往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2002年12月7日

 関西大学サタデー・カレッジ「心理を多方面から考える」の第3回で「気づかい(ケア)の再発見」と題して講演する。社会人むけの講演会で、熱心に聴いてくださる。会場は新築の社会学部の教室であった。

2002年12月2−3日

  佐賀医科大学附属病院看護部の研修で講演。佐賀は長崎に行く途中で何度も通り過ぎたが、降りたのははじめて。午後1時半から4時半までセミナー。メイヤロフ、ギリガン、レイニンガーなどを引用しつつ、ケアの倫理の話をするが、しかし、ちょっと時間的に余裕のない話になってしまった。休憩時間に今回の計画、立案をしてくださった方々と話しているうちに、生命倫理学の話のほうがよさそうに思えてきた。そこで、5時半から7時半までの講演では、生命倫理学の成立とケアが注目されるようになった背景とを話した。

  じつは、この依頼があったとき、聴衆のなかには、非番のひとや三交代の合間に駆り出されてくるひともいるのではないかと思い、もしそうなら申し訳ことだと思っていたが、佐賀医科大学付属病院のナースのみなさんの名誉のために記しておくと、今回の講演は自主的な希望者のみの参加で、それにもかかわらず、150人を超える方が熱心に聴いてくださったのだった。

  今回の催しを計画、立案してくださった副看護部長その他、看護部の方数人と夕食。気持ちのよい方たちで、私にはめずらしく、はじめてなのにうちとけた気分であった。

  翌日、佐賀歴史資料館その他を急ぎ足でまわる。日露戦争の戦費のために、民間のたばこ会社が国営化されたことを知る。日露戦争前後の歴史は、国家というものを考えるのにいろいろな材料を提供してくれるように思う。佐賀歴史資料館のとなりには、佐賀歴史資料館の建物がもとは古賀銀行の本店だったというその古賀銀行の創立者の家が残っている。銀行は昭和の銀行恐慌でつぶれたそうだ。その家のまえに小さな神社があって、鳥居に刻んである名が聞いた覚えのあるような気がしたら、今さっき知ったばかりのその銀行家の名だった。本人はもちろん死んで、創立した銀行はつぶれてしまったが、おそらく町内のつきあいで出資したという程度の関わりであったろう鳥居は残っているわけである。

  小学生6年から中学生にかけて、下村湖人の『次郎物語』を愛読した。退職し転居する教員の家に、その教員といざこざのあったまま別れてしまわないために、次郎が友人と引越しの手伝いに行く場面を思い出す。蚊遣りの煙の流れる夏の夕方ではなかったか。あれはこの町のどこかの一角を思い描いたものだろうか。講堂に「思無邪」の額がある中学校は、現在の、佐賀西高校だろう。「武士道とは死ぬこととみつけたり」の『葉隠』を知ったのも『次郎物語』の朝倉先生のことばからだった。『葉隠』のせいもあって、佐賀は武骨な町のように思い描いていたが、意外なことに、水路の多い城下の町並みに武士と町人が雑居していたという。『葉隠』の著者、山本常朝の墓は町の西のはずれにある。

 

   偶成  街尽きて常朝の墓にしぐれけり

 

  水路から背と腹が黒に近いほどの濃紺で、横腹だけ白い鳥がとびたった。色の配合からセキレイかと思ったが、セキレイにしては大きい。姿かたちはカラスである。これは佐賀県の県の鳥、カチガラスだった。それで腑に落ちたのは、昨日、タクシーを走らせていると、二三軒、「カチガラス」という焼鳥屋(?)があり、「カチガラスとは何だろう? 明烏ならわかるが」と思っていたのだが、つまり郷土の鳥を店名にしていたわけだ。しかし、まず、焼鳥屋が目につくようでは……。

