日々雑記


黙っている

2015-03-01

終日雨。最近、気づいているが黙っていること。
お雛様を出していない・・・。

女性軍は何も言ってこないし、お雛様が入っている箱の前にはスーツケースやら扇風機の箱などが積まれており、出すのにもひと苦労。

娘たちとTVのニュースを見ながら「ひな祭り」の話題が出るたび、気づいたか?と少しドキドキする。
ドキドキするくらいなら思い切って“自白”すればよいのだが、箱が詰め込まれている戸袋を見ながら躊躇し、TVの話題は天気予報に変わる。
あと2日、何事もなければこのまま、今年も出すこともなく過ぎていく。
雛人形から恨み節のひとつでも出そうな気配。

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団栗焼け

2015-03-03

後期入試。
晦日未旦、火起于宮川之苞櫟巷、時東北風急、火徑飛越河、斯須蔓延、南而西、又北(中略)凡罹災者、戸三萬六千九百、祠三十有七、寺二百有一、南而本願寺、北而相国寺、為其最巨者、至於巨寺之有子院・本戸之有比舎、其数不可勝紀、死亡者凡二千人云、(中略)洛橋一望盡灰燼
『平安欝攸記』
天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火。
「寅之半刻」(午前6時)に宮川町から出火し、折からの風にあおられて、火勢は鴨川を越え、二条城本丸、「丑之刻」(午後10時)には御所まで焼き尽くして翌々日やっと鎮火する。「此日、至于申刻、鞍馬口安居院邊野ヘ焼盡而、火始而滅ス、西ハ限千本ヲ、南至七條、為一望焦土」(『参暇寮日記』)のありさまとなった。

普段は閉門していた新在家御門もこの時に開門し、以来「蛤御門」と呼ばれる。時の天皇である光格天皇は聖護院門跡を仮皇居とした。

洛中に古い仏像があまり残っていないのもこの大火の影響なのかもしれない。

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実際の用語の記述ではありません

2015-03-04

慌ただしい1日。

今日の朝刊に「シティグループ・インクおよびその直接および間接の子会社(「シティグループ」)からの、修正された、2014年4月7日付の和解合意 (「和解合意」)の承認に関連する司法説示手続開始についての通知」が1面全面に掲載。
もとより興味も関心も全くないが、文面に目を見張る。
住宅ローン担保の証券化信託と貸付のグループの証明書、債券、または証券の保有者(「証明書所有者」)、そしてその他引受信託及び貸付のグループに潜在的に興味のある人々に通知します。

(制限無しに、かかるRMBS受託者が職務を行うのに負担した手数料や費用、かかるRMBS受託者が起因となっているか起因となりつつある賠償、かかるRMBS受託者の使った時間の補償、職務を行ったり救済策を求めたりするために雇った弁護士やその他の代理店の手数料や費用に対する弁済を含む)を完全に回復する権利、何らかの証明書保有者の要求や指示で適用可能などの管理契約との関連したいかなる権利や権力を行使する前にそれに従って引き起こされたかもしれないすべての費用、経費、債務に対して十分な担保と賠償を受け取る権利、そして適用可能な法律のもとであるいはそうでない場合にも有用な可能性のあるすべての権利を含んでいます。
さしずめ英語の授業だと、「(下線部)訳、なんとかならないのか?」「もうちょっとこなれた訳文にならんか」と指摘されること間違いなし。
文中にも「実際の用語の記述ではありません」と記してはいるが・・・。

我が国でも商法の一部はカタカナ文語体で「航海又ハ運送カ法令ニ反スルニ至リタルトキ其他不可抗力ニ因リテ契約ヲ為シタル目的ヲ達スルコト能ハサルニ至リタルトキハ各当事者ハ契約ノ解除ヲ為スコトヲ得」などで煩雑(難解?)。

