。
もちろん丈五尺の唐子洋燈台の下絵も松本楓湖の筆による。

勤皇画家として知られ、自身も剣術を修め、水戸藩の勤王党を援助するなどした松本楓湖も明治10年頃にはアーレンス商会との結びつきがあったのか(生活の糧だとしても)とやや驚く。
懐かしい発表も思いださせてくれて、感謝の限り。

本日晴天ながら、各種入試で出校。

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ドイツの馬鹿者

2022-10-24

今度は、ドイツ・ポツダムのバルベリーニ美術館でモネ《積みわら》にマッシュポテト(液体?)を投げつける事件発生。
ラスト・ジェネレーションというエコテロ団体の仕業。

モネ《積みわら》は、決して「キャンバスに描かれた牧歌的な世界」ではない。モネ自身の深い懺悔と贖罪のために描いた作品なのに。
答案にそんなことを書いたら、ゼロ点やで。
授業、聞いてへんかったか!って。

事件がこう続くと、流行りのSDGsもなんとなく危なさそうな気もする。

(追記)10/27 馬鹿者はオランダ・マウリッツハイスにも出没。今度はフェルメール《真珠の耳飾りの少女》が被害。犯人はまたも「JUST STOP OIL」。

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いずこも同じ

2022-10-27

某日、プロカメラマンとの雑談。

カメラマンが、とある大学の博物館実習で講義と実習を担当。
絵画の寸法を計れと指示したら、本紙の上に直に巻き尺をあてて計りよる。
屏風の撮影方法を講義すると、半分以上が聞いていない・・・。
時間が余ったので、見ていいよと促すも屏風の前に来たのは3人だけ。その後、屏風を収納するので「ちょっと手伝って」と言うと、「バイトがありますので」と1人退出。
今の学生ってこんなもんですか?と。ハイ、と即答。

見ることも触れることも関心はないって、何に関心あるんですかね?と再度の質問。
携帯(電話)でしょかね?と。

聞けば、カメラマンは同い年。
そんなことは(大学では)日常茶飯事ですから・・・と苦笑い。

馴れというのは恐ろしい。

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還暦研究会

2022-10-28~29

還暦研究会(2022-5-27)、飛鳥文化研究所にて開催。学園祭直前、平日のため貸切。

夕食も済み、懇親会。
あの人は今どうしているのか、などと近況報告かたがた業界話が尽きない。

翌日は、整備が終わった牽牛子塚古墳へ。
「なんやあれは?新宗教の施設?」と思うほど、往時(40年以上前)からの著しい違和感。
「当時は石室入口に柵がなくて、入ると石床(の高さ)まで浸水してたし・・・」と。

越塚御門古墳の石室内で特別映像(有料プラン・3分の無料映像もあり)、ぎょっとする。墓室の中でビデオ上映?
なんだかなぁと思う。相変わらずボランティアガイドは態度が横柄だし・・・。
流石にプロだから、覆屋かわりの切石もいいが隙間なく貼り付けたので(本来あるべき)目地がない、墳丘裾部の切石も横・縦・横の配列ながら1枚の切石。
文化財の保存と活用ということながら、皆、大いに首をひねる。

駅に向かって歩く皆の後ろ姿を見ると、学生時代もこういう光景を見たことがあるものの、博物館か発掘現場の帰りかは定かではない。
その後、橿原神宮へ参拝、宝物館にて「天皇陵巡りの近世・近代」を見学。「御陵五十一基絵図」は初見資料。

事情あって、午後に帰阪。

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キャプション

2022-10-31

以前、ゼミ生が「実習展の展示作業(のアドバイス)、見て下さい」との連絡が来た。また(展示に供する)何かお持ちでしたら貸して下さいとも。玩物喪志。
開催(11/13)まで時間があるようなので、展示作業はまだ半ば。

往々にして、資料の展示か、解説パネルの展示なのか疑うほどキャプション類で展示資料が埋もれているケースをよく見る。
ちょっとキャプションのレイアウトを見せてもらうと、名称、員数、時代、所蔵者名、材質、法量、解説と盛りだくさん。
材質や法量は、キャプションから省いて1枚刷りの出品目録を作ってそこに記載などと、アドバイス。
省きなさいと、言ったのは他に理由がある。
キャプションは縦書きレイアウト。 和暦(西暦)は嘉永元年(一八四八)でも嘉永元年(1848)でもどっちでもいいが、法量を入れるとどうしても横書きでないと不自由。20.3㎝がどうしても横書きとなって首を傾けないといけない仕様となる。
借用依頼も早すぎず、遅すぎずがベストである。早いと、追加借用が難しくなってしまう。そのためには十分展示資料や構成の問題を固めておかないといけない。

展示作業が半ばなので、「来週、もう一回来るわ」と展示場をあとに。

夕刻、学園祭練習の声が聞こえる。もう10月も終わり。

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過去ログ