往ったり、来たり、立ったり、座ったり

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2015年12月26日 

 京都生命倫理研究会に久しぶりに出席。懇親会にも久しぶりに出席。乾杯の音頭をとられた加茂直樹先生が、「来年でこの研究会は30年目になるそうです。当初からのメンバーでは、水谷さんや品川さんはまだ20代で、私も50代でした」とあいさつされる。1980年代後半に急速に日本に輸入されるようになった生命倫理学を若手も勉強しようというので、そのころ生命倫理学を研究されていた数少ないおひとりで、当時は京都教育大学教授だった加茂先生を中心にして始まった研究会だった。その研究成果は、『生命倫理の現在』(世界思想社、1989年)に収められた。その執筆メンバーに名を並べた当時の「若手」は、現在の勤務先を併記すれば、水谷雅彦さん(京都大学)、北尾宏之さん(立命館大学)、伊藤徹さん(京都工芸繊維大学)、平石隆敏さん(京都教育大学)、私などだった。その本の編者には研究会の師匠格の加茂先生と(当時は大阪大学教授の)塚崎智先生があたられ、さらに当時の研究会にゲストとしてお招きしてお話を伺った、当時は千葉大学におられた加藤尚武先生、当時は跡見女子学園におられた川本隆史さんも執筆されている。たまたま宴席に連なっていた当時の若手が水谷さんと私だったから、加茂先生が名を挙げられたのだろうが、私はこのところこの会を欠席がちなので痛み入った。

2015年12月5日

  関西大学哲学会秋季大会。大学院生の発表2本と、学部学生による企画「ロボット、キャラクター、人間――モノはひとに代わることができるか」。学部学生企画は、学会幹事として7月から何度か会合をして話し合って詰めたもの。もとより、学部生だから深い考察や斬新な問題提起というわけにはいかないが、それなりに参考文献を読んで発表してくれた。この学会は、多くの学内学会がそうでもあろうが、存続の危機にさしかっており、そういう時期に幹事になったので、もはや任期を超過しているが、その職を続けざるをえない。発表を終えた院生某君と、同じ学年ですでに卒業して就職しているが応援(?)に駆けつけてくれた某君、それに発表者のカノジョ(「あなた、がんばったわね」というわけであろうか)と二次会。

2015年11月28日

 大学院生の研究発表(略して院祭)。月末にかなり重い原稿の締め切りがあったが、「ぜひ来てくれ」という要請もあって、出席。さいわい、締め切りの原稿はすでにほとんど書き上げておくことができた。

2015年11月17日

  パリのテロ事件。襲撃場所のひとつ、république広場の近くに一度宿泊したことがあった。そのぶんだけ身近に思える。ニュースの画面に慰霊の花束が映し出され、そこに置かれたカードに  même par peur (恐怖によっては何も変わらない)と書かれているのを見て、いかにもフランスらしいという印象をもった。ふだんの生活を大切にすること、ふだんの生活のなかに平等や友愛といった精神が流れこんでいること、だから、これまでの生活態度を変えないことがテロに屈しないあかしとなること。

2015年11月1日

 某学会と某研究会がかちあってしまい、某研究会のほうに出向く。夜中に帰宅すると、某学会のほうで選挙の結果、委員に再選され、さらに別の仕事にあたったとの連絡が届く。どうもくたびれる。しかし、ほかのひとも同様に忙しいのだろう。そういえば、内田百閧ェ『阿房列車』のなかの「菅田庵の狐」のなかでこんなふうに書いていた――やむをえぬなら、すなわちやむをえない。

2015年10月24-25日

 関西哲学会のために京都大学の吉田キャンパスへ。ずいぶん建物が立て込んでしまった。私が学生だったころはここは教養部であった。まだ第三高等学校の木造の二階建て校舎の一部が残っており、門を入った左手に和風の古い建物があった。そうそう尚賢館といったか(よくまあ覚えていたものだ)。おお、図書館前の折田博士像がなくなっているではないか! 博物館に収蔵されてしまったとのこと。new versionの折田先生はもうみられなくなったのか。

  編集委員長として編集委員会、委員会に出て、二日目に司会1本。総会で関西哲学会研究奨励賞の表彰。

2015年10月19日

 『倫理学の話』をお送りした方からの礼状を幾通か、いただく。しっかり目をとおしてくださったうえで温かい評をいただいて恐縮することが多い。

 かと思うと、「献本御礼申し上げます」というメールもあり。「献本」とは贈り手からみたことばで、お礼をいう側がそのことばをそのまま使うと、贈られた自分に敬意を表した表現になるだろう。つまり、「そちが献上した本を、余は嘉納するぞよ。あんがと」といった表現になろう。平安時代などは、身分がきわめて高い人びとが自分自身にたいして敬語を用いていたが、私が送った相手はそのような自尊表現を使うべき「帝」ではない。もらったほうは「ご恵送いただき……」といった言葉で返すのが通例である。相当の年齢で相応の地位のあるひとたちのあいだでも、もはや敬語は使えないようになっているのだろうか。

2015年10月13日

 ナカニシヤ出版の関係者の方のツイッターを介して、江口聡さんが拙著『倫理学の話』について読後の感想をtogetter.comというところに載せてくださったのを知る。いわく、「『倫理学の話』:新世代教科書……いろんな話がコンパクトかつ正確に入っててすごい。出典も細かくついていてえらい。」……云々。深謝。ただし、そのあとに「やっぱり品川先生は『秀才』って感じがするよなあ」とあるが、それはどうかな。秀才は、「ソクラテスと現代人の対話」(拙著、67−68頁)などというおかしなものを書いて筆をすべらせたりしないのではないかなあ。 

