往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2009年12月27日

  朝日新聞の読書欄に書評委員による「今年の3点」の記事あり。小説家の高村薫さんが拙訳『アウシュヴィッツ以後の神』を第一にあげてくださる。思いもかけぬところから応援をいただいた。おどろき。

2009年12月21日

  先週の検査の結果は問題なし。やはり、尿路結石だろうと医師によって、私の「診断」(?)が支持される。エコーをかけたわけではないので、石の所在はわからないが――。解剖図をみながら思うには、左側の尿道が膀胱に開口するあたりが傷ついたのではないかと思う。

2009年12月14日

  近くの病院にいき、検査をしてもらう。この病院ははじめてだ。

  かつて某大学の医学部で私の授業の単位を落としたのと同姓同名の名前を某診療科の担当医に発見する。単位をくださいと懇願にきたが、 とても単位を出せる答案ではなかった。それなりの偏差値の大学だったから、まじめにやっていれば教養ドイツ語の単位を落とすことはない……。同一人物かもしれない。むろん、ドイツ語をさぼっていたから、質の低い医師になるとはかぎらない。だから、顔をあわせて、双方、気まずいということもあるまい――あるかな? が、さいわい、私の受診した科にはあらず。

2009年12月12日

  関西倫理学会の編集委員会と委員会のために大阪大学へ。公募論文についての重要な提案をしなくてはならず。尿のほうはふつうとなる。

2009年12月11日

  『週間読書人』に拙訳の書評(細見和之氏)が掲載された。訳者として望むとおりの行きとどいた理解を示されてありがたく思う。

  夜中に鮮紅色の血尿が出る。尿路結石につきものの激しい痛みや発熱感、悪心はないが、尿路結石ではないかと思う。石が排出されたさいに尿管を傷つけたのだろう。痛みの位置で、尿管の位置がわかり (そうでなければ、だれが自分の尿管の位置に気づくか)、そしてそこに石があるのだなとわかる(今の場合は、石が傷つけた部位がわかる)。あいにく金曜の夜で、あすは病院は休みではないか。

2009年11月27日

  居宅の転居。本の量が多くて、運送業者泣かせ。新居に運び込まれたダンボールをみると、その持ち主にさえ、この箱詰めした状態で、すっと消えてなくなったら……という気がしないでもない。が、鴎外のいうように、本は人生にただ一度、たった一行のために必要だということがないわけではない。私は、鴎外のように、大蔵経などまで買い込んでいないだけましか。

2009年11月14−11月15日

  日本現象学会のため愛知県岡崎市の人間環境大学へ。関西大学が事務局なので受付その他の雑用。広島大学に勤めていたときにも、この学会の事務局にかかわった。そんなわけで、発表はほとんど聞けなかったが、Klaus Held教授の講演Gott in Edmund Husserls Phänomenologie(エドムント・フッサールの現象学における神)を聞けたのはさいわいだった。

2009年10月31−11月1日

  関西倫理学会のため龍谷大学へ。11月1日に行われたシンポジウム「誰が誰をどれほど助けるべきか グローバリゼーション時代の倫理学」の司会を石崎嘉彦氏とともに務める。提題者は松葉祥一氏、樫則章氏、藤森寛氏。「グローバリゼーション時代の倫理学」という広い主題だが、それだけでは広すぎるので、シンガーが『グローバリゼーション時代の倫理』のなかで示したロールズ批判(『正義論』のなかで示された格差原理が一国内にとどまっていて、他国の飢餓への援助に適用されていない)、 しかし、そのロールズも『万民の法』のなかで国際社会における正義を論じているのでその議論、そしてまた、グローバリゼーションにあって、国家という「枠組み」をどう考えるのか、それがもっている意義はどのように変わってきたのか 、そういう論点にしぼって、今回のシンポジウムを立案した。結果としては、論点が相応にかみあったシンポジウムとなったと思う。いつもながら、時間が足りないのが残念。

