日々雑記


奈良県指定の文化財

2022-9-1

10月22日から、なら歴史文化村で「奈良県指定の文化財」展が開催。

このタイトル、久しぶりである。昭和58年に奈良県立美術館で開館10周年記念展として同名の展覧会が開催、39年ぶりである。

奈良県立美術館では、それまでの指定品を一堂に会した展示だったが、いまや県指定有形文化財は建造物121件216棟、考古・歴史資料含めて264件となっている。
何度も分けて展示するのがいいかも知れない。

意外にも「奈良県指定文化財」は知られてこなかった。これまでも奈良国立博物館での展示等で国宝や重要文化財の傍らに位置し、どことなくかすみがちな存在。

市町村指定・未指定の作品でもかなりハイレベル。これぞ奈良の仏像という存在を存分にみせてやれとエールを送りたい。

top

光雲と光太郎

2022-9-2

過日、とある人から「光雲の塑像が信じられないほど、巧いのだが・・・」と聞いた。

光雲と光太郎は、親子でもあり、東京美術学校の教員と学生の関係。
世間的には、「結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。いはゆる〈木彫師〉であった。もつと狭くいへば〈佛師屋〉であつた」(「父との関係」)と、光太郎が喝破するほどに犬猿の仲。

でも二人とも齢を重ねてくると、ちょっと違う。
高村豊周(光雲三男)によれば、光雲の肖像彫刻の塑像原型は光太郎が製作したものが多くあって、光雲の手が全く入っていない銅像もあるらしい(『高村豊周文集4』)。

塑土の塊を前に座っている光雲。
その姿を見た光太郎は、「土を見ていただけでは像は出来ないんだよな!ちょっと、替ってくれる?」と親爺に代わって塑土をこねていく光太郎、あるいは「おぃ、ちょっと替ってくれるか、土は苦手だ!」と光太郎に直談判する光雲・・・。
肖像彫刻では、また逆もこともあったようにも思う。

きっと、巧い塑像原型は光太郎の作品ですよ、と返答。
驚きの表情でこちらを凝視・・・。

top

日本海にて

2022-9-4

昨日より末娘が帰郷。3人で久しぶりに日本海側へ遠出。フェーン現象で猛暑なり。

町外れの神社に詣で、拝殿で床几に腰かけて涼みながら海を眺めつつ、お互いの仕事のことやあれこれと談話。

ふと、末娘とこうした他愛のない話ができるのも何時までだろうかと思う。

帰途、お土産の蒲鉾屋さんに立ち寄り、その後は近畿道まで後部座席で爆睡のご様子。
この情景は何時までも変わらない。

top

「限界文化財」

2022-9-5

とある限界集落にある文化財を紹介する講座のレジュメを作成中。

紹介文はすんなりとできたが、まとめとしての集落の過疎化とともに管理が行き届かなくなった文化財はどうあるべきかで悩む。維持管理や保管など、解決すべき課題は山積。
住民は年を経るごとに減少の一途で、回復の見込みはほぼゼロに等しい。

同様の問題は山形でもいくつか仄聞した。
(芸工大のある)山形は大自然に囲まれた美しい東北という側面だけではなく、この先、必ず日本全国が直面する重要な社会課題に、たぶん他の地域より10年早く向き合っています。いわば山形は日本の未来の姿なんですね。
学長が語る芸工大ーあたり前の世の中を みんなが変える|学長・中山ダイスケ


やや?と思えなくはない節もあるが、ちょっと芸工大学長の言葉をパクろうかとも。

レジュメ最後の1頁がまとめられない・・・。

top

義兄弟

2022-9-7

明恵(承安3年〈1173〉生)と解脱房貞慶(久寿2年〈1155〉生)は、18歳も違うが、明恵の建久2年(1191)9月24日の夢にまで出てくるくらい非常に仲良し。

ともに春日明神を深く崇拝、元久2年(1205)に貞慶が『興福寺奏状』を起草、法然の専修念仏を批判すると、明恵は、建暦2年(1212)に法然『選択本願念仏集』批判の『摧邪輪』を著す。 造形美術の上でも共通点多し。

残り少なくなった夏休み。少し調べてみることに。

top

錐点

2022-9-9

山崎隆之先生の「仏像の造像比例法-錐点について」を読み返している。

このところ錐点に関わることが多い。最近調査した像にも錐点があり、龍谷ミュージアムの雛型資料にも錐点、古くはこの像にもある(もちろん他人蔵)。
平安後期の成就寺・大日如来像にも錐点があり(山崎隆之『仏像の秘密を読む』)、おそらくこの時期の分業制と仏像の大量生産とに関係して、錐点が生まれたと思われる、その後の錐点研究の進展はあまり聞かない。