2015年10月2−4日

 昼休み直後の授業をしてあとは休講として、日本倫理学会のために熊本大学へ出張。熊本は3回目だろうか。着いた夜は、ホテルの近くで一献。郷土料理を少しずつ載せたセットを頼むと、一文字ぐるぐる(ねぎのぬた。なかなか美味)、豆腐の味噌漬け(沖縄の豆腐ようを思い出す。私の好みにあう)、田楽、馬刺し(とくに深い味わいがあるというものでもないが、やはり熊本とくれば定番)、辛子蓮根が出てくる。きびなごの天ぷらもとりよせて、銘酒美少年を飲む。美少年、口当たりよく、ついつい重ねてしまう。しめに太平燕。太平燕は長崎のちゃんぽんを思い出させるが、うどんでなくて春雨が入っているところが軽くてよい。

 大会一日目は朝一番に指導学生の発表があり、そのまま懇親会まで精勤。大会二日目は朝一番から昼前までの3本の発表の司会があたっており、これまた午後のシンポジウム終了まで精勤。七時の新幹線で帰阪。

2015年10月1日

 『倫理学の話』の現物が届く。刊行日は10月27日になっている。おやおや。

2015年9月29日

   卒業論文を書く予定の4名の学生と、これからいよいよ論文執筆の着手へ向けて気勢を挙げるために大学近くのイタめし屋でコンパ。全員女子学生。いろいろと話題が出るが、出身校の制服の話なども出る。どの女子高がどんな制服か、など知らんがな。知っていたら気色が悪いが。

2015年9月20日

  今年はマンションの管理組合の理事があたっているので、その関連で地域の敬老会の手伝いに近くの小学校へ。遅れてくるひとへの対応で受付に立っていると、開会されたようで、君が代が聞こえてくる。敬老会でも君が代を合唱して、壇上に日の丸が飾られるのだなあ。来賓の市長や議員が日の丸に一礼して祝辞を述べ、一礼して席に戻る。彼らが退場するときにみていたら、彼らが祝福したはずの参会者の老人たちのほうに一礼して出ていったひとはほとんどいなかった。あとで漏れ聞いた話では、社会福祉協議会が式の段取りを決めているとのこと。

2015年9月19日

  ハイデガー・フォーラムのために関西学院大学へ。ハイデガーの黒ノートに関する報告を聞く。この問題については、昨年3月にドイツにいったときに、関連する文献が平積みになっていたのを思い出す。ケルン中央駅のなかにある本屋で、Philosophieという雑誌――学術専門誌ではなくてむしろ一般向けの――がそれについての記事を載せているので購入した。一般向けの哲学の雑誌があるところがさすがにドイツ。しかも、哲学の雑誌が駅の本屋でも売られているのがさすがにドイツ。黒ノートが出るまえに出版されていたオット、ウォーリン、ロックモア、ラクー=ラバルトなどの本をすでに読んでいると、ハイデガーがナチズムに積極的に加担したということはもはや否定できないだろう。私の理解では、問題は、その言動を彼の哲学が防ぐことができなかったというふうに解釈するのか、それとも、彼の哲学がその言動を推進したというふうに解釈するのかだろう。久しぶりに会った友人たちとともに西宮で二次会。

2015年9月12−14日

    13日―14日に科学研究費基盤研究(A)「尊厳概念のアクチュアリティ――多元主義社会に適切な概念構築に向けて」の一環として、第14回一橋哲学フォーラムに出席。いつもながら、力のこもった報告が多く、 たいへん勉強になる。今回は、高齢者の尊厳をめぐる議論が多かったためもあって、『倫理学の話』がどうにか仕上がった今、2007年に発刊した『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』以来、あまり力を割くことのできないできたケアの倫理についてもう一度考えをまとめようかというような気持ちが頭をよぎる。

  その1日前の土曜日には、実家に寄って草むしり。さるすべり、のうぜんかずらがまだ咲いており、ヤブランが紫色の花をつけている。ヒガンバナが咲きそめた。山茶花が幾輪か、これは狂い咲き。

2015年9月7日

  8月28日に「もはや私の手を離れた」と書いた拙著『倫理学の話』は、索引の校正がまだ残っていた。 10月8日に発行予定である。 

2015年8月29日

  関西倫理学会委員会のために京都大学へ。14時からだったので、そのまえに久しぶりに真如堂を参詣。もみじの美しい寺で、はやすでに秋色を感じさせる気配あり。真如堂から宗忠神社をへて吉田神社から京大にぬける。私の学生時代の散歩道のひとつだった。真如堂から黒谷の金戒光明寺にぬけて岡崎神社に出、哲学の道に沿って帰ってくるのもよく歩いた道筋である。学生時代にもあった白川の食堂で昼。京都にくると、学生時代にみていたような家並みをみつけて、なにか時間がたっていないような気持ちになることがある。他方で、変わったものは歴然と変わっていて、京大構内の建物がそうだし、百万遍のレブン書房や学士堂などはなくなった。

2015年8月28日

  5月9日、7月1-2日の項に書いた拙著『倫理学の話』は、再校も終わり、もはや私の手を離れたが、出版社から価格の件で問い合わせ。かねてから学生が買いやすい値段にしてほしいと希望を出していたが、最後のほうになって、私が所定の頁数よりも増やしてしまったものだから、なかなか私の望む額で押さえるのはむずかしくなる。結局、初刷りに適用する印税の率を減らすことで本体2400円でおさまる。私のような哲学や倫理学者の研究者が本を出してもうかるということはないのだからそれでよい。それでも、税がかかるから2592円(消費税が上がるとまた変わるが)。