2002年11月15−19日

  関西倫理学会大会のために、愛媛大学へ。今年、来年、関西大学が事務局である。

 15日、愛媛大学の諸氏と打ち合わせ。帰りに子規記念館にまわる。夜、某教授と学会の手伝いをしてくれる関大の院生ふたりと小酌。瀬戸内の料理をご存じない3人に、広島大学に勤めていた経験から、お勧めの品を注文する。はぎ(はげ。かわはぎ、である)のふぐ作り、小いわしのさしみ、あなごの天ぷら、たこの天ぷら、めばるの煮付け、……。それに、大分の関さばと海峡を挟んで愛媛でとれる岬さば。堪能す。

 16−17日、大会。どうも学会のたびに受付にすわっているような気分だが、事務局とあらば、しかたない。委員会がのびて、懇親会に遅れる。きのうの3人に、某助教授、発表した関大院生ふたりを加えて小酌。「松山のラーメンを食べるんだ」と主張する某君につきあい、たべにいく。私には、味付けが甘すぎるように感じた。「魚のだしだね。さば節かしら」と私がいうと、「ええ、魚のだし。でも、少し豚の脂が入っています」とラーメン通の某君が指摘する。「こまかいなあ」と某教授があきれる。

 愛媛大学はいちょうとかえでの紅葉のさなかだった。愛媛大学からみえる、山頭火の庵があったとかいう丘も、こんもりした丘全体が、紅葉していた。久しぶりに、「里の秋」という風景をみた。

 

  偶成  静もりていてふまばゆき学舎かな

 

 18−19日、私のみ広島に移動。久しぶりに広島平和記念資料館をおとずれる。文献資料若干を購入。広島大学に勤め、広島市内に住んでいたころ、8月6日の朝早くに原爆ドームから平和公園を歩いたことがあった。あの日の広島は、各所の式典の場でというよりも、朝方や夕方、宵のそこかしこで、やはり、「祈り」がしみいってくるような心地がする。遠方からはなかなか当日広島に居合わせることもできないが、きょう、購入した資料はその記憶を思い出すよすがである。

2002年11月10日

 日本現象学会大会で、同志社大学へ。イデーン第2巻をテーマとするシンポジウムを聴く。

 イデーン第2巻は修士課程のときに読んだ。フッサールのテクストのなかで好きなテクストである。その人格主義的態度のもとで解明されるべき課題として制度や組織といった社会的なものが視野に入ってくるところ、そしてまた、この書物が、第1篇「物質的自然の構成」、第2篇「生命をもった自然の構成」と、一見、それにしたがって展開していくようにみえる基づけ関係について、第3篇「精神的世界の構成」にいたって、一種の転倒をしていく緊張感。しかし、国家、教会をはじめとする社会的制度や組織とそうした制度や組織を生み出し、かつ、それによって制約されている生活世界を分析する素地がこの書物によって切り開かれたとしても、フッサールが具体的にその方向を推し進めたわけではない。むしろ、それは後の者の課題として残っているわけである。それを思うと、「現象学者は現象学で何ができるということをよく予言するが、実際にそれをしてみせる現象学者は少ない」というR.J.バーンスタインの皮肉を思い出す。

2002年11月8−9日

  「情報倫理の構築(FINE:Foundation of Information Ethics)」のフォーラムで報告するために、千葉大学へ。千葉大学ははじめて。海はみえないが、浜辺に近いからか、海辺にありそうな太い松が植わっているキャンパスである。終わって、高橋久一郎教授とご一緒に報告した杉田聡帯広畜産大学教授、千葉大学の大学院生諸君と研究室でビール。使い勝手のよさそうなセミナー室などあり、うらやましい環境だ。

