往ったり、来たり、立ったり、座ったり

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2012年12月25日

   クリスマス。今年は、きょうまで授業があった。キリスト教系の大学ではないものだから、当然、休みではない。とはいえ、私もクリスチャンではないから、特段、することもない。ドイツに1年いたときに、近所のプロテスタントの教会で子どもたちの劇をみたのを思い出す。最後にわらを1本もらった。今でも、どこかにしまいこんでいるはず。

  今年は、5月に東京で開かれた国際会議Uehiro Carnegie Oxford Conferenceで"What is the status of human being?: manipulating subject, manipulated object, and human dignity"と題して発表し、9月に仙台で開かれたハイデガー・フォーラムで基調講演「技術、人間、責任」を行った。その二つの責務を果たしただけで手一杯だった。そのほか は、2月にHandai Metaphysicaで報告し、これはYou Tubeに録画が載っている。活字になったものには、1月に『生命倫理の基本概念』(丸善)に収めた「責任」、3月に関西大学文学部の紀要『文学論集』に収めた「正義概念覚書」、10月に南山大学社会倫理研究所の機関誌『社会と倫理』に載せた書評があるが、なんとなく 体力、気力、生産力のおとろえを感じた一年だった。5月と9月の発表は、来年には電子ジャーナルには載るはずで、つまりは「活字になると業績だ」という感覚ももう古いのかもしれない。

  しかし、数えてみれば、招待を受けての講演ないし発表が3本、共著書1本、論文1本、書評1本にはなるわけだ。 「まあ、まだ、そんなに老け込む年ではございません」と、自分で自分に声をかけて、新たな年を迎えることにしよう。

2012年12月22-23日

   京都生命倫理研究会のため、京都大学へ。1日目は盛永審一郎富山大学教授を研究代表者とする終末期医療を主題とする科学研究費による研究会。私もその研究分担者のひとりである。米国ワシントン州、スイス、フランス、ドイツの事情についての報告を聞く。2日目は奥田太郎氏の『倫理学という構え――応用倫理学原論』の書評。 この本のなかには、倫理学者の役割についての議論があり、私が1999年に唱えたコーディネーター説についても言及していただいた。特定質問者のひとりが、「品川哲彦、水谷雅彦、川本隆史といったオジサンたちがしていた議論を……」と言及したので、私の特定質問の番になったときに「では、オジサンからのコメント」といって始める。なお、この 書評はいずれどこかから活字となって公表される予定である。

    たしかに、私の世代より下の世代が研究の中堅、さらには中心を担いつつある。そういえば、今回、京都生命倫理研究会の最も初期のメンバーで出席していたのは、加茂直樹先生、水谷雅彦さん、それに私だけだった。もちろん、いろいろな用が輻輳してこれないひともいただろう。次回の3月26日の会には、私自身も入試関連業務でこれないことが確定している。

   この会の柱の加茂先生から私家版の回想記をいただく。加茂先生が旧満州のお生まれだったことは前から存じており、いつか満州引き上げのお話を伺いたいと思っていたが、その機会がなかった。明快な文章で、いただいた日のうちに読み終える。

2012年12月18日

   衆院選挙は自民党の圧勝で終わり、ふたたび安倍政権となり、麻生太郎が入閣するという報道がある。安倍が退陣した2007年に、私はドイツにいた。その9月14日のこのサイトに次の文章を載せている(実際には、安倍の後継は大方の読みが外れて福田だったが)。

  Ministerpräsident Abe(安倍首相)の突如の退陣について、Frankfurter Allgemeineの9月13日付の記事。不安定な政治状況が日本経済におよぼす影響を危惧。日本は世界で第二位の国民経済の国で、最も借金の多い国(国の借金の山は5兆ユーロ)だが、前任者小泉が経済に力点をおいたのに、安倍は改憲に力点をおいたため、企業、投資家、選挙民の支持をえられなかった、と。後継には麻生が有力視されているが、古いコンツェルンの出で、70年代に麻生は自分が経営に関わっていた企業の戦争中の歴史を清算できていない。麻生は周辺諸国に強硬な外交姿勢を示すが、「12000人の朝鮮人、中国人を強制労働にかりだしたAso Mining Co.」を出自とする麻生は、中国や朝鮮からみれば、1930年代に自国を侵略、支配した日本を「象徴する人物(Symbolfigur)」だろう、とある。

  ドイツも戦時中に外国人を強制労働にかりたてた。だが、90年代から21世紀初頭まで、国も企業もその補償につとめた(三島憲一『現代ドイツ』岩波新書、174−9頁)。

  ネット上では、麻生は「アニメ好きな、ちょいワルのおじさん」として若者に人気があるそうだ。だが、麻生個人の性格はともかく、彼のアイデンティティや(彼がなかばうけついできた)資産形成に目をつければ、近隣の国からは「ちょいワル」どころか「極悪」にみられる可能性をもっているわけだ。戦前の歴史をじゅうぶんに教えられていない若いひとたちが彼を支持するその光景は、日本の外からは「反省なき日本」にみえてくるのではないか。

  ちなみに、Frankfurter Allgemeineは保守的なほうの新聞である。

  なんだか5年前に戻ったようにもみえるが、それだけではあるまい。たとえば、自民党政権が景気回復にそれなりに成功し、次の参院選でも圧勝すれば、改憲が俎上にあがるだろう。ワイマール時代のドイツのナチス政権への移行に流れが似ている。あの時代も、社会民主主義、共産主義の政党が退潮したし、ナチス政権はとりあえずは景気回復に成功したのだった。むろん、安倍や橋下がヒトラーに似ているという捉え方は、狼少年ふうで、感情的にすぎる。安倍は一度政権を投げ出しており、橋下のイメージは、今回、石原と組んだことであいまいになった。おそらくそれほどのカリスマ性があるわけではないだろう。しかし、日本という国は、誰がというリーダーがいないままに(東条英機は国民的人気があったわけではあるまい)、国を挙げての翼賛体制になった歴史がある。

