往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2010年12月29-31日

  父母ともに亡くなった実家に帰省する。今年の正月は母の喪で行わなかったが、これから迎えるお正月はやはりお正月だからというので、輪飾り、しめなわをととのえる。

  大晦日は煮物。芽が出ますようにという含意のくわい。これは母の好物だった。頭に立つようにという含意の八つ頭。私は割合に好きで、しかもお正月ぐらいしか食べないから煮てみるが、盗賊アリババなら5つは食べないといけないだろう。見通しのきくようにという含意のれんこん。母はそういう言い伝えを教えたが、父は奇妙に近代主義者で「れんこん自体が曲がっていたら、向こうが見えないじゃないか」などといったのを思い出す。寒さをしのいで頭をもたげるという意味だろうか、たけのこ。含意はわからぬが、おそらく消化の助けだろうね、こんにゃく。これまた意味がわからぬが、しいたけ。思ったよりも、うまく煮える。お煮しめは古くさい料理だと毛嫌いするひともいるかもしれないが、あたためた日本酒にはなかなか合うものです。

2010年12月26-27日

  京都生命倫理学会のために京都大学へ。26日午後の最後に、「ハーバマスの類倫理再考」を発表。活発な質問、討議を得た。この論稿は、富山大学教授の盛永審一郎さんが代表者の科研基盤研究B「生命・環境倫理における「尊厳」・「価値」・「権利」に関する思想史的・規範的研究」の報告書に載せる予定。今年度の後半は4本書かなくてはいけないのだが、これで2本まではきた。あと1本はどうにかなりそうだが、もうひとつが無理のような。

  今年は、昨年秋に法政大学出版局から翻訳を刊行したヨナスの『アウシュヴィッツ以後の神』への反響から、宗教や形而上学について語る機会が多かった。若いときに、自分が神について論じることになるとはぜんぜん思ってもみなかった。なにぶん、私は「神が意識にあらわれるなら、神について記述できる」というフッサールの現象学から出発したのだから(そして、私の意識には神はあらわれなかったのです)。しかし、人生、どのようになっていくかはみきわめがたいものです。

2010年11月27-28日

  日本現象学会のために東京大学(本郷)へ。といっても、昨年今年と関西大学が事務局なので、受付の手伝いにいったようなものだ。いちょうがみごろ。数年前に集中講義にきたときも、いちょうが美しかったのを思い出す。

  ひさしぶりに湯島天神に詣でる。受験生のときにおまいりしたなあ。私の実家は川崎市の小田急沿線だから、千代田線乗り入れになってから、ここは足場がいいのである。

2010年11月5-7日

  ドイツからもどってへろへろぎみだが、関西倫理学会のため名古屋の南山大学へ。5日の夜のワークショップは、出かけるまえに雑務で時間がとられ、間に合わず。6-7日の日程は全部参加。だいぶ充実した発表が多かった。

  名古屋の今池の焼き鳥やになかなかいい店をみつける。カウンターでお酒を注文したら、目の前の銅壺につけて、自分でころあいをみて出してくれとのこと。うれしくなってしまって、ついお酒が進む。このごろは「燗をつけてください」というと、「熱燗ですか」と聞き返す若い店員が多いが、しかし、「ぬる燗」を頼んでも、彼らにはわからないのだ。ただ「燗」という意味で「熱燗」といっている。少し頭の働きそうな感じのする店員には、「熱燗というのと燗とは別だよ」と教えたことがあるが、それも二回ほどだな(なんだか頭の働きそうな店員がこの世にふたりしかいないみたいな説明になってしまった)。一度は、「そうなんですか、はじめて知りました。勉強になります」といってくれたけれど。

2010年10月26-11月2日

  ベルリンに出る。今回の旅の一番の目的は、ベルリン自由大学のHans Jonas Zentrum(ハンス・ヨナス・センター)の所長Dietrich Böhler教授の退任を記念する3日間のシンポジウムに参加することだった。27日、Böhler教授の退任記念講演。研究者としての生涯をふりかえるのは、退任記念講演の常套だが、出てくる名前がやはりすごいね(ドイツだからあたりまえといえば、あたりまえだが)。そして、自分の教え子たちにも感謝するというので、音響係やカメラ係やらをしている助手や大学院生をひとりひとり呼んでは、花を一輪ずつあげる。最後の一輪は、「私とともに私の原稿を徹底的に校正した」奥さんにさしあげる。このへんが日本とちがう。

  3日間のシンポジウムには、へろへろとなるが、しかし、行ってよかった。Jonasに関連するだけに、Klimaschutz(直訳すれば気候保護だが、気候変動問題、つまり環境問題である)がテーマのひとつなのは当然だけれども、そこにまた経済活動の問題が関わってくる。私などは苦手な話題だが、当然、そこにふれなくてはならないわけだ。私はどうも抽象的な方向に心ひかれてしまうたちだけれども。

  昨秋、法政大学出版局から刊行したJonasの『アウシュヴィッツ以後の神』の拙訳をBoehler教授に献呈する。たいへん喜んでくださったが、弟子たちに「おいおい、日本でも出たぞ」というふうに自慢らしくおみせしているのをみたら、裏表紙のほうを上にしている。やはり、縦書きと横書きと逆だからなあ。この本には私がHans Jonas Zentrumを初めて訪れたときに写したZentrumの山小屋風な建物の写真が掲載してあるので、そこをおみせしたが、残念ながら、今はZentrumはベルリン自由大学の別のキャンパスにひっこしてしまった。

  シンポジウムが終わったあと1日余裕があったので、ちょうど、ドイツではじめてヒトラーそのひとをテーマとした展覧会が歴史博物館で開かれていたのでみにいく。どうしてドイツ国民はヒトラーを受け容れて従ってしまったのかがテーマ。ジーグフリート、フリードリヒ大帝、ビスマルク、そしてヒトラーが並べられた当時のポスターあり。第一次大戦の敗北の屈辱、極度のインフレのもとで育まれた英雄待望、そこへドイツ国民の誇りを訴える力強い演説、ナチスの雇用政策の成功、そしてついに対外的には緒戦の成功と、どんどんと深みにはまっていく歴史がたくさんの写真や証言で説明されている。ヒトラーそのひとの演説のビデオが二箇所で流されていたが、どちらもその隣にチャップリンの独裁者が平行して流されていた。ヒトラー賛美の気分をかもし出さぬようにする配慮だろう。これもまた充実した展示で、10時の開館とほぼ同時に入ったのだが、出たのは3時くらいで、日が傾いていた。 ポツダム広場のバイエルン料理の店で一献。