  9日。土曜で急いで帰る用がない。千葉に来たからには、ついでに犬吠崎にいってみよう。もっとも、私が千葉大学に赴任していたなら、犬吠崎に出かけたかどうか、わからない。いつでも行けそうなら、行かないですませてしまうからだ。遠くから来たからこそ、この機会に行かないと、もう行けないかもしれないと思うものだ。1時間かけて房総半島を横断する。畠、山林の広がる、なんとなくうらぶれた景色。ある駅の駅前に「国鉄荷物」と看板のある運送屋を発見。銚子から私鉄に乗り換え。犬吠崎で下りて、海沿いに歩く。絵を描いているひと多し。くもっていた日で、緑色に描いているひとが多い。あの波のうねりを描くのはむずかしいだろうな。筆を縦に走らすべきか。しかし、頭で考えても、私にその技術はない。外川の港まで歩く。千騎岩から屏風ヶ浦を望見する。途中、風花が舞い出し、海は荒れてきた。雪や波しぶきをとおして、屏風ヶ浦は粉をふいたレンガのような色にみえる。どういうわけか、頭のなかでメンデルスゾーンの「イタリア」の終章の旋律が流れ出す。太陽の国イタリアと目の前の冬の房総の海とではずいぶんちがうが、つぎからつぎへの押し寄せてくる大波があの旋律を連想させたのだろう。服が少し潮くさくなるまで眺めつくして帰る。

2002年10月26−27日

  関西哲学会大会が関西大学で開かれる。幹事役なので両日、受付につめ、宴会場のレストランと当日の打ち合わせをし、総会の司会をし、懇親会の支払いをし……と忙しい。懇親会の事前の参加申込が少なく、一種の賭けだが、2倍近くの人数分を用意しておいた。読みがはずれれば、持ち出しである。さいわい、その読みが的中し、開催直前にかけこむように申し込んだひとを入れて数名の誤差であった。「すごいカンですね」と同僚にほめられるが、これが才能でもうれしくない。

 二日目終了後、同僚諸氏と手伝ってくれた院生諸君と小酌。

 

2002年10月13日

  日本倫理学会大会のため、一橋大学へいく。一橋大学ははじめて。美しいキャンパスである。時計台には見覚えがあるようで不思議だったが、遠い遠い大学受験のころ、受験雑誌の表紙でみたのかもしれない。編集委員会がもとの学長室で開かれる。一橋大学、もとの東京高商が建てられるとき、どれほどの予算が投じられたのか知らないが、戦前からある国立の大学はどうみても立派である。やはり、日本はおカミの国なのだろうか。

  編集委員会で出された弁当のフライが、長方形で、最初、かぼちゃか何かかと思ったが、口に入れてみると、魚のようで、また、魚ではないような、どこか覚えのある味で……これは牡蠣フライだった。このところ東京風の固くなるほど揚げた牡蠣フライを食べていなかった。おそらく「貝類はあたる」という恐怖からカリカリに揚げるのである。ところで、川崎の実家に帰ってみると、母が用意してくれていたのは、やはり長方形のような不定形のような茶色く揚がったもので……牡蠣フライだった。母も東京者なのでカリカリに揚げてしまうのだ。母にとっての孫、私にとっての甥が「おばあちゃん、牡蠣フライって、中が柔らかいものなんだよ」と感想を述べたそうだ。私は酢牡蠣も食べられるくらいだが、久保田万太郎ご推奨の(かつての)東京風の「コロコロにあがった牡蠣フライ」も嫌いではない。

2002年9月14日

  「関大学びゲーター」という名の高校生むけ公開授業で「脳死はひとの死か」という題目で話す。お子さんといっしょに聴講されているおかあさんもおられた。

 この日、聴いてくれた高校生のひとりから、翌日、メールで質問をもらった。見ず知らずの高校生からメールをもらったことも数回ある。昨今の大学では、「高大連携」(高校と大学の連携。たとえば、今回の試みとか、逆に、大学教員が高校で教えるとか、あるいはまた、高校生が大学の授業に恒常的に出席して、その大学に入学した場合に既習単位として認められるなど)ということがいわれているが、受講者のやる気しだいで、だんだん垣根が低くなっていくのだろう。