2009年10月16-18日

  日本倫理学会大会に参加するために名古屋の南山大学へ。16日のワークショップで「環境プラグマティズム」の話を聞く。環境プラグマティズムの語る「何々すべし」の「べし」の根拠がどこからくるのか。たしかに、実際に環境保護運動に参加しているひとたちの共有する直観に根拠を見出せるかもしれないが、それでは、そういう直観を共有しないひとはどうするのか。この点では、環境プラグマティズムが、「実践的には不毛」と批判する人間中心主義対非人間中心主義の論争のほうが、「べし」の根拠をめぐる論理的厳しさに長けているだろう。20世紀半ばに支配的だったメタ倫理学への鋭敏さからすると、私には、そのほうに親近感を感じ、たんに「実践に効果的」というだけでは、倫理学的反省が足らないような印象を抱いてしまう。とはいえ、論理的厳しさと一体の「基礎づけ主義」を批判する点で、環境プラグマティズムもまた、メタ倫理学的メッセージをもっているわけだが。

  そのほか、カントに関するいくつかの発表、主題別討議のアリストテレスの徳倫理学の話、刺激に富む。

2009年10月6日

  教養教育科目の倫理学を経済・商・社会・工学部の学生を対象におこなう。履修者250名あまり。授業が終わったあと、ひとりの学生が「こういう哲学・倫理学の話には関心があって、聞いていておもしろいのですが、聞いていると頭が痛くなるのです。これでついていけるでしょうか」と真顔で質問する。なんとも答えにくい。「そのうち、慣れますよ」と答えたら、安心した――かどうかはわからないが――去っていった。

  それで思い出す。学部学生のころ、哲学の研究会を聴講していたが、今は大御所になっている当時の若手・中堅の研究者がつぎからつぎへと発表する内容が、あたりまえのことだが、学部学生には理解のとどかぬところが多かった。今は某大学の教授をお務めのそのころ助手だった某さんに「これで大丈夫でしょうか」と真顔で愚問をたずねると、「うん。気にしなくていい。そのうち、わからないことが苦にならなくなるよ」という答えがかえってきた。

2009年10月3日

  第16回関西大学生命倫理研究会を開く。今回は、今年6月に刊行された『岩波講座哲学8 生命/環境の哲学』所収の霜田求さんの論文「生命操作の論理と倫理」(コメンテイターは関西大学大学院生の徳田尚之君)、私の論文「つかのまこの世にある 私/私たち」(コメンテイターは大阪大学大学院生の森本誠一さん)をとりあげる合評会。約20名の方が参加し、レベルの高い議論となった。出席者の所属をいえば、関大以外にも、大阪大学、武庫川女子大学、広島大学と、なんだかずいぶんすごい広がり。質疑については、同研究会のサイトに載せる予定。次回は日程未定だが、アウシュヴィッツ博物館のDVDをみる計画を立てている。

2009年10月1日

  広島地裁が鞆の浦の埋め立て差し止めを命じる判決を出す。

  私は埋め立てないほうを望む。医王寺から見下ろす鞆の浦は、左右の堤防が二本の腕のように伸びて入り江を抱いている。その港のまんなか、寄せる波を出迎えて、古い小さな常夜燈がたっている。港を出た船は仙酔島の右手を進んで、遠く銀色の帯のように光る沖へと出ていく。何度か、あの風景を、あかずながめたものだ。

  旅行者がみても、あの細い道の入りくんだ街には、消防自動車や救急車すら入りにくそうな不便を感じる。井伏鱒二の随筆に、鞆の鍛冶屋の碇づくりを描いたのがあった。その伝統をうけつぐ海沿いの鉄鋼団地も、景気がよさそうにない。夏の夕方、どの家も小さないすをもちだして、お年寄りがすわっていた。家のなかには、夕凪の暑気がこもるからだろう。通りに腰掛けていられるのは、車の往来が激しくないからである。町全体がみすてられたような風情もあって、そこに住んでいるひとの一部が埋め立て推進派になるのもむべなるかなと思う。

  だが、埋め立てたら、これまでの鞆の暮らしぶりが(しかも、それが観光の魅力の一部にもなっているのだ)一変して、車が疾走して通り過ぎるだけの、日本全国どこにでもありそうな月並みな町になってしまうのではないか、そういう懸念がある。