  ベルリンのテーゲル空港からアムステルダムへ。オランダ航空のチェックインする場所をInformationに聞くと、「知らない」という返事。Informationだろ! Lufthansaのひとに(会社が違うが)聞いてみると、Dにあるというので、お礼をいって走る。しかし、どうもようすが違う。しかたなくもどってくると、オランダ航空とエール・フランス合同の便なので、エール・フランスの窓口でチェックインしているのだった。やれやれ。しかし、アムステルダムでもう一度チェックインしてくれ、とのこと。どうしてこう手際が悪いのだろう。シノポリ空港では、またまたパスポート検査と空港の広さで時間をとられる。関空についたら、降り口に私の名前が書いてあって「ご連絡を」とある。トランクをアムステルダムで積み忘れたとのこと。まあ、しかし、これは確実に届くだろう。翌日、自宅に届く。オランダ航空から「今度、乗るときに何々ユーロまける」との手紙あり。ふーん。ルフトハンザでもロスト・バゲッジの目にあったことがあるが、あそこはお詫びの手紙もくれなかったな。

2010年10月23-25日

  ライプツィヒにまわる。ドイツ統一の発端となった集会の開かれたニコライ教会を訪れる。1989年10月9日、ここから大群衆のデモ隊が町を行進したのだが、右手にろうそく、左手はろうそくの火を消さぬようにかばい、"Wir sind Volk. Keine Gewalt."(われわれは国民だ。暴力はしない)と叫んで行進したので、警察も軍も体制側の労働者戦闘部隊手を出せなかった。その日、この教会には、何か動きがありそうだというので、東ドイツの政権与党SEDの支持者や秘密警察がたくさんつめかけていた。しかし、そうであっても、民衆の動きはとめられなかった。牧師さんの書いたパンフレットに、「いつも秘密警察のひとたちがきているのはわかっていました。彼らは神に祈るためにきているのではありませんでした。けれども、私は説教壇でイエスの精神――汝の敵を愛せ――を幾度も語りました。いずれにしても、あのひとたちがそういう話を聞く機会はここしかなかったのです」という趣旨のことばが書いてあった。

  現代史博物館もなかなか見ごたえがある。要所要所をノートにとっていたら、半日近くかかってしまった。そのあと、きれいに晴れた町をぶらつく、中心街を少し外れると、旧東ドイツのころに建ったのだろう、日本の団地式の集合住宅あり。 手持ちの地図には載っていないあたりを歩いているのに気づいて、およそのカンで中心街にもどると、ゲヴァントハウスに出た。残念ながら、音楽を聴く時間はない。バッハが楽長を務めた聖トマス教会の土曜日のモテットを聞き合わせたので満足することとする。

2010年10月19-22日

  ドイツへ。はじめてオランダ航空を利用。アムステルダムでハンブルク行きに乗り換える。 しかし、当日になって搭乗ゲートが変わっていてあわてる。シノポリ空港は広くて移動がたいへんだ。EU以外の人間のパスポートゲートが混んでいるのも時間のかかる原因。

  ハンブルクは木々が黄色く色づいて、雪まじりの雨が降る。リューベックを訪れ、Das Heiligen-Geist-Hospital(聖霊教会養老院兼病院)を見学。13世紀にできたヤコービ教会付属の病院施設だが、1602年に市の運営んもとに、生活に不自由している老人の世話をするようになった。そのような施設にそれだけの歴史があることの驚き。天井はふきぬけで寒そうだが、ベッドと小さな机と椅子だけの狭さだが個室である。ハンザ都市で豊かに栄えたリューベックは、市民のあいだに喜捨の精神が根づいていたし、また、貿易で栄えただけに船員の保険制度も発達した。やはり、そういう財政的な支えがないとできないわけである。その船員保険組合の使っていた建物は、ヤコービ教会と養老院のあいだにある。リューベックはトーマス・マンやギュンター ・グラスの生地でもある。マン兄弟の記念館はみることができたが、ギュンター・グラスの記念館は時間がなくていけず。St. Anne Museumに納められていた木像がよかった。

2010年10月16−17日

  関西哲学会のために同志社大学へ。17日には、同僚の三村尚彦さんのジェンドリンとフッサールについての研究発表、西田幾多郎をめぐるシンポジウムでは、同僚の井上克人さんの明治時代の日本思想の状況をふまえた西田哲学の報告を聞く。どちらも、毎日のように顔をあわせて、話をしているが、どうも日本の大学では、授業や学生指導といった話はできるが、研究面での情報交換がなかなかできない。それを学会の場でしたようなものである。

  自分が発表したり、役目上でなくてはならなかったりしないと、学会を休みがちな怠け者だが、今回は委員と編集委員になってしまったので出席した。しかし、出席すれば、出席しただけ、新たな刺激を受けるものである。

2010年10月8−10日

  日本倫理学会のために慶應義塾大学へ。内在主義と外在主義についての主題別討議、おもしろし。内在主義と外在主義の問題は、さしあたりは、道徳的判断を下した者がその判断に示された行為をするように動機づけられるかどうかという問題 である。だが、この問題だけで切り分けると、それ以外の論点ではあまり同じ陣営に入らないようないろいろな倫理理論が両陣営のいずれかにふりわけられる。そこもおもしろいが 、同時に、この問題は道徳的判断というものをどう考えるかというメタ倫理学上の立場を反映しており、かつまた、メタ倫理学上の立場は(定義上はそうではなくても、実質は)存在論上の立場と重なる場合があるので、上のふりわけがまた、ぱちぱちと火花を発して別の論点をひきおこしていく。今回の 主題別討議はあまり話が広がりすぎず、すっきりと問題点をしぼって討議されたところが聞きごたえがあった。