  ついでに、参院選で自民党が大敗したことにふれた2007年7月30日に載せた文章を再掲すると、

 ドイツで日本の報道はあまりみないが、さすがに Oberhaus(直訳すれば「上院」だが、参議院は、もとはといえば貴族院だからこうなるのだろう)の自民大敗を一面に載せた新聞が多い。 Frankfurter Allgemeine は、貧富の差の拡大、年金問題をあげて、「安倍は貧しい層の窮状にたいする配慮が足りないと非難されていた」と説明。閣僚のスキャンダル、自殺、原爆やむなしの発言についても、要領よく紹介している。Zeit はRechtkonservativ(保守主義者のまえに「右の」がつく)安倍の主たる政策は戦後の平和主義的な憲法の改革と愛国心の涵養だ、と紹介。橋本のときとちがってすぐに退陣しないのは、後継候補がいないからだ、とも。それで、Ministerpräsident Abeをとりまく状況はドイツの読者にもわかろうが、大勝が報じられるDP(民主党)の政策は書いていない。すっきりとは書けないのかもしれない。

  日本の政治状況がいまひとつみえにくいのは、「経済のグローバル化+愛国心」VS「社会民主主義+連帯」といった対立軸が自民党対民主党のあいだにないからだ。だれがだれの利益代表なのやら……。Frankfurter Allgemeine の経済面は、日本の経済・税制の改革が遅れるおそれを指摘しているが、自民党が改革派で、民主党が守旧派ともいえまい。自民党の票田だった(今回の選挙で過去形)農村地帯が自分は規制緩和の受益者だと思い込めるはずはないし、小沢も以前は「小さな政府」の主唱者だったのだから。Neue Züricher Zeitung に「安倍の前任者はカリスマ的な小泉」とあったが、結局、Populist頼みの政治なのだろうか。

2012年12月15日

  日本倫理学会評議員会のため、日本女子大学西生田キャンパスへ。けやきがすっかり葉を落として、さむざむとした関東の冬景色。私の生まれた場所もこの多摩丘陵だから、私の原風景とはこんなものかとも思う。小学校の校庭に霜柱が立って、表面が細かにひび割れて、運動靴で蹴飛ばすと、はがれて飛んでいったのを思い出す。今はさほどは寒くもあるまいが。

2012年12月8日

   11月末の院祭とそのあとの学内の学会の雑誌の締切が終わったので、一種の打ち上げをかねて、大学院生と京都に遠足へ。龍安寺の石庭をみ、指導学生のなかにただひとり だけいる留学生が金閣寺をまだみていないということなので立命館大学の横をとおって金閣寺に回る。京都らしい時雨もようの一日で、急に雲が切れ、日がさしてくる。そうなるとさすがに金閣寺は荘厳であった(どうも、私はあのキンキラな感じに通俗的に通俗性を感じていたようだ)。金閣寺を出て、「さて、それではどこに行こうか」というと、だいぶ寒さの厳しい日だったので、「室内であたたまりたい」という。そこらへんの喫茶店よりはと考えて、タクシーで今宮神社に出て、名物のあぶり餅を食べる。私をのぞいて初めてだった ようだが、この餅は学生全員に評判がよかった。餅の味もさることながら、やはり神社のすぐそばの古いお店、石油ストーブを配した座敷で食べるというセッティングもいいのだろう。

2012年11月29-30日

   大学院生の研究発表会。大学院生の自主運営の会であって、院祭と呼んでいる。そういうところに指導教員が出て行くと、演習みたいなふんいきになってしまうので、例年、出ていなかったが、出席者が少ないかもしれないという心配を聞いていたので出てみる。思ったより出席者は多し。現在、私の指導している学生だけではなく、その他の学生の発表も聞く。それぞれそれなりにまとまった発表であった。

2012年11月18-21日

   18日の夕方に日曜にテレビで相撲をみていたが、「漫然とテレビをみていては時間がもったいない! テレビをみながらできることをしよう」と思ってスクワットを少しする(画面を目で追いながらでは、腕立て伏せや腹筋はできないのである)。その結果、翌朝、腰が痛くなった……と思っていたら、20日の夜に久しぶりに発熱。かぜをひいていたようだ。さいわい、寝たら治り、21日にはいつもどおり授業ができた。やれやれ。

2012年11月2-3日

   関西倫理学会のために信州大学へ。司会2本をこなし(ヨナスの発表とケアの倫理の発表)、委員会、1日目の発表を聞く。2日目のシンポジウムは失礼する。

  松本という町を初めて訪れる。開智学校については以前から知っていて、一度、みたいと思っていた。明治初頭の太政官布告のなかの「邑(むら)に一戸の不学の家なく、家に一人の不学の人なからしめん」という啓蒙の精神に心動かされる。日本の大工が東京・横浜を見学して建てた洋館だが、塔に掲げた看板をもっている天使らしき裸体の少年は新聞に載っていた意匠を参考にしたというところがおもしろい。

2012年10月27-28日

     関西哲学会大会のために名古屋大学へ。今年は一般発表が多く、両日ともに朝9時からはじまる。精励恪勤で、発表はすべて聴く。若手の優れた研究者が出てきているという印象(年寄りじみた感想だが)。都合でシンポジウムは遺憾ながら失礼する。

2012年10月24日

   出張講義「脳死はひとの死か」のために宝塚北高校へ。「学外からきたお客さんにはあいさつをするように」という指導が徹底している高校のようで、廊下を歩いていると、とおりあわせた生徒の多くに「こんにちわー」とあいさつされ、それにこちらも答えるからずっと「こんにちわー」のいいつづけである。50分の授業を2回。静かに熱心に聴いてくれた。