2009年9月17日

  平成21年度科研基盤研究(B)「生命・環境倫理における『尊厳』・『価値』・『権利』に関する思想史的・規範的研究」の研究会で上智大学へ。Ralf Stoecker教授(ポツダム大学)の講演「 脳死と人間の尊厳」(Hirntod und Menschenwürde)を聴く。この話題にはいずれにしても人格(Person)概念が関係してくるが、Stoecker氏は、人格が備えているそのひとの一生をとおした統合性(Persönlichkeit)に力点をおいて説明。 脳死者から臓器を摘出するにも、脳死者の統合性を、つまり、脳死になるまえの本人の意向を尊重しなくてはならない。そうでなければ、脳死者の尊厳を傷つけるという趣旨。

  私はこの論理の進め方には賛成する。しかし、Persönlichkeitという概念が成り立つには、そのひとが自発的に人生設計した経験が必要に思われるので、たとえば、無脳症のようにそのような経験をもてない存在者にもこの概念を適用できるか (もし、適用できなければ無脳症児からの臓器摘出はなんら倫理的に問題でないことになる)という点についてドイツ語で質問。難問だという答えがかえってくる。私はこの概念を用いることに賛成だが、一方で、個々の人格だけに人格の人格たるゆえんを求める論理では、やはり、この概念だけを根拠にしてはその生命の技術的利用をはばめない事例が出てくると考える。

2009年9月14日

   拙訳『アウシュヴィッツ以後の神』の見本ができあがったとの一報あり。17日には出版社から書店に配本できそうだというので、週末には書店に出るだろう。

2009年9月12日

  京都生命倫理研究会のため京都大学へ。Ralf Stoecker教授(ポツダム大学)の講演「死刑と尊厳」(Todesstrafe und Menschenwürde)を聴く。ドイツでの議論では、ドイツ基本法を介してカントに遡及する尊厳概念を死刑反対に援用する展開だったが、それでは、カントの立てたhomo noumenon と homo phaenomenon との区別はどうするのか(カントでは、その区別から死刑が容認されるのだ)、個々人の尊厳をいうさいにカントのいうMenschheit(「人間性」とも「人類」とも訳せ、ハーバマスはそこから「類倫理」(Gattungsethik)をひきだす)をどのように理解してそれに関連づけるのか、をドイツ語で質問するが、重い問題で、かぎられた時間では答えがでない ようだ。カントの形而上学にくみさないというのはわかるが、それでは、形而上学によらずに、カントを援用する根拠をあきらかにしなくてはなるまい。

  私が卒論を指導している某嬢を京都大学院生の諸君にひきあわせる。研究を志向するなら、やはり刺激がある環境に身をおかないといけない。

2009年9月5−6日

  関西倫理学会の編集委員会と委員会のため、大阪大学の千里中央のサテライト・オフィスへ。5時に終了。そのまま広島へ移動する。翌日は、某出版社で小論文教育に関する打ち合わせ。10時からはじめて3時に終わる予定が5時に終了。時間があれば、ひろしま美術館にいきたかったが、あきらめて、そのかわりに久しぶりに広島の魚を食べて帰る。小いわし、あなご、たこ、めばる・・・・・・。大阪から久しぶりに訪れると、広島の町の美しさがよくわかる。

2009年8月30日

  衆議院選挙で与野党逆転。民主党が政権をとる。今年は裁判員制度がはじまったし、あとからみれば、日本で「公」というものが「お上」や「官僚」などの一部の人びとから「一般のひとたち」のかかわるものに変わっていく節目の年かもしれない。

2009年8月21日

  法政大学出版局をたずねる。『アウシュヴィッツ以後の神』の翻訳の件。9月に刊行される。著者はHans Jonasで、私は「ヨナス」と表記してきたが、同じ出版社から2通りの表記で出しては混乱するので、今回は「ヨーナス」とする。 アクセントはJoにあるものの、私の経験では、ドイツ人はそんなに長音で発音しているとは感じられないが。

2009年7月31日

  オープンキャンパス。昨年はミニ講義をしたが、今年は哲学倫理学専修の相談受付係。十数人の高校生から質問あり。

2009年7月26日

  平成21年度科研基盤研究(B)「生命・環境倫理における『尊厳』・『価値』・『権利』に関する思想史的・規範的研究」第1回研究会(桜美林大学四谷キャンパス)で、加藤尚武著『合意形成の倫理学』の書評をおこなう。 (並み居る「お弟子」さんがすればいいのに)と思ったが、研究代表者の盛永審一郎さんにいわれるままにひきうけてしまった。事例にたいしてわれわれの抱く道徳的直観、その事例を正当化する倫理理論、あるいはまた、その事例に抱く道徳的直観を正当化する倫理理論、さらには、人間の行動パタンや存在者のあり方についての背景理論を往復して思考を進める反照的均衡の好例である。質疑応答のなかで、加藤先生が、私以上に、一般の人間に信頼感を寄せておられることに気づく。