2002年8月9日

  共同研究「21世紀大学における“新教養教育”の構築」で同志社大学へ。アメリカの教養教育の動向について聞く。

  鴨川の床(ゆか)で懇親会。久しぶりに、はもを食べる。

  床といういかにも京都らしいセッテングだからか、関東から来た方は「京のぶぶづけ」の話にご執心。お茶づけを勧められても、うかつにその気になってはいけないという話である。通常、京都人の愛想のよさと、しかしそれと表裏一体の(実際には、お茶づけなど用意していない)不誠実、心の冷たさをあらわす話とされている。私自身も関東人だが、関東人には、すぐにこの微妙な感覚が通じるものではない。私は大学1年生のとき、京都生まれのある教授に「京都人はやさしいのです。ぶぶづけの支度ができていなくても、せめて『ぶぶづけなと、いかがどす』といって接待せずにはいられないのです」という説明をうけた。そのときは(というか、今も)「その解釈は身びいきでは?」と疑っているものの、しかし、おそらくこの話は何世代にもわたって鼻突き合わせて生きてこざるをえなかった都会生活者が醸成してきた人づきあいの知恵なのであって、「つきあわなくても生きていける。住みにくかったら、引っ越せばいいんだ」という現代の都会生活者の心根では理解できない話だと思うのだ。

 ちなみに、「おや、どちらへ?」「へえ、わきへ」「そうどすか。ほな、さいなら」といった会話も、私は(自分ではしないものの)悪くは思わない。“Where?”と聞かれているのに“Somewhere.”と答えているのだから、無意味といえば無意味である。けれども、聞くほうもほんとは聞きたいわけではないが何もいわないのも相手を無視しているようだから聞き、聞かれるほうも「私がどこぞへ行こうと勝手やろ」と腹の底では思っていても聞かれた以上は答えるというこの二重構造が人づきあいをよく表わしているように思うからだ。

2002年7月30日−8月4日

  7月30日、西条(東広島)へ移動。途中、福山で下車して、博物館に草戸千軒の展示をみる。ここはもう4度目かと思うが、時間の流れがちがうようでくつろげる。

  7月31日2時限から8月3日4時限まで計15時限、広島国際大学で倫理学の集中講義。今年は暑いせいか、キャンパスのまえの赤松の山でひぐらしが鳴かない。ひぐらしの声が好きで、毎年、楽しみにしていたのだが。しかし、外に出かけないと、ひぐらしを聴くことができないというのはなんて話だろう。子どものころ、夏の夕暮れ、いつも聴いていたものを。今、実家の近くには、いなくなった。

  例年通り、毎日の授業の感想にコメントをつけて返す。いつも真夜中までかかり、苦行である。今年もなんとかやりおおせた。

  3日、4時限が終わって、広島へ出る。広島大学時代のなじみの店に顔を出す。

  4日、久しぶりに、ひろしま美術館をおとずれる。ブラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展をやっていた。それをみることができたのはよかったが、そのために常設展のルオーの版画がみられなかったのは残念。いずれにしても、この美術館に足しげく通えなくなることは、広島大学から関西大学へ移るときの心残りのひとつだった。

2002年7月28日

  日本倫理学会の和辻賞選考・自由課題研究発表応募の審査のため東京へ出張。今年今月、はじめて行なわれたCOE(Center of Excellence 研究拠点形成費補助金)申請が話題になる。当然申請した、同じ大学のなかの他の部署の立案にのっかった、どうせ通るまいと思って出さなかった、出すだけ出してみた……、いろいろ。しかも、それがその立案の中心となって働くひとの研究者としての能力というよりも、COEでは組織が選ばれる以上、赴任した大学や学部の事情――そのテーマにふさわしい人材のとりあわせや過去の実績などによって採否が左右される面があるのが、運とはいえ、つらいものがある。

 