  某氏の話に、指導している学生に卒業論文で動物の倫理をテーマにするひとがいて、拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』を参照しているとのこと。あの本では動物の問題を直接扱ってはいないが、動物は、通常、考えられている正義の適用範囲の外側に位置づけられているわけで、関係ないわけではない。実際、宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を引用した箇所と、Zygmunt Baumannから引用した箇所で、動物の話が顔を出している。

2010年10月3日

  同志社大学にいき、実存思想協会とドイツ観念論研究会共催の第19回シンポジウム「20世紀の宗教哲学を再考する」で、「ハンス・ヨナスのアウシュヴィッツ以後の神概念」と題して話す。もうおひとかたの報告は板橋勇仁氏の西田哲学における神の話。

  キリスト教学の片柳栄一先生から「ヨナスは全能ならざる神という概念を提示したが、なぜ、神の否定までいかないのか」という問い、ユダヤ思想の手島勲矢先生から「ヨナスの神はDuで呼びかける神なのか」という問い、いずれも中核に迫る問いをいただく。ヨナス個人についていえば、Schma' Israel(聞け、イスラエル)という声を聞くと、背筋を冷たいものが走ると語ったヨナスは、最後まで、ユダヤの信仰を捨てなかったから、神の否定には進まないと答えうるが、研究者としての私にとっては、彼の思索で神が最後まで残るのは、人間を超越したものへの配慮なしには、人間は擁護できないからだと考える。あとの問いにたいしては、彼の講演「アウシュヴィッツ以後の神概念」では、おそらくヨナスはDuで呼びかける神を語りはじめつつ、しかし、哲学的思索という不可避的に普遍化せざるをえぬ語りのなかでそのDuの要素が薄れていったのだろう、しかし、このヨナス自身が哲学者の語るべきロゴスではなくミュートスだとことわるその論考の語りの特殊さをそのまま保つようにしてうけとらなくてはならないだろう、とお答えする。私がヨナスについての論文を書くときは、当然、論理的明晰性をもとめてロゴスの立場に立つのだが、ロゴスが(ロゴスで語れないからこその)ミュートスのミュートスたるゆえんをこわさぬように、アウシュヴィッツという一回限りのできごとの特殊性を骨抜きにしてしまわないように、と自戒しつつ。

  なにぶん、神の思索と無縁だった人間が、Jonasという哲学者をとおして急激にその問題に立ち入ることになったので、いろいろ学ぶことばかりである。ハイデガーとグノーシスについて日本では数少ない論稿をかつて書かれた的場哲朗氏に懇親会でお話しして、このテーマに依然としてとりくんでおられると聞き、いずれ発表されるであろう成果 に期待する。

  ――しかし、連日の学会発表を無事に乗り切ることができ、やれやれ。荒行でしたなあ。

2010年10月2日

  宗教倫理学会第11回学術大会シンポジウム「宗教倫理と倫理学」で基調講演「価値多元社会における倫理、形而上学、宗教」と題して話す。場所はキャンパスプラザ京都。およその内容は、20世紀の倫理学の歴史をかえりみながら、宗教に依拠する倫理は価値多元社会では特定の伝統をもった共同体のメンバーにのみあてはまる社会的妥当であるにとどまり、したがって、周辺的な位置にあると指摘し、しかし、もともとは宗教にねざした価値や規範のいくつかは価値多元社会において異なる価値観をもったメンバーに等しくあてはまる(ハーバマスのいう意味での)道徳の内実にくみこまれていることをJonasとKantの議論をひきながら指摘し、その世俗化のプロセスについてハーバマスの講演"Glauben und Wissen"を参照しながら説明し、しかし、日本において「世俗化」ということが何を意味しているのかという問題を提起した。

  その後、高田信良氏と小原克博氏とをパネリストとして討論。宗教のなかの世俗化できない要素をめぐって、なかなかもりあがる。

2010年9月29日

  気象台の記録はじまって以来の猛暑もすぎさり、芙蓉やさるすべりの花に夏の名残があるぐらいで、秋のすきとおった大気に満ちてきた。通勤路にあるお寺の門の掲示に「祈る心は、我を折る心。おがむの反対はいがむ」という文句あり。なるほどね。しかし、すると、「おがむ」の類語には「かがむ」「しゃがむ」もあることになるのだろうか。そして、おがんだのに仏様が聞き入れてくださらないなら「ひがむ」になるとか。毎週、通りすがりの人びとを教え導くことばを貼り出すのは、僧職にある者の使命をまっとうすることなのだろうが、週一回、警世の文句を考えつかなくてはならないというのもかえって悟りの妨げになりそうな。ご苦労な話である。

2010年9月19日

  この五月に亡くなられた辻村公一先生を偲ぶ会に出席するために京都大学正門前の芝蘭会館へ。辻村先生には卒業論文と修士論文をみていただいた。卒業論文では思いがけない評価をしていただいたが、その後、さして伸びていないのを申し訳なく思いつつ黙祷する。

  今、私が教えている学生には、「おそろしい授業だった。教室の空気が重く垂れ込めて、終わったときには、顔が平行四辺形になってしまったかのようだった」といったりしているが、辻村先生が学生をやみくもに叱りつけたわけではない。読解力と知識の圧倒的な差とテクストの難解さで、われわれの顔がひしゃげたまでである。2年生も出席する講読にHegelのDifferenz des Fichte'schen und Schelling'schen Systems der Philosophie をえらばれた。妥協のない選択であった。むずかしさと自分の無能に暗澹たる思いをしたけれども、先生の解釈を聞けば、秋晴れの下を馬でかけてゆくような爽快さで、思わず笑いがこみあげるような明朗な講義であった。

2010年9月10−14日

   南山大学で行われた国際会議Würde und Werte(尊厳と価値)に参加。ドイツからDieter Stirma(Bonn), Dieter Birnbacher(Düsseldorf), Christoph Horn(Bonn), Gerhard Schönrich(Dresden), Michael Quante(Münster), Mattias Kettner(Witten/Herdecke), Peter Koslowski(Amsterdam)が参加され、たいへん充実した会議だった。

