From 大学キャンパス to ナース・ステーション
ケアとケアの倫理について考える  第9回


〈ケアの倫理〉が語られる理由、ふたたび



品川哲彦(関西大学文学部教授)
Emergency Nursing, vol.15, no.8, pp.58-62, メディカ出版、2002年8月1日

 


 ある大学での看護学科での倫理学の講義。インフォームド・コンセント(IC)という考え方が成り立つまでの歴史を語り、ICの倫理的な根拠をカントやJ.S.ミルの哲学を援用しながら説明し、医療職の倫理規定を読む。国際看護協会「ナースのための綱領(Code for Nurses)」の一節。「ナースは、ともに働いている者やその他の者によってケアが脅かされるとき、ケアされている人を守るために適切な行動をとる」。ともに働いている者? 誰? 学生――すでに勤務経験のある人もいる――が眉を寄せ、首をかしげる。「異なる職種の複数の人が関わっている医療現場では、医療関係者のあいだで方針が食い違ったり、不適切な措置をしてしまったりすることがありえます。そういうとき、ナースは誰よりも患者のケアを守る立場を貫くという意味です。仕事に対する誇りに満ちた気骨ある宣言ですね」と、一言そえる。学生が微笑する。

 この綱領が採択されたのは一九七三年。六〇年代から七〇年代にかけて、とくに米国では、ナースを喩える表現が大きく変わった。かつて、ナースの第一の義務は医師に対する忠誠だった。ナースが治療の方針に異論をはさめば、患者の不信を招き、患者自身のためにならないとされていた。医師は上官、ナースは上官の命じるままに動く兵士のイメージ。ところがその後、患者に接する機会の多いナースこそ、患者の意向を代弁すべきだといわれるようになる(1)。この変化の要因はいろいろだが、その根底には、やはり、インフォームド・コンセント、すなわち患者の意志を尊重する考え方がある。

 患者の代弁者。だが、はたして、ナースはその役目をどこまででき、してよいのか? この連載のなかでも、そこが問われた。安楽死の希望まで代弁してよいのか(第8回)? 患者の意向をとりつぐだけでなく、ときには考えなおすように働きかけるべきではないのか(第7回)? 問題はたくさんある。しかし、患者の代弁者というイメージが、先の綱領にあるように、ナースが仕事への誇り、自立心、責任感をもつのに寄与したことはたしかだろう。自分は何か? 自分は何をしているのか? それを表現する適切なことばを捜し求めている人は、看護職では他の職に増して多いようにみえる(第3回第4回)。患者の代弁者という喩えは、自己認識を求める人びとにいかにも魅力的に響くのだ。

 けれども、患者自身が意向を表明できるなら、代弁者は要らない。代弁者が必要なのは、ひとつには、弁護士のように、専門用語をしろうとに説明し、しろうとの意向を専門用語でいいかえて専門家同士による検討の場にとりつぐ場合である。医療現場でも、それは必要だ。だが、それは、本来、医療処置にあたる医療職全員が心がけるべきでことであって、ナースだけの任務ではない。第二に、意向を表明できない状態にある本人にかわって、その意向をくみとって行動するという場合がある。たとえば、意識を失っている患者の体を清拭して褥瘡をふせぐ。さらにまた、本人だけでは表に出せなかったかもしれない思いが、別の人間がそばにいることでひきだせるということもありうる。患者に接する機会が最も多いがゆえに、ナースが患者の代弁者であるべきなら、おそらく第一の場合より第二、第三の場合にこそ、その役割は期待されてよい。とりつぐだけではなくて、くみとり、ひきだす。そこには、代弁者という法的な固いイメージより、もう少しふくらみのあることばがふさわしい。〈ケア〉ということばはそれにあたる。

 ところが、ケアということばはとりとめがないためか、見過ごされてしまう面もあるようだ。P.べナーは次のように報告している。看護におけるケアは患者を慰め、元気づけることを核としている。体にふれる、手をにぎる、暖かい毛布をかける、気分を落ち着かせるような話をする、距離をおく、などなど、その方法はさまざまである。あまりに多岐にわたり、マニュアル化できず、かつ、いつもしていることなので、ナースはそれをしている時間をただ「患者といる」としか表現しない。しかも、ナース自身、そのことを技術的な処置よりも軽視しがちだ、と(2)。私には、もっと自信をもってよい人が自信をもてないでいるのをみるような気持ちがした。べナーによれば、ナースは「私が患者を慰めた」とはいわない。それは正しい。なぜなら、ケアは相手と自分とのあいだに生じてくるもので、こちらの一方的な操作ではないからだ。でも、そのために、「私は何をしているのか」と自問するナースにとって、ケアは自己認識のよりどころにはなりにくいのかもしれない。