   偶成  大学の格を問ふとや蒸しあつき

2002年7月13日

  7月13日、若手哲学研究者フォーラムでの講演のために、八王子の大学セミナーハウスへ。シンポジウムのテーマは「哲学の現場? 哲学とアクチュアリティ」。森岡正博氏(大阪府立大学)、高橋久一郎氏(千葉大学)と私、3人がパネリストである。

  応用倫理学はさかんに行なわれているし、公募人事にも応用倫理学がらみのものが増えてきたので、若手研究者として応用倫理学に関わらざるをえないが、どうも今ひとつ本心からの興味をもてない、というのが今回のテーマの背景にはある。むずかしい問題だが、しかし、本人が打ち込めないまま書いた論文では、ほかのもっと真摯にとりくんだ論文と比べられたとき、やはり見劣りがする場合が多いだろう。だから、研究者としてのポストにつくための業績を作るという意図で論文を書いても、しかたないのではないか、と、こういいたいし、それが正論だと思うが、しかし、「それはもうポストについている人間だからいえることだ」と切り返されるかもしれない。事前のパネリスト間の打ち合わせでは、「ポストにつかなくてはならないというそのことも考えなおすことができるのではないか」という意見も出たが、研究で収入を得たいというのは院生やオーバードクターとしてもっともな話である。現実の現在の大学教員が、学内の委員会関係の仕事、教育のために、研究にどれほど時間を割いていられるか、という問題はあるにしても。

2002年6月13日

  共同研究「21世紀大学における“新教養教育”の構築」の打ち合わせで東京の金沢工業大学事務所へ。雨が激しく、昨年来たのに、溜池山王駅の出口をまちがえて、ずいぶんぬれていく。夕方5時に終わり、神田の古本屋に行くが、ちょっと時間足らず。

2002年6月12日

  教育実習受け入れ校へあいさつ。勤め先の学生が教育実習をする学校へ手分けしてあいさつにいくのである。その学生の卒業論文を指導していればいいのだが、人数の関係で、知らない学生の分の担当となり、教育実習受け入れ校のほうがその学生の母校なので、その学生のことをよく知っているというとんまな場合もある。きょう、おじゃましたのは、応神天皇陵の近くの中学。以前、当麻寺へ行く途中、通りがかり、車窓からあたりの古い街並みをながめ、一度下りてみたいと思っていた古市の駅でおりる。所用をすませて、帰り道に誉田八幡宮を見物して、大学へもどる。こんもりした御陵の森は梅雨どきの湿気をはらんで色濃くみえる。まだ、稲が伸びていないのに、とんぼが飛んでいた。

2002年5月30日

  大阪府下の某市の職員倫理委員会にはじめて出席。公務員の倫理ということが取りざたされるようになって、職員倫理規定を作った自治体は多いのだが、大阪府下ではまだ少ないようだ。倫理といっても明文化されたものだから、その扱いは弁護士や法学者のほうが向いており、実際、委員会にもそういうひとが多い。「[規範とは]われわれの行動を方向づけ導くように働いているものであって、命令や禁止が書き込まれた、目の前に掲げられた表などではない」(Waldenfels, B., In den Netzen der Lebenswelt, Frankfurt am Main, 1985, S.136)ということばに賛同し、「隠れたしかたで働いている規範」という論文を書いた者として、ニュヒテルンに問題の「処理」を進めるこの作業には少しとまどう。

  古い町を歩いていくと、寺内町にまぎれこんでしまった。道沿いにめぐらした溝に植えてあるあやめの美しさ。

2002年2月10−11日

  共同研究「21世紀大学における“新教養教育”の構築」のために、金沢へいく。金沢へいくのは高校時代以来、二度目。行きたい町だが、どうも縁がなかった。琵琶湖岸でもう雪が降り出す。福井をすぎ、丸岡を通るころ、霞ヶ城がみえないかと思うが、雪で遠方はみえず。じつは、今回、時間がとれて、晴れていれば、中野重治の旧居を訪ねる予定だった。どうも無理のようだ。私にとって、金沢はなんといっても、中野重治の小説『歌のわかれ』の街である。