  2007年に出版した『正義と境を接するもの』が初刷を売り切って増刷されたといったら、別の出版社の方から「それは哲学の専門書としては成功です」という感想が返ってきた。大勢の受講者のいる授業で教科書に採用して、毎年、新しい受講者に買ってもらうのでもなく、「話題の本」というのでもなければ、そういう情勢なのだろう。拙著はさいわいにして3刷まできたが。――そういえば2009年にヨナスの拙訳『アウシュヴィッツ以後の神』を出したころに最もよく売れていた本は、たしか、『巻くだけでやせられる』とかいう本であった。

  このあいだ、学生のコンパに出たら、飲み放題でひとり3000円の予算であった。「コンパ1回分で買えるじゃないか」といって納得させることができるかな……どうかな? もっとも、コンパのほうは教員が複数出席したので、学生の負担額は当初のみつもりの半分になったのだが。

2015年8月21-22日

   勤務先の夏季休業が終わったので研究室へ。8月15日付図書新聞に6月に書いたミヒャエル・クヴァンテ氏の『人間の尊厳と人格の自律』の書評が掲載されたことを知る。 すでに本文をドイツ語にしたものを用意していたので、Quante氏に掲載の報告とあわせてドイツ語訳を電送。さっそく返事をいただき、私の書評に示した理解はご本人の意にそうものだったようだ。日本語版もPDFでほしいといわれたので、 作って送る。

  これを送られる側、つまりドイツ人になったつもりであらためて日本語の書評を読むと、見出しは左から右への横書きで左上に配置され、右上には書誌情報が左から右への横書き、その下に表紙の写真があって、本文は上から下への縦書きである。なんだかぐるぐると模様が編み込まれているカーペットのようではないか。

  Quante氏は日本語をお読みにならないので、「これはゴブラン織りの壁布みたいにみえるかもしれませんが、この左上の4行は左から右へ読んで、そこに書いてあるのはドイツ語にするとこういうことで、右上の4行も左から右へ読んで、そこに書いてあるのはドイツ語にするとこういうことで、本文は上から下へ読むのです。判じ物みたいに思えるでしょうが」と注釈して送る。折り返し、「私はそれを私の家族に示しました。Staunenだけでなく、Heiterkeitがその場を支配しました」という趣旨のメールをいただく。ご本人とご家族がPDFファイルをみながら、私のメールを解読書にして、読めない日本語を解読されて、驚嘆(Staunen)とともに明快さ(判じ物ではなく、よくわかった! Heiterkeit)を感じられたその情景を想像して笑ってしまう。

2015年8月12-18日

  お盆のために実家に帰省。庭の草むしりがいつも懸案だが、7月末の出張のさいにしていたので、今年は楽。7月末にきたときに、ハチがあじさいに巣を造営中だったのをみつけて、どうにか退治する。そのためか、ハチがとんでいない。刺された年が続けてあったが、今年はこの点でも難をのがれた。クチナシの青虫、椿の毛虫、いずれもついておらず、安堵。梅についていた、ルビーカイガラムシというのだろうか、は前回こそげ落としておいて、さいわい今回はついておらず。そのせいで剥げたようになっていた樹皮もいささか治りつつあるようだ。

  いつも来てくださる親戚の方が父母の位牌にお線香をあげてくださった。もはやつきあいがとだえているとはいえ、親類の動向をうかがうと、亡くなったひとの話が二件。どうしてもそうなっていくのだろう。話すほうも、聞くほうもいい年である。

2015年8月8-9日

  科研費基盤研究(B)「世界における患者の権利に関する原理・法・文献の批判的研究とわが国における指針作成」(研究代表者:小出泰士芝浦工業大学教授)の今年度第1回研究会のために芝浦工業大学へ。患者の権利の指針策定のために、日本医師会、日弁連、患者の権利法をつくる会世話人会がそれぞれ作成した原案についての研究報告をきく。東京も大阪なみに暑い。

2015年8月6日

  広島への原爆投下から70年。例年のごとく、式典が中継される。今年から列席者のためにテントがはられている。広島大学に勤めていたころ、当日の朝早くに平和公園を訪れたことがある。すでにもうかなりのひとが訪れており、灯火のまえで頭を垂れておられた。静かで落ち着いていて、しかし身を切られるような緊張感もただよっているような特別な一日――一日だけですませてはいけないのはもちろんだが――という印象を強くもった。

  今年は安保法案をめぐる論議のさなかで行われたので、平和宣言のなかにそれへの言及があるかどうかも論じられている。私としては、言及するしないいずれの立場もとらない。昨年の武器輸出三原則の見直し(このページでは2014年2月24日の項でふれている)、今年の集団的自衛権の承認の動きからすると「ふれる」べきようにも思うし、しかしまた、政府側の説明がずさんなところもあるように受けとれてその意味で「ふれにくい」ようにも思う。

  首相補佐官の磯崎というひとの「法的安定性は重要でない」発言は(のちに撤回したが)政治上の決断主義そのものだろう。決断主義は法による拘束を踏み越えるところに、国家を率いる政治家の誇りをみるものだ。「戦争に行きたくないというのは身勝手」と発言した武藤貴也という衆議院議員は、現在の軍事行動では徴兵制は不適切で、だから自衛隊を誇りに思うという趣旨のようで、そうだとすれば、7月16日の項に書いたとおりの、同盟国のあいだでの「流血についての平等な負担」を自衛隊に求めているという推測がそのままあてはまることになるだろう。 しかし、もしそうだとすれば、元自衛官のどなたかが指摘されているように、現在の自衛隊員ともう一度、海外派遣された場合の危険性を含めて就業に関する契約をあらためてとりかわさなくてはなるまい。