 身を入れて行なう(involvement, engrossment)こと、特定の人に向けられたものである(personal)ことは、ケアの要件として必ずあげられる。だとすれば、ナースが自分の実際にしたケアを表現するときには、特定の相手を示すことばや自分のした具体的な動作を表わす動詞を用いるだろう。こう考えて、救急治療室のナースがどんなことばづかいでケアを表現するかを調べた報告がある(3)。それによれば、救急で働いている経験が長く、教育も長く受けてきたナースほど、一般的、抽象的な語り方をする傾向にあるという。もっとも、救急治療室や手術室のように、機械の操作が仕事の重要な部分を占め、そこに運ばれてくる患者が乏しい反応しか示さないところでは、ケアのイメージはもちにくいのかもしれない。とはいえ、救急治療でも、患者の名を呼んだり、「私たち、ナースがついてますからね」と語りかけたりすることは、すでに上に記したケアの要件を満たしている。ケアの概念は広いからこそ、どの看護現場でも、ケアはありうるといえる。

 けれども、そもそも、大勢の患者のすべてに「身を入れた」「特定のその人にむけた」ケアなどできるのだろうか? 実際、ほんとうにそれができるようにするには、ナースの仕事量、職務体制、医療のあり方を見なおさなくてはならない。それをせずに理想のケアを追求すれば、結局は、ナースに過重な負担を強いることになる。H.クーゼが批判するように、体制から目をそらせて心がけの次元に問題をすりかえることになる(4。この議論は正しい。しかし、その危険があるとしても、危険を避けるために、ケアの倫理を捨て去ってしまうのも過剰な反応である。過大な要求を迫るものとしてではなく、出発点に戻り、もっと簡素な語り口でケアについて語れはしないか?

 まず、第一に再確認しておかなくてはならないのは、ケアは自己犠牲ではないということである(第1回)。自分の身を気づかわずに相手のために尽くしていると、その気持ちはいずれ相手に対する憎しみに変わってしまう。次に確認すべきは、私たちが仕事をするのは何よりも生活費を確保するためだということである。さて、そのうえで、私たちは仕事を通じて収入のほかに何かを求めているとしよう。自分の能力を伸ばす、権力、名誉・・・・・・いろいろだろうが、なかには、人生において貴重なのは、結局のところ、人と人との出会いだという答えもあろう。自分を気づかってくれる人が誰もいないなら寂しいにちがいない。しかし、それ以上に、自分が他人を気づかうことのできない人間だと知ることは、いっそう孤独な思いがするだろう。気づかうのは面倒である。だから、私たちはしばしば人づきあいをやりすごす。だが、はしょった分だけ時間は増えず、奇妙なことに、ひとつのことを時間をかけてすることで、時間が増えたように感じられることもある。気づかうと疲れる。だが、これまた奇妙なことに、人間関係を切り詰めた分だけ愛情が残しておけるわけでもなく、逆に、多くの人を大切にしてつきあっている人には、人を思う細やかな気持ちがますます育まれていくようにみえる。

 ケアの倫理という考え方の根底には、おそらく、生のなかで時として身に訪れるこうした体験があるにちがいない。そしてまた、看護とケアとを結びつける人びとは、看護の仕事のなかに、今のべたようなしかたで自分の一生を大切にする可能性を見出して、ナースはケアする者であるという自己認識に到達したとはいえまいか。

 


コラム ケアと正義

 C.ギリガンのケアの倫理(第1回に紹介)をうけて、N.ノディングス(第8回に言及)は、相手を受け容れることを人間関係の根本においた倫理をいっそう熱烈に主張している。だが、特定の相手に配慮するだけでは、他の人びとのことは軽視されやすい。医療現場でいえば、目の前の患者ばかりを優先すれば、同じように医療を必要としている人びとの利益に反する。だから、特定のその人を大切にするケアとともに、同じ条件にいる人びとを等しく配慮すること、正義が要請される。ケアと正義とをいかにして両立させるか。このことは倫理学の大きな課題である。

1)Gerald R. Winslow, " From Loyalty to Advocacy: A New Metaphor for Nursing ", in the Hastings Center Report, vol. 14, n. 3, 1984.

2) Patricia Benner, " A Dialogue between Virtue Ethics and Care Ethics ", in The Influence of Edmund D. Pellegrino's Philosophy of Medicine, edited by D.C. Thomasma, Kluwer Academic Publishers, 1997.

3)Pamela S. Kidd, " Oral Expression and Perception of Care with Ethical Implications ", in Ethical and Moral Dimensions of Care, edited by M. M. Leininger, Wayne State University Press, 1990.

4)H,クーゼ、ケアリング:看護婦・女性・倫理、大阪、メディカ出版、2000、177-211、253-76




9回にわたるご愛読、ありがとうございました。この連載の途中で、「看
護師」という新たな名称が用いられるようになりましたね。ナースの自己
認識と自分の仕事の理解を求める動きはなお続いています。また、機会が
あれば、われわれの研究の一端をご紹介できるとうれしいです。

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