  Quante氏については、彼のPersönlichkeit概念についてこの春に論文というか紹介みたいな文章を書いた。残念ながら日本語で書いたので「英語にしたら送りましょう」といっておく――英訳する時間のゆとりがあるとも思われないが。2007年に 在外研究でケルンにいたときに、彼がHonnethの講演の特定質問者をつとめたのを覚えている。少壮教授というおもむきだった。まだそのふんいきあり。そのころ彼はケルンに勤めていたのだ。

  Koslowski氏は、私が広島大学に務めていたときに、京都で行われた彼の講演会に特定質問のひとりを務めたことがあったのだ。申し訳ないが内容も忘れてしまったので、まあ、そんなこともあったと話すにとどめ、倫理学の授業のなかで彼の『資本主義の倫理』から引用していることを告げる。あれはなかなかよい本である。

  最後の日に、ドイツ側から「ドイツでは、人間の尊厳Menschenwürdeという概念が出てくると、議論がとまってしまう。日本ではどうか」という問いかけがあった。ドイツ基本法の第一条に書かれているから、水戸黄門の印籠のような力をもっているともいえるし、そういう力をもっているとされているがゆえに議論を不毛なものにしてしまうともいえる。思わず、"Das Wort Menschenwürde ist in Japan noch heuristisch."(人間の尊厳ということばは、日本では、まだ発見法的なのです)と発言する。日本では、このことばで議論が終わるのではなく、このことばで議論がはじまる。つまり、この概念は日本にまだ浸透していないがゆえに、問題を発見する手がかりとして働いているのだ。

2010年9月5日

  関西大学大学院の哲学哲学史と哲学倫理学の学生の修士論文中間発表会。以前は合宿をしていたこともあったが、人数の関係もあり、合同研究室でおこなう。きょうも暑い。

  世の中は民主党党首の選挙でさわがしい。どちらにひかれるということもないが、小沢一郎というひとは、地盤はまごうかたなく地域密着型だとしても、もともとの主張は新自由主義的だったようだが、このごろは社会民主主義的な見解を示すこともあるし、一方の、菅直人は、もともとは社会民主主義だったはずだが、このごろは日米同盟重視の発言もしている。むろん、欧米の多くの国で、市場原理主義と社会民主主義とが対抗しつつも近づきあって、大連立を経験しているのだから、最近の政治家が信条を変えていくのはめずらしくもないが、しかし、どうしてそう変わっていったのか、もっと説明して、ひとに納得してもらわなくてはならないのではないか。かりに、自分でもわからないとしても、そこを鮮明にする努力は政治家には必要だろう。

2010年9月4日

  関西倫理学会委員会のため、大阪大学の豊中キャンパスへ。気象台はじまってから113年で一番の猛暑の年。きょうもかんかん照り。会則改定案の審議などして、石橋の飲み屋で一献。ごま豆腐をはじめ野菜料理がうまい店だった。

2010年8月24日

  きょうの朝日新聞に、キャベツは青虫に食われると、ある種の物質を放散して、青虫の天敵であるハチを呼ぶとあった。とくにコナガという種類の青虫の場合には、コナガがいるだけで特有の物質を放散してコナガコマユバチという天敵を呼ぶそうである。すごいものだ。 (ついでにいうと、「青虫」と呼んだのはモンシロチョウの幼虫だが、この天敵はアオムシコマユバチだそうな。つまりモンシロチョウの幼虫はアオムシの代表なのだろうか)。

  お盆に実家に帰ったら、二階の窓の上にハチが巣をかけていた。最初の夜はわからなくて、雨戸を開け閉めしたが、翌朝気づいたのだ。襲ってこなかったからアシナガバチではない だろう。害虫も退治してくれそうなのでそのままにした。その下にくちなしがあって、例年、青虫がつくのだが、今年はいないのはそのせいかと考えた。ハチの食性の知識があるわけでもないので、あてにならないけれども。今年はトカゲも多かった。

2010年8月20日

  第一学習社小論文研修会(就実高校、岡山市)で「大学は入試小論文に何を求めているか」と題して講演。100名あまりの高校の先生方が参集された。

   数年前に、どくだみが咲いていたから六月ごろだったか、岡山に用があって、ついでに内田百閧フ生まれた古京町を散歩したことがあった。名物のきびだんごの店はそのままに繁盛しており、百閧ェシュークリームを買った店がたしか文房具店になっていた。毎日のように遅刻したという第六高等学校の後身、朝日高校がずいぶん近いのを確認した。通例は そういうふうに出先で散歩して帰ってくるのだが、岡山は酷暑。そうそうに大阪に帰る。 天神橋筋の額縁屋でドイツの美術館で買った絵葉書を入れるための額縁を買い、ざっかけない飲み屋で一献する。

2010年8月3日

  大阪府教育委員会の教員研修のため、関西大学で「人間の尊厳」と題して講演。日本国憲法には「人間の尊厳」という概念がないこと、ドイツの基本法第1条にはそれが謳われていることから話をはじめ、人間の尊厳についてのカントの思想を紹介し、日独の歴史的経緯にふれ、ナチス・ドイツの強制人体実験などを例に人間の尊厳がふみにじられた事例を話し、今現在に、この概念の示唆することを論じた。

  「人間の尊厳」の講演をする日に皮肉な話だが、すでに亡くなっている老人の死亡届が出されないまま、家族が年金を手に入れていたという事件が、複数、報じられている。うーん、すごい。死んだ農奴を買い取って人頭税を浮かす地主を描いたゴーゴリの『死せる魂』さながらの話ではないか。死んだ人間が「たんなる手段」に利用されるような市場価格をもっているわけだ。

   きょうも暑い。キャンパス内の坂を上下するだけで水分を失ったような気分。山ほどの試験とレポートの採点にあえぐ。金融会社に就職した数年前の卒業生某君がふらっと立ち寄り、日本経済の話をして帰っていく。

2010年8月1日

  オープンキャンパスのミニ講義で「脳死と臓器移植法 その問題点」を講演。40分だから、せいぜい脳死のおこるメカニズムを大略し、臓器移植法の改定点を指摘し、その問題点を示すだけ。その後、専修別の相談コーナーを4時まで。日曜だから親子連れも多く、ほんとうにオープンキャンパスという催しは定着したもんだ。