   宝塚駅で降りるのは初めて。駅から南のほうにみえる建築が大歌劇場とやらかと思う。しかし、用があってとんぼがえり。

2012年10月20日

  大学院生4人と一緒に遠足にいく。天龍寺の庭園をみて、嵐山を散歩。紅葉はまだだが少し色づいたところもあり。一応、天龍寺の池泉式庭園の見所、池泉式庭園のかんたんな歴史――といっても、私の知るところではないから、インターネットで探した情報――、臨済宗についての紹介と『臨済録』の一節からの引用を事前に配布。学生はちゃんと読んできたところが感心。

  夕食は河原町に出る。ビールをジンジャーエールで割ったもの(Shandy Gaff)など飲む。ドイツでものめずらしさにラドラー(Radler。ビールをレモネードで割ったもの)を飲んだこともあるが、「この手のものはこれきり飲まないだろうな」と思っていた 。きょう、飲んでみるとうまく感じる。なにぶん女子会むきの店――オジサンである教授が探し出してきたのである――なので、料理もそういう酒に合うわけだ。給仕は今風の若い男子ばかり。「この店で働くには、ある基準を満たさないと無理のようですね」と感想を述べると、ひとりの学生が「このお店に入ってすぐにそう思いました」と観察眼のするどいところを発揮する。「ふだん、私の接している男子学生にはいないタイプだが……」というと、「たしかに関大にはいない」「関大にはいるかもしれないけど、哲学倫理学専修にはいない」ということになった。私にとっては、遠足の後半部分が社会見学であった。

2012年10月13-14日

   日本倫理学会大会のため、日本女子大学の目白キャンパスへ。ヨナスの『アウシュヴィッツ以後の神』を訳したことが契機となって、神義論に関心をもっているので、主題別討議のライプニッツを聴く。なかなかおもしろし。「善」と「価値」という概念をきっちり分けるべきではないかという問いを抱く。この世界が最善なることが人間にとって最善という意味を保証しないというのがライプニッツの立場だとすれば、「この世界の最善なることがとうとう人間にとっては理解できない――人間にとって善いという人間の側からの価値づけを超えている可能性もある」という意味なら、善と価値は分けるべきだろう。しかし、理性的存在者である人間にはこの世界の最善性がいずれは知解可能なものだとすれば(合理論という立場からすると、ライプニッツの見解はこちらに近づくのであろうが)、この世界の最善は人間にとっての善つまり人間の側からの価値づけからも理解できることになる。懇親会で報告者のおひとりにそれについて若干のやりとり。

2012年9月16-17日

     第7回ハイデガー・フォーラム(「自然と技術への問い」、特集「ソクラテス以前とハイデガー以後」)での発表(題目は「技術、責任、人間」)のため、東北大学へ。依頼があったときに、今ひとつ気乗りがしなかった。私が発表するのは(また、依頼されたのは)ヨナスについてだが、ヨナスで発表すればハイデガーにたいして、とくにそのナチズムへの協力に関して、批判的な内容にならざるをえない。もし、聴衆が、何を聞いても「ハイデガーが最も際立った哲学者だ」と思うようなひとたちなら、私が発表してもしかたないだろうし、あるいはまた、ハイデガーに心酔するあまりにハイデガーが批判されると自分が非難されたようにいきりたつような、あるいはよくも考えずにしたり顔で反撃せずにはいられない若手もいそうで、そんなひとの質問をうけるのもわずらわしい気がしたからだ。

   しかし、実際にしてみると、質問の多くは――学会である以上、あたりまえといえばあたりまえだが――発表内容を通じてヨナスを(批判的ではあれ)的確に理解しようというもので、報告者としてやりがいのある時間を過ごさせていただいた。発表のなかに、東北大学で教えたレーヴィットへの言及もできて、私としては満足(日本の学者を「二階建ての家に住む」と皮肉ったレーヴィットへのオマージュにしたかったのだ)。

   発表が終わったあと、挙手して質問されなかった濃紺の背広を着た60代とおぼしき方が私のもとにやってこられて「私はヨナスが嫌いだ」といわれる。「お読みになっていないのでしょう」というと、「読みかけたが、いやになって、すぐにやめた」。「好き嫌いはしかたありませんね」とそらすと、「好き嫌いじゃない。あんなやつ……」といってもう一度「私はヨナスが嫌いだ」といって立ち去った。あたかも、私の気分を害すれば、目標が達成されるかのように――。名前を うかがえば、おそらく私も知っているどこかの教授だろうが、そんな名前を覚えてもしかたないのでそのまま捨て置く。うーん。若手の凝り固まりハイデッゲリアンの登場は予想していたが、年配の凝り固まりは予想していなかった。年をとってしまったら、もう治るまい。

2012年9月4日

   哲学専修の大学院生の研究発表会のために、関西大学中之島センターへ。発表はどれもそれなりに力が入っており、おもしろかった。

   まだ暑いが、川の流れにはさまれた中洲の木々の植わった一郭に公会堂や図書館の歴史的な建物が立ち並んでいる風情はなかなかよろしい。この一郭はそのままに残すべきだろう。文楽には金を出さぬが、カジノには金を出すというひとたちが大阪を牛耳っている今、先々の見通しは明るくないが。カジノでいくら金が動いても、まさにあぶく銭。そのあぶく銭が落ちるから、大阪の町がもうかるという腹づもりだろうが、かりにあぶく銭が町に落ちるとして、一部の飲み食いの店が繁盛するだけではないか。ヨーロッパの美しい海岸線の町にカジノがあるなら、それなりに明るい雰囲気もするが、今の大阪のイメージにカジノを付け加えると、どうもすさんだ気分がする。