 しかし、金沢に着くと、天気が持ち直しているので、あすのホテルを予約する。打ち合わせは夕方からなので、金沢の町を散策。近江町市場でいきのいい魚を食べ、武蔵が辻で縁起物の起き上がりこぼしをみやげに買い、尾山神社、香林坊、石川近代文学館をおとずれる。近代文学館はもとの第四高等学校。赤煉瓦の造りである。その間取り図をみながら、『歌のわかれ』の場面を思い出す。教師用便所に入ったら、アメリカ人教師がやってきて、中にいるのが学生なので少しとまどって、しかし、意を決したふうに入ってくる、あの便所はここかしら? 試験期間、校門を出て行くドイツ人教師夫婦に怠け学生たちが声をかける、あの窓はどこだ? 高校生のときにみた覚えのある室生犀星の書斎。西田幾多郎の書。藤岡東圃が子どもを亡くしたときの文章などをみたあと出て、やはり『歌のわかれ』に出てくる県庁前のくすのきをみる(市役所前の御影石の柱はなかった)。

 ホテルにつき、5時半から7時半まで、教養教育改革の報告を聴く。しかし、「教養教育とは何か」ということは多様であって、何度か打ち合わせをしながら、まだまだそれぞれが思い浮かべるイメージのあいだに若干のへだたりを感じる。

 東の廓で懇親会。別段、廓町の情緒が好きな人間でも、また好きになれる境遇でもないが、この街はよかった。生活、歴史の厚みを感じる。夕食の香箱かに、小柄ながら身がつまって、ひきしまった味。「べろべろ」が出されたのもうれしかった。卵を寒天に溶きいれて甘辛く味付けしたこの料理は、辰巳浜子さんの本で知っていた。たしか『娘に伝える母の味』という題名だったと思う。娘ならぬ息子であったが、高校生のころから料理の本を読むのが好きだったのだ。「べろべろ」は、想像していたとおり、子どもむきで、必ずしも私の好みとはいえないが、それでも、冬の日、あたたかい部屋なら、この冷たい舌ざわりは燗酒にも合いそうだ。

 9時より会議を再開、12時まで。精力的な議論ができた。

 11日。金沢市外を散歩。歩道の端にスプリンクラーがあって、水をまき、雪をとかしている。この時期、金沢に来るなら、長靴をはいてくるべきだろう。森八で長生殿を買う。泉鏡花文学館。白鳥路を進む。鏡花、秋声、犀星の銅像が雪をかぶっている。蓮池門より兼六園に入る。途中、急速に晴れ上がり、雪景色がまばゆいばかり。『歌のわかれ』の主人公が座ったのはこのあたりかと思われるベンチから、浅野川越しに遠山を眺める。「高等学校の生徒なんというもの、その落第生なんというものが何だろう?……一面が営みであるなかで、おれには営みがない」という述懐は、若いときの私にはそっくりそのままうけいれられた。中野重治研究会編『文学アルバム中野重治』(能登印刷・出版部)にしたがって、かれが下宿した法句寺、八坂を下りて、安楽寺をのぞき、また兼六園から広坂、香林坊、武家屋敷、片町(この地名は犀星の「しぐれ」の詩になつかしい)を経て、今度は室生犀星の『幼年時代』の雨宝院をたずね、犀川にそって上り、中野重治が「むかしのこと むかしのひと」のなかに書いている、犀川で釣りをしている子どもの賢人めいた会話を思い出し、若越義塾のあとをみて……と、ときおり雪がふりだすなかを、一日じゅう、『歌のわかれ』にいう「犀川と浅野川という二つの川がほとんど並行に流れていて、ふたつの川の両方の外側にそれぞれ丘があり、ふたつの川の間にもう一つの丘があり、街全体は、ふたつの川と三つの丘とに跨がってぼんやりと眠っている態」の街をたすきがけにして歩き回り、堪能した。