造像比例・木寄せといったことは、高村光雲の授業資料として使用した「佛師木寄法」(『國華』5・6号)があるが、その後の研究も僅少で太田古朴の著書によるところが大きい。

こちらも何とかしないと。

top

兵部定康

2022-9-12

葛井寺市・葛井寺二十五菩薩堂の阿弥陀如来・二十五菩薩像(享保16年〈1731〉頃)が市指定になったと仄聞。
既に泉大津市・心福寺地蔵菩薩立像も台座銘から享保14年(1729)に兵部定康の制作と知られている(『美術工芸品調査報告書』には未掲載)。

天理市南六条釈迦堂釈迦如来坐像(天文13年〈1544〉・宿院仏師源次作)には、享保14年のこととして「源次法号宗順法眼ト改有事予先祖故此度改也 兵部定康」「堺湯屋町法眼兵部/定康」と記され、面部・躰部の「金粉」、光背・台座の新調を行ったとしている。
兵部定康が堺仏師ながら先祖は宿院源次とする以上、堺との関わりが必要である。

『堺市史』第4巻 資料編第一(1930年刊)『法華寺文書』に「法花寺形義法度」に関する起請文に堺の住人57名の連署がある。そのうち「ふつしや」と肩書する者が「宗宥」「久栄」「道隆」「道味」「隆恵」「新五郎」「源三郎」の7名。 現在、作品で確認が取れているのは「隆恵」のみである。

「源三郎」が宿院「源三郎」だと、兵部定康の「先祖故」も故なきこととは思うのだが、難しい。

top

調査

2022-9-13~14

某所で調査。久々に調査対象は工芸品が主。
近代の工芸品なので、技巧もさることながら、違う意味で驚くことが多い。

漆器の裏に梅紋に「美」の文字(蒔絵)。
前職で京都古美術組合かなんかの会員(古美術商)が忘れていった風呂敷にも似た紋があったことを思い出す。
製作当時、そうした組合はなく、いったいこの紋はどういう意図なのか分からない。

次は螺鈿細工。
犬を連れて歩く人物を表した作品だが、人物の顔は三日月状で、犬もなんだか奇妙である。前衛美術と思ってよいほどのシュールさ。
見た時にジョルジョ・デ・キリコの作品を思い出した。
不思議な作品ばかりでなく、技巧にうなる作品も多い。

2日間で60点余の作品を調査。やや疲れを覚えつつ、帰阪。

top

武内宿禰

2022-9-16

箱裏に「宅磨證賀筆」と記した明治23年の款記ある武内宿禰像。

武内宿禰像といえば、神功皇后とセットあるいは対幅として描かれるのが常。その際の武内宿禰像は神功皇后の赤子(後の応神天皇)を抱きかかえている。単独で畳に座り正面を向く武内宿禰は珍しい。

英国女王 エリザベス2世が死去したので、イギリスの硬貨や紙幣は新君主チャールズ国王の肖像に置き換えられるとのことだが、昭和33年(1958)まで発行されていた1円紙幣には武内宿禰の肖像が印刷されている。
武内宿禰の単独画像も類例を探さねばならない。

本日午前中、某所で写真撮影。

top

帰阪

2022-9-19

先日より家人が上娘のいる関東へ上京中。本日、帰宅の予定。

昨日から台風14号が接近中で、明朝には近畿地方に最接近。「台風の特別警報」が出るくらいの大型台風である。
東海道新幹線も午後から名古屋―新大阪間で運転取りやめ。あわよく新大阪に着いたとしても夕刻からは大阪環状線・阪和線も運転取りやめ。

やきもきしているうち無事に最寄駅まで戻ってくる。画像は運転取りやめ前の大阪駅1番ホーム。休日午後ながらこの有様。

足繫く通ううちに旅慣れたご様子。
少し前までは、みどりの券売機もおぼつかなかったのに。

top

騎龍観音

2022-9-22

昨日から秋学期開始。今日から授業。

ゼミ発表(のガイダンス)。
近代日本画ながら受講生16人。授業は15回。じっくり作品を取り上げてとはいかないので、1コマに2人の発表。
昨年のように川合玉堂・東山魁夷という手もあったが、こちらが大変なので明治期の洋画家、高橋由一・黒田清輝・原田直次郎・青木繁を追加する。

原田直次郎「騎龍観音」(重要文化財)。
原田直次郎がドイツから帰国した時には、フェノロサ主導の西洋画排斥運動のさなか。直次郎は龍池会に入会。2年後には「明治美術会」で活躍するが、洋画においては旧派である。

こうした事情から、西洋画の要素を取り入れた日本画(狩野芳崖「悲母観音」)の影響なども十分考えられる。
ヨーロッパでも龍にのるマリアの絵画もあり、しかも時代はジャポニスム。ちょっと複雑な状況。

