往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2008年12月27日

  南山大学地域研究センター共同研究、ヨーロッパ研究センター主催の「EU統合の理念と現実」2008年度第3回研究会で「ケアの倫理の問題提起」という題目で報告。ケアの倫理はやはり正義の倫理の補完のようにうけとられるような面があるが、熱心な質問をいただき、少しずつこちらの申すところを理解してくださった。 とんぼ返りで帰省。

2008年12月25日

  母、手術をうける。84歳だが、インフォームド・コンセントはできた。

2008年12月20日

  関西大学生命倫理研究会をひさしぶりに開催。私自身は欠席せざるをえなかった。

2008年12月18日

  夜遅く帰宅して、母、入院の報に接す。翌日、帰省。

2008年12月17日

  関西大学学校インターンシップ事後報告会に出席。いつもながら、報告する学生それぞれがそのひとなりに学校・園で貴重な体験をしてきたことがわかる。受入側の学校・園のほうでも、相当に心をくだいて受けいれてくださるところが増えている。

2008年12月13日

  関西倫理学会編集委員会と委員会のため、立命館大学へ。四条烏丸から立命館大学ゆきのバスは、二条城、大徳寺、金閣寺と名所を縫うようにして進む。 千本今出川あたりからのぞいた鷹ヶ峰のすとんと落ちている崖の紅葉、美し。 若いころ、やはり秋晴れの日に鷹ヶ峰を訪れたら、午後の傾きかけた日の光が山肌の迫る谷あいにさしこみ、あたかも金色の粉が空間いっぱいに舞っているようであった。さて、委員会のほうは、シンポジウムの発案をしたら、司会に決まってしまい、また用事が増えてしまった。

2008年12月10日

  関西大学キャンパスツアーで関大をおとずれた府立大手前高校の1−2年生22人に「脳死はひとの死か」を講義する。おとなしく熱心に聴いてくれた子もいたが、キャンパスめぐりで少しお疲れという生徒もいる。大学にくることはカルチャーショックかもしれない。昼前解散で、希望者は大学の食堂でお昼を食べて、大学生の気分を少し味わって帰るというパターン。

2008年11月5日

  私がかつて指導にあたった関大の修士の春風道人が来訪。こうの史代というひとの漫画『夕凪の街 桜の国』をくださる。私はふだん漫画を読まない。しかし、戦後の復興のなかで被曝が原因の死を描いたこの作品のやや硬質のリリシズムに感心した。登場人物の名前が、皆実、天満、旭、翠、 霞、フジミ(富士見)、打越など、広島市内の地名であるのも、広島に数年間を過ごした私にはなつかしい。作者は広島大学に学んだそうな。私が広大に赴任するまえの千田町にキャンパスがあったころのことだろう。被曝した理学部の建物があり、大学のまえの日赤病院の門前には被曝したガラス窓が 立っている。そういうキャンパスに通ったわけだ。

  アメリカ大統領選挙でオバマが勝利。金融工学の失敗による株安でにわかに市場原理主義のみなおしが叫ばれるようになったが、ヨーロッパのような社会民主主義的な発想にとぼしいアメリカで、民主党政府がどんな方向を打ち出すのだろうか。

2008年11月1−2日

  関西倫理学会のため、京都大学へ。今年は一会場ですべての発表を行ったので、すべて聴く。この学会はここ数年のあいだに活発になってきた感あり。京大本部は、私の学生のころにくらべて、建物が密集してしまった。 以前は、北白川のほうから入ると、工学部の赤レンガの校舎と文学部の校舎あいだの道の両脇に何本もの大木が枝を広げていて、つきあたりに博物館のグレーの壁がかいまみえた 。雨上がりには、なかなかの景色だったが。

  百万遍知恩寺で古本市が開かれていたので、会の終了後、少しばかりひやかす。「買いたい本があっても、『買っても読む時間があるだろうか、死ぬまでに』などと考えてしまい、なかなか手が出ない」と語ると、居合わせていた関大の修士で、今、小学校教師をしている某君に「そんなお年でもないでしょう」とたしなめられる。

2008年10月23日

  高校への出張授業で、大阪府立泉北高校へ。47人の高校1年生に「脳死はひとの死か」という題目で話す。質問する生徒がふたりいて、なかなかやる気がある。泉北高校はスーパーサイエンスハイスクールに選定され、国際文化科の生徒は第2外国語(中・韓・仏・西)を学ぶ ことができるそうな。泉北ニュータウンのなかにある。泉が丘の駅には、大学生のとき考古資料館の展示をみるために一度おりたことがあった。そのときには白亜の高層住宅の並ぶニュータウンという印象だったが、さすがに30年近くたっているから町のほうは古びてきた。

  帰りに梅田の銀行のまえをとおると、外貨両替にひとの列。1ドル96円、1ユーロ123円まで下がったのだ。私がドイツにいたころは160円後半だった。 円の価値がおよそ1.3倍あがったようなものだ。

2008年10月3−5日

  日本倫理学会のため、筑波大学へ。5日に行われた共通課題(シンポジウム)「仕事・職業・労働」に「『仕事・職業・労働』をとりまく状況の倫理学的考察」と題して提題をする。当日の原稿をこのサイトにも載せておこう。もっと盛り上がるかなあと思ったら、今ひとつだった。グローバリゼーションにたいして歯止めをかけるような倫理理論について水をむけたつもりが、「この理論がそれだ」というような発言はなかった。現在の大学を支配する市場原理、大学院生の就職難などにもふれたが、あまり身につまされる問題には発言がないものなのか、それとも、あまり身につまされていないひとたちが多かったのか? そんなこともないだろうが。いささか空振りに終わった感じをいだいて帰る。