2015年8月1日

  3月13日の項に書いたように、今年はマンションの管理組合の理事があたっている。その理事の仕事のひとつとして、地域の夏祭りに協力しなくてはならない。その協力の一形態として模擬店を手伝わねばならない。その模擬店がどういうわけか「たません」というものを売る模擬店なので、「たません」なるものを売らねばならない。この冷厳な論理にしたがって、手伝いにいく。まずは13時から店の設備を作ることから初めて、17時半から21時まで屋台の営業をする。そもそも「たません」とは何かわからなかったが、「たこせん」というタコの味(?)のする薄焼きのせんべいの上にソースを塗って、目玉焼き(ただし黄身はつぶす)を載せて、紅ショウガ、青のり、かつおぶしの粉などを載せるものだそうな。私でもできそうだが、幸か不幸か、お金の係りになった。3時間半立ちっぱなしで100円玉をやりとりする(1個100円なのだ)。子どもたちには意外に人気であった。

  私の住んでいるところは、神社も寺もない新興住宅地で、そういうところでも「夏祭り」を催す。幸田露伴が「ひなまつりというのは腑に落ちない。『まつり』という以上、なにか『まつる』ものがなくちゃいけない」といっていたそうだが、私もそれに賛成。もっとも、「祭り」とは、ただにぎやかに店屋や盆踊りやくじびきなどをする催しだということになっているのだろう。盆踊りにしても、笠をかぶって白い浴衣を着て踊り、踊っている人びとのなかにあの世からこられたひとがまじっていてもわからないようにするためだという説明を(たしか柳田國男だったと思う)読んだことがある。地方によっては踊りの列が川岸にまで行って解散するのは、異界の方がそこでさりげなく去っていかれるようにするためである、と。だが今、そんな話をすれば、ホラーとしてしか受けとられないだろう。おそらく、それはホラーではなくて、ご先祖様をお迎えするという話につながるはずなのだが……。京都の祇園祭の祇園ばやしは、しっとりとした旋律でさびしいふんいきもあり、なんとなく亡くなったひとをお迎えするようなところがあって(そういう趣旨かどうかは知らないが)、私は好きである。

2015年7月27日

  品川の祖母の50回忌。ひまならば檀那寺に墓参りするつもりだったが、行けず。お布施を送ってお経を読んでくださるように依頼。この祖母と私とは血縁がない。私の父母は夫婦養子だったからだ。祖母は明治16年生まれで、まだ頭のなかに「武士の娘」といった発想が残っていたように思う。私が9歳のときまでそういうひとが身近なところに生きていたのだなあ。

2015年7月25日

  日本倫理学会評議員会のために早稲田大学へ。早稲田大学の文学部は高田馬場のほうからいくと馬場下町の坂を下りたところにあり、その坂は南側に穴八幡という神社があるので八幡坂といったと覚えている。この馬場下町は母が生まれた町であり、早稲田大学は父が卒業した大学なのだ。それでなんとなくなつかしみを感じる。たとえば、尾崎一雄、井伏鱒二といった早稲田を卒業した作家のなかに、私の好みの作家が多くいるためもあるかもしれない。三朝庵という蕎麦屋で昼をと思っていたが、あいにくしまっている。戦前からあるのじゃないかしらと思われる定食屋で昼。評議員会では、10月に熊本大学で行われる学会の司会をあてられる。早めに宿をとらないと満杯になるそうな。

2015年7月16日

  安全保障関連法案が衆院を通過。この法案にもりこまれた集団的自衛権は、日本の政治の湾岸戦争以来の流れに位置づけて理解するほかないだろう。つまり、1991年の湾岸戦争で資金だけの協力を批判され、1994年の国際平和協力法(PKO協力法)で人的協力すなわち自衛隊の海外派遣を認め、ついには国際平和協力法で否定されていた集団的自衛権の容認が表面化したという経緯である。そのために、どうしても「流血についての平等な負担」というまがまがしい連想をまぬかれない。

  カントは『永遠平和のために』のなかで、常備軍の設置を否定した。その最大の理由は、職業軍人という存在は結局のところその生命を国家と他の国民のためにささげるわけで、この制度は「人間をたんなる手段にする」ことにほかならないからだ。それに加えて、常備軍を設置することで、隣国間での軍事費の増加がみこまれ、軍事費への投入が増えればそのコストパフォーマンスからして戦争が誘引されるという結果主義的な理由もあった。ただし、常備軍を否定するとしても、他国の侵略にたいして市民が自発的に武力蜂起して対抗することは、カントもまた認めている。

  カントの議論を金科玉条にするつもりはないが、ある人間を戦闘行為に参加させてその犠牲のうえに自分自身は安全を享受することを参戦した人間をたんなる手段にする行為だというふうに考えると、諸国家に戦死者が出ている戦争にそれらの国家と連帯しているとみられているある国家がその戦争に資金のみ提供しているとすれば、後者の国家は前者の諸国家の参戦者をたんなる手段にしていることになるだろうか。なるとしよう。したがって、後者の国家が他の諸国家と同様に自国の軍人を戦争に派遣するとすれば――戦闘行為に関わるかどうかということが論点だろうが、兵站を担うことはやはり戦闘行為のなかに含まれるだろう。戦争は実際の戦闘のみならず、相手の兵站線を断絶してしまうことで大きな成果をあげうるのだから――、その場合には、参戦した軍人をその国家の軍人以外の人間はたんなる手段にしたことになるだろうか。カントの指摘は「なる」というものである。だとすれば、ここにまた「平等な負担」の原理を適用すれば、軍人以外の国民も戦争による危険にさらされるならば、、誰もたんなる手段にされないこととなるだろうか。市民の自発的な武力蜂起とはそういうことだろう。カントのいう自発的な蜂起は侵略された場面のことを想定しているが、海外派遣を含めて「流血についての平等な負担」を「国民みなが国を守る平等な負担」と読み替えたなら、徴兵制、国民皆兵というところに話は行き着くだろう。