2009年7月14日

  臓器移植法のA案が参議院で可決され、この結果、脳死をひとの死と考えるかどうかについて個々人の意志を反映できた1997年成立の臓器移植法は、「一律に脳死をひとの死と認める」という内容に根本的に変わってしまった。衆議院の解散が間近なのであわてて採決してしまった。

  脳死を一律にひとの死と決めた以上は、どの病院でも、それと疑われる場合には、臨床的な脳死診断をし、脳死と診断すれば、家族に臓器提供の意向をたしかめ、その意向があれば、法的な脳死判定をして臓器の摘出をはじめることになるはずだが、その作業ができない病院も多いにちがいない。恐ろしいのは、信頼できる判断を下す準備のないところで臨床的な脳死診断をして、偽陽性(脳死でないケースをもう脳死になっているとまちがえる)の判定を下してしまう場合である。臓器摘出に進まないとしても、医療措置は打ちきられることになりはしないか。

  多くのひとが、偽陽性は偽陰性(脳死のケースをまだ脳死にはなっていないとまちがえる)よりも「恐ろしい」とうけとめると、私は思う。しかし、そもそも、脳死と臓器移植をめぐる議論には、つぎのような意見があったことを忘れることができない。

 重大な脳の損傷をこうむりながら生き残ったひとには生きるに値する生はないということを考えれば、まちがって死んでいるとみなしてしまうこと(偽陽性)の問題をそれほど心配する必要はないのかもしれない。それとは逆に、まちがって生きているとみなしてしまうこと(偽陰性)にたいしては関心をもってもよいだろう。もしほんとうは死んでいるひとを誤って生きていると宣告すれば、看護と治療という高価な道徳的義務を果たすはめになるかもしれないのである。(H.T.エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』、加藤尚武・飯田亘之監訳、朝日出版社、1989年、255頁)

2009年7月8日

  1年生向けの授業で、「脳死はひとの死か」を論じる。毎年とりあげるテーマだが、今年は臓器移植法改定案が衆議院をとおり、参議院でその修正案が昨日出たという時点で話す めぐりあわせとなる。今年の1年生は臓器移植法ができたころには、まだ小学校に入っていない 。しかしなお、植物状態と脳死とのちがいを知らない学生は多数いる。だから、脳死のメカニズムの説明については、長期脳死と呼ばれる状態のあることをつけくわえたほかは、12年前の学生に話した内容と基本的にかわらない。

  臓器移植は医療の一部である。医療体制全体については、12年前より、救急医療がよくなったとはいえないだろうし、 むしろ幼児救急を考えれば悪くなっているのかもしれないし、後期高齢者医療制度のような患者の切り捨てに通じる動きもあり、国民皆保険制度のセーフティネットから落ちてしまったひとの数は増えた。

  臓器移植法の論議の進め方は、「全体」のなかで個別の問題をとらえる視野というものを今の日本の政治に期待できない証左のひとつにみえる。

  大学生も新聞・テレビをみているのだから、こんな感想もあり。「臓器移植法改正の議論中に居眠りや私語をする議員のニュースをみて、法律は真理ではなく、法律を作っているのは人間なのだと実感しました」。

  臓器移植法のできた年に書いた論文のなかで示した論点をこの6月に刊行された『岩波哲学講座8巻 生命/環境の哲学』所収の「つかのまこの世にある私/私たち」のなかにふたたびとりあげた。「古いものを」という気もしたが、結局、問題は続いているのだ。