 夜は郷土料理の店で、かぶらずし(酢のすっきりした味わいとともにボリュームもある一品)、治部煮(ちょっと私には甘すぎた)、かぶら蒸し(これは品よくできた)、どじょうのかばやき(吉田健一推奨だが、期待したほどでもなかった。もっとも、どじょうは夏のもの。最初にビールでのどをうるおすときには、よい肴だろう)。

 

   偶成  赤煉瓦の窓の燈影や午後の雪

 

12日。ホテルの部屋で電話帳から古本屋を探し、ときどきひどく降りしきる雪のなかを訪ねてみたが、めぼしいものはなし。吉田健一の『金沢』があるが、金沢でなければ手に入らないという本はなさそうだ。もう一軒、駅に帰る途中、横安江の商店街のも尋ねてみるが、あいにく休み。やはり『歌のわかれ』のころとはちがうわけだ。帰阪。

2002年1月24−25日

  共同研究「21世紀大学における“新教養教育”の構築」のために、金沢工業大学の東京営業所で研究打ち合わせ。教養教育のイメージのちがいは、たんに理念のちがいであるだけでなく、その大学、学部がどのような経緯でできあがっているのか(たとえば、教養部が最近まであったのか、教養部を改組した学部があるのか、もともと教養課程は独立した部署でなかったのか)、あるいは、その教員がどのような大学を卒業したか、といった要因によってちがってくるので、とかく論点が散逸してしまう。散逸しては引き戻し、といったねばり強い議論が必要。

2002年1月4−8日

  広島大学総合科学部で社会環境特論Aの集中講義。4日に西条(東広島)のホテルに宿泊。西条駅前の様変わりに驚く。せっかく朝の食事がとれるように泊まったホテルだが、正月で早すぎて、朝食はできない、と。なんでこんな時期に集中講義をするかといえば、広島大学の正規の授業ではない期間に入れなくてはならないからである。教わる側も教える側も、また、私を呼んでくれ、事務とのとりつぎをしてくれる元同僚の某先生も、ご苦労なことだ。5日から7日まで9時から5時までやるわけだが、途中休憩を入れて、環境倫理学の話をする。受講生は名簿上23名、出席者15名。熱心な学生も多い。

  5日、6日は広島大学のなかについこの間できた学士会館に宿泊。泊り客の第1号ではないかしら。元の同僚諸氏数人とお会いする。7日、授業終了後、元同僚の親しくしていただいていた某教授と広島のなじみの店で小酌。以前ここで飲んだとき、某先生は大酔して終点まで行ってしまわれたこと、数度におよぶ。ふたりとも気に入りのくつろげる店なのである。ところが、きょうは早めに帰られた。なんとなく疲れているみたいで、学内のいろいろな仕事をこなしているためもあるが、某先生の肩にかかっている仕事の一部は、関西大学に異動してしまった私にも責があろう。それでも、飲み屋のおやじさんは、「某先生、きょうは元気だったね」という。

  8日、広島にいたときによく訪れた三滝寺を久しぶりにおとずれる。ここは慎ましやかな気分になれる寺である。横川から乗車。広島大学に勤めて、まんさくの花の美しさを知った。瀬野と八本松のあいだに群落があるのだが、さすがに、まんさくにはまだ早い。途中、福山で下車して、鞆ノ浦の景色を医王寺からみる。雪、舞い散り、仙酔島、暗し。私が座っているベンチの下を何度も行き来するひとがいて、運動のためかと思ったが、帰るときにみてみると、お百度石があった。福山駅前の古書店で、宮本忍の『森鴎外の医学思想』をみつけて購入。古書店の主人、手許にあった富士川游の本も薦めてくれるが、予算を超えて手を出せず。帰阪。

 

 

 

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