「なんやこの訳文は」と愚痴ったら、「保険の約款と同じで、あまり読んで欲しくない文章なんでしょう、きっと」と家人。納得。

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キャバレー・ヅ・パノン

2015-03-05

ただいま、 こちら の総括中。

明治43年(1910)には、中村儀右衛門は大阪南区九郎右衛門町251に居住していた。御堂筋を挟んで松竹座の西側、かつてのケーキ屋「インナートリップ」のあったあたり。対して山田伸吉の大正7年(1918)頃の住所は大阪市南区日本橋2丁目5番(黒門市場西側あたり)。近所とも言ってよいほどの近さ。

長谷川幸延『たべもの世相史・大阪』(毎日新聞社、1976年)によれば、道頓堀にあった「キャバレー・ヅ・パノン」(大正3年(1914)開店)を設計したのは山田敏之助とする。山田伸吉は敏之助の息子。

ひょっとして山田伸吉の親爺と中村儀右衛門は同業他社の関係であったかもしれない。不思議な縁である。
報告書、書かねば・・・。

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業界環境の悪化

2015-03-06

『カラー版日本美術史』などのカラー版美術史シリーズや『美術手帖』を出版していた美術出版社が倒産。2011年8月に休刊した『日本の美術』以来のショック。

帝国データバンクによれば「業界環境の悪化から本業の出版事業の売り上げも落ち込み」とあった。朝日新聞は「『活字離れ』による出版業界の環境悪化」と超訳?しているが、この業界環境は出版業界でなく「美術(史)業界」ではないかと憶測。

東北芸工大も「芸術学部 美術史・文化財保存修復学科」から「芸術学部 文化財保存修復学科」と看板を替え、うちも入学者総数の1割も満たない分属者が続いている。若い学生の美術(史)離れは徐々にその足元を弱める。

美術史が史学に属そうが 哲学に属そうがどっちでもよく、学生の数ももとより関係ないが、学びたい学生が入門的な図書に触れることが難しくなってきたというのは一大問題。

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ハルカス降臨

2015-03-07

ようやくのことハルカス「高野山の名宝」展へ。

開館直後に辿り着いたが、既に人だかり。そう混雑はしていないと仄聞していたのだが、会場内で、今日はハルカスオープン1周年と聞き、思わず納得。

それでも山水屏風や不動明王像、諸尊仏龕などじっくり。圧巻は運慶・快慶の作品群。快慶の執金剛神立像は修理後初の公開だが、唐本図像に拠ったとの由。四天王像は東大寺様ながら、東大寺執金剛神立像は秘仏であったためかなどとぼんやり考える。
お昼前まで見学。その後、大学へ向かう。

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沖縄県立博物館・美術館からのお願い

2015-03-08

★博物館からのお願い★
本年は戦後70年目の節目の年です。当館の歴史は、戦後の復興の歩みともに王国時代の文化財のカケラ の収集から博物館活動が始まりました。ここで展示している仁王像はもともと、旧円覚寺総門に阿吽形で一対として、安置されていたものです。
今年度から、当館では残欠文化財の活用の可能性調査(復元のための基礎調査)を行っています。残念ながら、この仁王像には顔がありません。また、戦前に撮影された円覚寺の写真には、総門の格子中に安置された仁王像の画像を確認することができません。戦前、この仁王像をご覧になられた人々の記憶のみが、この仁王像を復元する可能性を残しています。是非、琉球王国時代の文化遺産の復元のためにご指導、ご協力ください。(担当:園原、與那嶺)
上のような残欠が13点ほど。頭部材は見つかっていない。沖縄戦直後に燃料用に持ち去って使われたとも、米軍が持ち帰った(沖縄の文化財ではよくある話)とも。
小さな残片も採取されているので、頭部材がわからなかったことはないのだが・・・。