2009年7月4日

  第13回「生命の哲学」研究会(大阪府立大学中之島サテライト教室、13:00-17:30)において、拙論「ヨナスの<アウシュヴィッツ以後の神>概念(一) ユダヤ人で哲学者であること」「同(二) 全能ならざる神と人間の責任」の合評会が開かれる。コメンテイターは、森岡正博氏、細見和之氏、吉本陵氏。主催者側は20名くらいの参加者を予想していたようだが、それより5-6名上回 ったようで、レジュメが足りない。ユダヤ思想との関連でかなり深い質問をいただく一方、事前に読んでこられなかった方からはどうしてもその場で思いついた不消化な質問も出て、あまり深いやりとりにはいたらなかった。それでも合評会を開いてくださってありがたい。

  グノーシス思想を近代の哲学に読みとる理解、ハイデガーからの離反、目的論的自然に立脚した生命哲学の展開――結局これらは、機械論的自然観のなかで、さらには人間を操作の対象とする科学技術のなかで、人間をどう位置づけるのか、 もはや人間には特定の位置はないのか、という問題である。そしてまた、ある特定の時代と状況のなかで(超時代的、超文化的な知へむかおうとする)哲学者として生きることの意味、ひとりの人間が特定の神への信仰をもちつつ、哲学者として神を語るときに生じる問題・・・・・・。拙論で問うたのは、神をめぐるヨナスの思索の解釈やヨナス哲学の展開についての整合的解釈のみならず、その背景にあるこうした問題だった。

2009年6月25日

  大谷大学西洋哲学・倫理学会で「アウシュヴィッツのあとに、神を考えうるか 哲学者ハンス・ヨナスの思索」と題して講演(16:30-18:10、響流館3階メディアホール)。なじみのうすい哲学者の話だから、反応がどうかと危惧したが、すべて学生から、重要な点をつく質問を3問ほどいただく。懇親会でもなかなか盛り上がり、楽しい一日を過ごさせてもらった。

2009年6月18日

  衆議院で臓器移植法の改正案としてA案が賛成263、反対167、欠席・棄権47で投票数430(衆院定数480)の半数以上をとって可決された。A案は、「脳死を一律にひとの死」とみなし、年齢を問わず、脳死者の家族の同意があれば、脳死判定→臓器摘出→臓器提供ができるようにする案である。従来の臓器移植法は、脳死になったひとの事前の意思があり、かつ家族の同意がないと提供はできず、また、15歳未満は適用外である。

  A案は、事前に提供「しない」意思を表明しないかぎり、本人としては臓器提供の意思があったようにあつかうことになる。従来、提供の意思は「善意」として解釈されてきたが、A案では、臓器提供にあたって本人の「善意」が鍵をにぎるものではなくなるわけだ。すると、その考え方は、@「だれもが臓器提供の意思をもっている」と前提しているか、あるいは、A「脳死状態のひとの臓器は、だれか他のひとが生き続けるために利用可能な資源である」とみなしているか、いずれかを示唆していることになるだろう。

  @が前提できるかどうか。@が前提できるなら、これまでも臓器提供の数はもっと多かったろうし、ドナーカードも普及していたろう。 だから、@の想定はデータの裏づけがないと思われる。とすると、A案の支持者がはっきりとAの発想を意識していないにしても、A案は論理的にはAに収斂するようにみえる。とはいえ、完全にAであるともいいきれない。家族の同意という一項が入るからだ。それで@を代替したことにはならない。家族と本人は別人なので、本人の事前の意思表明のないかぎり、本人の意思を代弁したことにはならないからだ。家族がいない ひとについては、(確率的に@が前提できない以上は)Aのようにみられているといったほうが適切だろう。

  1997年にできた臓器移植法は、(移植のために)法的な脳死判定を受けることを個人の自由な意思決定にゆだねた法である。それは、とかくその場の状況やふんいきに流されて(「長いものにはまかれろ」「お上のいうことにはしたがえ」「空気を読め」「みなさんのよろしいように」)ものごとが決まりがちな日本という国では、これほど個人の意思が尊重されたことはないのではないかとおどろくほどに、近代的な独立した主体という発想に通じているものであった。 私は、そのゆえに、本人の意思があるときにだけ臓器提供をみとめる方向を支持しているが、個人の意思決定を尊重するよりも、「臓器移植の数を増やす」という「実際」的理由でA案がとおったのは、むしろ「日本的」なのかもしれない・・・・・・。

2009年6月10日

  春に送った拙著の英文abstract(What borders justice? The principle of responsibility and the ethic of care)のお礼のメールをNel Noddings教授からいただく。郵便物が教員各人にとどくのにだいぶ時間がかかる大学だそうな。それでもとどいてよかった。