  したがって、今回の安保法案に反対するひとびとのなかに「徴兵制反対」という主張が出てきたのは無理もない。

  ところが、現代の戦争では、戦闘にかかわる者は専門知識が必要だから、徴兵制は現実的ではないという議論がある。「たんなる手段化」というカント的な根拠とまったく無関係の効率だけに立脚した見解である。実際、たとえば、ドイツは2011年に徴兵制を廃止している。現在の日本の政府も「徴兵制へは通じていない」と述べているが、この見解は、現今政府が平和主義であるからではなくて「徴兵制の非効率性」という理由からならば信じられるように思う(あるいは、現在の日本の政府は、「徴兵制の非効率性」といった冷静な功利計算よりは、「国民みなで国を守ろう」という精神論のほうに傾いているのかもしれないが)。しかしすると、国民のあいだで、(海外で戦闘が行われているかぎりは)戦争に派遣される軍人とその危険のない軍人以外の人間がはっきり分かれることになろう。すると、カントの指摘どおりに、前者を「たんなる手段」のように遇していることになるのだろうか。

  現在の議論で、政府側が海外派遣された自衛隊の生命の安全を強調しているのは――少なくとも、これまであった危険から大きく変わることがないと説明しているのは――、結局のところ、「流血についての平等な負担」 ということを海外派遣される自衛隊については想定せざるを得ないが、そこを隠ぺいしてきりぬけようとしているようにみえる。

2015年7月4日

  関西大学哲学会春季大会。今回は大学院生の発表3本(うちひとりは大阪大学に在籍)、学位取得者の発表1本、それに井上克人教授の新刊『〈時〉と〈鏡〉』をめぐって、井上教授の講演のあとに特定質問者として水野友晴氏(日独文化研究所)に質問していただくという多彩な催しだった。私は幹事で裏方であると同時に、司会を2本しなくてはならず、忙しかったが、特定質問を立てていささか緊張した雰囲気を作るという試みはうまくいったようだ。学内の学会はえてして仲間内でこぢんまりとしてしまいがちなものだから。

2015年7月1−2日

  5月9日の項に書いた『倫理学の話』の表紙に使いたい私の撮った写真がある。もちろん、執筆者が表紙の意匠を作成するわけではないのだが、編集に相談すると、その写真はなかなか好評だった。しかし、その撮影の対象は芸術作品の一部だから、著作権という問題が発生しうる。そこで、その芸術家の連絡先をネットで探すと、専用のウェブサイトがみつかった。驚いたことに、当人はこの5月に亡くなっていた。しかし、そのウェブサイトにあてて、とりあえずこちらの希望を記して送る。驚くほど早くに芸術家の娘にあたる方(つまり著作権の相続人というわけだろう)から返事をいただき、3回のやりとりで写真の使用を認めていただいた。相手はイスラエルの方で、私が男性か女性かわからないからであろうか、Dear Tetsuhiko Shinagawaとなっていた。最後のメールは、Dear Tetsuhikoになって、なんだか友人みたいになってしまったが、実にすなおにこちらの思いが通じたようでありがたい。私の本にとって栄誉なことである。あとは、実際に、表紙の装幀がうまくいくかだ。

2015年6月13日

    関西哲学会編集委員会、委員会のために立命館大学へ。 優秀論文賞の選定。

2015年6月8日

 文部大臣が国立大学に人文科学・社会科学系の学部や大学院の組織見直しを通達した。「社会的要請の高い分野への転換」とは市場で役に立つ人材を作る学部や大学院だけあればいいということにほかなるまい。しかし、そもそも必要な情報や知識だけ身につけたような人間が、市場でさえ役に立つのだろうか。所詮は、人間と人間のつながりが支えとなっているのではないか。それにしても、人文科学や社会科学を淘汰するとして、大学における教養教育はどうするのだろうか。第二次大戦後、アメリカの大学制度を手本にして導入された一般教養教育が、どれほど機能してこなかったかということはともかく、その導入は、たんに専門的知識だけを身に着けているだけで市民としての自立性をもたない人間ではいけないという趣旨からだった。つまるところ、市民社会の形成を望まないということだろうか。

2015年5月31日

  一橋大学哲学フォーラムにいき、鈴木貞美氏と立川武蔵氏の発表を聴く。

2015年5月9日

  私が初めての単著を出したのは2007年だった。『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』(ナカニシヤ出版)がそれだが、その翌年の2008年に同社の編集者の方から「倫理学概論を書きませんか」とうながされた。引き受けたものの、他用に追われ(そのあいだ、法政大学出版局からHans Jonasの『アウシュヴィッツ以後の神』を刊行、あれは3分の1は註とJonas伝記と解題で、つまり3分の1ぐらいは私の著書といってもいいが――しかし、それも2009年に出したものだ)、ずいぶんと時間がかかってしまったその原稿がようやくできあがって、出版社にCDとプリントアウトを送る。題して『倫理学の話』とする。私に話をもちかけてくださった方は、もう定年退職しているので、なんとも申し訳ないしだいだ。