写真がないのも不思議と言えば不思議。
首をかしげながらも、ただいま格闘中。

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会議

2015-03-09

小雨。最後の入口(入学査定)と出口(卒業査定)に関する会議。成績優秀者の氏名欄にゼミ生の名前を発見。文字通り、表彰。我が事のように喜ぶ。

昨年も書いたが、この時期は用務や会議などに追われる。考えば、普通に年度末。暇なわけがない。このまま新学期に突入の気配。
やっぱり学生がうらやましい。

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人生、語られてもねぇ

2015-03-11

下関市長が下関市立大大学院経済学研究科に提出した修論が不合格判定、「弁明の機会がないのが課題」と批判。
修論で「市長の仕事や自身の人生」を語られても、客観性がないことには・・・。

修論ではないものの、時折、「自分の思い」を熱く語ったレポートを見かけることがある。もう作品や作家に関することはまったく除外され、読んでいて辟易するほどに作品に対する熱い思いと自身の感動だけが延々と続く。もちろんかなり評価は低い。

教員はちゃんと指導したのだが、学生である市長はアドバイスを聞かなかったのかもしれない。
Hot heart, Cool head.

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菊池契月展

2015-03-12

久しぶりに笠岡市立小野竹喬美術館へ「菊池契月展」を見学。

近代京都画壇にあって竹内栖鳳と土田麦僊に挟まれ目立たなかった日本画家の回顧展。

なかなかの充実ぶり。《垓外別離》の項羽は、まるで関帝像をモチーフとしたようで小太り、日露戦争の頃の作品である《近藤重蔵》に描かれたアイヌの人たちはギリシャの哲人風。
イタリア行でジョットやフレスコ画に関心をひき(当時の日本はセザンヌ傾倒)、帰国後は日本、特に天平期に関心を向けたというのも定番のコース。
ピークはやはり《朱唇》、《少女》(前期のみ)あたりと思える。
たいへん興味深い展覧。てっきり巡回展とばかり思っていたが単独開催との由。
どうでもよいことだが、《南波照間》に「はいはてろま」とルビが振られていたが、「ぱいはてろま」じゃないのだろうか。

その後、岡山県立博物館「和気安養寺の文化財」展へ。
安養寺阿弥陀如来坐像(鎌倉)や毘沙門天立像(鎌倉)以外にも素戔嗚神社聖観音菩薩立像(平安)や捧澤寺金剛力士像(平安)、明徳寺聖観音菩薩坐像(11世紀)、熊野観心十界曼荼羅なども展示される。特に明徳寺聖観音菩薩坐像などはじっくりと拝見。

束の間の息抜き小旅行。

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金剛四

2015-03-13

尚温王の冊封使として琉球に来た李鼎元の使録『使琉球記』嘉慶5年(1800)8月16日条には以下の事が記される。
食後、介山と諧に円覚寺に遊ぶ。観蓮橋を渡る、橋亭は弁才天女に供す、云う即ち斗姥と。将に門を入らんとして池有り、円鑑と曰う。荇藻交横し、芰荷半ば倒る。国王、山門外に迎え、王叔以下跪き迎う。門は高敞にして、楼有りて翼然たり。左右に金剛四、規模は畧ゝ中国に倣う。仏殿七楹あり。更に進めば大殿亦七楹、龍淵殿と名づく。
訳文をみると「金剛力士四躯」とあり、国立国会図書館の版本を見ても「左右金剛四」とある。
どういうこっちゃと。

時折、「門」の前後には仁王像と二天像が安置される事例もないわけではない。二天像を仁王像とみる人も多い。まぁ、李鼎元もさほど仏像仏閣に関心があるわけでもないので仕方ないといえばそれまでなのだが・・・。

罪な記述。

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最後の嘆息

2015-03-16

当分、最後の嘆息になるので記す。

4月1日から5月17日まで、大学博物館で企画展「かんさい・大学ミュージアムネットワーク連携展『大学の扉を開く』」が開催。

大阪府と奈良県の11の大学博物館・資料館による「かんさい・大学ミュージアムネットワーク」があり、兵庫、滋賀を含む4府県の大学博物館・資料館16館からの展示。もちろん先行している京都の大学博物館は含まれない。