  筑波大学にははじめて行った。街中に公園があって、広い道には自転車専用のスペースもあり、ドイツの町を思いだす――といいたいところだが、家並みがちがうせいか、そうは感じられなかった。インド人のやっているカレー屋で食事。茨城や筑波の郷土料理があるのかどうかわからないが、国際文化都市つくばに合った選択かもしれない。

2008年9月24日

  留守中とどいてそのまま返送されてしまった郵送物について送り先のナカニシヤ出版に問い合わせると、拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』の2刷を送ってくれたのだそうな。おお、2刷が出ましたか! 初刷のときもそうだったが、私が外国にいるあいだに出る本だなあ。発売時には書店に複数並ぶものだが、そのけしきをみたことがない。

2008年9月8−22日

  ドイツとポーランドを旅行する。ベルリンから列車で十時間かけて、ポーランドのクラクフにいき、そこからバスでオフィシエンチムのアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館を訪問。強制 収容所のなまなましい跡。しかしまた、昔、SSの工場のあったあたりに、現役の工場が建てられている不思議。クラクフではユダヤ人街でシナゴーグの内部を参看。 はじめての体験。昨年、ケルンのシナゴーグを参看しようとしたが、固く門戸を閉めていたからだ。ネオナチがいるから当然の措置だろう。もう一度、ベルリンにもどって、ユダヤ博物館、ユダヤ犠牲者記念館を参看。後者では研究上の大きな発見あり。

  ドイツを東北から南西にたすきをかけるような移動だが、フライブルク大学を訪問。うーん、やはり未見のヨナスの参考文献が多いな。昨年一年間の在外研究をケルンではなく、フライブルクで過ごしたほうがよかったろうか。Schwarzwald(黒い森)のこの町のふんいきは濃厚で、ユダヤ人のフッサールよりSchwarzwald出身のハイデガーに似つかわしい。

  ハイデガーが学長になり、ナチスへの協力をあらわにした演説をしたのはここだった。そして、ヨナスの書いたものによれば、前任者であり、かつての師であったフッサールにたいして露骨に無礼な 挙措、ふるまいをみせたのも・・・・・・。一介の旅行者として、バーデン地方のヌードル入りスープやレバー料理に舌鼓を打ったが、ハイデガーよりはフッサールのほうにひかれる私としては、哲学史上の「事実」を回顧すると、なんとなく居心地が悪く感じられる。町そのものは居心地のいいたたずまいなのだけれども。Wahrheit wird euch frei machen.(真理が君たちを自由にする)と大学講堂の外壁にあり。ヨハネ福音書からの引用句ではあるが、自分の名ばかり大きく外壁にきざみこむどこかの大学とは大ちがい。

  ドイツはもうOktober Fest(十月のお祭り)。ドイツの銀行が株券の不正な取引をしたり、大損したり――と、ここも不景気な話だが、ビールの大杯をほしている姿は景気がいい。

2008年9月1日

  自宅に帰ると福田首相退陣の記者会見のニュース。去年の9月はドイツで安倍首相退陣の新聞記事を読んだ。あのときも、麻生後継の下馬評が高かったが、フランクフルター・アルゲマイネ紙に、「古いコンツェルンの出で、麻生は70年代に自分が経営に関わっていた企業の戦争中の歴史を清算できていない。麻生は周辺諸国に強硬な外交姿勢を示すが、12000人の朝鮮人、中国人を強制労働にかりだしたAso Mining Co.を出自とする麻生は、中国や朝鮮からみれば、1930年代に自国を侵略、支配した日本を象徴する人物(Symbolfigur)だろう」とあった。

  どうなるのかねえ。急に、女性の候補者を立てても、ヒラリー・クリントンのような実績もインパクトもない。けれども、そういう”お芝居”をやりかねない日本の政治家だし、そうなれば、お祭り騒ぎのように報道して政治家にのせられる日本のマスコミだし・・・・・・。

2008年8月30-31日

  関西大学大学院文学研究科哲学専修の夏季合同研究発表会。修士論文を提出する予定の学生の発表だが、今年は比較宗教学を研究している学生が7人、哲学・倫理学を研究している学生が2人。第1日は昼から夜8時まで、第2日は昼から6時半まで討議する。宗教学のほうは私の指導範囲ではないが、聞いていてなかなかおもしろい。私は指導学生を自分のゼミに囲い込みたいとは思わないたちなので、こういう場があるのはありがたい。

2008年8月25日

  『応用倫理学研究』第4号にその論文(ドイツ語)を訳して(むろん、日本語に、だ)載せたジェノバ大学(イタリア)のベッキ教授の助手(?)の方から英文のメール。現物を郵送した御礼。 教授はたいへん喜んで各方面に献呈された、と(日本語の雑誌だが)。ついでに同封して送った拙著『正義と境を接するもの』の英文アブストラクトも「すぐに」読んでくださったそうな。very interesting and originalと評あり。――そしてお返しに、イタリア語の論文が添付されてきた。私がイタリア語を読めぬのをお忘れのようだ。このさいイタリア語を勉強すべきか、しかし・・・・・・。 宛名にSg.(シニョール)をつけたのが誤解を招いたのだろうか。

2008年8月6日

  ドイツの某教授が厚い本を贈ってくださった。同封のはがきは、いつもながら、なかなか読めない。HändeとHeuteの区別がつかないような筆跡なので。ロゼッタ石の解読のごとし。以前、 なにか哲学上の意見をお書きになっているのだろうと思ってようやく読み終えたら、「休暇でアルプスに近いナントカ村を訪れたら、そこの白ワインはたいへん美味であった」という通信だった。