    Diemut Bubeck氏に送ったものは「宛先にその人なし」というので返送されてきた。イギリスまでいって、しかしちゃんともどってきたのに、かえって感心。LSEの事務がしっかりしているということだろうが。

2009年6月9日

  火曜日は1時限から4時限まで授業、1コマあいて6時限に授業している。無茶なスケジュールだが、昨年暮の母の入院をうけて、退院後の生活を考えて授業日を整理したのだ。その母は亡くなってしまい、当初の意味はなくなってしまったが、授業は計画通りにせざるをえない。

  きょうは、1時限は主として1年生相手にベンサムとP.シンガーの話、2時限は3年生相手にヒュームの話、3時限は卒業演習でカントとニーチェの講読、4時限は2年生相手にJ.トムソンの論文「人工妊娠中絶の擁護」を読み、6時限はライプニッツの話。哲学三昧でシアワセ! というべきか。

2009年6月5日

  学校インターンシップの面接にたちあう。今年は183名の希望者。きょうは勤務校が大学に昇格した記念日で休校。授業とのバッティングがないから、面接日にあてるわけだ。

2009年5月31日

    第2回京都ユダヤ思想学会のため、同志社大学へ。昨年の発足時の大会を傍聴、今年も傍聴・・・・・・というわけで入会を勧められる。Hans Jonasの関連でユダヤ思想に最近関心をもった私には、どの発表も初耳の話でおもしろいけれども、こんな知識不足で入会していいのやら。

  初夏のきもちよい一日。ひさしぶりに京都御所を縦断し、寺町通りに出て、四条まで歩く。三月書房には久しぶりに立ち寄ったが、寺町御池上ルにあった古本屋は店を閉じたのかもしれない。うっかり見落としたのだといいのだが。寺町京極には、学生のころ、東京風のてんぷらの店、わらじのように大きいビフカツの店(ムラセとかいったのではなかったかしら)などあったものだが、 とうになくなってしまった。

2009年5月30日

  第15回関西大学生命倫理研究会を開く。テーマは「臓器移植法改正――あなたはどう思う?」。今回は初めて、哲学カフェ形式(?)でしてみた。つまり、だれかが研究報告して参加者が勉強するというのではなく、参加者が自由に発言し(ただし、主張に理由をつけるといった論理的な要請はあり。また、たんに「権威」からの引用や「事実」をふりかざすだけの発言は慎む)、哲学を学んだ者がファシリテーターになるというもの。大阪大学、関西学院大学の方もこられて約20名の参加者あり。

2009年5月18-23日

  新型インフルエンザのため休校。もっとも、提出しなくてはならない書類もあれば、研究室に必要な本もあるので、研究室には行かざるをえない。

   若い層を中心に集団感染するおそれがある以上、大学を休校にしたのは穏当な措置だと思う。弱毒性といっても、生命はひょんなことで危機にさらされるのだ。もっとも、高校・中学校では休校となった学校の生徒が盛り場に出たり、外に遊びにいったりするのが指摘されている。さすがに、大学は大学教員に学生の見回りをせよといわないが。

2009年5月17日

  関西大学教育懇談会(つまり大学版PTAである)の催しのため、午後、出校する予定が、おりから神戸、大阪で新型インフルエンザ感染者が出たため、急遽、午後の日程は中止。夜になって1週間休校(授業を休講するだけでなく、部活動その他の中止)の通知に接する。

2009年5月9-10日

  関西倫理学会編集委員会、委員会のため、大阪大学豊中キャンパスへ。桐の花が咲いている。編集委員会で「公募論文応募要領」を立案検討し、委員会で同要領と「口頭発表応募要領」とを策定。

  会終了後、哲学倫理学専修・比較宗教学専修・芸術学美術史専修の2年生合同合宿のため、関西大学高槻キャンパスの高岳館へ。今年は書類作成をうけおったが、実質的には、懇親会から参加したのみ。高岳館で1泊。

  10日朝は、合宿のほうでは大学院進学・留学のガイダンスがあるが、大学院入試のため、数名の同僚と急いで関西大学千里山キャンパスへいく。3名の試問に立会い、会議をして、その後、合宿の報告書を作成。 収支の計算をする。