2010年7月24-25日

  科学研究費基盤研究B「生命・環境倫理における「尊厳」・「価値」・「権利」に関する思想史的・規範的研究」の研究会のため、桜美林大学の四谷キャンパスへ。カントの人間学に関する御子柴善之氏の報告の司会をつとめる。カント研究者ではない私には、見通しのよい役に立つ発表だった。

  今年は、熱中症で亡くなる方、多し。猛暑の東京にめげる。大阪とても同然だが、私の勤務先のキャンパスは緑が多いのでだいぶ助かっている。

2010年7月17日

  昨年、変更された臓器移植法が施行される。1997年にできた法は、臓器提供の意志を表明しているひとだけが提供者となるもので、脳死がひとの死かどうかは一義的に決定していなかったから、結果的に、脳死を臓器を提供できる死んだ状態とみなすかどうかは個人にゆだねられていた。政治的な妥協の結果こうなったのだが、しかし、「この順応主義の国、日本でこんなに個人の決定が重視されるとは!」という感想をもった。

  昨年の変更で、@脳死を一律に死とみなし、Aあらかじめ臓器提供に本人が反対しておらず、かつまた家族が反対しない(か、家族がいない)場合には臓器を摘出できることとし、B15歳未満の臓器提供を可能にし、C事前の意思表明で家族への優先的に臓器を贈与できるようにした。

  極端な変更である。実際には、臨床的な脳死診断もしがたい病院も多いだろうし、それができても、法的な脳死判定までできる病院はかぎられ、さらに臓器摘出から臓器移植まで進むことのできる病院はますますかぎられている。Aのように定めても、有名無実となるケースも多いだろう。実際にそのとおりに運用できないことが予想されることを法で定めていては、法にたいする信頼性が薄れてしまうのではないだろうか。

  きょうは、私の誕生日。つゆあけの一日、家のそうじをしたりしてすごす。昨秋、越してきた今の住居は、山が近くて、春がたけてもウグイスの声がしていたが、今ははや、夕方にヒグラシの声がする。広島大学でもヒグラシの声が聞こえた(そして、八月に早くも萩が咲きそめていた)。ヒグラシの声は好きなので、よいところに越してきたと思う。

2010年7月10日

  第17回関西大学生命倫理研究会。今回は大阪府立大学の「生命の哲学」研究会と共催。パーソン(人格)概念についてのワークショップを開く。森岡正博さんと私で報告。14:00からはじめて17:30くらいで終わりにしようと思っていたら、18:00まで議論がつきず。参加者も30名を超え、なかには広島、宮崎、ウクライナ(といっても、この方は今日本におられる方だが)と遠方からこられた方も。ありがたいことです。

2010年7月3日

  関西大学哲学会。今回は、D2の須川重光さんの「リハビリテーションの思想と理念 歴史的意味の変遷と哲学的考察」の発表あり。作業療法士を勤めながら、この先行研究の少ないテーマを探究されている。指導教員というより、その探究に伴走しているようなものだが、いろいろとからみあっている糸をほぐしていく作業に似て、しかしまた、大まかな俯瞰も要する。

2010年6月26日

  梅雨の一日、京都ユダヤ思想学会のため、京都大学へ。上山安敏氏と徳永惇氏の講演を聴く。私がこの学会と関係するのは、ただハンス・ヨナスを糸口にしてだが、ヨナスと関わり深いショーレムの話 を聴けてよかった。コーエン(このひとの名は、私には、新カント派の重鎮でしかなかったが)にも、忠実なるカント研究者とユダヤ教徒としての緊張関係があった。ヨナスの「哲学者であり、同時にユダヤ人であることの緊張」という述懐を思い出す。

  同日に京都大学で開催していた京都生命倫理研究会に懇親会から合流。 百万遍の店であったが、ここはもと柏軒というそば屋であったのではないかいな。当然ながら、学生時代にあった店で消えていったもの多し。もう30年になるものなあ。

2010年6月19日

  応用哲学会理事会のため、京都大学へ。早めにいき、学生時代によく散歩した真如堂を訪れる。菩提樹が黄色い花をつけている。説明文の一節に、「菩提樹の花期は短く、花をみることのできた方はご縁があったのでしょう」とお寺さんらしい文言。沙羅(夏椿)も咲いていた。朝に咲いて夕方には落ちる由。白い花弁が掌を合わせるようにして花芯を守っている楚楚とした花である。あさっては夏至。

2010年6月16日

  週13コマの過密スケジュールのなかで、きょうはたまたま授業なし。大阪中之島の国立国際美術館のルノワール展をみにいく。印象派のなかで、私が最も好むのはピサロ、シスレー、セザンヌといったところだが、久しぶりの美術館に心ほぐれる思い。Mademoiselle Irène Cahen d'Anversの像あり。大学生のころによくいった喫茶店にこの絵がかかっていたなあ。おお、このひとの父親はユダヤ人の銀行家 で伯爵だったのか。しかも、この栗色の髪の少女は1963年まで存命だったのだ。絵ができたのが1880年。そのとき、イレーヌ8歳。九十を越す長寿だったという勘定になる。してみると、私が小さな子どものころに、おばあさんになったイレーヌさんがフランスに生きていたんだな……などと、どうでもいいことを考えてしまう。夕方からは、義理で出る会合に。

2010年6月5日

  学校インターンシップの面接に立ち会う。今年は180余名が応募。この取組が特色GPに採択されたときの取組責任者だった経緯から、毎年、面接に立ち会っている。学校現場で教員の仕事を体験したいという学生には、真摯で前向きな学生も多く、そういう学生の希望につきあうこの仕事は、自分もなんとなく少しだけ真摯でいい人間になったような――錯覚だろうが――気がしないでもない。きょうは関西大学が大学に昇格した記念日で休校。またまた休日出勤でつかれはするが。研究室にくると、何やかや、雑用もしてしまうのでいけないのだが。

2010年5月23日

  内部進学の大学院入試で出校。大雨の一日。休日出勤が続いてへろへろだが、大学院重点大学が院生確保に躍起となっているなかでそれなりの受験者がいてくれるのはありがたいわけだ。