2008年8月2日

  オープンキャンパスで高校生むけに「人間の尊厳 ひとを尊重するとは」という題目で40分の講義をする。親御さんとこられている高校生もあり。こうやっていろいろな大学をみてまわって、家に帰ってから評定されるのかなあ。 一日じゅう、キャンパスがにぎわっていた。

  夕刻、太鼓の音がする。応援団がまだやっているのかしらと思ったら、近くの盆踊りが聞こえてきたのだ。さすがに、大学で「ドンドンパンパン、ドンパンパ」とか歌ったりはしないものね。

2008年7月31日

  第一学習社主催の高校の先生方を対象とした小論文研修会(キャンパスプラザ京都)で、「大学は小論文入試に何を求めているか」という題目で講演。小論文は作文とはちがうといった入試の話だけではなく、大学での導入教育とのつながりなどを話す。

  白雨。雨のあがった木屋町で、拙著でお世話になった編集者と一献。拙著は初刷りがほぼはけつつあるそうな。でも、ほんとうに売り切れないと実感がわかないが。一般教養教育の教科書に指定できないような専門書はあまり売れない。別の出版社の編集者によると、発売後1年で在庫を調べ、なくなっていたら上乗、2刷が出たら大成功とのこと。おまけに拙著は安くはない。売り切れたとしたら、ありがたい。

2008年7月27日

  平成20年度科学研究費基盤研究(B)「生命・環境倫理における『尊厳』・『価値』・『権利』に関する思想的的・規範的研究」第1回研究会のため、桜美林大学淵野辺キャンパスへ。拙著『正義と境を接するもの』合評会を開いてくださる。江口聡氏が質問。それにたいする応答をWeb上にのせることとする。

 

2008年7月22日

    併設校の関大一高へ出張講義。キャンパスの北の端から南の端まで、せみの鳴く暑い道を歩いて(15分くらいだ)、「脳死はひとの死か」という題目で講演する。なかなか反応のよい生徒たちだった。

2008年7月21日

  大阪府立大学現代思想研究会&「生命の哲学」研究会で拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』の合評会を開いてくださる。淀屋橋の立命館大学大阪オフィスへ。森岡正博さんが彼のこのところ切り開こうとしている「生命の哲学」と拙著の内容の親縁性を指摘され、吉本陵さんが拙著第1部「ヨナスの責任という原理」に関して、ヨナスの存在論・形而上学に積極的な意味を見出される立場から質問を、野崎泰伸さんが拙著第2部「ケアの倫理」に関して、ケアの倫理の法や制度への組み込みの必要性を主張する立場から質問をされる。参加者27名で、ヨナスの伝記的事実にもくわしい細見和之さんからの質問もあり、たいへん充実した時間をすごすことができた。拙著は、ヨナスとケアの倫理と両方研究している方がおられないので、やや敬遠ぎみのあつかいをうけてきたように感じていた 。指摘・批判された点のなかにはこちらから反論し、否定した点もあったが(そのうち、お一方のコメントはWeb上でも流されているので、それにたいする応答をWeb上に載せることにする)、このように綿密にとりあげてくださる方がおられるなら、執筆者として、以って瞑すべし。ありがたい一日だった。

2008年7月9日

  洞爺湖サミット。2050年までの二酸化炭素排出量の50%削減という目標は、G8では「めざす」となったが、新興国を加えた主要排出国会合(MEM)では合意が得られず。昨年のHeilligendamサミットのときにはドイツにいた。ドイツのある新聞に、メルケル首相がこの問題でG8の意見調整ができたので「女主人の勝利」という見出しのあったのを思い出す。だが、その横に、「中国、インド、ブラジルを加えた会議では、この結論にはならなかったろう」とあった。今回は、その3カ国と南アフリカ、メキシコが反対したのだ。これまで多量の排出をしてきた先進国にいっそう重い削減を要求する主張は、行為結果と責任の関数からするとそのとおりだが、しかしこれらの国々も、排出量の少ない国に比べれば、加害者側に立つことになるだろう。かといって、「地球全体を守れ」という主張は、いわば「存在論」的で、行為結果に応じた責任の配分という正義の要求をうやむやにしてしまうが。

  行為結果に応じた責任の配分という論点は、人間のあいだだけの話である。「存在論」的な議論は、人間同士の問題を隠蔽してしまうおそれもあるけれども、人間と人間以外の自然との関係を論じる という可能性の糸口でもある。

  2001年4月に『思想』に載せた論文「環境、自然、倫理」(拙著『正義に境を接するもの』第3章)を書いていたときに、人間と人間以外の自然との関係を考えつめて、一瞬、 気のふれそうな思いをしたことがあった。つまりは人間を超えるものを考えることで、どうしても共約不可能なものが顔を出したように思えたのだ。

008年6月29日

  京都生命倫理研究会のため、京都女子大学へ。昨年の関西倫理学会のシンポジウムで論じられた森岡正博氏の「膣内射精性暴力論」をめぐり、議論。拙著のなかで、マッキノンの性行為=レイプ論と、マッキノンの発想自体のマッチョ性を指摘したコーネルの批判とにふれ て、性行為における男性の攻撃性のおぞましさを書いた身なので、シンパシーを感じる。

2008年6月28日

  関西大学哲学会春季大会で「ハンス・ヨナスの《アウシュヴィッツ以後の神》概念」を講演。ヨナスのユダヤ教信仰に言及する内容の報告は初めて。宗教学、キリスト教学の研究者が聞いてくださっていてありがたい。44名の参加者がいたようだ。