2015年4月27日

  ドイツの友人が日本に来る。大阪で会食。日本食がいいというので、日本食を出すが、向付などの料理をひとつひとつ説明できるかぎり説明する。どうも桜の蕾の形をいろいろな食材で作っているというようなことは、指摘されて初めて気づくということもあるようだ。あまりに小さすぎるのかもしれない。それでも喜んで食べてくれた。このひとはプロテスタント系キリスト教の熱心な信者だが、日本の自然と神々とのつながりについても偏見なく興味をもっている。日本の宗教の根本は仏教というよりは神道だという指摘を彼のほうからして、私を驚かせた。

2015年4月24日―26日

  応用哲学会のために東北大学へ。國學院大學の佐藤靜さんと京都大学の安井絢子さんとともに、ケアの倫理に関するワークショップを行なう。ケアの倫理にたいする関心は低いのか、やや人数が少なかった。それでも、なにかこの話題ならこの方がお出でになって当然という方々もこられて聞いてくださる。私は発表者のなかでただひとり男性なので、「ひとりの男性の研究者からみたケアの倫理の位置づけ」と題して話す。

2015年3月29日―30日

  Michael Quante教授(ミュンスター大学)の講演会のため、一橋大学へ。二日目の講演会でひとつ質問。Quante教授Moral(道徳)という語を使っていないのに疑問を感じていたところへ、metaethics上の葛藤があったときにはpolitisches Verfahren und Ausbildung passender Institutionen(政治的手続きと適切な制度の形成)で解決するという箇所が気になった。そこで、「もしその解決がDiskurs(討議)によって行われるのならふたたび倫理的次元にそれは属すのではないか。ちなみに私はあなたのPersoenlichkeit(パーソナリティ)という概念を、個人的な意思決定に切り詰められたモラルからSittlichkeit(人倫性)という豊かな領域に通じる橋だと思っている」と問う。おそらくドイツでもそういう問いを受けたのだろう、笑いつつ説明される。まず、MoralからSittlichkeitに通じる橋という理解は正しく、ただし自分はPersoenlichkeitだけではなくてLeiblichkeit(身体性)もその契機に考えている。最初の問いについては、自分はPolitikMoralに還元できないと考える。Ethik(倫理)には複数のmetaethische Theorienがあり、規範倫理学の次元にさまざまなethische Theorien(倫理理論)がある。その対立はその次元では解消できない。それを解消できるのは政治的次元だ。政治的次元のなかにも倫理的規範はあるが、それだけではなく政治的規範がある。たとえば、安定性、社会の平和などがそれである。アーペルやハーバマスはあまりに問題を単純化しすぎている、という回答だった。

  懇親会に出る。あとでQuante氏が話しかけてこられる。質問からして、私のことをKantian(カント主義者)でDiskursethiker(討議倫理学者)だと思ったようだ。私がそうではないことをいい、私の書いた本の題名をいうと興味を示してくださる。彼もケアの倫理に関心があるのだ。あいにく名刺を忘れたが、名刺をもらう。あとでこちらから連絡することとする。(その後、三度ほどのメールのやりとりで意見交換することができた)。

2015年3月23日

  修士の学位授与式。今年はふたりの女子学生を送り出した。一時期、大学院で女子学生ばかり4名指導していた時期があり、遠足などにいったものだが、いわばその三女・四女が修了したわけである。ひとりは東京に出て企業で働き、ひとりは地元に戻って公務員となる。おつかれさまでした。

  きょう発刊された『法の理論』33号(成文堂)に、同誌32号に掲載した拙論「ノモスとピュシスの再考――ケアの倫理による社会契約論批判」にたいする川本隆史・伊佐智子両氏におるコメントとそれにたいする私のリプライが掲載された。

2015年3月20日

  卒業式。哲学倫理学専修では、今年は28名が卒業。うち11名が、私の指導で卒業論文を書いた学生である。どういうわけか男子学生のほうが多く、コンパをしたら男子学生しか集まらず、ひたすらビールを飲み続けるという、私の世代の学生のようであった。

2015年3月13日

 帰国して郵便物を調べていると、マンションの管理組合の役員があたったという通知。なにか今年はそういう役回りが来そうな気がしていたが、ほんとうにくるとは驚き。しかし、これはひきうけなくてはいけないのだろう。誰もみな忙しいことには変わりないのだから。

2015年2月25日―3月13日

  ドイツに出張。

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  ダッハウ強制収容所を10年ぶりに訪ねる。強制収容所をはじめて見学したのがここだった。その後、ブッフェンヴァルト、ザクセンハウゼン、アウシュヴィッツ、ノイエンガンメ、ベルゲン=ベルゼンの各収容所をまわったので、少しは知識が増したのはたしかだが、しかし、毎回、「なぜ、このようなことが起こりえたのか」という気持ちになる。

  初めて訪れたときは前々日、前日と大雪で、展示をみる足元からしんしんと冷えてきた。今回は晴れている。しかし、気分が晴れるというところではない。丁寧に展示をみて、前回は訪れなかった構内の、ユダヤ教、プロテスタント、カトリック、ロシア正教の慰霊の場、それに火葬場をみる。

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  ミュンヘンのユダヤ博物館をはじめて訪れる。展示の一部、とくに歴史的な遺物は見られなかったが、私が関わっているのは現代史のなかのユダヤ問題なので、その興味からすると、たいへん心をえぐるような展示が多い。