2010年5月15-16日

  哲学倫理学専修・比較宗教学専修・芸術学美術史専修の2年生合同合宿のため、関西大学飛鳥文化研究所へ。教員あわせて総勢80余名。就職、大学院進学、留学などについて情報をあたえて、夜は懇親会。昨年につづいて経理を担当 する。昨年、アルコールを飲む学生、飲まない学生それぞれだが、平均すれば、学生ひとりがチューハイ2缶くらいは飲むのじゃないかしらと予想したところ、「それは多すぎるのでは」という意見もあった 。だが、今回はだいたい仮説が実証された……。最近の学生はビールを好まず、カクテルとかチューハイがすきなのである。

  16日は飛鳥を散策したいところだが、教育懇談会、つまり学生のご両親が大学キャンパスにこられる日なので、大学へ。何組かの個人相談をうけて、4時過ぎに2日間の労働が終わる。

2010年5月8日

  関西倫理学会編集委員会と委員会のため大阪大学の豊中キャンパスへ。これで私の編集委員長としての任期は終わり。これまでこの学会では、大会で口頭発表したものを最短で翌々年3月刊行の機関誌にのせるほかなかった。それを短縮して、翌年に刊行する機関誌にのせられるようにする提案をしたが、いろいろ克服すべき問題あり。2案出して、次期の編集委員会にひきついでもらうことにする。

2010年5月1−5日

  実家に帰り、草むしりをし、少しだけ木を切る。裏庭にシャガがいっぱい。ぎぼうしも花をつけた。葉の伸びた水仙のなかから、房状の花をつけた草が出ている。水仙の葉を少し切ってたたせたが、なんという花かわからない。父か母かが植えたものだろう。かたばみはたんなる雑草だが、可憐な花をつけている。

2010年4月24-25日

  応用哲学会第2会大会のために北海道大学へ。安井絢子氏・竹中利彦氏の発表「ケアリングの「理想」は倫理的行動をどう導くか――ノディングスの「倫理的理想」とパスカルの「繊細の精神」」と伊勢俊彦氏の発表「感情に基盤を置く倫理と、遠い者、異質な者への配慮」の司会をつとめる。札幌はまだ積み上げた雪が残っている。ドイツでよくみかける早春に黄色い葉をつけた枝をたらす柳のような木あり。

  今年は、秋学期に研修をとるために春学期の授業が過密で、週13コマしないといけない。それで(文字通り)飛んで帰る。

2010年4月12日

  新学期の授業開始からちょうど1週間。きょうは全学共通科目(いわゆる教養)の「倫理学を学ぶ」が受講者400名を超えたので教室変更。授業で取り扱う内容、成績評価の方法、いわゆる一般教養教育が日本の大学に導入された経緯と目的とその実際の受容のされ方と、以上を顧慮した私自身の当該科目にたいする姿勢を話す。それで合わないと思ったら履修変更してくれればそれでよい。それでも1回目だからか、静かだな。400名だから、だらしない学生も当然まじっているものと覚悟して、叱ることからはじめなくてはならないかと思っ ていたら、そうせずにすんだ。

  今年配布された関西大学の学生実態調査では、以前より、「私語を厳しく注意してほしい」という要望が多い。私語が増えたというよりも、きちんとした対応を求める学生が増えてきた。そういう印象。

  私などは厳しくしかりつけるほうだ。それは学生のためを思ってというより、私の仕事と私が専門にしている学問へのほこりがそれをゆるさぬという、なかばegoisticな所作にすぎないが、しかし、授業アンケートで「授業環境がよくてうれしかった」などという回答をみると、功利主義的にみてもよいことをしているわけです。

2010年4月3日

  4月1日は入学式(これは出なくてよい)、2日は大学院新入生の履修ガイダンス、きょう3日は学部新入生の専修別ガイダンス。例年のことながら、「年のうちに春はきにけり 一年をこぞとやいはん今年とやいはん」というような混乱した気分を味わう。研究室の窓の外のさくら、満開。

2010年3月20日

  卒業式。今年は哲学倫理学専修では24名が卒業。私が指導教員をつとめた学生某嬢が専修内での卒業論文優秀賞にえらばれた。卒業式を終えて、京都へ移動。加茂直樹先生が 京都女子大学を退職されるので多年のご苦労をねぎらう会。会なかばから参加だが、スピーチには間にあった。京都生命倫理研究会が20年以上も続いているのは、加茂先生のお人柄によるものだろう。

  きょうはフランクフルトで買ってきた蝶ネクタイをしてみた。安かったから買ったものの、(することがあるかしら)と思っていたが、卒業式には、学生がふだん着ない和服を着てくる。ふだん身につけないものを身につける点でも、 教員たるもの、率先躬行することにした。しかし、蝶ネクタイはゆるめることができないぶんだけ、肩がこるような気がする。

2010年3月17日

  帰れば山のような書類に追われ、きょうは哲学倫理学専修に分属する新2年生のガイダンス。今年は35名。一種の自由競争のもとで、哲学倫理学に35名くるのはすごいものです。学生の名前と顔が一致しないから、承諾をとって写真をとって、名簿を作る。「2年の演習では、君たちが哲学と倫理学の文献をきっちり読めるようになるために、担当教員は鬼のように教える。2年の演習と哲学概論や倫理学概論で、だんだん自分のやりたいテーマや思想ができてきたら、3年の演習で研究発表する。3年の演習の担当者は、『なかなかいいところに目をつける』と励ましてくれるかもしれない。担当教員が仏のようにみえるだろう」。私は、どういうわけか、鬼の役割にまわることが多い。

2010年2月26日−3月12日

  Hans Jonasの研究を目的にドイツへ出張。ベルリンのテーゲル空港からバスに乗る。窓の外をみる。帰ってきたような気がする。(おや、変なことを考えるじゃないか)。私にとってあくまでドイツは異国である。私は自分の研究対象に同化してしまうような「秀才」でも「優等生」でもない。だから、同化の思いが破れて、一転して、西田や和辻をふりまわして日本回帰する危険もない――そう思っているのだが。何度か訪れるうちに、たんに見慣れた景色になったというだけだろう。