2008年6月7日

  京都ユダヤ思想学会が創設され、その第一回大会を拝聴しに同志社大学へ。私とユダヤ思想との直接のかかわりといえば、ヨナス(Jonas)研究ぐらいしかないので、いわばjの字の点ぐらいのつながりだが、かなりしぼった分野の研究者が集う 場のくつろぎと緊張感を心地よく感じる。

  久しぶりに今出川通を西陣のほうへ散歩。両脇に高いマンションが立って谷のような道になってしまった。大学生のころ、紫野にある家に家庭教師にいっていた。夜、船岡山を越えたり、千本通を南下したりして西陣に出ると、屋根の低い家々の、道に面した窓だけが明るい。手元だけ蛍光灯で照らして西陣織を織る音が バッタンバッタンと聞こえてきた。ああいう家は減ってしまったのだろうか。

2008年6月6日

  朝日新聞朝刊を開くと、大阪府の財政改革のために、社会・労働関係の資料を集めた図書館「府労働情報総合プラザ」と「大阪社会運動資料センター」が、実質、閉鎖を余儀なくされているとある。大学時代の友人がつとめているので、事情はきいていたが、いま、労働問題がふたたび注目されるようになったときに 。経営努力をし、使用者は増えていたと聞くが。この町ならではの図書館とか博物館といったものは、その町のアイデンティティの一部ではないか。児童文学関係の図書館にしても。ドイツでは、中規模の町にも歴史資料館があったのを思い出す。

2008年6月1日

  今年10月3-4日に筑波大学で行われる日本倫理学会の共通課題の打ち合わせを関西大学で行なう。「仕事、職業、労働」がテーマ。私は企画実行委員のひとりとして趣旨説明をふくらませたような提題をしなくてはいけない。数年前まではネオリベラリズムのもとに「自己責任」という語がふりまわされていたが、この1-2年で状況が変わりつつある。ドイツでdie Linke(左)という党が議席をとったのをみて、日本ではまだまだその方向に向かっていないように感じていたが、 私の日本にいないあいだに発刊された書物を読んだり、メーデーのようすなどを新聞記事でみたりしてそう思いなおす。職につけない、あるいは、非正規雇用の職にしかつけない若い層の異議申し立てが日本でも広まってきたのだ。

2008年5月17-18日

  日本哲学会のため広島大学へ。私がこの大学に勤めていたのは1993年から1999年までだが、山陽本線西条駅前にバスターミナルができて、 広島大学に通じるブールバールが駅に直結している。私のいたころは中央公園まで通じていた。マンションなども増えたようだ。大学キャンパス内はアカマツ林、広島市内の旧キャンパスから移植したフェニックス(原爆の被害からの復興の象徴)も健在のようだ。

  「いや、遠かった」「へんぴなところにある」と、広島に止宿して電車とバスを乗り継いで会場にたどりついたのをぐちる友人たちに、 早春にはマンサク、初夏には山つつじ、晩夏から初秋には萩が咲き、夏にはヒグラシの声も聞こえてくる、このキャンパスのよさを訴えてしまう。自分でも思ってみなかったほど、私は広島大学贔屓なのですな。

2008年5月10日

  関西倫理学会委員会のため、立命館大学へ。雨もよいの肌寒い日。ケルンの気候ならこんなものだ。蒸し暑いよりありがたい。久しぶりにお会いした面々と話して、つい飲みすぎる。

2008年5月9日

  某先生の退職記念祝賀会に出席するため京都へ。席上、広島大学に勤めていたときの同僚の某先生にお久しぶりにお目にかかる。某先生と私ともどもお気に入りの、私など毎週出入りしていた横川の寿司屋が店を閉じたときく。ご主人の ご病気のためである。実に心のほぐれる飲み屋だった。なによりご主人夫妻のお人柄がよかった。お店のふんいき、たたずまいは下町ふうなのだけれども、どういうわけか、壁に中原中也の詩がはってあった。 ふしぎに思って、「ご主人の趣味ですか」と尋ねたのが親しくなるきっかけだった。結局、その答えは笑いにまぎれてすまされてしまったけれども・・・・・・。これで私のいきたい飲み屋はなくなった。

2008年5月8日

  大阪府立槻の木高校の1年生を対象に出張講義(Kan-Dai 1セミナー)を行なう。題目は「脳死はひとの死か」。120名の生徒が静かに聞いてくれる。1泊2日のHR合宿の一環である。セミナーのまえに校長先生から生徒たちに「君たちはもう中学生ではない。高校生になるための合宿です」という訓示あり。大学1年生にオリエンテーション・キャンパス等のイニシエーションを設けている大学が多いが、高校でも同様なのだろう。

2008年4月19-20日

  哲学倫理学専修、比較宗教学専修、芸術学美術史専修――つまり旧哲学科だ――が合同で2年生の合宿をおこなう。今年は、関西大学飛鳥文化研究所で開催。2日目、石舞台から飛鳥寺、甘樫丘、亀石を散策。合宿に参加した学生は 約70名。散策に参加したのは、石舞台までが約50名、飛鳥寺と甘樫丘にまで足を伸ばしたのが約30名、亀石までが約15名。久しぶりの飛鳥だが、石舞台の一帯は公園化してしまい、飛鳥川ぞいの野の道が整備されており、みやげ物屋や公衆トイレなどが増えたようだ。 入鹿の首塚のあたりからみる、白い壁に囲まれた橘寺の眺望が私の好みで、れんげ、菜の花、かげろうのうえに浮き立つようにみえれば申し分はないが、れんげの花は少なく、よく晴れて透明な日差しのそそいでいる一日だった。甘樫丘からみえる三角形の山は何かと複数の学生がきく。「耳成」と教える。畝傍や天の香具山を聞く学生はいなかった。やはりsymmetricalな耳成はめだつのだろう。