2012年8月13-16日

  誰もいない実家にいき、お盆の迎え火と送り火を行なう。父母の位牌も私と一緒に移動するわけだが、父の姪の方がみえて、「おじちゃん、おばちゃんもこうして帰る家があるから安心でしょう」という。亡くなった親の家や墓をほったらかしにしている家々を知っているので、こういうことをいわれるのだが、また、一応、実家を守っていることになるのかもしれぬ私の労もねぎらってくれているのだろう。しかし、すると、いつも父母の位牌をおいている私の家には、父母は居候みたいにいることになるのだろうか。そもそも位牌に霊が宿っているという発想とお盆に霊が帰ってくるという発想とどう両立するのか。仏教渡来以前からあるだろう信仰と日本に仏教が入ってきてからできた慣習とのあいだに、どうも不整合というか食い違いがあるのだが、江戸時代の寺請制度以来、家系レベルで檀家と結びついて財政的基盤を確保できてきた日本の仏教はそのあたりのことをあまり積極的に解明しようという気持ちがないのではないか。

  ハチがまた巣をかけている。今度はかなり高いところ。それで、今回は不干渉主義をとる。

2012年8月8日

  兵庫県立美術館にピサロ展をみにいく。ピサロは最も好きな画家のひとりである。会期が長いので二回ぐらい足を運ぶことになるかなどと考えていたが、実際には忙しい日々をすごして、会期終了近くにかけつけるというはめになってしまった。印象派の他の画家との交渉は知っていたが、その他の伝記的事実はあまり知らず、ピサロがユダヤ人で、その晩年(ドレフュス事件がおきた頃である)には社会主義にも関心を示したことをはじめて知る。初期の作品には、やはりユダヤ人画家のリーバーマンを思い出させるような灰色がかった緑で草を描いた作品があった。もちろん、ピサロらしい春の陽光に輝く花盛りの木々の絵もあり、気持ちをなぐさめられる。

2012年7月30日

   第一学習社主催の小論文研修会のため、静岡へ。高校の先生方100余名に「大学は小論文入試に何を求めているか」と題して講演し、そのあとに座談会。小論文指導には、国語科の先生方があたられることが多い。しかし、試験科目に国語を出題して、そのうえに小論文を出題する大学は、国語という科目が文学的作品に偏りすぎているから、小論文を出題しているのだ。作文と小論文の違いを強調し、大学入学以後の導入教育のめざすことと小論文との関係を話す。

  車窓のむこうに、風にそよいでいるとうもろこしの畑、竹を組んで支えているのはトマトだろうか、今をさかりのひまわりが突っ立っている。夏らしい景色を楽しむ。

2012年7月27日

  新聞の一面に岡本道雄氏逝去の報あり。私が京都大学に入学したときの学長であった。まだ、学生運動のなごりがあって、朝日新聞には、社会面に、学生によって演壇から引きずりおろされる場面の写真が載っていた。私の入学する直前の卒業式のようである。 京大時計台に「竹本処分粉砕」と白ペンキで書かれていたころのことである。あるとき、学生の学長団交があって、私も一学生としてみにいった。学生の追及にたいしてぬらりくらりとした答弁をしたあげく、「今度のこの答えには、いい点をください」などともいわれた。顔からしても「たぬき」という印象があった。しかし、同時に、総合的に考える能力もあり、相当に中身もあるひとにもみえた。――ずいぶんないいようだが、こちらが中身のない、しかし若さだけはある若者で、たいていのおとなはできそこないのカタログのようにみえていた時分なので、そんなふうにみてしまったのである。

  私が大学院生だったころには、すでに学長は交替していた。新たな学長は、たしかダムの研究者だったかと思うが、何かのおりにそのあまりに中身のない挨拶を聞いて、鼻白む思いをしたものだ。大学教員となった今となっては、大学の役職者たちの中身のない挨拶にはもはやすっかり慣れてしまったけれども。

2012年7月21日

   関西大学哲学会春季大会。指導している大学院生が発表。以前、指導していた学生の発表に真っ先に厳しい批評を加えたことがあった。事前にわかっていたら、そのときに注意していたはずだが、事前に原稿をみせにこなかった。ひょっとして他の先生が(私に)遠慮して注意されないとよくないので、がつんと最初にかましたわけだ。今回は事前に原稿に目をとおしていたので、ある程度の安心はあったが、他の方からの質問も、また、それにたいする回答も――回答のほうはもっと磨く余地があるが――的確だった。意図や問題提起がきちんと通じる発表でなければ、議論をとおして発表者にも参加者にもプラスになるような的確な質問は出ないのである。

   懇親会でだいぶ飲んでしまう。指導する学生の発表に安堵したためかもしれない。こんな調子では、もし、指導する大学院生がたくさんいるような大学に勤めていたら、身がもたなかったかもしれない 。もっともそのときにはそのときで、「なにぶんたくさんいるんだから」というふうにふるいにかけるように考えてもっと平然とした対応をとっているものかもしれない。

2012年7月15日

     連休に東京にきたついでに、もはや住むひとのいない実家の草むしりをする。家の角にハチが巣をかけているのを発見。まだそう大きくなく、3匹ほどで工事中。ハチには気の毒だが、ここに作られてはこちらが危ない。しかし、退治しようとして逆に私が刺されて倒れたら、誰も通報する者がなく、こちらが死んでしまうかもしれない。できるだけ肌を隠して、遠くから殺虫剤をかける。ハチは逃避。さいわい向かってこなかったので、巣に薬をかける。しばらくすると、一匹だけ戻ってなおも工事を続行中。ふたたびかけて逃げた合間に、ほうきの柄で巣を叩き落す。二年前だか、気づかぬうちに二階のひさしに巣をかけていた。今回は一階で、せいぜい地面から2メートルくらいの高さか。今年は大風が吹くのだろうか。

2012年7月14日

   科学研究費基盤研究(B)「世界における終末期の意思決定に関する原理・法・文献の批判的研究とガイドライン作成」の第2回研究会のため、上智大学へ。オランダにおける安楽死法の制定の過程、ルクセンブルクの緩和ケア法と安楽死法の制定の過程についての報告を聞く。私たちが大学院を出るころの生命倫理学での論点がだいぶ変容かつ推移しているということをあらためて意識する。関西はくもり、関東は夏空が出て晴れ。同日、行われた日本哲学会の編集委員会には失礼する。