  とはいえ、ホテルの受付のひとに、"Berlin ist immer auf Bauen."(ベルリンはいつでも工事中ですね)と思わず語ってしまったように、いろいろとさまがわりしている。Unter den Lindenの駅がBrandenburger Torと名前を変えた。もとの駅名の掲示板も残っているが。私にとって『舞姫』以来、ウンテル・デン・リンデンの名は親しいものだが、たしかに、観光客にわかりやすくするには、ブランデンブルク門のほうがいいのだろう。

 

  ベルリンでは、Jonasが学んだHochschule für die Wissenschaft des Judentumsの資料を入手。Hochschuleの跡の建物(Leo Baeck Haus)を確認。ケルンでは、Neumarktにある中央図書館のなかにあるBiblio Judaicaとケルン大学の図書館で、Jonasが参画したユダヤ人学生の組織について調べる。歴史の専門家にとっては初歩の知識かもしれないが(しかし、私のみるところ、文献はそう多くない)、なにぶん、こんな細かい研究をするとは、自分でも数年前には思ってもみなかったのだから、なんだか、すべてが新鮮ではある。フランクフルトのJüdisches Museumをたんねんにみる。Jonasの生地のMönchengladbachの図書館に二度目の訪問をして、前回みなかった資料がないか、さがす、などなど歩き回った。

  ユダヤ関係の博物館や施設にいくと、訪問者のなかで黄色人種はただひとりというケースがしばしばある。今回は、ベルリンのNeue Synagogeでも、そうであった。「東」のほうから来たらしい一群(話していることばでわかる。そのことばの意味はわからなくても)、ドイツ語でなくて英語だけで質問するひと、どういうわけかカップル――三色に分けると、みな白色(色の濃淡はあるが)で、受付の男性は黒人であった。黄色いのは私だけ。大学を出たらしいような係員は、こちらの態度やそぶりから、こちらの意図や職種をみわけているように思えるが、あまり高等教育を受けていないらしくみえる係員のなかには、 奇妙なやつがまぎれこんできたというふうに、うさんくさそうにみるひともいる。そうかもしれない。

  これはユダヤ教ではなく、キリスト教の話になるが、幼子イエスを詣でる三王の絵を、ドイツの美術館ではずいぶんたくさん目にするが、そこには色の黒い王様は出てきても、黄色いひとは出てこない。私の生まれ育ったところは、伝統的なヨーロッパにとってのアジアや東(Ost)より 、もっともっと度外れに東なのだ。 そういえば、東洋からはるばる伝わった陶器をドイツでも生産できるようになって、日本人を意匠にあしらった(はずの)壺をみたことがあるが、その日本人の、ほとんどトルコ人とみまがうような顔立ち。それを作ったひとが抱いている「東」のイメージでそうなったのだろう。

 

  ついでに、2007年4月から2008年3月まで住まわせてもらったケルン大学のゲストハウスのあたりを散歩。おや、あの大きなクルミは切られたのかな。玄関先の トチノキの植え込みもなくなった。これでは、私の住んでいた部屋に面する裏庭にかんたんに入れるではないか――。しかし、入るのは遠慮する。やはり不法侵入だろう。それに入ってみて、何になるのか。前の住人が植えて、ツタのなかに埋没していたのを私が助け出したバラがどうなっているのか。ある 朝、裏側の出口の階段に死んでいたRotkehlchen(コマドリ)を埋めたお墓はどうなったのか。私の植えたEisbrecher(氷割り草)はどうなったのか――まあ、すべて過ぎたことです。

 

  休日にケルンからTrierまで足を伸ばして、Karl-Marx-Haus、つまりマルクスの生家をみる。パンフレットはドイツ語、英語、そして中国語。来訪者の記すノートにも、「馬克斯先生、万歳!」などという書き込みがある。表口では、マルクスの笑っている写真の横で、おみやげものとして 土地の名産モーゼルワインの広告があった。付属しているミュージアム・ショップで売っているのである。赤ワインだった。  

 

  帰途につくフランクフルト空港で、飛行機を降りてきた乗客のなかに、杖をついているおばあさんが乗務員の女性を抱きしめている。機内で親切にしてもらったのだろう。ところが、おばあさんはそこで車椅子に乗ったのだが、そのおばあさんの連れらしい中年女性(この女性は乳母車を押している。3歳くらいの金髪の男の子がそれに乗っていて、スラブ系の肌の茶色い小学校低学年の男の子がその子をかまっている)とルフトハンザの係員のあいだになにか悶着が起こる。パスポートをみせるように求めているのだが、「ない」といっているようだ。ドイツ語でないことばでまくしたてて、ルフトハンザの係員が両手を広げて肩をすくめる。

  車椅子に乗せられたおばあさんの不安な表情に、胸がふさがる思い。車椅子の左右に立ったルフトハンザの男性職員と女性職員とがドイツ語で議論しているのを、あいだに座って、谷のような位置にいるおばあさんは、脅かされたような表情でみあげている。

  だいぶたって、肩をすくめた係員が携帯で連絡をとったらしく、別の係員がやってきて、その女性とその女性のしゃべることばで話す。「ダー、ダー」「ドブロ」とかいっているから、ロシア語だろうな。係員同士がドイツ語で話しているのがもれきこえてきたのによれば、一行はアメリカにわたるためにフランクフルトで乗り継ぎするようだ。パスポートの話はどうなったかわからないが、なんとなく一件落着という感じで、新しくきた係員を先導に、中年女性は意気軒昂と、子どもははしゃぎながら、そして肩をすくめた係員が押す車椅子に乗ったおばあさんが続いて、どこかへ行ってしまった。

  