  翌日21日は私の担当する演習があり、前日の疲れからか、欠席した女子学生が翌々日22日に、研究室にプリントをとりにくる。そして、「先生、体力ありますねえ。みんな、そういってますよ」という。亀石までつきあったからだろうが、なんとなく「お年のわりに」という前提が含まれているような。

2008年4月7日

  さっそく授業がはじまる。教養科目と2年生むけ専門教育のゼミをする。大学院の授業はあすからなので、きょうはない。1年のブランクがあるから、「ひょっとして授業がうまくいかぬのでは? 大勢の学生を相手に(きょう最初の授業は受講登録者297名だ)緊張するのでは?  突如、人間恐怖症になって教室のまえで足がすくむのでは?」などと案じていたが、なんのこともなく、思いついたままに話が脱線していく具合も(落語家のいう「フラ」だ)、脱線しながらも 、話しておこうと心積もりしていたことはすべて話し、しかも時間配分がぴったりおさまるのも、きのうまで授業をしていたのと変わりない。この1年はなんだったんだろう。

2008年4月2日

  帰国。ドイツ滞在わずか1年だったが、大阪の空気の悪さ、ひとごみ、すれちがったりぶつかったりしそうなひとの動きに神経が疲れる。ドイツから初めて日本に来た人間になったつもりであたりをみまわす。どうもせせこましく、広告その他で街に色が氾濫しているのもせわしなくみえる。

  阪急電車のつるし広告、池田文庫の片岡愛之助展と宝塚歌劇団の上演広告とがならんでいる。strangerならきっと写真をとるな。なにせ、左は男が女を演じ、右は女が男を演じているのだから。「ふしぎの国ニッポン」と感激するかもしれない。

花ぐもり異国の異国に帰りきぬ

2008年3月28日

   ミュンヘン近郊のOberammergauに遠足。フレスコ模様の絵が壁に描かれている人家、それにペストの罹患者が少なかったことへの感謝からはじまった村人たちによるキリスト受難劇の上演で有名な村。受難劇の劇場を見物する。

2008年3月24日

  復活祭で休みだが、雪が降って、私の住んでいるゲストハウスでも3センチくらいは積もったか。ライン川ぞいのケルンでは、冬も雪はあまり降らないようだが、季節はずれの大雪。外気は切りつけるような寒さではなく、そこは春の雪 だ。

2008年3月23日

  復活祭。ケルンのWallraf-Richartz Museumを見納めにみにいく。ちょうど、印象派の特別展示をしていた。展示品はオルセーその他から借りたのもあったが、基本的に常設展示のもの。しかし、印象派に関する解説がドイツ的。手を伸ばすと色のついた光があたり、影がどんな色にみえるかなどとかんたんな実験装置を作って、印象派の画家たちの影の色を説明したり、絵の具の劣化、画面についた埃がおよぼす変色、絵の仕上げ方、署名の問題などを説明している。たんに「すてきな絵です」という感想を与えるだけでなく、美術史における印象派の新しさの理解にも通じる展示をしている。

  常設展のクラナハのマドンナ、フリードリヒの「ぶなと雪」、ムンクの「橋の上の少女」、ロホナーのマリアなど気に入りの絵をみる。この美術館、独文・英文の解説が増え、カフェができたが、絵葉書を売らなくなったのは残念。

2008年3月22日

    18日にハンブルクでチベット出身者の抗議デモがあったことを日本の知人に書き送ったが、東京でもあったそうだ。読売新聞のサイトで知る。その関連記事の見出しには、「オリンピックの開催が懸念される」とも。どうしてこういう書き方をするのかなあ。むろん、その新聞社が「チベット問題とは関わりなく、オリンピックは滞りなく開催されるべきだ」という主張を明言しているなら、これでいい。けれども、そうでなければ、誰が「懸念」するのだろう? 

  ドイツの新聞にも、「ボイコットでアスリートたちが犠牲者になるのはおかしい」という論調がある。その理屈にまちがいはない。チベットの蜂起と中国政府の対応は出場選手の責任ではないからだ。だが、ヨーロッパの選手のなかには「人権の守られない国でのオリンピック」に疑問をもって、場合によっては不参加の姿勢を示しているひともいる。人権とスポーツとを比べるなら、人権のほうが優先するからだ。つまり、この選手は、オリンピック出場より人権のほうを「懸念」しているからそういう態度をとっているのである。アスリートが、自分のスポーツのことだけしか考えず、人権や政治について考えない人間だと決めてかかることはできない(日本のアスリートにそういうひとがどれほどいるかは知らないが)。したがって、ボイコットを批判するとすれば、選択肢は、「人権が守られているから、オリンピックは滞りなく開催すべきだ」か、「人権が守られていないとしても、オリンピックは政治とは別の問題だから開催すべきだ」(場合によっては、「人権問題よりオリンピックという祭典のほうが大切だ」という発想も含めて)か、いずれかである。だが、チベットの現状が把握できない以上、「人権が守られている/守られていない」の判断は下せないはずだ。したがって、新聞社は、ボイコットの動きが出ていることを報道するだけで、「懸念」をする立場にはないのではないか? 