2012年6月9日

   京都ユダヤ思想学会のため、神戸松蔭女子大学へ。この学会の会員になるほど私のこの分野の知識はないのだが、第1回、第2回の大会に非会員として出席するうちに、強力に入会を勧める方がいて入会した。毎回、初耳の話が多く、たいへんおもしろい。今回も、ウルガタ聖書の話、ヨナ書の話、聖書学の歴史学的アプローチの話。どれも、解釈というものが(この場合は、ユダヤ教からみて、カトリックないしキリスト教側の)バイアスがかかっているものであることの確認ができる。ヨナ書については、デュッセルドルフの大学のKunstpalastの美術館に大魚 がヨナを吐き出す絵があったのを思い出す。チャペルでのオルガン演奏もありがたかった。……もっとも、ミッション系の女子大学にまる一日いた反動からか、帰りは十三(じゅうそう)で下りて串カツ屋で一杯飲んでしまう。

2012年5月31日

   先々週、Uehiro Carnegie Oxford Conference 2012での発表のため、休講せざるを得なかった倫理学概論を補講。正規の時間が5時限のところへ、「補講は正規の授業と重ならぬように6時限、7時限に行うべし」との事務通達から、6時限に、つまり2コマ続けてやることとする。

  先週の授業の最後にそれを告げたら、前のほうにすわっていた女子学生のふたりづれのひとりが「死ぬぅー!」と叫んだ。私「今、『死ぬぅー!』という叫びが聞こえたが、ともかく補講することとして……」。で、補講でとりあげる内容を話しつづけていると、そのふたりづれが話している声が耳に入ってくる。「6時限まで授業 受けると、腹、へるでぇー」「ふーん」「あ、終わったあとでラーメン食べにいこか」「え、ラーメン! ここんところ食べてへんなあ。いこ、いこ!」――というわけで、補講をうけるという苦 を補講のあとにラーメンを食べるという快によって克服したおふたりの女子学生をはじめ、相当数の学生が感心なことに補講に出席してくれた。おたがいさまに、お疲れさま。

2012年5月22日

   関西倫理学会の学会ホームページをホームページ立ち上げの2003年4月29日からずっと管理運営してきた。当時、私が事務局だったから作成したのだが、その後も、事務局にHP運営のできる人材がいないとの理由もあって、ずるずると続けてきた。しかし、そうそういつまでも私がやるのもどうかと思い、返上を願いあげる。さいわい、19日の委員会(私は出張で欠席)で認められたとの連絡あり。こうしてだんだんといろいろなことから手を引いていくのが賢明というべし。

2012年5月20日

     関西大学教育後援会(学生のご父母の教育相談会)のため出講。今年は、春学期の2年生のゼミを2クラスともうけもっているので、2年生のご父母のご相談に対応。

2012年5月17-18日

   Life: Its Nature, Value and Meaning -- No Turning Back? Ethics for the Future of Lifeと題する国際会議 Uehiro, Carnegie, Oxford Conference 2012(於 国際文化会館、東京)に出席。18日に、"What is the status of the human being?: manipulating subject, manipulated object, and human dignity"と題して発表。

   Tom Beauchamp氏から、「人間の尊厳概念は、そこから具体的な規範が導出しにくい概念ではないか」という質問、Roger Crisp氏から「あなたは大陸系の哲学に影響を受けられているようだが、身体なきpersonの存在は認めないのか」という質問あり。前者はよくいわれることであって、たしかに、幾何学の公理のように、人間の尊厳概念から直接に具体的な規範がひきだされるのはむずかしい。しかし、そもそもの倫理的討議の根底にこれがおかれるべきだという主張を私はしているにすぎない。ちょうど、ヨナスのDas Prinzip VerantwortungのPrinzipが、具体的規範を引き出す原則という意味でなく、それを根底において未来倫理を考えなくてはならないという意味のそれであるように。

   ヨナスとハーバマスを援用した発表だから、"continental"のひとことが出てきたのだろう。私の発表は、人間の尊厳概念に依拠しないで個々の人格を尊重するということはnominalisticな議論であって、基礎を欠くという主張だったが、なにぶん、nominalistぞろいなので、あまり聞き届けられなかったという印象。まあ、Leon CassやMichael Sandelといったひとたちがいれば、聞き届けてくださるということもあろうが、それを期待するものでもないが。

2012年5月5−6日

   忙しい日程に隙間をあけて、実家に行き、草むしりをしてそそくさと帰る。エビネ、オオバギボウシの花が咲いている。シャガの花は可憐だが、ヤブランとともに蔓延してしまい、困ったものだ。6日にショウブが開花した。マムシソウというきみの悪い草が元気よく葉を出している。これは秋に赤い実をつける。テンモンドウが明るい緑の芽を出し、シャリンバイが白い花をつけている。

   6日午後2時ごろ、一天にわかにかきくもり、強い風が吹いて雷雨となる。この日、茨城や埼玉では竜巻、落雷による死傷者が出た。私の実家のあたりはそこまで荒れず、夕方には虹が出た。ふだんしない肉体労働にくたびれ、母の好んでいた天の川という蘭の鉢を抱えて帰阪する。

2012年4月20-22日

   21日9:30から開始する応用哲学会のため、千葉大学へ。理事会に出て、午後、発表2本の司会を務める。この学会は、まだ4年目だから当然といえば当然だが、活気 がある(事前の原稿を含めて、若干、発表者の使う概念や問題設定に甘さを感じることもあるが)。

   22日は応用哲学会のほうは失礼して、共同研究をしている科研基盤研究(B)の研究会(安楽死の問題)のために上智大学へ。今年は一時期、気温があがったが、ここにきて少し低め。そろそろ咲いてもいい藤の花やつつじはまだつぼみが多い。