2009年4月26日

  応用哲学会第1回研究大会のために京都大学へ。10時から12時までワークショップ「『生命の哲学』の可能性を考える」を森岡正博氏と私が提題者になっておこなう。参加者は50数名。森岡氏の生命の哲学の構想に、私のほうはハーバマスの類倫理(Gattungsethik)をとりあげて、人格と身体 の関係、生物学的概念ではない類概念の可能性を論じた。当日の私の資料はこちら

  シンポジウムは大盛況。自然科学系の研究者も参加されたようだ。

  新しい学会にたくさんのひとが詰めかけたので盛り上がったわけだが、「応用倫理学」はメタ倫理学に収斂していた「倫理学」への反動という意味で倫理学を活性化した。それにたいして、「応用哲学」が何への反動で、どのような方向での活性化なのか、はこれからの話だろう。

2009年4月3日

  あっという間に新学年がはじまってしまう。午前は大学院進学者のガイダンス。午後は学部の新入生の専修別ガイダンス。研究室を掃除して、久しぶりにかたづく。

2009年3月24日

  ジェノバ大学のPaolo Becchi教授から教授の新刊書La vulnerabilita della vita: Contributi su Hans Jonasがとどく。遠方より送ってくださり 、かたじけない。ヨナスの思想の根本に「生命の傷つきやすさ」があるのだから、この書名には同感。・・・・・・しかし、イタリア語である。

2009年3月21日

  京都生命倫理研究会のため、京都女子大へ。伊勢田哲治さんの『動物からの倫理学入門』書評の司会をあてられる。特定質問者は野崎泰伸さんと杉本俊介さん。杉本さんのしっかりした質問に感心。野崎さんはデリダがらみで質問をぶつけた。

  それで思い出す。Zygmunt BaumanがPostmodern ethicsのなかで、デリダ的な他者として「動物」をあげている。そのように、動物を既存の正義の視野から外されてしまってきた存在として論じることを、デリダ的発想もシンガー的動物解放論も共有できるといえばできる。しかし、デリダの他者や歓待は、レヴィナスの「<同>はつねに<他>の審問にさらされている」 という発想を根底としている。これにたいして、功利主義の議論はたちどころに動物を<同>のなかに含めてしまい、デリダふうにいえば、economy(家の法)のなかに問題を回収することにのみ関心 がむいているようにみえる。デリダやレヴィナスの鮮烈なおもしろさは、まさに<同>が告発され、ゆさぶられるところにある。 一方、功利主義は葛藤を解消する機能を誇るのだ。そこに両者がもともとの発想面で相容れないところがある。

2009年3月19日

  卒業式。哲学倫理学専修では20名の卒業生を送り出した。たまたま、数年前の卒業生某君がおとずれる。哲学科を出て証券会社で働いているひとで、だんだんそれらしくなっていくような。

2009年3月18日

  哲学倫理学専修に分属した新2年生のガイダンス。今年は41名が分属する。「今の時代に哲学倫理学に41名!」とおどろかれそうだが、そうです、それなりに人気があるのです 。旧哲学科は入試定員60名。2年次に専修分属する体制になって、旧哲学科から哲学倫理学専修、比較宗教学専修、芸術学美術史専修が三つに分かれたのだが、哲倫41名、比宗26名、芸美41名と、あわせて108名で過去の入試定員の1.8倍の学生がきた計算になる――不思議ではあるが。

2009年3月14日

  母の七七忌。さいわいに雨があがり、二時間ほどだがお墓の草むしりをする。

  通りがかりのひとが「たいへんですねえ」と声をかけてくれるが、「除草剤をまいたら」ともいう。 むしっても根っこまではとれないので一時の気休めにしかならないが、だからといって、生きている草を除草剤で殺すことはお墓ではしたくない。それに除草剤の毒のしみこんだ雨水がお骨にもとどくと思うと、いくらお骨でもい やな気分だ。近くにはコンクリで固めたお墓もあるが、土が窒息しそうだし、素人仕事のようで手際も悪い。めったにこれないが、やはり草むしりをするほかあるまい。ところが、墓で読経してくださるお坊さんが「除草剤をまいたら」と同じ提案をしたのにはおどろいた。 住職として八重葎の墓を気にされているのかもしれないが、それでは「山川草木悉皆成仏」というより「悉皆殲滅」ではないかいな。それとも除草剤をまいても、お経をあげれば、成仏するというわけだろうか。