そのポスターがこれ。写真が13葉、文字数も多く、乱雑散漫極まりないデザイン。裏面にも写真が11葉。資料を貸し出していただいた他館に対して誠に申し訳ないばかり。

もう少しマシなデザインが考えられないものか。

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検討会

2015-03-18

大部の書類を抱えてANA1734にて那覇へ。
早朝自宅を出た時は曇空、気温も肌寒くコートを着ていたが、那覇に着くなりコートをコインロッカーに預け、ゆいレールではスーツも脱いで袖まくりし、おもろまち駅に着くなりネクタイも外す。
天候 快晴、気温25℃。もう夏。

午後から博物館内で検討会。
聞き取り調査の報告あり。近くに旧制の小学校があって、当時の小学生(現80歳以上)が登下校の際に仁王像を見ているはず。当時の記憶をたどる作業。
これまで「聞き取り調査」というのは、以後の知識や記憶と混じりこれまであまり信を置いていなかったが、報告を受けて驚く。

阿形はニオー(男)、吽形はマカー(女)と理解され、向かって門の右にはニオーで、位置は本土と同じ。方座に立っていた、色はグレー系、天衣をまとい、阿形像は持物を持っていたなどと複数の方が証言。見つからない頭部についても「目がギラギラと光っていました」とあって玉眼を思わせる証言も。
不確かな証言でも集まればいくつかの輪郭が見えてくるようである。

夕刻遅くまで検討会が続き、その後懇親会。さすがにビールがうまい・・・。

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起請文

2015-03-19

再び、沖縄県立博物館へ。いくつかの部材が展示され、しげしげと観察。
その後、常設展示場で琉球国中山王尚寧起請文(島津家文書)〔複製〕を見る。

慶長14年(1609)、島津家は家康の許可を得て琉球に出兵し征服。降伏した国王尚寧以下100余名は鹿児島へ連行され、島津氏に伴われて江戸へ向かい家康、秀忠に拝謁させられた。慶長16年9月、鹿児島に戻った尚寧が、琉球国を薩摩藩主島津家久から安堵され、帰国の前に家久宛てに差し出した起請文である。

神文の裏面には、熊野那智大社の那智瀧宝印が一面に押印され、表面には風神、宇賀神、文殊、薬師、葛城、三嶋、皇太神宮等々、ありとあらゆる神仏の名が記されている。起請文の 「於貴国上者、永止帰郷之思、宛如鳥之在籠中(身を貴国に寄するの上は、永く帰郷の思を止めて、あたかも鳥の籠の中にあるが如し)」と記した尚寧の無念はいかばかりか。

午後、ANA1734で帰阪。那覇空港は本土からの観光客で雑踏。

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関大は卒業できません

2015-03-20

午後から卒業式。
女子学生が多い文学部系は、朝から髪結いや着付けなどがあって卒業式はずっと午後。それでも6時には起床との由。

朝、祝辞を考えないといけないと思いつつ朝刊に目をやると「関大は卒業できません」との卒業生へのメッセージ(1面全面広告)。
祝辞では新聞広告を広げて、「今、授与された卒業証書を透かして見ると、校章(の透かし)がないのがあります。それはハズレです(笑)」。
その後はおざなりながら体に気を付けて頑張ってくださいと。

その後は記念写真(なぜか私も卒業証書を持っている)。デジカメで撮ったのだが、LINEのアルバムに載せろとの希望。むぅ・・・。
深夜、帰宅し娘に手伝ってもらってようやくUP。窓辺には頂いた花束。色紙は研究室に掲げる。