  たとえば、Jordan B. Gorfinkelというひとの漫画でNew Yorker1966年に初めて乗ったもの。Sejdeというホロコーストの生き残り(ポーランド生まれ、ミュンヘン育ちで今はアメリカ)の正統派のところへドイツから「かつてのMitbürger(市民仲間)」に故郷を訪れてもらうというもらう企画がくる。若い男が連れだってミュンヘンに来るわけだが、その一連の漫画の最後のコマで、若い男が「これでミュンヘンの旅もほとんど終わりだ。Sajde、見たいもので見残して残念な(miss)ものがありますか」と聞くと、老人は「私の家族」と答える。

  あるいはまた別の漫画では、1コマ目に、バスの中で(Sejdeとは別の)老人が「ホロコーストからすでに三代目の世代で、ミュンヘンに安住している(zu Hause)。おれのいっていることは正しいか、アンナ」と聞くと、アンナと呼ばれた相手の老女は「それについては私は沈黙する」と答える(バスの中だからだろう)。2コマ目に、その夫婦の娘である中年女性にその老人が「あなたがたの子供は不安の世代だ。彼らは自分の両親に愛着している。が、それは単純なことではない。ソーニャ、話してくれ」というと、ソーニャが「私が大きくなったとき、母親が変なことをいった。たとえば、『角のお店にいって、あの人殺しからパンを買ってきなさい』とか」。3コマ目には、孫娘のゾフィーが出てくる。ゾフィーは同化した世代で、統合しており、具合よく感じている。ゾフィーのせりふ「ドイツはユダヤ人にとっていい国だわ。ここでは私たちには何も起こりえない」。世代の違いというものがよくわかるが、抑圧された人びとが、戦後だいぶたってから、「あなたのお店で私がアイスクリームを買うことができますか」といった問いをしてしまうひとの話は、漫画ではなくて、聴き取り調査のなかにも記されていた。年をとってから、若いころ、壮年のころに受けた攻撃がフラッシュバックするのだろうか。

  その聴き取り調査とは、Scharone LifschitzというひとのSpeaking Germanyという企画。ドイツ人とユダヤ人は互いにどうしてドイツについて話し合うことができないのか。ユダヤ人はどうしてドイツについて話し合うことはできないか、という問いを掲げ、ユダヤ人から聞き取ったことばをドイツの町中に(車内、広告塔、歩道橋などに掲示して反応をみるというInstallationを行う。たとえば、「私は自分が正常なのかどうかわかりません」「私もそうです」とか「私はあなたのところでアイスを買うことができますか」とか、あるいは、非ユダヤ人側の「ユダヤ人はどうして墓の上に小さな石を載せるのでしょう。単純にわけが知りたいだけですが」といったことば)。

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  生活に困窮している人びとに安く賃貸住宅を提供する試みが銀行家のフッガー家によって1521年に設立された。そのFuggereiがまだ残って、しかも現役の賃貸住宅としてアウグスブルクに残っている。そこを訪れる。部屋の展示をみると、全体が60平方メートル、十畳くらいの寝室、四畳くらいの居間、八畳くらいの食堂(ガスは4口、それにシンク)。シャワー、トイレ、洗濯機のある部屋。ただしバスタブはない。しかし、貧窮者向けの住宅が60平方メートルとは恐れ入る。日本の都会では、それとほぼ同等の面積の分譲マンションがいくらするだろう。

  アウグスブルクはプロテスタントとカトリックが和解した宗教和議の開かれた町である。プロテスタントとカトリックとが仲良く敷地におさまっている聖ウルリヒ―アフラ教会などを見物。

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  ドイツに出張しているさなかにも用務からは逃れ得ず。時期が時期だからしかたないが、授業を依頼していた非常勤講師の方が常勤の職が決まり、授業担当者の変更をせざるをえず、新たにひとに依頼したり、関大の専任のあいだで分担したり、といった手配をホテルからしている。さらには、某学会の来年の大会での発表という重い任務がやってくる。たいへんな役目と思うが、ひきうけざるをえないふんいき。ひきうける。

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 ケルンの中央図書館のGermania Judaica(ドイツ語によるユダヤ文献のコレクション)、ケルン大学図書館、メンヒェングラートバハの市立図書館で調査。工事中であったメンヒェングラートバハのサッカースタジアムはだいぶ完成してきたようだ。ともあれ、図書館に1日いられると、ほんとうにほっとする。日本では、なかなかどうしてそういうことができないのだ。私の仕事は何だったのか、大学教授であったのか、という気持ちがすることもあり。ケルンのMinoritäten Kirche(直訳すれば、マイノリティ教会だ)は、以前訪ねたときに工事中だったが、工事が終わっているので入ってみる。おどろいたことに、ここにDuns Scotusの墓があるのだ。Duns Scotusの経歴が掲示されていたので、ひたすらメモをとっていると、牧師さんが近づいてきてにこやかにGuten Tag!といわれる。以前、工事中だったときに、コロンバ美術館に展示されていたマリア像がここに安置されていた。今風な顔立ちの美しい像だが、ちょっと今風な美人すぎるかなという気もするが、いえいえ、そのような目でみてはいけません。

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 デュッセルドルフ大学で開かれた日独の倫理学研究者の会議に参加。三日間の日程だが、旅程からして第一日しか参加できず。デュッセルドルフのデパートやオペラ劇場が並ぶまんなかにある建物で、なんと使い勝手のいいところにあるものかと驚く。