2009年3月4日

  私用で京都へ。寺町を歩いていたら、梶井基次郎の『檸檬』で知られる寺町二条の八百卯が今年一月に閉店していた。梶井が青春を過ごした時代には、寺町が一番繁盛していた。私が京大の学生のころは、中心は河原町に移っていた。そこに丸善があり(これももうなくなった)、梶井の学生時代とは場所がちがうが、『檸檬』を思い出しながら洋書をあさったものだ。寺町で鳥の絵のついた香炉を買って帰る。

2009年3月3日

  きょうとあすは後期の入学試験。入試監督をする。前期後期あわせて10日間の入試でだいたい4日監督をするのがノルマ。途中、雪も降り出し、寒い一日だった。

2009年2月24-25日

  東京出張。江東区北砂にある東京大空襲・戦災資料センターを訪問。国家総動員法のもとでは一般市民も戦争協力者であるとしても、少なくともその戦闘にかぎっては抵抗力がほとんどない ひとたちを殺戮する都市への空襲は、たとえ戦時下でも「不正」にあたらないか。 戦争協力者である点でinnocentではないという理屈は立っても、無差別爆撃に見合うほど戦争に貢献しているわけではない。ハンブルクの郷土資料博物館でハンブルクの大空襲の映像をみたことがあった。そのハンブルク大空襲と東京大空襲は同一人物が計画したのだった。そのLeMayという軍人は、航空自衛隊の育成に尽力したとの理由で勲一等旭日大綬章をもらっている。勲章の政治的利用。というより、政治的利用以外に勲章の意味はないのだろうが。

  扇橋二丁目から東京駅北口行きのバスに乗って帰る。木場、富岡、門前仲町、新川、永代橋、茅場町、日本橋、呉服橋と、江戸以来のなつかしい名前の町町を縫うようにして30分強で着く。

2009年2月21日

  大学院入試。午前中の試問だけで お役御免にしてもらって、15時より京都大学文学部第一講義室でおこなわれたWillam R. LaFleur教授(ペンシルヴェニア大学)の講演「哲学者、生命倫理学者としてのハンス・ヨナス アメリカでの周縁的位置」の特定質問をおこなう。アメリカでヨナスがなかなか受容されない経緯がよくわかる。なかば予想していた理由が裏付けられたところもあってうれしい。 ラフルーア教授は、アメリカでは注目されていないヨナスが日本で注目されている点を指摘し、ヨナスのさらなる評価を唱道された。質問とは別に、まったく個人的感想として、「私のなかのアニミズムがヨナスの生命哲学にひかれるところがあるのかもしれない。しかし、ユダヤ教の伝統を背負った彼の自然は創造神を前提とする以上、アニミズムではないが」と話したら、なんだかかえって関心を寄せられたような。講演後に時計台の下のレストランで会食。

2009年2月19日

  修士論文試問。10時から15時まで。4人の試問に立ち会う。

2009年2月16日

  卒業論文試問。9時から18時20分まで。18人の試問に立ち会う。

2009年2月6−8日

  入試監督で9時半から16時まで拘束。その後、すっかりおくれてしまったレポートの採点をおこなう。

2009年1月31日

  母のお別れの会をひらく。母の一生をかいつまんで話す。

2009年1月28日

  母、 未明に逝去。

2009年1月22日

  母、にわかに病勢、あらたまる。 病院にとまりこむ。

2009年1月21日

  母、一時外出で帰宅。暮に名古屋にいったときに買っておいた両口屋是清の二人静を「おいしいね」といいつつ食べて、お茶を飲む。

2009年1月10日

  特色GP「人間性とキャリア形成を促す学校Internship」のシンポジウムのパネリストをつとめる。 この特色GPは2008年度が最後だ。採択をめざして苦労したことをいまさらながらに思い出す。

2009年1月5日

  母、リハビリ開始。

2009年1月1日

  入院中の母にかわって雑煮を作る。いつもの年とかわらぬようにすることで、いつもの年と同じく暮らせることを予祝するがごとく。

 

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