しばらくは通勤途上に森鴎外『うたかたの記』でも読もうと思う。

top

ガイダンス

2022-9-23

休日ながら授業日。

昨日の一般教養で、たまたまEVに乗り合わせた女子学生が「またガイダンスや。何すんのやろ」と話していた。同じ階で降りたので、こちらの受講生だとちょっと授業の前振りに使うかと思ったら隣の教室に入った。残念。

ガイダンスではなにより成績評価の確認。ゼミでも何を担当するのか、発表時間や配布資料の制限、機材使用の有無などの確認がある。
いつも、うちの学生には「1回目の授業は這ってでも出席しろ」と口喧しく言っている。
世間では、知りませんでした、では通用しない。

こちらのガイダンスを終えて、早く授業を終えると教卓前に留学生が質問。「関大単位データベース」の評価に惑わされているのか履修生は少ない。
留学生に、〇*✕△●□と履修の秘訣を伝授。

「関大単位データベース」で満足度が低い評価なので、もっとレベルを上げた満足のいく授業を講義しようかと思いながら法文坂を登っていた。

top

七条西仏所

2022-9-26

彦根天寧寺の釈迦如来・十大弟子像や五百羅漢像の諸像は駒井朝運らの製作である。2001年度から大修復が実施中。

文化財課『彦根市文化財年報』には「文政9年 (1826)から天保 2年(1831)の5年間にわたり、 京都七条西仏所の駒井朝運・奥田善之丞・七条左京らによって制作された。」と記している。

駒井朝運が七条西仏所という記述に驚くものの、記憶ある姓。かつて問合せを受けた某所の像には「七条西・・・駒井友之進」の銘記。
回答した折には知らなかったが、下関市に文書が残っているらしい。

もし駒井朝運と駒井友之進が断続的に結びつくとなれば、興味深いことが起こる。
京都・頂妙寺二天像の躰部補作。持国天は康傳・康朝、毘沙門天は駒井友之進昭康の製作。持国天像は七条中仏所、毘沙門天像は七条西仏所の共作となる。

鍵となるのは「駒井柳朝」。忘れへんうちに。

top

「彫刻」という言葉

2022-9-27

「彫刻」という言葉は、今日「仏教彫刻」「西洋彫刻」「現代彫刻」と今では名詞として使用されている。

しかし「彫刻」という用語の使用例は古く『観心寺文書』「観心寺縁起実録帳写」承和3年(836)閏3月13日付官符に「鎮守訶梨帝母事」として「当社ノ神躰ハ者、毘首羯磨之彫刻」とあり、『御産部類記(図書寮叢刊)』にも天治元年(1124)3月20日に「是以誂毘首、而彫刻一百躰之尊」とあって(〔東京大学史料編纂所D.B.による〕)動詞として使われている。

だからウィーン万博(1873年)に「西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ」とつながるのかと改めて思うものの、工部美術学校や内国勧業博覧会など色々と考えないといけない問題も多そうである。

top

『女学雑誌』

2022-9-29

「彫刻」という言葉について、変わった角度から。
日本初の女性誌『女学雑誌』を見ると、明治21年(1888)10月6日『女学雑誌』135号の社説に「美術」とあり、「彼の音楽、詩歌、絵画、彫刻の類ひを云へる」とあって、ここでは、ウィーン万博出品区分の「像ヲ作ル術」が「彫刻」に改められた。
同121号(明治21年8月4日)では「木材彫刻の術を御修業のよし也」とあって、まだ動詞として使用されている。
その後「絵画彫刻建築及び図案の師匠」(同131号)とみえるが、133号では「彫刻したり」と「其の彫刻」と未分化の状態が残っている。

139号(明治21年12月8日)で、ようやく「彫刻」が全て名詞として使用されている。

ひとまず、明治21年の後半が動詞から名詞への転換とみられるのかも。

top

竹内久一『神武天皇像』

2022-9-30

そう考えると、ちょっと面白いことに気づいた。

明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会で森川杜園出品の『竜灯鬼』は模造でその技術(「像ヲ作ル術」)を披露するもので、明治23年 (1890) 第3回内国勧業博覧会での竹内久一『神武天皇像』はまさしく像そのものに価値を見出すということになる。

竹内久一は架空の人物である『神武天皇』をどのように表現するかに困り、明治天皇の御真影(写真)を反転したイメージをもとに表現している。

内国勧業博覧会会場で竹内久一『神武天皇像』を見た人の一部は、「明治天皇の顔はなるほど祖先の神武天皇の顔とよく似ている。血は争えんもんじゃ・・・」と、知らずうちに万世一系を理解させる手段ともなった・・・というのは、今週初めの授業内容(後半部)。

top

過去ログ