2012年4月15日

   私を指導教員とする大学院生も少しふえたので、花見でもしようかということになり、大阪万博記念公園にいく。散り初めだが、さいわいまだ咲いている。すごい人出。ポピーも花盛り。女子学生のひとりが四つ葉のクローバーを発見する。「わくわく……ランド」とかいう施設の中国語訳が「激○人心的」となっている。「○」が「云」と「力」を合わせた字だったので中国からの留学生にきくと「動」で「激動人心的」となり、それで熟語であるそうな。千里中央で夕食して解散。あまりこういう催しをしたことがないが、また今度、お寺や神社をみる会でも開こうかということになる。

2012年4月2日

   大学院入学式。履修ガイダンスに出席し、大学院文学研究科哲学専修のなかの哲学哲学史と哲学倫理学に入学した諸君に履修指導。文部科学省が1セメンスター15回、きっちり授業をするようにという方針を徹底した関係で、今年の授業開始は4月4日である。新入生はわずか2日のあいだに履修登録を済ませることとなる。あとで変更することは可能とはいえ、知らぬ場所に初めてきたひとにとっては気の毒な日程だとは思うが、やむをえない。

2012年3月28-29日

   研究分担者になっている科研に関連するシンポジウム「死の質の良さとは何か――オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの安楽死法――」のため、早稲田大学へ。質問ひとつ。loss of dignityという表現が使われているが、どのような状態を念頭においてその概念は使われているのか、と。しかし、「明確な定義はないし、ないほうが適切である。何をもってdignityを失ったとみるかは、ひとによって違うから」という回答。それはそれでもっともに聞こえるが、オランダでは、「耐えられない痛み」を理由に安楽死ないし医師による自殺幇助を望む患者に、重ねて「尊厳を失うほどの痛みか」と聞くとのこと。だとすれば、むしろ、この概念についての共通の理解のないまま、本人の自己決定を重んじていることになろう。アメリカふうのバイオエシックスではそうであるかもしれぬが、ヨーロッパでもそうなりつつあるのか。「しかし……」という疑問が残る。

2012年3月21日

   修士の学位授与式。大学全体の式を終えたあと、哲学専修(哲学哲学史、哲学倫理学、比較宗教学)と芸術学美術史専修が一体となって学位記を授与するわけだが、難病を克服して修士号を得た方がいてテレビ局が入り、かつまた、修士授与式ではめったにないことに、複数のご家族の方がいらっしゃったので、例年になく、にぎやかな式となる。

2012年3月19日

   卒業式。毎年ながら、送り出すとかお別れとかいうと、気恥ずかしいような気分。オレンジのガーベラ、黄色とピンクのバラを配した花束をいただいて学生と写真をとる。

2012年3月16日

  第18回関西大学生命倫理研究会を開く。今回は、アメリカの生命倫理学の研究拠点Hastings Centerの機関誌Hastings Center Reportに掲載された論文から、大学院生2人と私が内容を紹介し、問題を提起するというもの。とりあげたテーマは、生まれてくる子の遺伝子を操作することを戒めるハーバマスの類倫理にたいする反論、尊厳死法(日本でいう消極的安楽死という意味のいわゆる尊厳死ではなくて、患者の要請にもとづいて直接に死の原因となる薬物を医師が与えて患者が服用することを尊厳死と呼んでいる)による死にたいするホスピスの態度と行動、苦痛を鎮静するために意識喪失にいたるまで麻酔薬を投与する終末期セデーションないし緩和セデーションだった。遠来の方に、「参考になります。学生さんもよく勉強していますね」といわれて、面目をほどこす。紹介した論文の著者・題目などは、関西大学生命倫理研究会のホームページに。

2012年2月22日ー3月7日

   ドイツへ出張。フランクフルトから列車でワイマールへ。夜9時前に着く。 テレビニュースに、メルケル首相が出てきて、テロルに関する新たな法について説明している。イスラム教徒にたいする右翼のテロルが続いたためである。

   翌朝、ワイマール中央駅から1時間に1本の6番のバスに乗ってワイマール郊外のブッヘンヴァルト強制収容所へ。途中、収容されたひとたちが切り開いたBlutstraße(直訳すれば、「血の通り」である)をとおる。周囲は林。

   これまでダッハウの強制収容所、アウシュヴィッツの強制収容所をみた。しかし、どうもここから受ける衝撃は、両収容所とは別なしかたで重くどんよりしたものだった。門の両翼にBankerと呼ばれる小さな囚人房がある。そこで、拷問が行われ、死者も出た。

   門の右手には火葬場がある。それらの建物からあまり離れていないところに、収容所を管理するSSたちが住居を構え、しかもそこには鹿や鳥を飼った動物園までこしらえていた。所長のKoch夫婦とその子どもたちの「健全であたたかな家庭」の写真がMuseumのなかにあった。どうも、その落差――すぐそばで殺人が行われていることを十分に知って いながら、しかもその殺人を行っているその人間が「健全であたたかそうな家庭」を営めるというそのことが、アウシュヴィッツやダッハウで受けたのとは違うしかたで、見るものをめいらせるのだ。

   火葬の機械を作った会社はTopf。固有名詞だから偶然ではあるが、「鍋」という意味のその文字が、火のようすをみるためののぞき窓に麗麗と打ち出されている。あたかも、悪い冗談のように。

   火葬場のすぐ横に厩がある。ここはソ連の捕虜の首をねらって撃ち殺すためにも使われた。なぜ、馬を追い出してここを使ったのか。火葬場が近いから 。おそらくただそのためだけである。火葬場の下は死体置き場で、大きなリフトによって、死体を階上の炉のそばに引き上げることができる。死体置き場のぐるりの壁には、外套でもかけるよう に鉤が打ち込まれている。かけられたのは、外套ではなく、人間である。