みんな、卒業おめでとう。

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河内の宗教美術

2015-03-21

卒業式翌日、祝日、好天、大学構内は静寂。おまけに図書館も休館。たまった 洗濯物 用務を処理。

通勤途上にて『仏教芸術』338号を読む。長福寺仏涅槃図に関する論考あり。

周知のように「貞和二季(1346年)」「河州□嶋(カ)小橋村新庵常住」の墨書銘がある。
大昔にI氏から「この小橋村ってどこ?」と問われて困ったことがあった。正直、わからない。
今回の論考も天王寺区の小橋村(現在の上本町六丁目やや東)に推測されているが、残念ながらそこは「摂津国」である。ほかにも門真市三ツ島にあてる説もあるが、中世はほとんど新開池の中と考えられる。
もっとも河内と近接しているのが生野区小橋町(現鶴橋)。生野区の東は河内国渋川郡。中世は「摂津」「河内」とも受け取れる微妙な位置にあるが、確たる史料はない。

余談ながら和歌山・広利寺十一面観音像はもと河内国若江(現東大阪市若江)西方寺の本尊。
河内の什物は水害のためか流転すること、多し。

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長年のご厚誼

2015-03-23

弁護士事務所の封筒が届く。あれだろうと思って開封すると、ずばり正解。美術出版社の債権関係である。

書面を読むと、 これ とは違い、確かに印税が未払いになっている由。少額債権なので一定金額の弁済には即応するが、残りは債権放棄。放棄しないと再建計画に従って弁済するが、再建計画案作成時での配当原資不足や再建手続きの途上で破産手続になれば、一定金額すら弁済できない可能性もあるとのこと。
(債権放棄して)美術出版社にはぜひ再建してほしいものの、我が家の大蔵大臣がなんというか・・・。

書面をみせながら恐る恐る尋ねると、「(債権放棄)いいんじゃない、長年お世話になったんだから。」と意外な返事。確かに順調に版を重ねていたのも事実。
大臣の気が変わらないうちに書面に署名押印。

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ちっとも嬉しくない

2015-03-24

朝からの打合せを終えて研究室に戻ると、米子市から電話。
ようやくのこと、例の神像群が市指定になるとのことで、3週間ほど前に指定調書を作成して送ったばかり。
またなにごと?といぶかりながら話を聞いていると、「よかったですね」と。はぁ?

鳥取環境大学環境学部浅川研究室によって神像2躯がC14年代測定(AMS法)によって年代測定がなされたとの由。
女神像A[年輪数12・ 心材型]ムクノキ 862-973 cal AD (信頼性85.8%)
女神像B[年輪数11・ 心材型]ムクノキ 860-973 cal AD (信頼性82.3%)
担当者の「よかったですね」は、こちらが記した「10世紀後半から末頃(写真上)、10世紀末頃(写真下)」の製作時期とほぼ一致したことによる。

像底を削ったんだ・・・。しかも指定前に。
所蔵者が許可したから何も言えまいが、そこまでしないといけないことなのか。

「収蔵庫にお蔵入りして埃に塗れているぐらいなら、積極的に自然科学的分析の対象に立候補し、歴史観の再構築に貢献すべきではないだろうか」「破壊分析であるという発掘調査」「米粒大のサンプル」などと弁明めいたことも述べているが、釈然としない。

知らせてくれたけれども、担当者もどれほど削られたのか不安いっぱいの様子、こちらもちっとも嬉しくない。

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私はしっかりやれていますか?

2015-03-25

NTTファシリティーズのCM。どぎまぎしながら先輩の後を追う高畑充希。

実は一緒に仕事をしている仲間(T社)にも入社1年目の新人がいる。
本社は東京だが大阪支社所属。仕事を2つも3つも抱えた(先輩社員、自嘲気味に「わが社の辞書には『労基法』という文字はない」)うちのひとつ。
10時の約束が30分も遅れる、会議には資料を抱えたままダウン、欠席する、書類の送付がバラバラ・・・など苦笑せざるを得ないこともたびたび。

書類をPDFで渡され、T社へ送ってくださいと。こちらは「『担当者へ送れではなくT社へ? 本社へ送れということだな。」と勝手に理解して東京本社へ送ったのだが、しばらくして「書類、届いていますでしょうか?」と。普通「こちらまでご返送願いますでしょうか」だろう。