  おそらくは、「いったん決まったオリンピックはつつがなく開催されるほうがいいと、みなさん、お思いでしょう。それに支障が出たのですから、みなさん、懸念されているのではないですか」といった判断でこういう見出しになったのだろうと思う。しかし、誰を目当てに「みなさん」を想定しているのやら。日本の政府についてもマスコミについても、誰をターゲットにしたのでもないような八方美人ふうな態度、裏返せば、他人事感覚、ことなかれ主義、ただ「粛々と」ことを進めるのをよしとする発想を感じてしまう。

2008年3月21日

  聖金曜日(Karfreitag)でお休み。上空の天候が不順で、ひょうが降ったり、雷が鳴ったり、晴れ間がのぞいたり、いそがしい。あすは休日ではないが、土曜日なので休みとするところが多い。そして23日は復活祭だ。昨年は4月に入ってから復活祭があったので、私は1年間滞在するあいだに2度の復活祭に出会ったわけだ。

2008年3月20日

  聖木曜日。キリストが使徒たちの足を洗った故事にしたがい、国王が貧者の足を洗う習慣があった。オーストリアの皇帝もそれをしていたのだが、そのために「清潔な老人」が12名選ばれた由。清潔でないほうを選ぶほうが、よりいっそう趣旨にかなっているように思うが。

  在デュッセルドルフ日本国総領事館に帰国届を郵送。

2008年3月19日

  イスラエルを訪問していたメルケル首相がイスラエル議会でおこなった声明が新聞に出ている。「ホロコーストの犠牲者、そこから生きながらえた人びと、そのひとたちを救った人びとのまえで頭を垂れる。ユダヤ人を数百万人殺戮したことはドイツ人を恥で満たしている。そのことは同時に、イスラエルの安全にたいする責任とイランにたいする新たな制裁を示唆している。イスラエルは、また、EUに近づかなくてはならない」と。ユダヤ人にたいする ドイツ人の責任を確認するのは適切だが、ユダヤ人への責任が国家イスラエルへの責任の話に直結するところが私には疑問に思える。イスラエル建国の経緯の要因のひとつは第一次大戦時代のイギリスの二枚舌外交 にあった。その経緯のなかで、アラブの意向は結果的に無視されたわけだ。ドイツがイスラエルの安全に責任を負うと宣言すると、アラブにたいする過去の歴史的「無責任」までも、ドイツが背負いこむことにならぬだろうか。

2008年3月14日

  チベットの蜂起についての報道。ドイツでは、ダライ・ラマは尊敬をもって語られ、メルケル首相もチベット問題で中国に苦言を呈したことがあった。メルケル首相はそれを支持していないが、新聞の論調では、この夏に北京で開催されるオリンピックのボイコットの意見も出ている。「なぜ、IOCは北京を選んだのか」という選手の声も報道されている。スポーツは政治に左右されてはならないといっても、オリンピック自体が国威発揚の道具なのだから、政治と無関係ではない。

2008年3月13日

  3年前にお目にかかったDietrich Böhler教授からの案内をうけて、ベルリン自由大学のハンス・ヨナス・ツェントルム(Hans Jonas Zentrum)で行なわれたReligionsphilosophisches Colloquium Hans Jonas: Gnosis, Entmythologisierung und "Gottesbeweis"(ハンス・ヨナスの宗教哲学コロキウム:グノーシス、脱神話化、「神の証明」)に出席。ツェントルムあてに事前にお送りしていた拙著の英文要約をコピーして配布してくださり、感激。ヨナス研究者として名高いWolfgang Erich Müller 教授、 Christian Wiese教授にもお目にかかることができた。私のヨナス研究は責任原理から始まり、そしてそれで終えるつもりだった。つまり、ヨナスという哲学者それ自身に最初から関心があったわけではない。しかし、だんだんとヨナスの哲学者としての閲歴に関心を広げるようになった。Böhler教授に厚意を謝して帰る。

  あいにく、ベルリン市内の交通が十日続けてスト中で、ベルリン自由大学のあるDhalemに直通の地下鉄は動かず、さいわいS-Bahnの1番は動いているので、Lichterfeld Westから歩いていく。「タクシーで来たか」というBöhler教授の質問に、経路を説明すると、「あなたはBerliner(ベルリンっ子)だ」といわれる。

    旧東ベルリンの再開発が進んでいる。わずか3年前にきたときとだいぶ変わったのだろう。博物館島の東岸にDDR(東独)博物館があり、そこにレストランDDRがある。さらに橋の上では、東独グッズとして、東独時代の警官や軍人の帽子や毒マスクまで売っている。なんとも、ね。3年前には、「ネオコンでもなければ、ネオ民族主義でもない。第三の途、社会主義」というポスターがあったが、今回は、「われわれはVolk(民族)ではない。Klasse(階級)だ」というポスターをみつける。

2008年2月29日

  哲学者ハンス・ヨナス(Hans Jonas)の生地メンヒェングラードバッハ(Mönchengladbach)をおとずれる。あいにくのくもり日だった。ヨナス公園のヨナス像をみる。なかなかいいではないか。小ぶりの像だが、笑みをたたえて、コートの前をはだけ、すそを風にひるがえし、マフラーを首からたらし、大きく手をふって踏み出している。母親をアウシュヴィッツで殺され、自身もパレスチナ移住後、イギリス軍に志願し、三十代後半から四十代初めを軍務に費やした苦労の多い人生をすごしながら、それでもやはり人生と生命を肯定した哲学者らしい笑顔だと思った。作ったひとは、Hans Karl Burgeff教授というひとである。Barlachの作った像をみると思わず笑みがこぼれるが、それに似た印象をもつ。残念ながら、曇天、逆光でうつむき加減の表情はきれいにカメラにおさまらなかった。ヨナスは北向きに歩いているのだった。