   見学にきているドイツの高校生の集団がいる。全体として熱心にみているようだったが、一部の男子がMuseumの2階にすわりこんで、高い声で談笑していたものだから、係員のドイツの中年女性が激しく怒り出し、追い出してしまった。当然である。しかし、断固としていたなあ。160センチ台なかばくらいの(しかし幅は相当にある)女性だったが、自分より2-30センチ 背の高い若者を「概念」の力で押し切ったという印象。

   日の短い時期だから16時すぎに展示は終わる。バラックが撤去された荒漠とした斜面を歩きまわる。ところどころにおかれた犠牲者を追悼する碑をみてまわった。風が耳元で音を立てて吹いている。小雨がぱらついている。  

     ベルリンへ移動。 暗くなってから着いた。Zooの駅を下りてすぐにみえるはずのライトアップされているKaiser Wilhelm Gedächtnis Kirche(カイザー・ヴィルヘルム教会。第二次大戦の空襲のあとをそのままにとどめている建築物である)がみえないのでまごつく。高い塔をもつ教会全体を包み込むようにして壁で囲んでいる。保存工事のための一時的な措置という。

    テレビや新聞では、ドイツはギリシアを助けるべきか、小学校教師による性的虐待と殺害、ベルリンの家賃と市内運賃の値上げ、空港のストライキ……。昨年の今ごろにおとずれたときと、ほぼ内容が変わらないような。昨年は、小学校教師ではなく、聖職者による合唱団内部での性的虐待が話題だった。ストライキは、毎年、行われているが、こちらは「労働者の権利」という共通認識があるのだろうか。昔、日本で、鉄道ストライキのさいに、乗客が駅員を殴ったというような、乗客とのトラブルはきいたことがない。

  ゲシュタポ本部の跡地に2010年に開設された「テロルのトポロギー」Museumを訪問。ここはなかなか資料が整っている。「ゲシュタポは、あたかも、全知全能のように思われていた。しかし、全知全能であるはずはない。そうみえたのは、ゲシュタポに協力していた大勢の市民がいたからだ」という趣旨のことが書いてある。ひとを殺すことをあれほど合理的に処理していたドイツという国に、一面、信頼を失わないのは、こうしたしっかりした反省があるからだ。

  ちょうど、子どもにたいする人体実験に関する展示も併設されている。病院の紹介のために、かわいい女の子の患者と写真に写っている親切そうな医師が、他方では、精神障害児の親に安楽死をひとつの可能性として提案している。ナチス自体は、対外的な信頼の喪失を懸念して、障害者の安楽死について情報を広げないようにしていたが、そこに関わっている医師のなかには、平然と、その情報をやりとりしている人間もいたのだ。いわく、実験材料を、実験組織を手に入れたいために。

   ベルリン郊外のオラニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所へ。ブッヘンヴァルトで、たんに火葬場に近いからという理由から厩でソ連捕虜を射殺したのに気がめいる思いをさせられたが、こちらでは、移動式の火葬炉というものが写真に写っていた。これならどこでも――。

   ここもブッヘンヴァルトと同様に、強制収容所における強制労働についてくわしく展示している。クルップ、ジーメンスなど、日本でも知られている大企業の名が挙がっている。ソ連がこの収容所を解放したのだが、そのソ連がひきつづきこの収容所を自分たちのためにラーゲリとして利用しつづけた。結局のところ、人間が他の人間に求めているのは、 人間そのものではなく、労働の成果それだけなのではないかといった疑問がわいてきてしまう。

   どこの強制収容所でも、強制労働は行われていた。だが、アウシュヴィッツでは、鉄道で送り込まれて、おろされた瞬間に、死ぬ者と死を猶予された者とが選別され、死ぬ者はただちにガス室のある建物のなかへ引き入れられ、一切をとりあげられ(髪の毛までも刈られたのだ)、ガス室に送られた。ガス室の近くには、火葬場の灰を捨てた池がまだ残っていた。透明な水面がまわりの白樺の影を映していたが、由来を思い浮かべると、その水は、通常以上に、ひとの油を吸ってぬめぬめと輝いているように思えたものだ。――アウシュヴィッツでは、すぐに殺されてしまったひとについての想像が重くのしかかってきた。これにたいして、ブ ッヘンヴァルトとザクセンハウゼンは、人間から得られる最後の利益までしぼりとるその所行のどんよりしたむごたらしさが気持ちをよどませる。

   それでも、ドイツでは企業による強制労働にたいする補償を進めてきた。日本では、この問題は解決していない。2007年に1年間、ケルンに住んでいたとき、日本の自民党が参院選で大負けしたニュースを南ドイツ新聞で読んでいると、「この大敗でAbe政権はもたないだろう。次期首班はAsoと予想されている。しかし、Asoは、朝鮮や中国のひとに強制労働をさせた麻生コンツェルンの一族の出で、Asoが首相になったら、アジア各国はこの問題をとりあげるのではないか」という指摘があった。その目のつけどころに感心した。同じころ、インターネットで日本の新聞に「麻生はアキバの若者に大人気」といった記事をみつけて、げんなりしたものだ。

  ケルンへ移動。 途中の駅のホームに、スカーフをかぶっているトルコ人の中年女性を写して、その横に"Nicht Einfalt, sondern Vielfalt"という見出しがついている。ドイツという国はひとつの民族から成るのではなくて、多くの集団から成り立っているのだという公共広告。

  Neumarktにあるユダヤ関連文献を収蔵しているGermania Judaicaのあるケルン中央図書館、ケルン大学図書館に日参。いくつかはじめて目にした資料があってありがたい。ずっといられたらいいが、むろん、それはむりである。

  休日、シュヌットゲン博物館へ。おやおや、2005年に初めてきたときからずっと工事中だったところに大きな建物が立ち、その一部にシュヌットゲンが入っている。ステンドガラスの展示が前よりもゆたかになった。 私のお気に入りの聖家族のレリーフや聖ヒエロニムスの像などは、もとの場所にあって、ただ、もとの展示場の裏側から入るようになっているわけだ。もっとも、私が一度だけみて強い記憶に残っている、とても朗らかな笑顔のウルスラ像が展示から外れている。なんだか、いっしょに歌いたくなるような明るい顔だった。あの像はもう一度みてみたいものだ。