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 フランクフルトのユダヤ博物館を見学。何度かきているが、今回は特別展があった。ローマ帝国時代のユダヤ人の痕跡だったが、たいへん勉強になる。コンスタンチヌス帝によってキリスト教化されるまえのローマ帝国の宗教的寛容。ところが、中世後期になると、ユダヤ人たちの足跡がわからなくなってしまう。しかし、どこかにどのようなしかたでしか連綿と暮らしが続いていたはずで、それがわからないのである。

2015年2月23日

   私が主宰しているといえばいえる研究会、関西大学倫理学研究会の電子ジャーナル雑誌『倫理学論究』2号1巻を公開。やれやれ。昨年から関西大学哲学会という学内の学会の幹事もしているので忙しい。というか、日本哲学会の編集委員、日本倫理学会の評議員、関西哲学会の編集委員長、関西倫理学会の委員を兼務しているから、ときに、どの学会がどの会則だったか混乱しそうだ。しかし、日本哲学会編集委員はこの春で任期が切れる。やれやれ。  

2015年2月9−10日

 実家の庭木の手入れを植木屋さんにしてもらう。庭というような庭ではなく、父親が好きな木を植えたもので、その木がどうも大きくなるのだからやむをえない。植え過ぎで、おそらくだんだんと枯れていくのだろうと思っていたが、昔からあるこぶしが一本枯れただけで、あとは生きている。とはいえ、やはり世話が足らないから、ばら、さるすべり、のうぜかずら、いずれも花があまりつかなくなった。梅はよいぐあいの年もあるが、これまた弱っている。雨戸のペンキ塗りなどする。

2015年1月31日

 午後、アウシュヴィッツのドキュメンタリーをみる。収容所の楽隊にくわわったポーランドの女性[クラクフに住んでいる]の話。楽隊に加わることで生きながらえたが、その罪の意識で、戦後に事務職になろうとしたが、軍服をみると叫び声があがり、音楽も聴けず。しかし、1958年にアウシュヴィッツに行き、そのあとに少しずつ立ち直る。独身。死ぬ前にもう一度アウシュヴィッツをたずねる。そこで助産婦として働いていた女性は、生まれた子どもを殺すように指示されながら、そうせずにお湯で洗っていた。そこに人間の尊厳を感じると語る。フランクルが、いかだで漂流している夫婦の妻のほうが日常そのままにいかだを磨いている漫画を肯定的に評価していたが、日常的に行なっていることを異常な状況でも続けることが「人間の尊厳」を保つことだといいうるのかもしれない。むろん、それはたんに惰性とも、非日常にありながら非日常を意識しない行為ともいえるのだが。それを本人がまったく意識して行なっているときにのみ価値があるといえるか、しかし、それなら本来性においても日常は日常であるのだがそれを本来性において肯定する話と似てしまう。そうではなくて、日常それ自身がその本人の態度と関係なく、本来、神聖なものであるのかもしれない。生そのものが奇跡であるならば。

2015年1月25日

  関西哲学会の委員会と編集委員会のために立命館大学へ。いろいろと審議あって5時過ぎに終了。バスで西院に出て、「京のおばんざい」という看板に惹かれて飲み屋に立ち寄る。 雲子、ぜんまいと薄あげの煮物、てっぱい、で一献。

2015年1月21日

 めがねのレンズのくもりがひどく、買い替えることとする。眼科医にいって視力検査をしてもらう。老眼が進んでだいぶ悪くなっているのだろうと思っていると、そうではなくてそのくもっているレンズが度数としてはちょうど合うという話。おやおや。車を運転するのでもないし、本を読んだり、論文を書いたり(というのは、パソコンを打ったり、だが)という暮らしなので、矯正で1.0や1.2にする必要はない。そのあたりをよく心得ていらっしゃる眼科医で話がすらすらと通じる。処方箋をもって眼鏡屋さんへ。

2015年1月18日

 亡母の七回忌を行なう。命日は28日なのだが、残っている子どもふたりの都合でこの日となる。どうも、生きている者の都合が優先するのはやむをえない。

 檀那寺のご住職が他用で外出とのことで、息子さん(もちろん、この方も僧職)に般若心経、観音経、大悲円満無礙神咒、座禅和讃をあげていただく。もっとも、大悲円満無礙神咒をはじめて聞いたときに、「悉度夜(しーどーやー)」というくだりを「しんどいやー」と聞いてしまい、なんだかお坊さんがくたびれておられるのかと邪推してしまった人間だから、私自身にはまさに「馬の耳に念仏」だが……。おそらく、供養されている者には届いているのだろう、と思うのみ。

 お墓を掃除して、お花とお水とお線香をあげて、翌日も授業があるのだからそそくさと帰ることとなる。

2015年1月1日

  あけましておめでとうございます。  

  「くわいは芽(目)が出るように」「蓮根は見通しがきくように」「黒豆は色を黒くしてまめで働けるように」「八ツ頭はひとの上に立てるように」「昆布巻きは喜びごとがありますように」――おせち料理の言い伝えは、昔のひとの(この言葉はもはや使われなくなってしまいましたが)「たまかな」暮らしがどんなだったかを思い出させますね。

  この一年、どうぞご無事にお過ごしになれますように。 

  当方の昨年は、六月に京都ユダヤ思想学会のシンポジウム「アウシュヴィッツ以後のユダヤ的なるもの」で「ハンス・ヨナスという問い」と題して基調講演を行い、十月には日本倫理学会大会の共通課題「可能性としての中世」の実行委員長を務めました。ユダヤ思想にせよ中世思想にせよ、専門ではありませんが、仕事を進めるなかで新たな接点を見出すことができて刺激を受けた一年でありました。

 

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