2008年2月26日

  ハンブルクの州選挙で与党CDUが勝ったが、議席を減らした。最近、結成されたdie Linken(文字通り「左」という党名)はここでも議席を得て、これで四つ目の州で議席を獲得。ドイツは好景気だけれども、格差が広がっている。携帯電話の会社がボッフムからルーマニアに工場を移すという。東欧のほうが人件費が安いからだが、大量に解雇されるひとが出てくる。部分的に「左」にぶれるのは、もっともだと思う。格差が広がり、しかも不況にあえぐ日本では、なぜ、そういう動きがないのか、むしろ不思議。不況からの脱出を願うから「左」にいかぬのか。

  亡父の祥月命日、二十二回忌だが、たむける線香もなく、机の上にコップに入れた水をおく。ドイツの炭酸水で、仏様にはめずらしいかも。

2008年2月19日

  ドイツにいるあいだに口ひげをはやした。関西大学の1年生むけ授業「学びの扉」の冊子には写真を載せる。そのため写真をとりなおして、編集の三村尚彦さんに送る。すると、帰国後も1年間はひげをはやしていないといけないのか。

2008年2月18日

  コソボ独立の新聞記事(Welt紙)を読む。「ヨーロッパで47番目の国」と。ドイツは独立支持だ。まだコソボの国旗が普及していないのでアルバニアの旗を掲げる女性兵士の写真が載っている。横に「最も若いヨーロッパ人」と。コソボの人はヨーロッパにもともといたのだが、ヨーロッパとは、あくまで国家の共同体だというわけだろうか。 ヨーロッパにとって、バルカン半島は第一次世界大戦の発端、火薬庫だ。そこで、EU全体でコソボの独立を支援しようという提言がのっている。コソボの成否は国内少数民族のセルビア人の尊重にかかっている。そこで、警察官、行政官、税務官をEU各国から派遣し、また、就労年齢の4割に職がない現状にたいして経済支援をおこなわなくてはならない、と。とはいえ、自国内にバスクをかかえるスペイン、コソボの近隣にあたるルーマニア、ギリシア、キプロスはコソボ独立を支持しないだろうという問題点を指摘している。近い将来、バルカン半島西部の諸国のEU加盟も提言。EUは経済的な利益の共同体というより、安全保障の枠組み。その共通の理念として「ヨーロッパ」「ヨーロッパ人」が語られる(だから、トルコの加盟に抵抗があるわけだ)。コソボ独立にはロシアが反対しているが、コソボ問題はロシアにとって究極的に重要な問題とはいえず、国威発揚のために反対しているのだと推察。それでも、ロシアが反対し、国連の裏づけがなければ、EUによるコソボ支援の正統的な根拠がえられぬことになる。そのリスクも指摘しているが、ともかくEUによるコソボ支援を基調とする意見である。

 

  そのしたに、福井県小浜市の記事が出ている(つまり1面だ)。アメリカ大統領候補のObamaと同じ名前なので、市民(32000人)がObamaを支持している、と。Kaiser(天皇)が京都に都を構えていたときには、天皇に献上する魚を送った町だという説明がある。

2008年2月14−16日

  ブリュッセルに旅行。ベギン修道会教会に併設されたホスピス施設の規模に感心。ブリュッセルは一二世紀に施療院ができている。そういう伝統のある町なのだ。

  名物のうなぎの煮込み、シコンのグラタン、鶏のクリーム煮、生牡蠣などに舌鼓をうつ。ビールはドイツにくらべて高め。

2008年2月5日

  カーニヴァルはおわり、きょうはFastnacht。節制をする期間のはじまりだ。肉類、酒、乳製品をたべず、結婚式はあげず、娯楽や夫婦生活も控えるとのこと。しかし、スーパーにいくと、なるほど魚はいつもよりも売っているが、肉もかわらず店頭に出ている。カーニヴァルのときにさんざん食べて、そのあとも食べているというわけか。

2008年2月3日

  カーニヴァルの町をみにいく。きょうもパレードあり。若いお母さんが父親に肩車してもらっている息子に、行列がきたら"Kamelle!"(キャラメルという意味だ)とさけぶのだと教えて、自分も率先してさけぶ。カメレー! すると、行列から観衆にむけて キャンディやお菓子がふってくる。私は店屋のシャッターに押しつけられていたが、胸にあてていた左手にすっぽり、ハリボーが飛んできてはまった。なんとなく縁起のいいような気分。

2008年1月31日

  ケルンのカーニヴァルのはじまり。今年は復活祭が早いので、それにしたがって、カーニヴァルも早いのだ。近くの会場にいってみる。ねずみの格好その他いろいろ衣装をつけて集まっている。ビールを飲んで歌を歌って、警官も、救急車も待機。レストランにくりこんでビールを飲んでいるひともいる。はて、きょうは木曜日だが。気温は4度。風が強い。

2008年1月24日

  ケルン大学で開かれていた4回連続の研究会Philosophie Kontrovers "Die Natur des Menschen"(人間の自然本性)の最終回。Karl-Heinz Lembeck教授(Würzburg大学)の"Der Geist, der Körper und das Problem der >Erklärunglücke<. Das Menschenbild der Neurophilosophie und die Phänomenologie"(精神、身体、説明の「間隙」の問題。脳哲学の人間像と現象学)。経験的な自然科学と現象学との協働について、その方法論的な差異から、どちらかといえば慎重な姿勢を示す。DenettのアプローチをHeterophänomeogieと呼ぶ。なるほど、そういういいまわしがあるのか。特定質問者のDieter Lohmar教授が現象学的反省が「超越論的経験」であることを指摘する。それはそれでまっとうな話(現象学からみて)なのだけれども、経験科学と現象学における概念・語義のちがい、その背後にある研究領域のちがいが、きわだってくる。