  コルンバ美術館にはじめて立ち寄る。中世の絵のなかに、なんとも愛嬌のあるサタンを発見。聖人にいさめられているようなのだが、なんだかふたりは仲良しにみえる。牛のような顔でへべれけに酔っ払っているみたいで、聖人のほうをふりかえって、もう一杯飲ませろとおねだりしているのを、聖人がにこやかに「もうお帰りなさい」と説いているみたい。サタンの股についているひとの顔は、首の上にある顔と逆に、口笛をふきそうな表情で、二本の足と同じく、もう行き先のほうを向いている。

  フランクフルトへ。ユダヤ博物館を訪問し、新装なったシュテーデル美術館も。ここは、ノルデのキリストと、マッケの少女がなんともいい。6日夜に出発、7日に帰国する。今回は、ベルリンも3度から7度程度であたたかく、ケルンにいたっては17度ぐらいまであがったので、かえってかぜをひいてしまった。

2012年2月15-18日

  15日、16日に卒業論文試問(24人に立ち会う)、17日に修士論文試問(2人に立ち会う)、18日に大学院入学試験(4人に立ち会う)……と荒行のような日々。もっとも、試問され、受験したほうはもっと抑圧だったろうが。やれやれ。

2012年2月9日

  大阪大学の授業を1回休講にしたため(本務校が月曜の授業を1回、木曜にすることにしたために、阪大のほうを休講せざるをえなかった)、その補講を行う。試験はもう済ませてしまったから、授業内容の本筋から離れてヨナスの話をすることにした。だれもこないかと思っていたら、20名弱のひとが参集。えらいものである。感心して、時間が延びてしまった。そのあと、関大に移動して、 隔週しているカント読書会。

2012年2月4日

  連日の入試監督。それでも、受験生が少なくて困っているというよりははるかによい。

  一昨日の阪大での講演がYoutubeにアップされている。うーん、なんだか、みるにたえぬ。このところ床屋に行くひまがなかったので、道端で寝ているひとみたいだ。Googleの検索ページに出てくる小さな画面でみると、ひげが目立ってバカボンのパパのよう――それはそれでいいけれども。

2012年2月2日

  大阪大学の非常勤の授業の試験。登録230余名で、試験を受けたのは、めのこ勘定で160-170名ぐらいだろう。これから採点しなくては。そのあと、大阪大学待兼山会館で行われた第14回Handai Metaphysicaで「ケアと正義」と題して講演する。活発な討論。講演後は、非常勤の労をねぎらわれる。

2012年2月1日

  入試がはじまる。さっそく、入試監督に。第1日目だから、テレビカメラが入る。受験生の顔は特定できないように写すわけだ。問題用紙を配布しているあたりで撮影おわり。

2012年1月25日

   5月に東京で開かれる予定の国際学会での発表の依頼がくる。私を推薦してくださった方は、お名前は存じ上げているが、直接にはお話ししたことのない方である。少し考えてからおひきうけすることとする。なにぶんチュニジアでなく東京だから近い。何を論じようか。

2012年1月24日

   Tunisian Mediterranean Association for Historical, Social and Economic Studies(チュニジア地中海学会というのだろう)からCall Paper(案内状)が届く。別段、その分野の研究をしているわけではない。なにか手広く案内状の発送リストを作成する過程で私の名前がひっかかったのだろう。チュニジアかあ! アウグスト・マッケの絵を思い出す。透明な空と明るい日ざし。石でできた壁の影がくっきりと大地に落ちている感じ――。しかし、政情のことはともあれ、なにぶん研究領域が重ならないだろうから、行くわけにもいかない。

2012年1月21日

   推薦入試で合格した学生(というか、今の段階では高校生だから生徒だ)への事前指導(プレ・ステューデント)。文献の紹介をさせるのだが、大学生とやはりちがって、どこまで厳しく要求するか、こちらも間合いの取り方にいささかゆれる。

   夕刻から、昨年卒業した学生の誘いをうけてコンパ。雨を避けて地下通路をうろうろして、梅田新道の店がわからなくて遅刻してすまなかった。まだそれほど変わっていないが、やはり社会人になっただけ違っているか。

2012年1月14日

     今年は1月5日に授業が始まった。実家に飾った輪飾りをそのままにしておくわけにもいかず、4日に外してもって帰ってきたのを某神社に納めにいく。15日のどんど焼き(左義長)で焚きあげてくれるのである。 燃やすことのできない、鏡餅の入っていたプラスチックの容器(鏡餅の「殻」といいたくなる)や鏡餅に載せるこさえもののみかんなども分別回収している。そういえば、母も鏡餅の入っていた箱などをとっておいた。歳神さまだからゴミとして出せないというわけだろう。同じ考えのお年寄りがここにもってくるわけか。本物の餅を重ねたほんとうの鏡餅ではもはや食べきれないから、プラスチックで型だけ作ってなかに切り餅を入れたお鏡が売られるわけだが、いったい、やはりあのプラスチックも「聖なるもの」なのだろうか。

2012年1月1日

  東日本大地震のあった翌年だから、今年の賀状には、「謹賀新年」等と書くのをひかえたひとが多い。私自身も、

  皆々様のご健勝とご多幸を祈念いたします。本年もよろしくお願い申し上げます。

 昨年はこの国に住む者にとって、例年にまして、来し方行く末を思わずにはいられぬ年でありました。状況の一挙の好転は望めぬにしても、今年は、やわらかな日差しに恵まれて、少しずつ歩みを進める年にいたしたいものです。

としたためた。「少しずつ歩みを進める」と書いたのは、一挙の好転が見込めないということもあるけれども、昨日よりもあすが、あすよりはあさってが……というふうによくなっていくほうが「しあわせ」なように も思えるからだ。

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