4月からは仕事も増え、部下も増える。「4月になれば、施設見学、ご案内させて下さい」とメールが来たが、お互い4月は多忙じゃないの。
1年が経ち、学生気分は抜けたが、まだまだ。
しっかりやりなさい。

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腰切りの謎

2015-03-27

ご恵贈頂いた『鎌倉大仏殿 高徳院 木造仁王像 平成修理報告書』(鎌倉大仏殿高徳院発行)を拝読。
当初、銅造仁王像が造られて船で鎌倉へ運ばれるが、寛保3年(1743)の火災で焼失、急遽同年に木造仁王像が制作されたとのこと。

たいへん興味深いのは、腰部分と足の脛、膝下で切断が認められた点。
修理者の報告では、切断によってほぞ穴が分断され、木組み後、つまり造像途中あるいは造像後に切断が行われたとする。いっぽう、造像後に修理等の必要性からやむを得ず切断したとの見解も記されている。

この時の簡易調査 でも同じことを感じた。
この仁王像は修理を受けた形跡はなくほぼ制作当初の姿を保っている。すると「胴切り」と同じように、造像途中での「腰切り」もあり得たのかもしれない。

報告書でも指摘されているように、構造の上からは脆弱極まりないものだが・・・。不思議。
それにしても江戸時代の仏師はむちゃするなぁと思ったり。

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早くも

2015-03-28

好天が続き気温も上がり、早くも学内の桜が咲きほころぶ。

春休み最後の土曜日、大学も「オープンキャンパス(フレッシュキャンパス)」。
先日卒業式が終わり、入学式の合間をぬっての開催。多くの学生、親子同伴などが来学。特にこちらは何をするわけでもないが、学内は久しぶりに賑やか。

累積係数ピークの仕事をこなしながら、4月からの授業準備が何もできていないことに呆然。
昨今の大学教職員はことのほか多忙だが、世間は学生と同じように春休みでいいなぁと誤解されている。

閑話休題。
新聞では、もと内閣官房副長官の古川貞二郎の自叙伝が連載。「(睡眠)三時間」なので参事官、内閣官房長官は「(内閣)繁忙長官」と揶揄される。
それに比べれば、まだまだ・・・。

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行く末といえど・・・

2015-03-30

朝から好天。こちらもちょっとリフレッシュ。

和歌山「鶴の湯温泉」へ出向き満開の桜を眺めつつ湯に浸る。
午後、道成寺へ。
こちらも桜満開。本堂では、根本本尊千手観音像(奈良時代)が開扉。遠目ながら拝見。

本堂では《道成寺縁起》上が一部展覧。お馴染み、安珍、清姫の物語。
絵巻は冒頭の部分。安珍、清姫が和歌を交換する場面。「先の世の ちぎりの程を 三熊野の 神のしるべも など無かるべき」と清姫。 それに対して安珍は「三熊野の 神のしるべと 聞くからに なお行く末の 頼のもしきかな」と答える。
これが悲劇の始まり。安珍は「行く末の頼のもしき」は修行の行く末、清姫は「二人の行く末」と考えた。だいたい曖昧な返事は誤解のもとにも。
その後、宝仏殿(千手観音像、日光月光菩薩、四天王像等)、縁起堂を見て帰宅。

春の和歌山を満喫。

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内覧会

2015-03-31

大学博物館での企画展「かんさい・大学ミュージアムネットワーク連携展『大学の扉を開く』」のテープカット、内覧会。130点ほどの資料を7テーマに分類して展示。

こういうセレモニーは苦手。朝、胸に刺されたリボンもそっと外して上着のポケットのなかへ。
内覧会後、他の大学博物館の方々と昼食、懇談会。
初めてお会いする方々(専門、肩書、それぞれバラバラ)とどのような話題から会話していくのかが非常に難しく思える。受付や案内役なら大丈夫ながら、明日からはそれではイケナイ。
その後もあれこれあって、3時過ぎにようやくひと段落。
大学博物館は、一般の博物館とはまた趣が異なることを実感する。

これから先、思いやられるばかり。猛省。

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