2008年1月18日

  アメリカの研究者Andrew J. Frenchらが、ヒトクローニングで胚(5−7日、胚盤胞)を作ったニュースあり。Frankfurter Rundschau紙を読むと、日本の新聞記事よりも要所をつかんで的確に説明している。「21−24歳の3人の女性から30個の卵を採取し(その際、女性に害はない)」とあるが、どういう経緯でそのようなことができたのか、そこが知りたいところ。ひとりひとりの患者と遺伝子型の同じ細胞に生長する可能性があるわけで、糖尿病、アルツハイマー病、パーキンソン病への治療法が期待されているというが、もし、ひとりひとりの患者に対応するクローン胚を作るようになったら、それだけヒトの卵細胞が必要になる。人体の資源化がまた一歩進む。そこに倫理的問題がある。この点は、インタヴューをうけていた社会民主党の政治家Réne Röspel氏(43歳)も指摘している。このひとは生命科学倫理問題にかかわっているひとだそうだ。生殖目的のクローニングに通じることを恐れている。 (その意見を読んでいて、年齢をみるまで、かなり高齢の方かと思ってしまった)。

  ドイツでは、ヒト胚保護法があって、胚性幹細胞を作ってもならない。国外から入手できた2002年1月1日以前に作成されたものによる研究のみ条件つきでゆるす。ただ、これは厳しいので、上記のレスペル氏らが法規制の緩和を国会で議論している由。そういうわけで関心が高いのかもしれない。もっとも、同紙の署名入りの論説は妄想じみた反論(「ゾンビ、フランケンシュタイン、死なない人間がこの地上を占めるようになる」!)で、論争のレベルは上から下まであるようだ。おりから、ドイツの功利主義者Birnbacherの本Natürlichkeitを読み終えたところで、Birnbacherが進歩主義と保守主義とをするどく対比させているのをみて、ちょっと政治的な対比構造にすぎやしないかと感じたが、ドイツではそういいたくなるのかもしれない。この分類では、クローニング等の生命技術については、社会民主主義者はカトリックと同じく保守派に入れられて、進歩派はリベラリストということになる。

  ようやくゲストハウスの壁の工事が完成し、もとの部屋にもどる。請け負った会社がクリスマス休暇と新年休暇をたっぷり休んだものだから、2週間で工事完了の予定が6週間に! 技術的にもどうかと思われるできあがりで、某氏に「ドイツの仕事のレベルを私は疑う」とぐちると、「ああいう仕事はドイツ人はやらないので」というすごい返事が返ってきた。

2008年1月16日

  研究会Philosophie Kontroversの"Die Natur des Menschen"(人間の自然本性)第三回目、人類学者Volker Sommer教授(London大学)の講演"Kultur in der Natur. Wenn Tiele wie Menschen sind"(自然のなかの文化。動物が人間のようなら)。動物の行動のなかに文化とみなしうる行動がいくつもある例をあげ、しかしその伝播が小集団、狭小地域にかぎられており、そこに人間の普遍化する機能とのちがいをみる。シリーズの目的が人間の特有性の追求だからかもしれないが、最終的には、人間と他の動物とのちがいにいき、(日本のサル学の話などとくらべると)目線が上からという印象をもつ。

  軽妙洒脱な講演だったが、途中、日本の霊長類学の研究を紹介するさいに、チンパンジーに特定の数字のボタンを押す訓練をしたら、「ヒトの子どもよりも早く反応するようになったそうだ。それどころか、おとなよりも、いや厳密にいうと日本人よりも、ということだが」と笑いをとったところは笑えなかった。立場が交代すれば、私も「ドイツ人よりも」というかもしれないが。悪意や人種差別を意図したわけでもないだろうが(フィールドワークをしている人類学者がそういうわけもあるまい)、笑う聴衆にどんな人間が入っているかわからない。  

2008年1月10日

  ケルン大学学長の招待ということで、客員研究者や留学生の新年会。留学生有志がLet it beの替え歌で、vergess' ich nie(私は忘れない)をリフレーンにして、留学の思い出を歌った。なかなかおもしろい。ヨーロッパ内の学生留学を積極的に進めるエラスムス計画もあって、いろいろな国から留学生がきている。

  ドイツ人の教授に拙著『正義と境を接するもの』を昨年十月に刊行したことをいうと、ドイツ語で出さないかと、とんでもないお話をされる。

  新年会のあと、研究会Philosophie Kontroversがあり、Christoph Antweiler教授(Trier大学)の"Kurlturuniversalien vs. menschliche Natur?"(文化的普遍対人間の本性)。ちょっと入口の話で終わってしまった印象。

2008年1月3日

  夜10時ごろ、不意にベル。出てみると、ケルン市役所のひとで、「近くで爆弾が発見された。避難してくれ」と。あわてて出て、少し離れた場所のあいていた店に入ってビールを飲んで時間をつぶす。12時半に無事撤去。第二次大戦中にイギリス軍が落としていった爆弾で、近くのギムナジウムの校庭を工事していたら出てきたのだった。2年前には、私の住んでいるゲストハウスの ある通りの家の庭でも発見された、と。

2008年1月1日

  ライン川河岸で打ち上げ花火をすることは知っていたが、午前0時から20分ほど、街中でも打ち上げ花火。石造りの家だから火災の心配はないというわけか。路地や公園でうちあげている。たちまち硝煙のにおいがたちこめる。しろうとのすることだから、華麗な大輪の花火ではなくて、空中にクラッカーをうちだしたような模様のものが多かった。新年のさわがしい始まりだ。

 

 

 

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