  ドイツは、零度を中央値にして上下7度−4度くらいの気温。クロッカスの芽が出ているのを目にしたと思ったら、翌日は雪といったぐあい。ドイツの食事を楽しむ。りんごのソースで煮詰めた紫キャベツ、その黒い汁のなかで見分けがつかない塊となってしまった牛肉、そのままテニスボールに使えそう に思えるくらいに弾力に富んだじゃがいもと小麦粉を練っただんご(Knödel)、ぐずぐずとゆでた塩味の(バターをからめるのだろう)太いErbse(エンドウ)、炒めて煮付けたChampignon(マッシュルーム)。ソーセージならミュンヘンのWeißwurst(子牛の肉で作った淡白な白ソーセージ。ミュンヘン特産だが、ベルリンでもBayern料理の店で食べられる)、レーゲンスブルクRegensburger(香味が強くてひきしまった味) 。朝食のWaldbeere(木苺)やHimbeere(ヤマモモ)のジャムを落としたヨーグルト 、ヨーグルトに似ているがいっそうこってりしているQuark、固くしまったBrötchen(楕円形のパン)とそれによくあう塩辛い生ハム、親指ほどのレバーソーセージ。Gulasch(ハンガリー風スープ)は牛肉の大和煮ふうで、Wienerschnitzel(ウィーン風カツレツ)はその肉の「薄さ」が日本人にはなじみやすい。そしてWeizen( 甘みの濃い白ビール)、Kölsch(すっきりしたケルンの澄んだビール)、Pils(あっさりしたベルリンの澄んだビール)、麦の香のするDunkel(黒ビール)。ウィスキーをちょっと練りこんだアイスクリームなどもなかなかいける。

2010年2月24日

  昨年11月に開発途上の土地に転居した。家の近くを歩いていると、腹が赤褐色で、背中は茶色い小鳥が電線にとまっている。在外研究でドイツのケルンに住んでいたとき、Rotkehlchen(文字通りには「赤いのど」。コマドリである)がきたことがあった。きょうみたのはコマドリ によく似ていたが、やや大きめ。コマドリのほうが全体の色合いがあざやかだ。乗換駅のホームに、このあたりに住む鳥の絵がある。それでみると、ジョウビタキらしい。

  ケルンでは大学の近く、町の真ん中に住んでいたが、Stadtwald(市の森林公園)が近かったので、いろいろな鳥がやってきたのをなつかしく思う。

2010年2月18日

  修士論文試問。今年は2本に立ち会う。そのあとで病気で休講した大学院授業の補講。かつてとくらべて、大学はじつに休みがなくなった。原稿を書かなくてはならない仕事がいくつかあるが、そのうちのひとつから「どんな具合ですか」と打診あり。 とうてい率直に申し上げにくいていたらくである。

  八方に借りのあるなり大晦日、とは、誰の句だったろう。

2010年2月15日

  卒業論文試問。今年は13本読む。私の指導したのは2人。カントとニーチェで、どちらもテクストをきちんと読んでいて、よいできで、副査にあたられた教員からも高く評価された。卒業演習では、カントとニーチェを一緒に読んだわけだが、カントの倫理はニーチェでは当然批判の対象だし(「老いたるあわれなカント!」といわれてしまう)、ニーチェの議論はカントからすれば批判の対象だし、なんだか精神が分裂しそうな演習ではあったけれども。

2010年2月10日−12日

  研究分担者をつとめている科研の共同研究の報告書の編集のために、富山大学へ。ドイツの教授の講演会の質疑応答のドイツ語を翻訳するなどの作業に従事。富山にきたのははじめて 。ドイツ語のテープ起こしをしてくださったカペラさんの送別会を兼ねて、晩は、のどぐろの焼き物、白えびのから揚げ、えびのうにあえ、などに舌鼓をうつ。お酒は満寿泉、なかなかよし。

  帰途、みぞれのふるなかを、福井の中野重治の生地をたずねる。ここは2004年に一度来た。小説『梨の花』に出てくる酒屋の高瀬屋はそのころもう店を閉めていたが、今回は隣の高田屋が代替わりしていた。中野重治は自分の故郷を「丸岡町」に合併したあとも「高椋村」と呼んでいたが、今度はさらに「坂井市」になってしまった。彼の生まれた一本田はまだ村落というふんいきだけれども、幅の広い舗装道路 が縦横に走り、やはり『梨の花』に出てくる西瓜屋(にしうりや)といった近くの集落には店屋も多く、往時をしのぶわけにもいかないのはぜひもない。

  福井では、常山、花垣といった銘酒を知る。おろしそば、なんともよし。

2010年2月1日−8日

  入試。試験監督。 「となりの受験生の鼻をすする音がうるさい」という受験生と「となりの受験生のもちこんだ時計の音が気になる」という受験生がいて、実施本部と相談のうえ、対応する。たいへんだけれども、問題は、その受験生がナーバスすぎるかどうかではなく、受験するのによりよい環境を提供することなのだから、しかたない。

  対応するさいに実施本部の指示を仰ぐのは、個別に「臨機応変」に措置したら、不公平になるおそれがあるからだ。そういうわけで、誰もが同じような措置をするだろうと思われるような事例についても、試験監督要領のなかに、あらかじめ対処のやり方が指示されている。たとえば、「写真照合のあとに志願者よりも多い受験生が着席している場合は、どうすればよいでしょうか」といったふうに――。けっして「ざしきわらしが混じっているのです。ざしきわらしは本学に財宝をもたらすものですから、丁重にもてなしましょう」などとは書いていない。  

2010年1月28日

  母の一周忌。法要はこの日のまえにすませたが、粗供養のお菓子をお届けした方々から、「お彼岸などにいただいた手作りのおはぎをなつかしく思い出します。いいお味でいくつも食べられて……」などというおことばをいただく。母の手作りの餡は甘みをおさえたものだった。餡が煮詰まると、こげつかぬように木じゃくしでかきまわす。木じゃくしがすうっと動くと、真鍮の鍋底が顔を出す。小豆の皮が破れて餡状になったなかに、まだつぶれていない濃い紫の小豆の皮がところどころ残っていて、なるほど、萩の花を思い出させるのだった。

2010年1月9日

  名古屋哲学会で「Hans Jonasとの対話――グノーシス、生命、未来倫理、アウシュヴィッツ以後の神」と題して講演。分析哲学系の方が多いように思えたので、ヨナスの形而上学はトンデモ本みたいにうけとられるかと思ったが、倫理の自然主義的基礎づけの立場に好意を寄せる方々から「意外におもしろいではないか」との感想をいただく。やってみないとわからないものです。

 

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